いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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Epilogue
蜜柑色の口付け


 

 

 Epilogue/

 

 

 

 ◇

 

 

 

「…………これで、よし」

 

 

 

 よく晴れた昼下がり。十千万旅館の一室。

 

 今日は朝から数日間世話になったこの旅館を後にするため、後片付けに勤しんでいた。沢山の荷物を持ってきたわけじゃない。親父に借りたキャリーバッグの中には持って来た時とほとんど同じ容量のものしか詰め込まれていない。

 

 手に余るくらいの思い出が出来たというのに、形あるものは何一つ変わっていなかった、それがなんとなく寂しい気もした。でも大丈夫。思い出とか感動っていうのは、最初から場所を取らないことを俺は知ってる。だからありったけ持っていける。詰め込み過ぎたバッグから溢れることはない。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 キャリーバッグの蓋を閉めて、数日間泊まらせてもらった部屋を眺めた。掃除をするために開けた窓からは海から届く夏風と穏やかな潮騒。そして、相変わらず騒がしい蝉時雨が入り込んでくる。

 

 あの日の雨を忘れさせてくれるような、気持ちいい夏晴れだった。これがこの街の在るべき姿だな、と似合わないことを思ってみたりする。

 

 窓辺に掛けられた風鈴がちりん、と可愛らしい音を鳴らした。畳の上で胡坐をかいていた両足を立ち上がらせ、外に広がる内浦の景色を見つめる。

 

 そこに在るのは美しすぎる夏景色。ここ以上に綺麗な場所を、俺は知らない。知らなくてもいいと思った。この小さな田舎町にはこんなにも素晴らしい光景があることを、俺だけが知っていればいい。

 

 

 

「あ、いけね。バス乗り遅れる」

 

 

 

 ふと掛け時計に目を移すと、思いの外帰り支度に時間がかかってしまっていた。だが、まだ大丈夫だ。計画では家を出るまでに相当な時間を食われることは予想していたから。

 

 荷物を持って部屋を後にする。出て行く前にもう一度振り返り、だだっ広くなってしまった誰も居ない客室を眺めた。

 

 

 

「…………お邪魔しました」

 

 

 

 部屋に向かって、そんな言葉を残す。ちりん。振り返ったと同時に後ろで鳴った風鈴が、『気をつけて』と言ってくれたような気がした。

 

 

 

 階段を下りて玄関へと向かう。旅館には他の客が居ないのか、やけに静かだった。これからお盆に入るため、沢山の客が来て大変になる、と従妹が泣きついて来たのは今ではどうでもいい思い出。

 

 玄関に着く。するとそこには、既に俺を待っていた一人の影が立っていた。

 

 

 

「信吾くん、準備は終わったのね」

 

「はい。お待たせしました」

 

 

 

 そこに居たのはいつものエプロン姿の叔母さん。こうしてこの人を見ると自分がどれだけ大きくなったのか嫌でも自覚できる。叔母さんは十年前から見た目も身長も小学生みたいな感じだったから、この人もいつか大きくなるもんだと思ってんたんだけどな。この見た目で三女の母とかどういうことだ。

 

 

 

「ふふ、大丈夫よ。外で待ってる人は待ちきれてないけどね」

 

「ああ、大体分かってたんでもういいです」

 

 

 

 叔母さんが言わんとしてることは一瞬で察しがついた。ここにあいつが居ないということは、玄関先で待っているらしい。なんだろう。旅館を出て行くのが猛烈に嫌になって来た。帰るのやめようかな。

 

 なんてことも言えず、準備してもらっていた靴を履き、立ち上がる。叔母さんは微笑みながら俺の顔を見上げて、何かを言いたそうな顔をしていた。

 

 

 

「…………どうかしました?」

 

「信吾くん。思い出したのよね?」

 

 

 

 主語が無い質問。でも、今ならその質問の意味が分かる。俺はすぐに頷いてみせた。

 

 

 

「はい。まさか自分が言い伝えの通りになるとは思いませんでしたけど」

 

「それは私もよ。でも魔法が解けてよかったわ。その、隠していてごめんね」

 

 

 

 叔母さんは少しだけ申し訳なさそうな顔をしてくる。でも俺はその言葉に首を振った。

 

 

 

「いいんです。自分がやったことの落とし前は、自分でつけたかったので」

 

 

 

 最初から秘密を知っていたのだったとしても、叔母さんを責めることは出来ない。悪いのはすべて俺だったのだから、責めるのは自分だけで十分だ。

 

 それに、叔母さんは色んなヒントをくれた。あれが無かったら十年前の秘密を自力で解き明かすことは出来なかった。

 

 だから、頭を下げて言う。ここに泊まらせてくれたこと、手助けをしてくれたことに感謝を込めて。

 

 

 

「本当に、ありがとうございました」

 

 

 

 そう言って頭を下げたまま足元を見つめていると、髪を優しく撫でられる。

 

 

 

「?」

 

「強くなったわね、信吾くん」

 

 

 

 叔母さんは頭を撫でながら、そう言って笑ってくれた。その言葉が今は心に沁みた。

 

 強くなったのかなんて自分では分からない。俺は昔から俺のままなのだから、それも仕方ない。

 

 けど嬉しかった。次は自分でも強くなったことが分かるくらい、強くなって来ようと思った。

 

 

 

「じゃあ、来年はもっと強くなって帰ってきます」

 

 

 

 もっと素敵な男になって、ここに帰ってきたい。これはその一番最初の決意。

 

 笑いながら言うと、叔母さんは少し驚いたような表情になったが、すぐに元の優し気な顔に戻った。いや、違う。なんかちょっと嫌な笑顔になってる気がするのは気の所為だろうか。

 

 

 

「そう。なら、今度は千歌のことをよろしくね」

 

「え………………それは、どういう」

 

「ふふ、冗談よ。信吾くんにはもう大切な人がいるものね。無理強いは出来ないわ」

 

 

 

 クスクスと笑う叔母さん。冗談と言っていたが、そうは聞こえなかった。今のはマジだ。間違いなくこの人は自分の娘を俺に預けようとしていた。それって、つまり、そういうことだろう? 

 

 まさか、この人は最初からそれを狙っていたんじゃないだろうな。おっかねぇ。叔母さんマジおっかねぇ。何かの間違いで千歌を好きになったりしなくてよかったぜ。俺は危うくこの旅館を継がされるところだったわけか。  

 

 …………まぁ、嫌いじゃないけどな。むしろ───いかん、これ以上変なことを考えたら青い髪のお姉さんにぶっ飛ばされる。意外と嫉妬深いところがあるので知られたら間違いなく拳的な何かが飛んでくるだろう。それか小一時間くらい拘束(ハグ)されそう。それは別にいいな。

 

 そんなことはどうでもいいとして。

 

 

 

「…………やっぱり」

 

 

 

 大人になっても俺はこの人には勝てないらしい。内浦の魔女はずっと魔女なままなのでありました。いつまでも元気でいてください。

 

 それと、俺を高海家の婿養子として見るのだけは勘弁してください。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「うわぁあああんッ! 信ちゃんホントに帰っちゃうの? なんで? どうして? 部屋がないなら千歌の部屋を貸すよ? 何なら一緒に寝てもいいんだよ!? お願いだから帰らないでよぉ~! 千歌は寂しいんだよぉ~ッ!」

 

 

 

 それから約一分後。俺はイメージしていた状況とまったく同じ光景を体験させられていた。もうヤダ。早く帰りたい。だが俺の首に両手を回してくるこの従妹がそうすることを許してくれない。暑い暑い胸が柔らか、じゃない。落ち着くんだ俺。ここでこいつのペースに乗せられたらヤバいことになってしまう。具体的に言うと一生帰れなくなってしまう。それだけは願い下げだ。死ぬまで続く地獄など、誰が足を踏み入れたいと思うだろうか。

 

 

 

「アハハ、千歌ちゃんは本当に信ちゃんのことが好きなんだねぇ」

 

「曜ちゃん。目が笑ってないぜ。悪いのは俺じゃない。分かるだろ?」

 

「ふふ、何のこと? 千歌ちゃんを泣かせたりしたらどうなるか、信ちゃんなら分かるよね?」

 

 

 

 千歌に抱きつかれる俺に、濃厚な殺気を放ちながら微笑みを向けてくる曜ちゃん。背後には修羅が見えた。ダメだこの子。どうしろと言うんだ。

 

 帰る前だから認めよう。どうやら曜ちゃんは千歌のことが好きらしい。それはライク的な意味ではなく、ラブ的な意味合いで。ぶっちゃけ最初から気づいてた。決めつけるのも可哀想だったので無視しててあげてたけど、もういいでしょ。仲が良すぎると女の子同士でもこうなってしまうことがあるらしい、と千歌と曜ちゃんを見て学んだ。

 

 あと、俺が千歌に抱きつかれてるのを見て怒るのはいいが、殺気を出してくるのだけはやめてほしい。それは歪んだ愛情というものだぜ、曜ちゃん。次帰ってきたら刺されるとかないよな。大丈夫だよな。曜ちゃんに背中だけは見せないようにしよう。

 

 

 

「ほら千歌ちゃん。信吾ちゃんが嫌がってるでしょ。離れてあげなさい」

 

「嫌がってなんかないもんっ。信ちゃんはそんな人じゃないもん…………」

 

「それはどっちかと言うと俺のセリフなんだが?」

 

 

 

 志満姉が優しく千歌に言うけど、この夏蜜柑は離れて行かなかった。千歌がそう言った途端やたらデカい舌打ちが聞こえた。まだ包丁的な何かは手に握られていないので大丈夫、だと思う。背中に隠し持ってませんよね? マジで死んじゃうからやめてね? 病み過ぎだぜ曜ちゃん。こんな可愛い女の子にここまで愛されてる従妹がちょっとだけうらやましく思えた。だいぶ歪んでるけどな。

 

 

 

「信吾帰っちゃうのかー。飲み相手が居なくなって残念だな~」

 

「お願いだから次はもうちょっと落ち着いた雰囲気で飲もうよ、美渡姉」

 

「ははっ、あたしがそんな雰囲気で飲めると思ってんの?」

 

「うん、全然思わない」

 

「だよなぁ。じゃあ今度は美味い酒をいっぱい用意してるから、安心して帰って来な信吾っ」

 

 

 

 そう言ってくる美渡姉にバシバシと背中を叩かれる。痛い、痛いからやめて。ぶっちゃけこの人との晩酌が俺の中では一番きつい思い出だった。この数日で一年分くらいの酒を飲んだ気がする。アルコールにも強くなって帰ってこなければならないのか。つまり超人にならなきゃいけない、ということだろうか。もういいや。今度はせめてひどい二日酔いにならないよう、肝臓を鍛えて帰って来よう。

 

 

 

「信吾ちゃん、本当に送って行かなくてもいいの? 大変なら車出すわよ?」

 

「うん、ありがとう。でもいいんだ。ちょっと寄って行きたい所があるから」

 

 

 

 志満姉にそう言われるが、丁重にお断りする。これは昨日から決めていたことだから、今さら頼むわけにもいかない。

 

 帰る前にどうしてもあの場所に行きたかった。だから車で送ってもらうことを断った。

 

 

 

「そう。なら、気をつけてね」

 

「ああ。また帰ってきたら美味しい珈琲を飲ませてよ、志満姉」

 

「ふふ、もちろんよ。いつでも帰って来ていいからね」

 

 

 

 志満姉はそう言っていつも通りの優しい笑顔を浮かべてくれる。おっとり番長はいつまでも健在らしい。志満姉がお嫁さんに行ったりしたら俺、泣いちゃうかもしれない。泣くけど全力で祝ってあげる。

 

 

 

「ありがとう。あ、そうだ。曜ちゃん」

 

「うん? どうしたの信ちゃん」

 

 

 

 曜ちゃんに言わなくちゃいけないことがあったのを、こんな時になってふと思い出した。結局、時間が無くて言えていないままだった。

 

 

 

「その、相談に乗ってくれて、ありがとう。本当に助かった」

 

 

 

 告白する前、俺は曜ちゃんに相談に乗ってもらった。その感謝を伝えてなかった。彼女が居なかったらきっと、あの告白は実らなかっただろう。

 

 恥ずかしいけれど、どうしても言わなくちゃいけないと思った。曜ちゃんはああ、と頷いてから明るい笑顔を浮かべてくれる。

 

 

 

「うんっ。信ちゃんの役に立てたならこの渡辺曜、本望でありますっ」

 

 

 

 なんてことを言ってぴしっと敬礼をする曜ちゃん。本当にこの子は健気で良い子だ。千歌に向けるアウトローな愛情以外は完璧だと思う。幸せになってくれ。俺は本気で応援してるからな。

 

 

 

「………………」

 

「そんで、最後はお前だ」

 

 

 

 さっきから俺に張り付いている夏蜜柑色の従妹の肩を持って、その身体を引き離す。鍛え抜かれたポーカーフェイスで何とか表情には出さなかったが、実際めちゃくちゃ暑かった。髪の良い匂いがするし、胸は当たってるしで、俺の心臓が大変だったのをこいつは分かってない。いい加減、自分がどれくらいの魅力を持っているのかくらい自覚してほしかった。そうじゃないと俺は安心して帰れない。東京に居てもこいつのことが心配で、居ても立っても居られなくなってしまう。

 

 

 

「千歌。お前がなんと言おうと俺は帰る。それは分かるな?」

 

「やだ!」

 

 

 

 し、質問の答えになってねぇ。どうしよう。我がままを言う子供と喋ってるみたいだ。ていうかそれそのものだ。親の苦労が少し分かった気がした。

 

 

 

「それは分かった。けどな、俺にも帰らなくちゃいけない場所があるんだ。俺を待ってる人が居るんだよ」

 

「………………」

 

「それに、俺たちはもう大人なんだ。昔のように駄々を捏ねて通用する歳でもなくなった。だからどんだけ嫌なことでも受け入れなきゃいけない時がある。そうだろ?」

 

 

 

 千歌の両肩を掴みながら言い聞かせる。彼女は下唇を噛んで俯いていた。泣くのを我慢してる時、この子はいつもこうしていた。昔の千歌と姿が少しだけ重なった。

 

 

 

「俺だって本当は帰りたくない。でも、楽しいことはいつまでも続かないんだよ」

 

「…………信、ちゃん」

 

 

「楽しいことばっかな毎日なんて、そんなの楽しくないのと同じだろ。つまんない毎日があるからこそ、夏休みは待ち遠しくて死ぬほど楽しいんだよ」

 

 

 

 そう言って千歌の頭を撫でる。恥ずかしいことを言ってるのは自覚してるが、言わなくちゃこいつは納得してくれない。美渡姉は口に手を当てて笑いをこらえていた。今度帰ってきたら仕返ししてやる。覚えてろ。

 

 

 

「俺は楽しかったよ。千歌のお陰で楽しい夏休みを過ごせた。だから感謝してる。千歌も楽しかったか?」

 

 

 

 夏蜜柑色の頭が頷く。それを見て、俺は笑った。

 

 

 

「ならよかった。また来年、必ず帰ってくる。その次も、絶対帰ってくるから」

 

「…………ほんと?」

 

「ああ。だからそれまでつまんない毎日を楽しもうぜ。楽しいことがあるって考えれば、その間がどんだけつまんなくても、大丈夫だろ?」

 

 

 

 これが俺の言いたかったこと。間違いなく千歌はこうなると思ったから、昨日の夜、寝る前に準備したこの言葉。

 

 昔からそうだった。俺が東京に帰る時、千歌は寂しいから帰らないで、と言ってなかなか泣き止まなかった。その隣で青い髪の女の子も泣きながら彼女を慰めていた記憶も、今では鮮明に思い出せる。

 

 それから十年。千歌は何も変わってないように見える。でも、確かに変わってしまっている。変わらない筈がない。

 

 悲しいことから逃げるのではなく、立ち向かうのでもなく、ただそれを受け入れること。受け入れた上でつまんない毎日を進んで行くこと。それが出来るのが大人というものなんだ。

 

 

 

「…………うんっ」

 

 

 

 ようやく、千歌は笑ってくれた。本当に太陽のように輝く笑顔。小さい頃から変わらない。エネルギー全開のその笑った顔が、俺は好きだった。

 

 

 

「よし、それでいい。お前はお前のままでいい」

 

「信ちゃん」

 

「次に会う時は、お互いさ───」

 

「ん…………」

 

「え?」

 

 

 

 頭の中が真っ白になった。何をされたか分からなかった。言いたかった言葉があったのに、千歌はそれ以上言わせてくれなかった。

 

 分かるのは千歌の顔が近づいてきて、右頬に柔らかい何かが触れたということだけ。

 

 それ以外、何も分からなかった。

 

 

 

「…………えへへ。ばいばい、信ちゃん。千歌はまた、次の夏休みも待ってるからね」

 

 

 

 千歌の顔が離れていく。彼女は頬を赤く染めて恥ずかしそうな笑顔を浮かべていた。その顔は少しだけ、大人な女性の顔に見えた。

 

 右頬に手を触れる。それでようやく、自分が何をされたかを理解することが出来た。

 

 まったく、つくづくこの従妹にはやられっぱなしだ。でも、そうじゃなきゃ千歌は千歌じゃない。俺はこいつの従兄で本当に良かった。

 

 

 

「…………ああ。それじゃあな」

 

 

 

 ポンポン、と夏蜜柑色の頭を撫でてやる。そして、俺は振り返った。一秒でも早く帰らなくちゃいけないと思ったから。

 

 理由? そんなの決まってるさ。バスの時間が迫ってるからでも、早く帰りたいわけでもない。

 

 

 

「──────信、ちゃん?」

 

 

 

 千歌にキスをされた俺を抹殺しようとする、曜ちゃんから逃げるためだよ。

 

 

 

 それから、しばらく向かいの砂浜で曜ちゃんに追いかけられ、最後まで疲れさせられた。

 

 

 

 ま、楽しかったからいいんだけどね。

 

 




次話/Epilogue 指切りじゃなくて
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