いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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いつかの夏へ

 

 

 ◇

 

 

 

『ねぇねぇ、信ちゃん』

 

『どした、果南』

 

『信ちゃんは果南のこと、好き?』

 

『は、はぁ? な、何言ってんだよ。そんなこと……』

 

『えへへ。顔真っ赤だよ』

 

『う、うるさいっ。てか、そういう果南だって赤いし』

 

『え? ほんと?』

 

『いや、なんでそこでハグ?』

 

『ん~。なんとなく?』

 

『なんとなくで男の子に抱きつくの禁止。このまま大人になったら大変だぞ』

 

『大丈夫だよ。男の子は信ちゃんにしかハグしないもん♪』

 

『なっ!?』

 

『あ、また赤くなった。信ちゃんかわいい』

 

『…………くそ。大人になったら絶対仕返ししてやるからな』

 

『ふふ、大人って何歳くらい?』

 

『そうだな。二十歳くらいになったらもっとカッコいい男になって帰ってくる』

 

『二十歳かぁ。それくらいになったらもう結婚できるんだよね?』

 

『まぁ、できるんじゃないか?』

 

『やったぁ。じゃあ、果南は信ちゃんのお嫁さんになるっ』

 

『えー』

 

『む~。なんで嫌そうな顔するの~?』

 

『だって、果南がお嫁さんになったら絶対毎日ハグされるし』

 

『えへへ。もちろんだよ!』

 

『そんな自信満々に言わなくても』

 

『だから約束ね? 来年の夏休みも内浦に帰って来てね』

 

『来年だけでいいの?』

 

『んーん。来年も、次も、その次も。中学生になっても高校生になっても大学生になっても!』

 

『うん。どうせお母さんに帰れって言われるし、いいよ』

 

『ほんとね? 絶対だよ?』

 

『分かってるよ。じゃあ指切りでもするか』

 

『やだ』

 

『なんでだよ』

 

『指切りじゃやだもん』

 

『じゃあ、なんならいいんだよ』

 

 

 

 

『えへへ─────ハグ、しよ?』

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 激しい頭痛に耐えながら、雨に濡れるアスファルトを駆ける。時折足元に出現する水溜りを踏みつけながら、海岸通りを進んだ。

 

 

 

「…………はぁ、ッ」

 

 

 

 姿はまだ見えない。だが、向かう方向だけは分かった。あの子は間違いなく、十千万旅館がある方へと走ってる。だからその方角へ足を向けた。

 

 雨に濡れた服が身体に張り付く。前髪から滴り落ちてくる水滴が目に入って視界がぼやけた。しかし立ち止まることは出来ない。降りしきる雨を切り裂くように全力を飛ばして県道十七号線を走り抜ける。

 

 灰色の空と藍色の海。どちらも元気を失くしているように見えてしまった。ちょうど今の自分みたいだな、と走りながら馬鹿なことを思った。

 

 数日前、あの子と一緒に歩いたこの道。懐かしみながら歩いた海岸沿いの道路。海しかない本当に何も無い田舎町。暑いし、蝉もうるさいし、人もいないし、不便なところだけど、それ以上に魅力的なものが沢山あるのを知ってる。美味しい夏蜜柑や新鮮な魚が沢山取れて、綺麗な海が見えて、住んでる人達はみんな親戚みたいに優しくて、温かい街。

 

 今さら、この街が大好きだったことを思い出した。海が怖くて十年も帰ってこれなかったくせに、今さらになってそんな大切なことを思い出した。

 

 

 

「ははっ、相変わらず…………速いな」

 

 

 

 全力を出して走っているというのに、いつまで経っても背中が見えない。延々と続く道には誰かの影すら見えなかった。普段から毎日走ってる彼女にはやっぱり追いつけないのだろうか。陸上を止めて毎日バイトして酒を飲む、そんな適当な日々ばかりを繰り返す平凡な男なんかじゃ、どうやってもあの子の隣には並べないのだろうか。

 

 

 

「ぐっ────」

 

 

 

 また強い頭痛が襲ってくる。その度、俺はおかしな記憶を思い出していた。見たことのない思い出。子供の頃、親しい誰かと一緒に遊んでいる光景。()()()の女の子と一緒に、色んな遊びをして楽しんでいた。その記憶に見覚えは無い。だが、確かに体験したことがある、と心は叫んでいる。

 

 記憶の中には千歌も居る。そして、曜ちゃんも。俺は三人の女の子に連れ回されながら様々な所に行って、数え切れないほど遊んだ。その中にある幾つかの記憶には見覚えがあった。だが、覚えている限りではいつも遊んでいたのは四人では無かった筈。あの女の子は、いったい誰なのだろう。

 

 緩やかな坂道を越えてすぐに下り坂に入った。そこからはかなり遠くまで見通せる直線に入る。

 

 

 

「…………見つけた」

 

 

 

 三百メートルほど先に人影が見えた。あれが恐らくあの子だろう。その姿を目にした瞬間ギアを一つ上げ、速度を殺さないまま坂道を駆け抜ける。

 

 姿はハッキリと捉えている。だが、一向に差が縮まらない。頭痛の所為でいつものように走れていないのか。くそ、こんな時に。

 

 痛む頭を時折抑えながらも足を止めること無く、雨の中を走り続ける。息はとっくに上がっている。よく肺が保ってるな、と体力が無い自分を褒めてやった。

 

 雷が遠くで鳴っている。雨脚がまた強さを増してきた。バケツをひっくり返したような雨、っていうのはこんな雨のことを言うんだろう。ここ数日続いた晴天の穴を埋めるために、お天道様も必死になってるようだ。

 

 しばらくして短いトンネルに入る。案内をしてもらいながら散歩をした時に通った、歩道が無いトンネル。名前は、何だったか。痛む頭では思い出せなかった。

 

 運よく車とすれ違うこと無く、トンネルを抜けた。前を確認するとあと百メートル程に距離は詰まっている。

 

 

 

「あぁ、きつい」

 

 

 

 走りながら思わず呟いた。肺が悲鳴を上げ、両足は乳酸が溜まってストライドが全力の時の半分くらいになってしまっている。だがようやく、その後ろ姿を近くに捉えることが出来た。

 

 

 

「やっぱりな」

 

 

 

 あの子は予想通り、浜辺の近くにある桟橋へと向かっていた。なんとなく、あそこに行くんじゃないかと最初から思っていた。

 

 体力が底を尽き、蛇行しながら歩いているのと変わらないくらいの速度で後を追う。

 

 あと少し。もう少しで、追いつく。

 

 そう、思った時。

 

 

 

「──────────」

 

 

 

 今までで一番強い頭痛が呑みこんできた。安心した馬鹿な男を嘲笑うかのように。なんで、こんな時に。

 

 意識が朦朧となる。足元がふらつく。視界が歪む。目に映っていた色彩がモノクロになる。

 

 そんな異常が襲って来ているのに、走ることを止めなかった。何がそうさせるのか。考えるまでも無い。俺は、あの子に追いつくために走ってる。追いついて、泣いていた理由を聞くために、死ぬ気で走り続けた。

 

 桟橋をよろけながら前に進む。手すりが無いこの場所を、ほとんど盲目的な状態で走っていた。視界はぐるぐると回り、空が下に見えたり海が上に見えたりしていた。気持ち悪い。吐きそうだ。でも、進まなきゃ。

 

 体力が尽き、思考回路は既に考えることを止めていた。また鈴の音が聞こえる。誰かの声が聞こえてくる。誰かが俺を呼んでいる。誰かが抱きついてくる。誰かが俺を、好きだと言った。

 

 現実と記憶の境界線が分からなくなる。ちょうど靄に霞む水平線のように、空と海との区別がつかなくなる、あの時のように。今の自分は現実に生きているのか、それとも記憶の中で生きているのか。それすらも曖昧になってしまった。だが、そのどちらにも同じ人がいる。青い髪の女の子が、目線の先にいる。

 

 だから、その子の名前を呼んだ。そこが現実なのか、それとも夢の中なのかは分からない。でも、あそこに立っているのは、間違いなくあの子だったから。

 

 俺が、誰よりも好きで誰よりも大切に想う、あの子だったから。

 

 

 

「──────果南ッ!」

 

 

 

 僅かに残った気力を振り絞ってその名前を呼んだ。青い髪が揺れる。驚いた顔がこちらを向くのが見える。

 

 ああ、それでいい。君を追いかけていたことに気がついてくれたのなら、ここまで死に物狂いになって走って来たのとにも意味がある。

 

 足に力が入らなくなる。手すりが無い桟橋の左へと身体が傾く。危ない、と思ったのに、どうやっても力が入らなかった。足に踏ん張りを利かせる方法を忘れてしまったみたいに、この身体はゆっくりと左側へと倒れて行く。

 

 

 

「…………ぁ」

 

 

 

 雷が近くに落ちる。眩い光と耳を劈く龍の鳴き声のような雷鳴がほぼ同時に瞬き、鳴り響いた。

 

 それを聞いてから、この身体は落ちて行った。桟橋の横。その下にあるのは決まってる。それが何なのかは分かっていた。

 

 俺が何よりも恐れたもの。触れることも、見ることもすらもできなかった場所。

 

 

 

「────────ッ!」

 

 

 

 誰かの叫び声が聞こえる。それに応えることも出来ず、動かなくなったこの身体は、ある場所へ向かって落ちて行く。

 

 これは、忌み嫌い続けた街が俺に与える罰。十年ものあいだ避け続けて、そこに近づくこともしなかった愚かな男に課せられた罪。

 

 俺は、“海”に向かって落ちる。世界で一番怖かったあの場所に落ちて行く。

 

 しがみつけるようなものはない。落ちないように耐える力も尽きた。だからもう、俺に残された選択肢は一つしかなかった。

 

 

 

「あぁ」

 

 

 

 そうか。

 

 これが、すべての結末なのか。

 

 何も出来ず、ただ海に溺れること。十年間、海から逃げ続けていた俺にはちょうどいい終わり方なのかもしれない。

 

 でも、こんな時にふと思ったことがあった。俺はどうして、海が嫌いだったんだろう。何故あんなに怖がっていたんだろう。本当にそれが分からなかった。分からないことだらけの中で、それが一番理解できなかった。

 

 あんなに綺麗な場所を嫌っていた理由。思い返そうとしても、固く鍵がかけられたみたいに、そこにある抽斗は開いてくれなかった。

 

 移ろい行く景色がスローモーションに見える。海に引っ張られて行くように、身体は重力に逆らわず落ちて行く。

 

 そんな時、叔母さんが教えてくれた話を唐突に思い出した。海の家を手伝った日の夜、あの人はこう言ったんだ。

 

 

 

『信吾くん。昔、海に溺れたことは覚えてない?』

 

 

 

 それから、叔母さんは言ったんだ。病院に運ばれて以来、俺は十年間この街に帰ってこなくなった、と。

 

 俺にはその記憶が無い。なのに叔母さんはそう言った。信じられないけれど、それが嘘じゃないことは分かっていた。

 

 俺は、いつか海に溺れたことがある。覚えてはいないけれど、そんなことがあったらしい。

 

 海に溺れる、か。それは怖いな。死ぬほど怖い。考えただけでも身が震えてしまう。今まさに海に向かって落ちて行っている人間が何を考えているんだ。

 

 でも、俺が海に溺れていたのだとしたら、その時は誰が助けてくれたのだろう。自力で助かったとは考えにくい。そもそも溺れているのだから、自分の力じゃ助からないのは誰だってわかるだろう。

 

 じゃあ、一体誰が助けてくれたのか。叔母さんも、それを教えてくれなかった。溺れたことを教えてくれただけで、海を苦手としていた十年前の俺が海に入っていた理由も、言ってくれなかった。

 

 分からない。何も分からない。だから、もういい。これ以上考えるのは止めよう。分からないことを考えるのなんて、解答の分からない問題に無駄な時間を費やすことと同じなんだから。

 

 

 

「─────」

 

 

 

 海に、身体が入る。そのまま浮かぶことなく、身体は底に向かって沈んで行く。口に海水が大量に入り込む。しょっぱい。あぁ、そう言えば海の水ってこんな味がしたんだっけ。

 

 海面が遠ざかる。明るい外の世界が遠くなっていく。身体はやっぱり動かない。動かそうとしても、指の関節すら曲げることが出来なかった。

 

 怖くなって目を閉じた。大して深い場所じゃないけど、このまま溺れて行くことを考えると、怖くて目が開けられなかった。

 

 酸素が薄くなっていく。泡になって消えて行く。取り戻そうにも息が出来ない。海はなんて恐ろしい場所なんだ、と改めて思ってしまった。

 

 こんな所に潜ることを仕事にしてるあの子は、凄いな。怖くないんだろうか。俺には無理だ。生まれ変わったってこんな所に潜る仕事なんてしたくない。

 

 やっぱり、あの子は凄い。こんなに怖い場所を好きだと言って、毎日そこに入る仕事をしてる。だから追いつけなかったのかな。そうかもしれない。

 

 遠ざかる外の世界。沈み行く動かない身体。同時に、意識も深い闇の中に落ちて行く。

 

 最後に一度、手を伸ばした。誰かがこの手を握ってここから助け出してくれる。

 

 

 そんなありもしない、幻想を抱いて。

 

 

 

 

 

 




次話/君といた夏の日々
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