◇
「─────信ちゃん」
誰かに名前を呼ばれ、ゆっくりと目を開いた。呼ばれ慣れたような声。でも、少しだけ大人になった声音。
古い木造の見覚えがある天井。耳を澄ませば部屋の外からは雨の音が聞こえてくる。目線を左に移すと、そこには青い髪の女の子が座っていた。
「………………果南」
「っ!? し、しんちゃ───信吾くんっ」
俺が起きたことに気づき、彼女は顔を覗き込んでくる。距離が近すぎて青い髪が頬をくすぐった。
ここは、十千万旅館の客室。そこに引かれた布団の上で眠っていたようだった。どうしてこんな所にいるのか。寝ぼけたままでもすぐに答えを導けた。
俺は、桟橋の上から海に落ちたところを誰かに助けられて、気を失ったままここまで運ばれてきた。
誰に助けられたかって?
そんなの、一人しかいない。
「………………」
「ごめん……ごめんね。私、また同じことしちゃった…………」
「果、南」
「もう、二度と会わないって約束するから。会いたいなんて言わないから。だから、私を…………許してください」
仰向けに寝そべる俺の枕元で静かに涙を流す。夢の中で何度も見続けた彼女の涙。それを起きてからも見られるとは思わなかった。
部屋の中には俺たち以外、誰も居ない。傍らで涙を流す青い髪の女の子を見つめながら、聞こえてくる雨音に耳を澄ました。
「果南」
「しん、ごくん?」
「昔みたいに、呼んでよ。そんな他人行儀じゃなくていい」
「え…………?」
涙が流れる柔らかい頬に手を触れた。彼女の肌は夏なのにほんのり冷たくて、涙だけが妙に温かかった。まるで海みたいだ、と心の中で思ったりした。
濡れる瑠璃色の瞳が見開かれる。言葉の意味が分かってないのか、それとも聞こえていなかったのか。どちらにしても、もう一度言う。届くまで、言い続けてみせる。
「“信ちゃん”って、呼んでくれてただろ。俺もそう呼ばれたい」
「どう、して?」
訊ねてくるその目と表情は、本当に意味が分からないと訴えていた。
だから、教えてやる。俺がこの街に来なくなってから十年が経った今年。
あの鈴の効力が無くなるのも、ちょうど十年だと叔母さんは教えてくれた。
「思い出したんだよ」
十年前にあった出来事を。俺が忘れていた事実も、分からなかったことも、何もかも。
「やっぱり、俺たちは会ってたんだ」
「…………」
「あのバス停で君に一目惚れしたのは必然だった。好きになってしまうのも、仕方の無いことだったんだ」
一人の女の子を一途に想い続けた少年は、彼女のことを忘れても、好きだったことは忘れていなかった。十年の時を経ても、その想いはまだ残り続けていた。それが、あの一目惚れの答え。会ったことがあるような気がしたのは、心がこの子を覚えていてくれたから。頭では覚えていなくても、心が彼女を覚えていた。
また同じ女の子に恋をして、同じようにその子を欲しがった。必要のない二度目の出会いをして、彼女を知って、無意識に惹かれて行った。
「俺は十年前、海に溺れて病院に運ばれた。あのとき助けてくれたのは、果南だったんだろ?」
彼女は目を背ける。だが俺はそれを許さなかった。
「俺が嫌いになったと思って、君は叔母さんに聞いた昔話を信じて弁天島に行った。そして、あの鈴を鳴らした」
高海信吾に、松浦果南のことを忘れさせるために。
「果南のことを思い出せなかったのも、海が嫌いになってしまったのも、その所為だった。でも、あの鈴の力が続くのは十年。ちょうど、今年の夏があれから十年目」
だから思い出した。内浦に帰ってもいいと思ったのは、十年前の記憶を思い出せることを、感覚的に分かっていたからなのかもしれない。
「全部思い出した。分からなかったことも、やっと理解した」
重苦しい上半身を起こして、隣に座る果南と向き合う。涙を流しながら、彼女は俺を見ていた。その目は、夢の中で見た少女の目とよく似ている。
「信、ちゃん」
「待たせてごめん。でも、やっと帰って来たよ」
手を伸ばして、彼女の細い身体を胸の方に引き寄せる。力はほとんど入っていなかった。
十年振りの再会。それを俺達はあのバス停の中で果たしていた。けれど、俺はこの子のことを忘れてしまっていた。
だから、これが本当の再会でいいんだと思う。少し時間がかかってしまったけれど、ようやく大切なことを思い出した。大好きだった人に、やっと出会えた。
今はその瞬間を、再会と呼びたい。
「………………っ」
「ずっと会いたかった。約束、忘れてごめん」
背中に手を回される。力が強い。けど、今は許してあげたかった。十年間も待たせた大馬鹿には、これくらいのハグじゃないと割が合わない。
俺の言葉を聞いた果南は胸の中で首を左右に振った。
「いいの。そんなこと」
「…………果南」
「ごめんね。私、あの鈴を鳴らしちゃった。…………本当に信ちゃんが忘れちゃうなんて、思わなかったんだよ」
彼女は涙声で、そう言ってくれた。信吾ではなく、“信ちゃん”に向かって言葉をかけてくれた。
「ああ。俺も忘れるとは思わなかった」
「信ちゃんが、私のことを嫌いになっちゃったと思ったから。信ちゃんに嫌われるくらいなら、私のことなんて忘れちゃえばいいって」
そう思ったから、と彼女は言った。そんな、太陽が西にから昇ってくるくらいあり得ないことを、本気でこの子は言っている。
「そんなこと、ある筈ない。嫌いになるわけないだろ」
「でも、私が居なかったら信ちゃんは海で溺れたりしなかった。私の所為で、信ちゃんは苦しい思いをした。だから」
その言葉に俺は首を横に振った。間違っていることを、どうにかして伝えなくてはいけないと思ったから。
「違う。あれは、俺が悪かった」
「でも」
「謝らなくちゃいけないのは、俺の方だ。俺は、どうしても果南に笑ってほしかった。だから泳げない癖に格好つけて一人で海に入って行った。海に入れば溺れることも分かってた。けど、あの時は俺なりに必死だったんだよ」
「…………信ちゃん」
「果南が泣いてるのなんて、見たくなかった。果南が笑ってくれるなら、俺は本気で溺れてもいいと思った。結局、本当に溺れちまったけどな」
あれは、勝手に先走った俺のせい。この子に責任なんて一つとしてない。俺が格好つけなければ彼女は泣かずに済んだ。大切な思い出を忘れなくてもよかった。
身体が強く抱き締められる。昔からハグが好きだったこの子は、やっぱり今も好きなままなんだろうか、なんてことをふと思ってしまった。
「なんで、そんなこと」
「仕方ないだろ。男ってのは、好きな女の子の前では格好つけたがる生き物なんだよ」
「…………バカ」
「自分でもそう思う。だからホントにごめん」
これは、本当にお互いさまなんだと思う。勝手に溺れた俺と、嫌われたと勘違いして鈴を鳴らしてしまった果南。どちらの方が悪いとかは決められる筈が無かった。
青い髪を撫でる。桟橋から落ちた俺を助けるために海に入ったからなのか、少しだけ湿っている。たったそれだけの行為をしただけなのに、愛おしすぎて心臓が今にも破裂してしまいそうになった。
「許さないから」
「…………ごめん」
「って、言ったらどうする?」
そんな風に、果南は騙してくる。なんでこの子はこんなに俺を惑わせるのが得意なのだろうか。嘘を言われても全部信じてしまうかもしれない。相当やられてるな、俺。
少しだけ時間を空けてから、口を開く。
「そうだな。なら、許してくれるまで謝り続けるよ」
「私が一生許さなかったら?」
「そしたら一生謝り続ける。死ぬまで会いに行くよ」
「………………ホント?」
「ああ。俺は嘘は吐かないからな」
そう言った途端、小さな沈黙が部屋の中に落ちた。静かな雨音が入り込んでくる。どこかで鳴くアマガエルの声が聞こえてきた。
この時間が永遠に続いてくれればいいのに、と思った。この時が続いてくれるのなら、もし寿命が縮んだって構いやしない。他に何も要らない。
欲しいのは、この子だけなんだ。
「じゃあ、許さない」
「え」
「私が許さなかったら死ぬまで会いに来てくれるんでしょ? だ、だから…………許さないから」
果南は恥ずかしそうに俺の胸に顔を埋める。一瞬、言ってる意味が分からなかった。でも、すぐに理解した。
どうすればいいのか分からない。なんて言葉を返せばいいのか。冗談を言って誤魔化せばいいのか。それとも笑って茶化せばいいのか。何も思いつかない。思考回路が今の言葉だけで絡み合ってしまった。
だから俺は言葉じゃなく、行動を選んだ。
「果南…………っ」
「っ。く、苦しいよ、信ちゃん」
あと少し。もう少しだけ、存在を近くに感じていたかった。そうするために、抱き締める力を強めた。
細くて柔らかい身体と触れ合っている。この心臓の音はきっと彼女にも聞こえている筈だ。それでもよかった。もう、隠さなくてはいけないものなんて何もないのだから。
言いたかったことが溢れるほどあるのに、俺はその一つも言えなかった。愛おしすぎて、どうしても離したくなくて、離れたくなくて、そればかりを考えてしまって。
小さな街の海辺にある旅館の部屋で、俺たちは十年振りに再会した。少年は大切な人を忘れ、少女はこんな俺を待ち続けてくれた。
これは、たったそれだけの話。誰も知らない、ありきたりな恋の物語。こんな話、誰も信じてはくれないだろう。話す気はないが、もし、誰かが聞いてくれるならその人はきっと、この話を聞いて笑うと思う。
笑われてもいい。だって、その話に出てくる登場人物は今、こんなにも幸せなのだから。この手を離せば一生遊んで暮らせるお金を渡すと言われても、俺は彼女を離そうとしない。何を提示されても離すことはない。
「果南」
「うん?」
「好きだよ」
実らなかった告白をもう一度繰り返す。さっきはまだ、俺は何も知らなかった。この子を知らない高海信吾としてしたのが、先ほどの告白。でも、今は違う。今はあの日々を思い出した高海信吾として言った。
果南は顔を上げて俺の目を見つめてくる。頬は赤く染まり、目は少しだけ潤んでいた。
「…………私も」
それから恥ずかしそうに目を反らす。また断られるのかと思った。けど、それは違った。
彼女は笑顔を向けてくる。そして、透き通る海のような表情を浮かべて、言った。
「─────大好き、だよ」
それが、彼女がくれた答え。
十年間も待たせてしまったバカな男に、そう言ってくれた。
これ以上の答えをどうもらえばいいのだろう。いや、そんなものはどうやったって得られない。得られる筈がなかった。
彼女は涙を流しながら照れくさそうに笑う。だから、俺も同じように笑った。
同時に、言いたかったことを思い出した。十年間、言えなかった言葉。命を救ってくれた恩人に言わなくちゃいけなかった感謝の言葉。
本当は十年前に伝えたかった。すぐに届けに行きたかった。でも、それも叶わず徒に年を取った。
だから、いま言わなくちゃと思った。命を救ってくれたこと。好きだと言ってくれたこと。そして、出会ってくれたことに感謝を込めて。
「ありがとう」
十年間、言えなかった五文字のメッセージ。
それをやっと、大切な人に届けることが出来た。
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