◇
俺はハッキリとその言葉を口にした。短くて不器用な告白。その四文字に溢れるほどのメッセージをぎゅうぎゅうに詰め込んだ。だから、今の言葉が届いたのかは分からない。見当もつかなかった。分かるのは、心の中に秘めたこの想いを本人に向かって打ち明けてしまったという事実だけ。
言ってしまった。そう自覚するのに長い時間はいらない。だって口にしたのは俺自身なんだから。言葉っていうのは普通、頭で考えた物事を声にして放つもの。だから言った本人が言ってしまったことに気がつかないわけが無い。でも、今のは違った。頭で考えた言葉を声にしたんじゃなかった。抑え切れない感情が勝手に溢れてしまったと表現すれば納得できる。それくらい、自然に零れ落ちて行った言葉だった。
傘に当たる雨音がやけにクリアに聞こえる。強い鼓動は雨と同じで依然として鳴り止まない。一生鳴り止むことなんて無いんじゃないか、とおかしなことを考えた。
長く深い沈黙が、弁天島に落ちる。そばで鳴いていたアマガエルはこの重苦しい空気を読んだみたいに、いつの間にか歌うことを止めていた。
身体中にある筈の感覚が、するりと抜け落ちて行ったような気がした。指先は痺れ、両足はどうやって立っているのか分からず、呼吸にも意識をしなければならなくて、瞬きさえも長い間していなかったことにようやく気づいた。
聞こえてくる声を待った。自分からは言葉を発さないと決めていた。想いを紡ぎたい衝動を堪えながら、手に持った傘の柄を強く握り締めていた。
「…………何、言ってるの?」
そして、ようやくこの透明な空間に声が落とされる。茫然とした顔でそう言われる。言葉の意味が本当に分からないというような表情。瑠璃色の瞳は小さな驚愕に染まり、可愛らしい口は少しだけ開かれていた。
また時間が空く。降り落ちる強い雨が地面にできた僅かな窪みに水たまりを作るくらいの時間を空けてから、その質問に答えた。
「俺は果南が好きなんだ。言いたかったのは、それだけだよ」
彼女をここに呼び出したわけ。それは、その想いを伝えるため。告白に何の意味があるのか。そんなのは恋を知らない小学生でも理解できる。
そう答えたのに、彼女はまだ分からないというような顔でこちらを見つめている。俺も同じようにその両眼を見つめ返していた。
「冗談はやめてよ。だって、そんなの」
「冗談じゃない。本当なんだ。初めて会った時から、ずっと」
「どうして」
「分かんないよ。自分でも分からない。分かんないけど、好きになったんだよ」
果南は首を横に振った。潤んだ瞳は言葉の意味が理解できない、と訴えている。
だったら、どうにかして知ってもらうしかない。でも、これ以上気持ちを伝えることは出来ない。行き場のないもどかしさだけが胸の中で渦を巻いていた。
雨脚が弱まる。それと同時に辺りが光に包まれ、数秒後に雷の音が俺達が立つ場所まで届いてきた。それすらも気にならないほど、前に立つ存在に意識を向け続けていた。
「………………」
「………………」
雷の音が消えた後、深い沈黙が落ちる。心臓は脈を打ち続け、雨粒が傘の庇から足元へと落ちて行った。雨を挟んだ数メートル前に傘をさした一人の女の子が立っている。幻や蜃気楼ではない。本物の彼女が、そこに立っている。
果南は手に持った赤色の傘を目深にして顔を隠した。実際はそうじゃない。彼女が俯いたからそう見えてしまっただけ。
雨音を聞きながら、その姿を見続ける。顔が見えなくても、黙って目を向け続けた。
長い時間が流れる。空白がどれくらいの時間だったのか、予想することも感じ取ることも出来なかった。それが十秒だったのか。それとも四十二秒だったのか(少なくとも一分以上の時間は世界には刻まれていた筈だ)は、分からなかった。
ただ待ち続けた。永い間、果南が顔を上げてくれるまで一歩も動かずに、その時を待つ。
「──────────」
果南は顔を上げる。傘に隠れていた表情が露わになる。その顔を見て、息を止めた。
果南は、泣いていた。大粒の涙が大きな目から溢れ出していた。止めどなく涙は流れ、彼女の白い頬を伝い、顎先から雨で湿った地面へと落ちて行く。
彼女は涙を拭わず、ただ真っ直ぐにこちらを見ながら、声も出さずに泣き続けていた。雨と同じ色をした水が零れて行く。どうして泣いているのか、その心を理解してあげることはなかった。
雨は降り続ける。そして涙も止まらない。その意味を訊ねることも出来ない。
空が音を鳴らしている。声も無く、果南は泣いている。それを見続けることしか出来なかった意識は、唐突に枷が外れるみたいに自由になった。
「…………いで」
涙混じり声は雨に掻き消され、耳まで届かなかった。果南が泣いてる理由。それを考えることが出来なかった。想像を止めた俺には、それを考える術が無かったから。
だけど、分かることが一つだけあった。正確に言うと、今になってあることに気づいた。
「ふざけないで」
俺は、雨の音が混じったその声を確かに聞いた。
◇
───目の前が白く霞む。自分が何をしているのか本当に分からなくなった。頭の中のシステムが一時的にバグを起こしたみたいに、思考回路は勝手に考えることを止めてしまった。
何を言われたのか。それを思い返そうとした時、同じ声と言葉が耳を通り抜ける。
「ふざけ、ないで」
「─────」
何故、果南が睨みながらそう言ってくるのか。理由は何一つ分かるわけが無い。ぐちゃぐちゃに絡み合って解けなくなってしまった脳は答えをくれない。教えてくれ、と願っても返ってくるのは雨が降り落ちる音と言われた言葉。それだけが延々と頭の中を止まることを忘れたメリーゴーランドのように回り続けている。
眩暈がした。くらり、と足が自然によろける。なんとか足に力を入れて転ばないように耐えた。だが揺れ続ける視界を止めることは出来ない。今度は吐き気が込み上げてきて、どうしてもその場に座り込みたくなった。
だが、涙を流し続ける青い髪の女の子は、そうすることを許してくれなかった。
「なんで、そんなことを言うの?」
答えられない。言葉が出てこなかった。
「何も、何も分かってないのに」
そう言われ、睨みつけられる。それでも変わらず黙り続けていた。
「私のことが好き? どうして。なんで、私のことを好きにならなきゃいけないの。おかしいよ」
「…………」
「全部、全部───忘れてるのに。せっかく忘れさせてあげたのに、なんで…………?」
そこで、ある違和感に気づく。
彼女は俺に向かって言葉を吐いていない。涙に濡れる両目は確かに俺を捉えてる。だが、口ぶりが明らかにおかしかった。それは目の前に立つ人間に放つ声では無かった。
まるで、間違いを犯した過去の自分自身を責めるように、彼女は語っている。
ここに居ない誰かに向かって言葉を吐いている。その誰かは誰なのか。間違いなく俺であるのは分かる。けど、それは
脈絡の無い独白に、頭はさらに混乱してしまっていた。どうすればいいのか、何をすればいいのかも考えられなかった。
「私は、帰って来てほしくなかった。ずっと忘れててほしかった」
独白は続く。誰に向けられたか分からない言葉の槍を、代わりに刺され続ける。
「なのに、どうして帰ってきたの。君は、海が怖いままだった筈なのに」
「果、南…………?」
「なんで君は変わらないの。昔から、何も変わってない。いつもこうやって私のことを困らせてばっかりだった」
その言葉の意味をどうやっても理解できない。使い物にならないこの思考回路で考えても、浮かび上がるものは一つとしてなかった。
「ズルいよ。そうやって自分だけ忘れるなんて。十年間、私がどれだけ苦しかったか知らないくせに」
「何を言って」
「ズルいんだよ、信吾くんは。どうして、君はそのままなの。なんで変わってくれなかったのっ」
赤い傘が地面に落ちる。必然的に彼女の青い髪や身体が雨に濡れた。そんなことも気にならないというように、果南は俺だけを睨み続けていた。
「私を、好きだなんて言わないで」
溢される小さな声。瑠璃色の瞳に映る男は呆然と立ち尽くし、その言葉を耳にする。
「──────もうこれ以上、私を苦しめないでっ!」
果南はそう叫んでから振り返り、階段に向かって走って行った。
追いかけようとしてビニール傘を手離し、足元にあった水溜りの上に足を踏み出した。
その瞬間、背後からリン、という鈴の音が聞こえてくる。誰も居ない筈の祠の方から、確かにその音が聞こえた。
「───────────」
瞬間、襲いかかってくる激しい頭痛。堪らずに立ち止まり、両側頭部を抱えた。
果南はこの異常に気づくことなく階段を駆け下りて行く。追いかけなくちゃ。そう思うのに、頭痛がそうすることを許してくれない。動こうとすれば痛みは強さを増し、この身体を立ち止める。
「なんだよ……これ」
ギリギリ、と巨人に頭を鷲掴みにされているような痛み。この二十年間の人生においても、ここまでの頭痛は体験したことが無い。
水溜りの上に跪き、呻き声を上げる。それでも動くことが出来ず、夏の雨に打たれていた。
アマガエルの鳴き声が聞こえてくる。痛みにもがく俺を心配してくれているのか。だがその姿を見ることは出来ない。一目でいいから見たかった。可愛らしい薄緑色の姿を、この目で見たかった。
鈴が鳴る。頭痛が強くなる。意識が朦朧となる。だから、だったのか。
『信ちゃんっ』
『ん?』
『ハグしよっ』
───そんな、男の子と女の子の声が、どこからともなく聞こえてきたのは。
「果、南ッ」
痛みに耐えながら、立ち上がる。だがその直後、足がふらついてそばにある雑草の中に倒れ込んだ。
雨粒が頬に落ちてくる。濡れた土と葉っぱの匂いがした。目を開けると目の前にあった雑草の上を、一匹のてんとう虫が歩いているのが見えた。
立たなきゃ。立って、あの子を追わなきゃ。そう思うのに、身体は動かない。
このままでいいのか。このまま、離れ離れになってしまっていいのか。ここで彼女を追わなければ、きっともう二度と会うことが出来なくなる。何故かそれだけがハッキリと分かった。痛みが侵食する頭で、そんな未来が鮮明に浮かび上がってくる。
「………………嫌だ」
そんなの、絶対に嫌だ。あの子に会えなくなるなんて、想像しただけでも死にそうになる。笑った顔も、恥ずかしがる顔も、怒った顔も、声も、何もかも。見ることも聞くことも出来なくなるだなんて、そんなの嫌に決まってる。
あの告白が実らないとしても、あの子が俺の知らない苦しみを抱えているのだとしても、関係ない。だから会えなくなるのはつらい。会えなくなるのが何よりも怖い。
だったら立て。追いかけて、あの子のところまで追いつけ。今できるのはそれだけだ。俺にある、唯一の長所はなんだ。
それは、走ること。それだけは絶対に誰にも負けない。
「畜、生っ」
雑草を握り締め、それを毟り取りながら立ち上がる。頭はまだ痛む。だけど弱音を吐いてる場合じゃない。ここで立ち止まってる暇は一秒たりとも残されてはいない。
俺には分からない。あの子が何を抱えているのか、何故あんなことを言ったのか。
だけど分かる。あの子は、俺を本質的に嫌ってはいない。これは自惚れじゃない。それが正解だ、と第六感が答えをくれている。
だから追いかけるんだ。あの子に追いついて、訳を聞かなくちゃ。そこからすべてを始めなければ、何も成さないまま終わってしまう。
そうしないために、今は走れ。子供の頃から鍛え続けた走るという力をこの瞬間に捧げろ。今まで走って来た意味は、このためにあったと信じる。
あの子は足が速い。でも、俺の方がもっと速い。だから必ず追いつける。
「………………果南」
いま追いつくから、待ってろ。
次話/いつかの夏へ