◇
「なぁ、ひとつだけ訊いてもいいか?」
「ん? なに?」
それから俺達は部屋の壁に背中を預けて寄り添いながら、雨に濡れる海を眺めていた。この十年間であった話をして、離れていた日々の穴を埋めようとしていた。
話をしている最中にふとある疑問が浮かび、そのことについて訊ねてみる。
「バス停で会ったあの時にはもう、俺だってことに気づいてたんだよな?」
「うん。最初はちょっと似てるなぁ、って思っただけだったけど、名前を聞いたらやっぱりって思ったよ」
「そうだったんだ。……でもさ」
「?」
夕立が降ったあの日。俺達はバス停の中で会った。あの時、俺はこの子を知らなかったけど、彼女は俺を知っていた。あの伝説が本当である以上、それ自体は別におかしいわけじゃない。けど、引っかかるところはある。
「鈴を鳴らしたのに、どうして果南は俺のことを覚えてるんだ?」
「え…………」
「言い伝えだと、二人はお互いのことを忘れてただろ? 鈴を振った女の子は相手に自分のことを忘れさせて、後から自分も相手のことを忘れたって、叔母さんは言ってたよな」
記憶が正しければそうだった筈だ。好きだった男の子が自分のことを忘れてしまったから、自分も鈴を振って男の子のことを忘れた。おとぎ話ではそうだったのに、なんで俺だけが忘れていたんだろう。
そう訊ねると、露骨にバツの悪そうな顔をされる。それだけは訊かれたくなかった、と可愛い顔に書いてある。そんなにマズいことだったのか。
「…………あー、えっと」
「なんで目を反らす。こっちを見てよ」
「だ、だって。信吾くんが急に変なこと訊いてくるから」
「そんなに変なことか?」
果南はうんうん、と顔を頷かせる。だが、俺にはその変だという意味が分からない。顔は赤いし、照れてるように見える。よく分からん。可愛いけど。
「そんなに、聞きたい?」
「うん。気になるし」
答えるとうー、と唸り声を上げる果南。ああもう可愛いなちくしょう。またさっきみたいに抱き締めてやろうか? ええ?
隣で何故か照れている彼女を眺めながら、そんなことを思う。もうダメだ。この子の仕草すべてが愛おしい。もしかしたらこれは病気なのではないだろうか。果南の全部に心を惹かれてしまう果南病にかかってしまっているのかもしれない。何それ怖い。いや、むしろ良いと思ってしまった俺はもう末期なのかもしれん。この心をトリコにする魔法を使える魔法使い・果南。封印指定しなきゃだな。いったい何を考えているのだろう。
しばらくの間、果南は唸りながら悩んでいるようだった。たぶん、何かを言うか言うまいか悩んでいる。彼女が話してくれるのを、静かに降り続ける夏の雨を見つめながら待っていた。
明け方から降り始めた雨は強さを弱めない。海は気持ち良さそうにその透明なシャワーを浴びている。何だか雨音がとても心地良く聞こえた。
「………………」
「………………」
好きな女の子と寄り添いながら見る雨だから、綺麗に見えるのかもしれない。この子と一緒じゃなかったらきっと、雨なんて嫌いなままだった。でも、彼女が隣に居てくれるからすべてが美しく見えてしまう。そんな錯覚に囚われた。雨もたまには悪くない。灰色の空を見つめながら、そう思う。
「…………から」
「え?」
隣で何かが囁かれる。でも、こんなに近くに居るのにその言葉は聞こえなかった。
顔を向けると、瑠璃色の両眼もこっちを見ていた。数十センチしか離れていない距離で、俺たちは見つめ合う。その目も、鼻も、唇も、何もかもが綺麗に見えた。
「忘れたく、なかったから」
頬を朱に染めたままの表情で、そう言われた。今度はちゃんと聞こえた。
「どうして?」
訊き返す。意地悪をしたいからじゃない。好きな人が自分を忘れたくなかった理由を知りたいと考えるのは、自然なことだと思うから。
潤む瞳には俺が映っている。きっとこの目にも彼女が映っている。その合わせ鏡を二人で見つめ合っている。不意にどうしようもない幸せを感じた。空気を入れすぎた風船のように、今にも胸が張り裂けてしまいそうになるくらいに。
雨音が強くなる。海風に吹かれた雨粒が窓に当たり、パチパチという音を鳴らす。
その血色の良い唇を見つめた。柔らかそうな、その艶の良い赤が開くのを待つ。
「…………初恋の人、だったから」
果南は恥ずかしそうな顔をしてポツリ、と答えた。そして、言葉を続ける。
「信吾くんは、私が生まれて初めて好きになった人だったんだもん」
悪い? と言うように唇をちょっとだけ尖らせる。その表情が愛おしくて、この身体は今にも夏の空気の中に溶けて行ってしまいそうだった。
果南が俺を忘れていなかった理由。それは、忘れたくなかったから。なんて単純な理由だ。しょうがないか。あの時、俺たちは小学生だったんだから。でも、それにしても可愛い。思わずにやけてしまいそうになるくらい。
俺に自分のことを忘れさせておいて、自分は忘れたくないから忘れなかった。彼女らしからぬその乙女さが、どうにも心臓を騒がしくさせた。
「…………」
「ぁ…………」
青い髪を撫でた。彼女は恥ずかしそうに俯き、目を細めてこちらを見つめてくる。
この身体の熱はどうすれば止むのだろう。海に飛び込めばいいのか。いや、多分それでも火照ったこの身体の熱は消えてくれない。
じゃあどうすればいい? 自問しても答えは出てこない。誰に訊いたって教えてはくれないだろう。
どれだけ言葉で好きだと言っても、溢れ出る想いを声に出しても、この体温は消えてはくれない。もう、それだけでは足りないんだ。
だから熱を冷ます方法は探さない。その代わり、これ以上熱が上がらないようにする。そうするために必要なこと。それはきっと、ひとつしかない。
「果南」
「うん? んっ…………」
不意を突いて、彼女の無防備な唇にキスをした。
啄むような軽い口付け。触れたのかどうかも怪しい。でも、確かに俺たちの唇は触れ合った。唇から伝わる体温が、そうだと教えてくれている。
何が起こったのか分からないというような瞳が、俺を見つめてくる。
頭がぼうっとする。霧がかかったみたいに何も見えなくて、何も考えられなくなる。
ここで心臓が止まっても文句は言えない。今にも止まってしまうのではないかと思ってしまうほどに、強く早い鼓動が胸の中で響き続けている。
長い沈黙が流れた。それがどれくらい長かったのか分からない。大した時間ではない。でも、何よりも長い時間のように感じた。
「ごめん。我慢できなかった」
正直に謝る。どうやっても抑えられなかった。鍋の中で熱された蛙が外に出て行こうとするように、この理性も押し留めることが出来なかった。
謝った途端、果南は顔を真っ赤に染め、あたふたし始める。それがまた可愛くて俺の理性の脇腹をくすぐった。ここで気絶してしまえたらどれだけ楽だろう、と思わずにはいられなかった。
「ば、ばか。だからって、こんな」
「うん、ごめん」
もう一度、今度は頭を下げて謝罪する。それを見た果南の表情はまさに百面相。嬉しいのか戸惑ってるのかよく分からない顔で視線を色んな所に向けている。
そりゃ突然キスなんてされたら困るか。しかも相手は俺。もう少し格好いい奴だったら満足してくれたのかもしれないけど、残念ながらしてしまったのは高海信吾という平凡な男。
でも、今のはしょうがなかった。どうしようもなかったからこうするしかなかった。悪いか。悪いな。申し訳ない。やってしまったことは取り戻せないので、とりあえず諦めよう。
「…………そんなに、したかったの?」
「うん」
「そ、即答だね」
だって偽る必要性がない。キスがしたかった。だからやってしまった。質問を言い終わる前に食い気味で答えたくらいだった。文句あるか。
果南は少しだけ頭を俯かせて上目遣いで俺を見つめてくる。そのあざとい顔はやめてほしい。次に理性が抑えられなくなったら何をするのか自分でも分からないのだから。
そんなことも言えず、見つめ合う。彼女の息が頬にかかる。また少し、体温が上がった気がした。
「嫌、だった?」
そう訊ねる。もし嫌だったのなら、本気で謝らなければいけないと思ったから。
「…………」
果南は顔を横に振った。それが質問に否定をする仕草だと分かって安心する。
「じゃあ、許してくれる?」
そう訊ねると果南は固まった。ジッと見つめてくる。俺も、彼女の顔を見つめ返した。
数秒の間を空けて、唇が開かれる。そして、彼女の言葉を聞いて耳を疑った。
「ゆ、許してあげる…………だから」
「?」
「もう一回、して?」
死ぬほど恥ずかしそうな顔をする果南。こっちまで恥ずかしくなってしまうほどに、彼女は顔を赤くして弱々しい声でそんな要求をしてきた。
ああ、そうか。それなら仕方ない。我慢しなきゃいけないと思っていたけど、この子がそう言うのならその必要はない。
「──────」
「ん………………」
今度は長いキスをする。右手に彼女の左手を絡ませながら、少しでもこの体温を共有できるように。
キスをしている間、何処かに落ちて行くような感覚に襲われた。それは多分、彼女の中。そして彼女の一部になり、そこから一生抜け出せなくなる。それでも良い。この子と一つになれるのなら、それ以上に嬉しいことなんてこの世界には存在しない。
綺麗な雨音が聞こえる。アマガエルの可愛らしい鳴き声が聞こえる。この空間より幸せな場所があるのなら、誰か俺を連れて行ってほしいと思った。絶対にそんな場所なんて存在しない。何処を探しても、何百年かけて世界中を探し回っても、見つけることなんて出来ない。
数分間、俺たちは唇を重ね合った。どちらからともなく離れて、息がかかる距離で見つめ合う。少しだけ荒くなった甘い息が俺の唇に触れていた。
「これで、許してくれる?」
「…………やっぱり、許さない」
果南は首を横に振る。だから、彼女の身体を引き寄せて、言った。
「じゃあ…………仕方ないな」
◇
──────夏の雨は降り続く。渇き切った街と誰かの心を潤すために。
それでも、いつかは雨は止む。そしてまたこの街には美しい青が広がり、太陽が燦燦と煌めき、透き通るスカイブルーの海を照らし出すのだろう。
永遠はこの世に無い。誰かがそう言った。降り続ける雨がないように、光り続ける星が存在しないように、終わらない夏が無いように、それがこの世界に存在することは許されない、と。
でも、俺はそうじゃないと思う。永遠が無いと誰かが決めつけるのなら、それは嘘だ。
それは何処かにあるものじゃなく、作り出すもの。大切な誰かと一緒に作り上げなくてはいけないもの。
それがもし、この世界にあってはならないとしても、俺は作ろうとすることを止めない。誰かに見つかって悪いものなら、隠しながらでも作り上げてみせる。
その隣で大切な人が見ていてくれるのなら、いつか必ず作り出すことが出来る。誰にも見つからないように内緒で、二人だけの
この子となら、それが出来ると思った。
十年の月日を経て、再会して、もう一度愛し合えた俺たちなら、
これは、本当にちっぽけな物語。
聞く人も見る人もいない。
誰も知らない、不思議な夏の恋物語。
最終章/完