いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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海を恐れた意味

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もし、この夢が本当にあったことなのだとしたら、と仮定して理解した事実。俺は十年前、既に果南と出会っていたということ。

 

 あの子と出会い、心を通わせていた。分かりやすく言えば両想いだった。客観的に見た光景でも分かる。だってそこに居たのは俺自身だったんだから。夢に出てきた幼い頃の自分は、間違いなくあの子のことが好きだった。ちょうど、()の俺と同じように。青臭い告白をして、顔を赤く染めて、それを誤魔化すくらいには好きだったんだろう。そこまではいい。そこまでは微笑ましい夢の物語として許容できる話だ。

 

 問題は、今の俺があの子を覚えていないこと。あんなに親しそうにしていたのに、あんなに近くに居たというのに、何ひとつあの青い髪の女の子の記憶がない。

 

 他のことはハッキリ覚えている。千歌や曜ちゃん、弁天島や淡島神社の階段。その他にも思い出せるものは沢山ある。なのに、あの子と過ごした日々だけを忘れてしまっている。綺麗さっぱり、跡形もなく。まるで誰かが頭の中に入って来て、その一部分だけを上手く切り取って行ってしまったみたいに。

 

 解せないのは断片的に忘れているのではなく、()()()を忘れてしまっているということ。あの子に関する出来事が、最初から何も無かったかように消えてしまっている。

 

 でも、あの夢はただの夢じゃない。本当にあったことだ、という確信がある。何故だかは上手く説明できないけれど、あれはただ漠然と見ている夢なんかじゃないことだけはわかった。欠けてしまった記憶のパーツが、あの夢を見ることによって戻ってくる。そんなおかしな感覚が、今も身体から抜けて行かなかった。だからあれは幻想なんかではなく、実際にあった出来事だと認識していた。

 

 千歌や曜ちゃんが言っていた通り、俺は過去に果南と出会っている。その事実は認めよう。あの夢が幻ではないのなら、そう受け入れるしかない。

 

 だが、どうして忘れてしまっているのか。それは多分、誰にも分からない。ピンポイントで誰かに関した記憶を忘れてしまうだなんて、人間としてあり得ないだろうから。

 

 十年だろうが五十年だろうが、関係ない。一人の女の子と過ごしたことだけを何もかも忘れてしまっているだなんて、人間の脳のシステムからしてもあり得てはいけない。そんなことが起きるのなら、他の人のことや経験した出来事を忘れていてもいい筈だ。

 

 でも俺にはそれがない。あの子の記憶だけを抜き取られてしまった。それは俺の所為ではなく、他の第三者の力によって。これはまだ推測にすぎないけれど。

 

 じゃあ、その第三者の力とは一体なんだ? そう考えた時、ある話をふと思い出した。子供騙しにも程がある、まったく信じていなかったあの話。

 

 そこまで考えた時、白い靄がかかっていた目の前が急に晴れて行った。またか、と思う。だが、それと同時に期待していた。今度こそ、あの子のことを忘れている理由が明らかになる映像を見られるのではないか、と。

 

 穏やかな波が打ち寄せる音と蝉時雨が聞こえる。それだけで次に現れる光景がどんなものなのかを容易に想像することが出来た。

 

 そして、この予想は的中した。

 

 

 

 

「─────大丈夫かな。やっぱりまだ怖いよ」

 

「私がついてるんだから大丈夫だって。ちょっとだけだから行ってみよ?」

 

 

 

 空が遠く見える。鳥でさえも、あの雲には触れないんじゃないか、と頭上に広がる果てしない夏の群青を見つめながら思った。

 

 俺が立っているのはさっき見ていた夢と同じ浜辺。ただ、時刻は昼間だった。太陽が高い場所から注ぐ光を、美しい海がキラキラと反射させており、無数の宝石がそこら中に散りばめられているような光景に見えた。

 

 視線の先にいるのは、水着を着た少年と少女。少年は青い髪の少女に手を引かれていた。

 

 

 

「果南がそう言うなら」

 

「やった。最初は怖いかもしれないけど、だんだん慣れてくるから大丈夫」

 

「うわ…………すげぇ。海の水ってこんなに冷たいんだ。もっと温かいと思ってた」

 

「ふふ。海はこんなにおっきいんだからそんなに温かくならないよ。……えいっ」

 

「冷たっ!? 何すんだよっ」

 

「えへへっ、悔しかったらやり返してみなさい」

 

「やってやるよ。あ、やっぱ無理。怖い」

 

「あ、逃げないのー! 待ってよ信ちゃーん」

 

 

 

 彼らは波打ち際で追いかけっこをしている。驚いたのは、幼い頃の自分が海に入っているということ。見る限り怖がってはいるが、どうしても入れないというわけではないらしい。同じことをやれと言われても今では絶対に出来ない。

 

 俺は、昔から海が嫌いだった。でも、ここに帰ってこれないほどではなかった。だから内浦に帰ってこれなくなってしまった理由は、自分でも分からない。それは十年前、突然発症した病気のようなもの。

 

 でも、昔の自分はああやって海で遊んでいる。泳いだりはしていないけれど、怖がりながらも海の水に触れている。なのに、今の俺にはその勇気がない。

 

 この夢を見ていれば、海を怖がるようになった理由が分かるかも知れないと思った。そして、内浦に帰ってこれなくなった理由も分かるのかもしれない。

 

 

 

「よっ、捕まえた」

 

「ちょ、ちょっと待って果南。俺、まだ」

 

「待たない。一緒に海に入るの~」

 

「んなこと言ったって────って」

 

「えーっい」

 

「うわぁあああああああッ」

 

 

 

 少年は青い髪の少女に抱きつかれ、そのまま一緒に海の方へと飛び込んで行った。超可哀想。頑張れ、昔の俺。

 

 

 

「ぷはっ!?」

 

「あははっ。ほらね、大丈夫でしょ?」

 

「大丈夫だけど、水飲んだ。口の中がしょっぱい。何この味」

 

「海の水はしょっぱいんだよ。知らなかったの? 信ちゃん」

 

「入ったことなかったんだからしょうがないだろ。……けど」

 

「けど?」

 

「海の中、冷たくて意外と気持ちいいかも」

 

「それならよかったよ。ほら、捕まってていいから一緒に泳ご?」

 

「あ、待って。早いって果南」

 

「ふふ、信ちゃんにハグされてる~。うれしいなぁ」

 

「……怖いんだからしょうがないじゃん。あと、なんかごめん」

 

「いいよいいよ。ちょっとずつ慣れて行こうね」

 

 

 

 夢の中の俺は果南の身体に抱きついて海の中を歩いていた。ちょっとうらやまし─────なんでもない。つーかなんだあれ。怖いからっていう理由であんな風にしていいのなら俺も抱きついてみたい。やめとこう。嫌われたら嫌だし。

 

 そんな風に、二人は寄り添いながら海の中で遊んでいた。海が嫌いな少年は少女から片時も手を離すことはなかった。今の俺が同じ立場でも同じことをしていたかもしれない。もしくは海に入ることすらできなかっただろう。

 

 海が似合う少女は泳ぎながら幸せそうに笑い、海を怖がっている少年は必死に少女の身体にしがみついていた。

 

 微笑ましい時間と空間がそこにはあった。この夢を見ながら感じていたのは、古いアルバムを見返した時、胸を鷲づかみにされるようなあの感覚。

 

 でも、どうして俺はこんな夢を見ているんだろうか。この夢に何か意味があるのならば、夢は俺に何を伝えたいのだろう。そんなことを考え始めた時、また目の前の景色が変わった。というより、今度は時間が少し先へと流れて行ったようだった。

 

 

 

「────ふぅ。少し上がって休もっか」

 

「うん、そうしよう」

 

「信ちゃん、だいぶ海に慣れたんじゃないかな? 全然平気そうだよ」

 

「まだ怖いけど、そうだな。思ってたよりは大丈夫だった」

 

「よかったぁ。今度は潜ってみようね」

 

「え、それは無理。絶対無理」

 

「私がいるから大丈夫だよ~」

 

 

 

 少年と少女は話をしながら海から砂浜へと上がってくる。少年は青い髪の少女から手を離して自分一人で海の中を歩いていた。少女が言った通り、時間をかけて慣れたということが見てわかった。それくらいの時間、二人は海に入っていたのだろう。

 

 さっき見ていた光景と変わっているところと言えばそれくらいだ。だが、少女の姿を見て何かが足りないことにふと気づいた。

 

 

 

「あれ、果南」

 

「ん? どうしたの?」

 

「髪、解けてるよ?」

 

「え?」

 

 

 

 俺が気づいたのとほぼ同時に、少年が少女に向かって言う。記憶が正しければあの子は銀色の髪飾りで青い髪を結っていたはず。

 

 少女は少年に指摘され、髪飾りが付いていた所に手を当てる。そして辺りをきょろきょろと見渡す。でも、それは見つからない。そう分かった途端、少女の顔が泣きそうな表情に変わって行く。

 

 

 

「どうしよう。無くなっちゃった……」

 

「な、泣くなよ。そんなに大事なものだったのか」

 

「だって、あれは信ちゃんが東京で買ってきてくれたものだもん。……私の宝物、なんだもん」

 

「あ…………」

 

 

 

 静かに少女が泣き始める。すると、その前に立っている少年はどうしていいのか分からないというような顔でオロオロし始める。女の子に泣かれると本当に困るのは知ってるので気持ちがよく分かった。

 

 少女は無くした髪飾りを少年が買って来てくれたものだと言った。もちろん、俺にそんな記憶はない。しかしあの子がそう言うのなら、昔の自分はあの髪飾りをお土産か何かで買ってプレゼントしたのだろう。

 

 泣いている少女と、それを見て焦っている少年。不謹慎かもしれないけど、この目には何故か微笑ましい光景に見えてしまった。

 

 

 

「え、えっと、果南」

 

「…………ッ」

 

「あれ、そんなに高いものじゃないから気にしないで。その……また来年、新しいの買ってきてあげるから」

 

 

 

 少年の精一杯の慰めに、少女は首を横に振った。

 

 

 

「…………やだ。あれじゃなきゃヤなの」

 

「相変わらず頑固だなぁ。…………じゃあ、一緒に探そう。二人で探せば見つかるかもしれない」

 

 

 

 少年が言うと、今度は青い髪が縦に頷いた。少年は少女の手を取って浜辺を歩き出す。一部始終を傍観していた俺も、彼らと一緒に探してやることにした。今の俺は存在に気づかれてない幽霊みたいなもんだけど、何もしないよりはいいだろう。

 

 海の中で遊んでいて外れてしまったのなら、もしかしたら波に乗って波打ち際に運ばれて来てるかもしれない。二人はそれが分かっているのか、手を繋ぎながら足元に注意してゆっくりと歩いていた。

 

 

 

「…………無い」

 

「まだ全部探してないだろ。次はあっちを探してみよう」

 

 

 

 肩を落として泣きながら少年に手を引かれる少女。そこまで大切なものだったのだろうか、と考えるのは野暮ってもんか。恥ずかしながら過去の俺は()()()あの子に好かれているらしかったから、彼があげたものを失くしたというのなら、彼女が悲しまない理由はないのだろう。

 

 そんなことを考えながら砂浜を歩く。前には手を繋ぎ合う少年と少女。二人からすれば悲しい出来事に違いないのに、傍から見ているとどうしても微笑ましい影像として目に映ってしまう。

 

 

 

「やっぱり無いよ、信ちゃん」

 

「……うん。やっぱ沖の方に行っちまったのかな」

 

 

 

 彼らは百メートル程の距離を往復してから立ち止まった。その考えは恐らく間違っていないだろう。波に乗って浜に流れ着いていないのなら、遠くの方へ流れて行ってしまうのが当然なのだから。

 

 青い髪の少女はさらに肩を落とし、橙色の髪の少年まで暗い顔をしていた。海はこれだけ広い。ここから失くしたものを探し当てるのは、きっと砂漠の中に落ちた星の欠片を見つけるくらい大変だろう。

 

 

 

「………………」

 

「泣くなよ。ほら、一回休もうぜ」

 

 

 

 涙を流し続ける少女に優しく声をかける少年。だが少女は頑なに首を横に振り、少年の手を強く握り締めていた。そこまで思われている少年に、大人げもなく嫉妬してしまっていた。ふざけんな。どんだけ愛されてんだよ、お前。

 

 海鳥が空を旋回している。鳴き声が二人に何をしているの、と訊ねている気がした。

 

 蝉時雨が砂浜を包み込むように響き渡っている。視線を移すと、遠くの景色がゆらゆらと陽炎(かげろう)に揺らされていた。

 

 

 

「見つける…………」

 

「は?」

 

「絶対に見つけるから」

 

 

 

 しばらくの空白を空けて、青い髪の少女が顔を上げた。泣いてはいるけれど、瑠璃色の瞳には力が宿っている。何かを決意した目、と言えばいいのか。とにかくそんな表情で、彼女は前に立つ少年のことを見つめていた。

 

 

 

「見つけるって言ったって、海の中にあるんならどうしようもないだろ」

 

「潜って見つける。待ってて、ゴーグル借りてくるから」

 

「潜って、って───おい、果南っ」

 

 

 

 少年が声をかけるのに、少女は海の家の方へと駆けて行ってしまう。残された彼はその後ろ姿を見ながら小さくため息を吐いていた。

 

 

 

「大変だな」

 

「……大変だ」

 

 

 

 少年に声をかけると、その声が聞こえてないはずなのに彼はため息を吐いた後にそう呟いた。歳が違っても同じことを考えるんだな、なんてことを思って少し笑ってしまった。

 

 一人取り残された少年は呆れた表情を浮かべて海の方へと振り返る。そして、黙って穏やかな青い夏の駿河湾をボーっと眺めていたのだった。

 

 俺も彼の隣に立ち、同じ方向を見つめる。背丈はまだ俺の肩より下。恐らく十歳くらいだろう。昔の自分と比べてみて、自分が成長していることを改めて思い知らされた。

 

 これから沢山大変なことがあるぞ、と教えてやりたかった。でもこれは俺が見ている夢。だからここにいる昔の自分も、俺が目覚めれば煙のように無くなってしまうんだろう。まぁ、目覚められたらの話だが。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 海が太陽の光を反射させて煌めいている。十年が経っても景色は何も変わってない。これと同じ色彩を昔は見ていたんだ。けど、俺はこの美しさを忘れてしまっていた。海を怖がり、この街に帰らずにのうのうと成長して酒が飲めるようになった年になって、ようやくここへ帰ってくることが出来た。その事実に後悔が無いと言えば嘘になる。本当は毎年ここに帰って来たかったさ。でも、それがどうしても出来なかったのだから仕方ないだろう。

 

 海が怖くて、触れるどころか見ることさえも嫌だった。だから帰ることを十年間拒み続けた。帰らなくちゃならないことだって、心の中ではちゃんと分かってたのに。

 

 嫌いになった理由は知らない。きっと誰も教えてくれない。俺が知らないのに誰が答えてくれるというのだろう。気づいた時には海が嫌いで、無意識にこの街を避けながら生きていた。

 

 ─────大切なものが沢山あるこの街から、逃げ続けていたんだ。

 

 

 

「あ」

 

「?」

 

 

 

 隣に立つ少年が突然そんな声を出した。彼の方に目を向けると、その両眼は海のある場所を凝視していた。同じ方向を見て、目を凝らす。

 

 

 

「あれだ」

 

「ちょっ、待てっ」

 

 

 

 それだけ言って、少年は海の方へと走り出した。咄嗟にその小さな身体を止めようとしたが、夢の住人である俺に、彼を止める権利はやはり与えられていなかった。

 

 少年が見ていた方向には、確かに銀色の髪飾りのようなものが浮かんでいた。だが距離が遠すぎる。どう考えても泳がなければ辿り着けない所に、それは浮いている。

 

 止めようとした理由は口に出さなくても分かるだろう。たとえ海に入ることは出来たとしても、俺は()()()()。学校で教わっても、水に長時間顔を付けることだけがどうしても出来なかった。十歳を越えてからはプールにすら入ることが出来なくなった。

 

 そんな奴が一人で海に入ったらどうなるのか。その結末は火を見るよりも明らか。運悪く、周囲に人影はない。泳げない少年()が海に入って行ったことに気づいているのは、この夢を見ている俺だけ。

 

 髪飾りは波に揺られて見え隠れしている。あの子が帰って来るのを待っていたら見失ってしまうかもしれない、と思う気持ちはよく分かった。

 

 でも、ダメだ。

 

 

 お前が一人で海に入るのは危険すぎる。

 

 

 

 それだけは、絶対にやってはいけない。

 

 

 

「止まれ!」

 

 

 

 少年の背中を追いかけながら叫ぶ。その声は届かない。少年は探していたものを見つけたのが嬉しいのか、ためらいもなく海の中へと入って行く。

 

 俺もその後に続こうとした。─────だが、波が近づいてくるのを見て、無意識に足を止めてしまった。止めなければ行けないのに、海に入るのが怖くて前に進めない。ここは夢の中だと分かっているのに、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。

 

 

 

「─────ッ!」

 

 

 

 こんな時にまでビビッている自分が嫌になる。あのまま少年を一人にしていたらどうなるのかを、俺自身が一番よく分かってる。

 

 少年は波をかき分けながら進んで行く。浮かんでいる髪飾りまではまだ距離がある。間違いなく、途中から水深は深くなる。なのに、どうして止まらないんだ。頼むから止まってくれ。お願いだから諦めてこっちに戻ってきてくれ。

 

 そう願うのに、バカな少年は自分が好きな女の子に渡した髪飾りしか見ていない。好きな女の子が泣きながら探していたモノを見つけて、格好つけてそれを取りに行こうとしている。

 

 お前は、一メートルだって泳げないというのに。

 

 

 

「……はぁッ、はぁッ」

 

 

 

 少年の息遣いが聞こえてくる。小さな背中が遠ざかる。俺は彼を止める事も出来ないまま、ただその後ろ姿だけを見つめていた。

 

 足元にやってくる波が俺を海の中に引きずり込もうとしているように感じてしまう。意思を持って、足を掴んで行こうとしている。そんな風に見えてしまって、俺は海に入る事が出来なかった。

 

 

 

「バカ野郎」

 

 

 

 昔の自分に向かってそう呟くのが限界だった。海の水は既に少年の胸の辺りまで来ている。髪飾りはまではあと少し。

 

 少年は手を伸ばす。髪飾りは波に揺られて徐々に遠くなっていく。少年は性懲りも無く前に進む。あとほんの少しでその手は届く筈だった。

 

 けど、海はそんなに甘くはない。俺には、ああなる事が分かっていた。

 

 

 

 ─────足の届かない場所に入って、少年が溺れてしまう事を。

 

 

 

「あ─────」

 

 

 

 少年が髪飾りを掴んだ瞬間、その身体が海の中に消える。ジタバタと暴れているのが見える。でも周りには誰も居ない。掴めるものもない。あるのは怖がっていた青い海だけ。

 

 泳げない少年は必死に手を動かして水面から顔を出そうとしていた。だがそれを邪魔するように、大きな波が立て続けに少年の頭を呑みこみ、小さな身体を沖の方へと連れ去って行こうとする。

 

 

 

「くそっ」

 

 

 

 苦しそうな声が聞こえる。助けなくてはいけないのは分かってる。でも、どうしても海に触るのが怖い。どうやっても踏み出すことだけが出来ない。

 

 夢の中なのに汗が流れてきた。それを拭うこともせず、溺れている過去の自分の姿を傍観し続ける。それしか出来なかったから、そうするしかなかった。

 

 蝉の声が急かしてくる。早く助けろ。じゃないとあいつは死んでしまう。そんな、聞こえる筈の無い幻聴が海を怖がる俺を取り囲んでいた。

 

 

 

「……たす、けてっ」

 

「…………」

 

「果、南ッ…………」

 

 

 

 少年の身体が完全に海に沈み、足が前へと動き出す。

 

 そして、爪先が波に触れた瞬間。

 

 

 

「──────────」

 

 

 

 俺は、()()()()()()()()()

 

 なぜこんな時だったのかは分からない。でも、間違いなく何もかもを思い出した。

 

 

 

 俺が、海を怖がるようになった訳。その答えは、今見ているこの光景。溺れている自分自身を見て、ようやく気づくことが出来た。

 

 そうだ。俺は十年前、海に溺れたことがある。それを叔母さんは教えてくれていた。なのにその記憶が無かったから、ただの他人事だと思っていた。

 

 けど違う。それは他人事なんかじゃない。俺が実際に経験した出来事。十年前の自分自身が、この身を持って体験した恐怖。

 

 俺は、海に溺れてしまったから内浦が怖くなった。水に入ることさえ出来なくなってしまった。海を見るのさえも嫌になった。だから、俺はこの街に帰ってこなかった。

 

 そうか。この夢の通り、俺は一度海に溺れたんだ。この時の恐怖が全身に、背骨の裏側まで刻み込まれてしまったから、海を嫌いになったんだ。

 

 その疑問が腑に落ちる。ただ、まだ分からないのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。なぜ、俺は溺れたことを覚えていないのか。どんな理由があって、記憶を失くしてしまったのか。

 

 

 

「まさか」

 

 

 

 その答えが、見つかりそうになる。すべての辻褄が音を立てて噛み合い始める。

 

 あとは、その欠けている部分に持っているピースをはめるだけで絵は完成する。深い霧に隠れて見えなかった答えが、徐々に姿を現してくる。

 

 そう思った時、視界はまた別の場所へとフェードアウトしていく。もう少しで答えが分かりそうだったのに、夢はそれをまだ早いと訴えてきた。

 

 溺れて沈んだ少年が消えた場所を見つめる。俺はこうして二十歳まで生きることが出来たのだから、ここで死んだわけじゃない。そう、誰かに助けられたんだ。

 

 でも、その誰かが思い出せない。一生かかっても返せない恩を、その誰かにかけてしまっていたのいうのか。

 

 だったら、この夢が覚めたら、助けてくれた人に会いに行かなくちゃ。

 

 

 

 助けてくれた人に“ありがとう”を言わなくちゃ。

 

 

 

「───信ちゃんッ!!!」

 

 

 

 青い髪の少女が海に飛び込んで行く。

 

 それが、最後に見えた光景だった。

 

 

 

 

 




次話/夕暮れに響く鈴の音
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