いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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夕暮れに響く鈴の音

 

 

 

 ◇

 

 

 

 白い壁。消毒液の匂い。静かなリノリウムの廊下。今度はそんな場所に立っていた。

 

 

 

「…………ここは」

 

 

 

 どこかの病院の中。あまり世話になったことがない場所だが、何故かそんな所にいる。

 

 目の前には扉が開いた病室があった。407号部屋。番号が書いてある札の下には部屋にいるであろう人の名前があった。近づき、その名を確認する。

 

 

 

 ───高海 信吾 様───

 

 

 

 そこには、見間違える筈のない名前が書かれていた。

 

 部屋の前で立ち尽くす。夏だというのに、病院の中は異常に肌寒かった。少しだけ、あの炎天下が恋しくなってしまうくらいに。

 

 音のない病院の廊下。自分の名前を見つめながらしばらくの間、何もせずに呼吸だけを繰り返す。

 

 そうしていると、病室の中から声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。気になって足を407号室に踏み入れる。

 

 

 

「…………ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 

「いいのよ果南ちゃん。果南ちゃんは泣かなくてもいいの」

 

「でも、でもッ!」

 

「信吾くんは強い子だから大丈夫。それは果南ちゃんが一番分かってるでしょ?」

 

 

 

 目にしたのは白いベッドの上で眠っている幼い自分の姿。それを見た時、何故か安堵してしまった。少年があの場で溺れても死なないことは分かっていたが、改めて生きている自分の姿を目にしたら安心せざるを得なかった。

 

 心電図計には安定した波形が表示されている。脈拍も普段通りの回数だった。ただ、意識だけが戻っていない。青い髪の少女が声を上げて泣いているのに、少年は気づく素振りもなく眠り続けていた。

 

 病室内に居たのは少年を含めて四人。泣きじゃくる青い髪の少女。彼女の髪を撫でて慰める千歌のお母さん。そして、涙を流している少女の傍らに立つ青い髪の女性。俺は、その人を見たことがあった。十年振りに内浦に帰って来た日。千歌と一緒に淡島へお遣いに行った時、ダイビングショップで顔を合わせた店員。

 

 あの人は果南のお母さんだと、千歌は言っていた。

 

 

 

「病院の先生もね、身体には怪我もないからすぐに元気になるって言ってたから大丈夫」

 

「………………ッ」

 

「元気になったら、また遊んで信吾くんと遊んであげてね。果南ちゃん」

 

 

 

 叔母さんの声と少女の泣き声。そして少年の刻む心拍の音だけが狭い病室に響いている。病室の入り口付近に立ちながら、その光景を見つめていた。

 

 閉め切られた窓。蝉の声は聞こえてこない。夏の風も、太陽の茹だるような熱も、澄み渡る青も、ここには何一つなかった。

 

 慰められる少女は泣きながら首を横に振る。彼女はきっと、少年が溺れてしまった理由が自分にあると思っている。さっきまで見ていた光景と涙を流す少女の姿を見れば、そのことがすぐに理解出来た。

 

 よく見ると少女の手には銀色の髪飾りが握られている。そうか。あいつは溺れてもあれだけは離さなかったんだな。

 

 本当に、バカだよ。

 

 

 

「それに果南ちゃんは信吾くんを助けてくれたじゃない。信吾くんも、きっと果南ちゃんに“ありがとう”って言いたいと思ってるわよ」

 

「……違うもん。私は」

 

「だから大丈夫よ。信吾くんを助けてくれてありがとう、果南ちゃん」

 

 

 

 叔母さんはそう言って少女の身体を優しく抱きしめる。すると少女は大きな声で叔母さんの胸で泣き始めた。その泣き声を聞いていると心が痛んだ。

 

 叔母さんが言った通りだ。あの子は悪くない。悪いのは泳げないのがわかってるのに一人で海へ飛び込んで行ったバカな男。あいつがあそこで海に入らなければ、こんなことにもならなかった筈だ。

 

 何をやってんだ、と眠り続ける過去の自分を叱責する。俺にはあの時の記憶がないから、その時の自分が何を思っていたかは分からない。けど想像するのは容易かった。そんなの考えるまでもない。

 

 

 

「ごめん……ごめんなさいっ、信ちゃんっ」

 

 

 

 心臓を握り締められたみたいに、胸が痛くなる。助けてくれた命の恩人を泣かせてしまっているという事実が、どうしても許せなかった。それを十年間も忘れてしまっていた自分も同罪、いや、もしかしたらそれ以上の罪を背負っているんじゃないのかと思った。

 

 少女の泣き声が耳の中を通り、頭の中で延々とリピートされる。今すぐにでも彼女に謝りたかった。なのにこの夢はまだ覚めてくれない。

 

 そして、また夢の中の景色が移ろい行く。

 

 今度は何が分かるのだろう、と思いながら白い世界に包まれた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 目を開くと、狭くて暗い部屋の中に立っていた。六畳ほどの間取りでの何の変哲もない誰かの部屋。壁際にベッドがあり、その上には大きなイルカのぬいぐるみが置いてあった。窓際には白い机と水色の椅子。机の上には数枚の写真が並んでいる。厚いカーテンが閉め切られているせいで、それも見ることが出来なかった。よく見ると髪飾りのようなものも置かれている。

 

 カーテンの隙間からは光が差し込んでいる。恐らく外は昼間。だというのに、どうしてこんなにも部屋の中が暗いのか。それに、どうしてこんな部屋の中にいる夢を見ているのかも、さっぱり理解出来ない。

 

 

 

「…………っ」

 

 

 

 だが、誰かが部屋の隅ですすり泣いている声が聞こえた瞬間、その意味が分かった。声の方向へ顔を向ける。そこに居たのは、体育座りをしている青い髪の少女。彼女は膝に顔を埋めて、一人でこんな光の差さない部屋の端っこで涙を流していた。

 

 どうして泣いているのか、なんて考える必要はないだろう。あの子は溺れてしまった少年の所為で心に深い傷を負った。すべては、自分勝手に動いた少年の所為だった。

 

 この声が聞こえるのなら、何か言葉をかけてあげたい。でも俺は、この夢を見ているだけの存在。涙を流す少女の手を握ってあげる資格すらない。それがどうにももどかしかった。

 

 何も出来ずに立ち尽くしたまま、部屋の隅で涙を流す少女を見つめている時、ドアが控え目にノックされる。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 少女は顔を上げる。叩かれたドアを黙って見つめたまま、しばらくの間固まっていた。彼女から動くつもりはないらしい。青い髪の少女は体育座りから体勢を変えずに、ただ扉が開かれるのを待っていた。

 

 部屋の中に数秒の沈黙が流れる。少女の泣き声だけが聞こえていた六畳ほどの部屋の外から、微かな波の音が入ってくることに気づいた。

 

 それからゆっくりとドアが開かれる。この部屋に無い光が入り込んでくる。目が暗闇に慣れてしまったのか、明るくもない光がやけに眩しく感じた。

 

 

 

「果南ちゃん? ああ、やっぱり居たわね」

 

「……千歌の、お母さん?」

 

「お邪魔してるわ。果南ちゃんに言わなくちゃいけないことがあったから来たの。入ってもいいかしら?」

 

 

 

 少しの間を空けてから、少女はこくりと頭を頷かせる。それを見た叔母さんは微笑みながら暗い部屋の中に足を踏み入れた。

 

 叔母さんは小さな足音を立てて、見えない俺の前を通り抜け、部屋の隅に座る少女に近づく。

 

 そして彼女の前にしゃがみ、その顔を覗き込みながら、叔母さんは口を開いた。

 

 

 

「信吾くんね、今日退院したのよ。お母さんが迎えに来てたから、もう東京に帰っちゃったんだけどね」

 

「………………」

 

「身体は何ともなくて、元気だったわ。でも、果南ちゃんのことを随分と気にしてた。謝らなくちゃって言ってたけど、どうしても帰らなくちゃいけなかったから、おばさんが信吾くんの代わりに伝えに来たの」

 

 

 

 叔母さんは優しい声で少女に語り掛ける。この内容を知らない俺も、その言葉に耳を澄ましていた。

 

 

 

「必ず来年も帰ってくるからまた遊ぼう、だって。信吾くんも気にしてなかったわ。むしろ信吾くんの方が果南ちゃんに謝りたいって言ってたの」

 

 

 

 少女は何も言わずに床の一点だけを見つめている。泣くわけでも、怒るわけでもなく、口を閉ざして叔母さんの言葉を聞いていた。

 

 

 

「帰ったら手紙を書くとも言ってたわ。だから、果南ちゃんも元気にならなくちゃね」

 

 

 

 叔母さんが少女の青い髪を撫でながら言う。だが、少女はその言葉と優しさを振り払うようにぶんぶんと首を横に振った。

 

 再び深い静寂が部屋の中に訪れる。それを作り出した張本人が過去の自分だという事実が、この心を痛ませていた。

 

 

 

「…………やだ」

 

「果南ちゃん」

 

「私は、信ちゃんに嫌われちゃったんだよ。信ちゃんは、私のことなんてもう知らないんだ」

 

「そんなことないわ」

 

「あるの。だって、信ちゃんは海が怖いって言ってた。なのに私は無理やり海に行こうって言った。だから、信ちゃんは溺れちゃった。それで、私を嫌いにならないわけないでしょ?」

 

 

 

 幼い少女は淡々と語る。それが覆せない答えだと決めつけるように、彼女はハッキリとそう言葉にした。

 

 違う、と言ってあげたかった。その言葉が彼女に届いたら少なくともあの子が傷つくことは無いと思ったから。それでもそう言える()は、この街の何処にも居ない。過去の自分も、今の自分も、悲しんでいる少女に声をかけてあげることは出来なかった。

 

 

 

「…………果南ちゃん」

 

「私が信ちゃんを海に誘わなければ、髪飾りを落とさなければ、信ちゃんは海に溺れなかった。なのに私が無理を言ったから、だから」

 

 

 

 少女はそこまで言って、また膝に顔を埋めた。そして、小さな泣き声が暗い部屋の中に悲し気に響く。

 

 叔母さんは何も言わずに、幼い日の彼女を見つめていた。俺も同じように綺麗な青い髪を茫然と眺めた。

 

 少女が言っていることは本当に間違っているわけではない。だが、大半は間違っている。悪いのは少女ではなく、自分勝手に自分を過信した少年の方。傷つく必要なんてこれっぽっちもないというのに、優しい少女は俺なんかのために涙を流してくれていた。それを十年間知らないで生きていた自分が憎くて堪らなかった。溺れたまま目を覚まさなければよかったのに、と本気で思ってしまうほどに。

 

 

 

「そうだ。ねぇ、果南ちゃん」

 

「…………」

 

「一つだけ、教えたいことがあるの。よかったら聞いてちょうだい」

 

 

 

 叔母さんはそんな前置きを置いてから、涙を流す果南にある話をし始める。彼女が聞いているのかは分からない。だが叔母さんはそんなのも関係ないというように口を開いた。

 

 いつか聞いた、あのおとぎ話を聞かせるために。

 

 

 

「果南ちゃん、弁天島の昔話は知ってる?」

 

 

 

 少女は小さく首を横に振った。叔母さんはそれを見て、続きを話す。

 

 

 

「なら、聞いてちょうだい。むかしむかし、ある所に──────」

 

 

 

 それから叔母さんは、少女に向かってあの昔話を語った。俺が聞いた時とまったく同じ話。仲の良い少年と少女がある理由でお互いを忘れてしまう悲しい物語。誰かのことを思いながら弁天島の鈴を鳴らすと、その人が自分のことだけを忘れてくれるという、不思議な言い伝え。

 

 少女は途中から顔を上げて興味深そうに叔母さんの話を聞いていた。涙は流していたが、熱心に耳を傾けているようにこの目には映った。

 

 数分で叔母さんの話は終わった。結末も俺が聞いた時と変わらない。記憶を無くしてしまった二人は十年経ったある日、大切な人がいたことを思い出して、お互いを探す旅に出る。そして、弁天島の頂上で再会するというハッピーエンド。どうして叔母さんがこのタイミングでこんな昔話をしたのか。考えてみればすぐに分かった。

 

 

 

「果南ちゃん。おばさんが言いたいのはね、いつか悲しいことも忘れる時が来るってこと」

 

「……忘、れる?」

 

「そう。弁天島の鈴を振らなくても、人は悲しいことを忘れることが出来る。でも、悲しいことだけを忘れることは出来ないの」

 

 

 

 叔母さんはそう言って、少女の小さな身体をそっと抱き締める。そして彼女の頭を撫でながら、優しい言葉をかけていた。

 

 

 

「だから、今は全部忘れていいの。いつかまた、大事なことだけを────思い出しなさい」

 

「……いつかって?」

 

「それは十年後、くらいかしらね。ふふ、大人になったらきっと思い出すから、今は忘れちゃいなさい」

 

 

 

 叔母さんが少女にあの話をしたのは、悲しいことを忘れる時が必ず来るということを教えたかったからなのだろう。忘れてもいつかまた笑って会うことが出来る、と物語を通して伝えてようとしていたんだ。

 

 あと少しでこの夢は終わる。そんな直感があった。間違いなく、次に見る光景でこの夢は終わりを迎える。

 

 そう思った時、景色が移り変わる。夢の終着点がどこなのか、なんとなく予想はしていた。最後に見える景色はきっと、あそこなんだろう。

 

 ひぐらしの鳴く声が聞こえる。橙色に染まる細い階段。ああ、やっぱりそうだ。

 

 

 

 

 最後に見る夢は、弁天島の夢。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 少女が階段を上って行く。夕焼けに染まる弁天島の階段。頭上を見上げれば高い木々の隙間からオレンジ色の空が見え隠れしていた。 

 

 俺は少女から数段離れた階段の上に立っていた。ゆっくりと上って行く彼女の背中を追う。

 

 少女が目指すのは、叔母さんの話に出てきた弁天島の頂上にある祠。あの子はきっと、叔母さんが話したおとぎ話を本当にある話だと受け取ったんだ。だから、こうして一人で弁天島へと訪れている。

 

 しばらくして頂上に辿り着き、少女は辺りに人が居ないかを確認してから祠に近づいた。

 

 

 

「…………ここにある、鈴」

 

 

 

 祠の前に立ち、少女はそう呟いた。ここにある鈴を鳴らすことで、誰かの記憶にある自分の記憶を消すことができ、自分もその誰かのことを忘れられる、という伝説があった。

 

 年端もいかぬ青い髪の少女はそのおとぎ話を本気にして、この場所に訪れていた。

 

 少女は誰も居ないことを確認して、祠の方へ近づいて行く。俺はただ、祠の前で小さな背中を見つめることしかできなかった。

 

 

 

「あ……開いた」

 

 

 

 何故か鍵がかかっていない祠の扉を開けて少女は中に入って行く。祠の中は狭く、暗い。

 

 だが、その祠の中に一つの長方形の木箱があった。他には何もないのに、それだけがポツンと無造作に置かれている。それは異常な空気を放っているように、この目には映った。

 

 

 

「これ、かな」

 

 

 

 少女はその木箱の蓋に手をかける。簡単に開き、中身が露わになった。

 

 

 

「…………やっぱり」

 

 

 

 そこに入っていたのは、直径約五十センチほどの神楽鈴。茶色の柄。一番下の部分からは赤い紐が垂れ下がり、先には数個の銀色の鈴が付いている。

 

 あのおとぎ話に出てきた鈴は、本当にあった。でも、それを見ても驚きはしなかった。そんな気がしていたから、驚く気になれなかった。

 

 少女は少しのためらいを見せてから鈴を手に取った。リン、と透明で綺麗な音が鳴り響く。俺は彼女の背中を見つめながら、その音を聞いていた。

 

 

 

「これを鳴らせば」

 

 

 

 綺麗な鈴をまじまじと眺めながら、少女はそう言った。この時点でもう、あの子が何をしようとしているのか気づいていた。

 

 

 

 誰かを思いながら鳴らすと、鳴らした自分を忘れさせることが出来る鈴。

 

 

 松浦果南という女の子()()の記憶が無い、高海信吾という男。

 

 

 

 海が嫌いだった理由も分からず、十年間この街に帰らなかった自分自身。

 

 

 

 バス停であの子を見た時に感じた奇妙な感覚。

 

 

 

 そして、その子に惹かれてしまった理由。

 

 

 

 それは。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 青い髪の少女が、鈴を頭上に掲げる。俺は、その姿を黙って見つめていた。

 

 耳を澄ます。聞こえるのは一日の終わりを告げるひぐらしが鳴く声。さらさらと木々の葉を揺らす、夏風の音。

 

 次に聞こえたのは、少女の小さな声。

 

 

 

「どうか、信ちゃんが」

 

 

 

 夢が終わって行く。橙色に染まった景色が黒に染まって行く。こんな所で終わるのか。でも、俺はそうだろうと思っていた。

 

 夢の終わりは結局こうだと、予想していたんだ。

 

 

 

 少女が頭上に掲げた鈴を見つめる。

 

 そして、彼女は言った。

 

 

 

 

 

 

 

「私のことを────忘れてくれますように」

 

 

 

 

 

 

 

 夢の最後に聞こえたのは、美しい鈴の音。

 

 

 

 高海信吾が、海を恐れてしまうようになったのは。

 

 高海信吾が、十年間この街に帰らなかったのは。

 

 高海信吾が、ある女の子に一目惚れしてしまったのは。

 

 高海信吾が、大切な人のことを忘れてしまったのは。

 

 

 

 誰かを忘れさせる力を持つ弁天島の鈴を、松浦果南という女の子が鳴らしてしまったから。

 

 

 

 それが、すべての答えだった。

 

 




次話/
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