いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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指切りじゃなくて

 

 

 ◇ 

 

 

 

 

 一人で海岸沿いを歩く。俺はある場所に向かうために、車で送られるのを断った。

 

 右を見れば見慣れた青い海が広がっている。水平線が誰かに描かれたみたいに横一線に引かれ、ほとんど同じ色をした海と空を二つに分けていた。

 

 繰り返される穏やかな潮騒と騒がしい蝉の声。これが内浦の音。東京では聞くことが出来ない、心地良い夏のアンセムに海岸線は包まれていた。

 

 遠くには揺らめく陽炎。たまに吹く涼しい海風が火照った身体を癒してくれる。着ている白いシャツには汗が滲み、額から一滴の水が頬を伝ってアスファルトの上に落ちて行った。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 暑い空気を吸って、真夏の中を進む。キャリーバッグは少し重いけれど、どうしても行かなきゃいけない場所があるから我慢するしかない。

 

 すれ違う地元の小学生たちが逆方向に走って行く。手には虫取り網と虫かご。そんな姿を見つめて、微笑みながら足を前に踏み出す。

 

 相変わらず、人通りも車通りも少ないこの海辺の田舎街。こんなにも綺麗な場所なのに、やっぱり観光に来る人は少ないみたいだ。

 

 俺は、この街が嫌いだった。でも今はそうじゃない。すべてを思い出して、色んな人と再会して、この街を好きだと胸を張って言えるようになった。

 

 また来年も帰って来よう。その次の年も、必ず帰ろう。それからは、どうしようか。

 

 それは決まってる。自分だけの計画だけれど、どうするかを既に決めている。口に出せるものじゃないから大学を卒業するまでは心の中に仕舞っておく。

 

 そんなことを考えながら、県道をしばらく東に向かって進む。そうしていると、ようやく目指していた場所が目に入った。

 

 

 

「あ…………」

 

 

 

 目指していたのは、あのバス停。帰って来た日、夕立に打たれて雨宿りをした場所。

 

 あそこからバスに乗って駅まで行こうと思っていた。車で送られることを拒んだのは、それが理由。

 

 だけどそこには先客が居た。あの日と同じように、誰かがバス停の前に立って何かを待っている。

 

 それはきっとバスではなく、誰かを待っているようだった。

 

 

 

「おはよう。こんな所で奇遇だね」

 

「そうだな。今日は沼津に買い物でも行くのか?」

 

「違うよ。東京に帰る誰かがここに来ると思って、見送りに来てあげたんだ」

 

「へぇ。よくここに来るって分かったな」

 

「私を誰だと思ってるの? 誰かさんが考えてることくらいお見通しだよ」

 

「さすがだな」

 

「ふふ、もっと褒めて」

 

 

 

 足を止めてその子と会話をする。だいぶ軽い感じで喋れるようになったな。最初はあんなにたどたどしかったっていうのに。

 

 

 

「忘れ物はない?」

 

「たぶん無いと思う。あったら届けに来てくれよ」

 

「えー。遠いからやだ」

 

「東海道新幹線に乗れば一時間で着くぞ」

 

「そういう問題じゃないの」

 

 

 

 呆れた顔を浮かべて果南は言い、二人で同時に吹き出す。どうやら彼女が言わんとしていたのは距離や時間のことではなかったようだ。たとえすぐ来れるとしても、軽い気持ちで訪れることはしたくない。ここはそれくらい、大切な場所だから。

 

 

 柔らかな海風が俺の髪と青い髪を揺らす。少しだけ香水の甘い香りがした。その海のように爽やかな香りが、俺は好きだった。

 

 忙しない蝉時雨を聞きながら、目の前に立つ女の子の顔を眺めていた。ここで別れたらすぐには会えなくなる。だから、少しでも長く見ていたかった。

 

 

 

「…………また、帰ってくるから」

 

「うん。待ってる」

 

「こっちにも会いに来てくれるか?」

 

「会いたくなったら会いに行く。だから会いたくなったら帰って来て」

 

「じゃあ、毎日来なくちゃいけないな」

 

「ふふ、私も同じこと考えてた」

 

 

 

 そう言ってまた笑い合う。幸せな時間すぎてどうしようもない。過ぎ去ってしまう楽しい夏休みのように、いつまでもこの瞬間にしがみつきたくなる。

 

 けれど、それは許されない。だからさっき、あの旅館を出てくる前に年下の従妹に言った言葉を自分自身に言い聞かせる。

 

 どれだけここにいたいと願っても、必ず夏は終わる。駄々を捏ねたって、泣きべそをかいたって、季節は前にしか進まない。

 

 聞こえてくるこの蝉の声も、茹だるようなあの日差しも、時が来ればすべて秋へと吸い込まれてしまう。蜻蛉の儚げな命のように、美しい八月の日々は瞬く間に誰かが奪い去って行く。

 

 だからこそ、この限られた時間を大切にしたいと願う。一生続く夏休みなんて、俺は要らない。それが当たり前になってしまったら、この子と過ごした夏休みがありきたりなものになってしまうから。 

 

 そうしないために、今は別れを受け入れる。

 

 それが出来る人間を、俺たちは大人と呼ぶのだろう。

 

 

「今度帰ってきたら、俺もダイビングやってみようかな」

 

「泳げないのに?」

 

「しょうがないだろ。それが出来なきゃ一緒に働けない」

 

「え?」

 

「え?」

 

 

 

 変な空気が流れる。何か変なことを言ってしまっただろうか、と自分で振り返ってみた。

 

 ああ、言ってしまってる。間違いなく変なことを俺は言った。やってしまったと今さら後悔してもどうしようもない。隠していようと思ってた矢先、一番隠さなくてはいけない人に一番最初にカミングアウトしてしまうとか、俺はいつまで経ってもダメな男のままだ。何をやってるんだろう。

 

 

 

「…………それって」

 

「あ、えっと、違う。今のはその、言葉の綾というか」

 

「違うんだ」

 

 

 

 言い訳すると露骨にシュンとする果南。それは反則だろうと文句を言いたい。

 

 

 

「いや、違いません」

 

「えへへ…………嬉しい」

 

 

 

 べー、と舌を出して彼女は嬉しそうに微笑む。

 

 今のは遠回しなプロポーズに他ならない。心の中だけで計画立てていたことなのに、張本人に向かって口を滑らせてしまった。もういいや。この子が笑ってくれるなら、それでいい。

 

 

 

「じゃあ、教えてくれるか?」

 

「もちろん。毎日みっちり練習に付き合ってあげるよ」

 

「あの、俺が海に入るのも怖いっていうの分かってますよね?」

 

「分かってるよ。だから特別に一から教えてあげる」

 

「そうしてくれるとありがたい」

 

「一緒に働く人が泳げないんじゃ、店の人気に関わっちゃうからね」

 

「確かにそうだな」

 

「信ちゃんが海をもっと好きになってくれるように、毎日練習メニューを考えて待ってるから」

 

 

 

 水を得た魚のように、嬉しそうな笑顔が咲く。それだけで彼女がどれくらい海を愛しているのかが分かる。少しだけ嫉妬してしまった。

 

 見てろよ。いつか絶対泳げるようになって、俺もお前を好きになってやるからな。

 

 横に広がる美しい青の世界を眺めながら、馬鹿みたいな決意を腹の中で決めた。

 

 

 

「じゃあ、約束」

 

 

 

 右手の小指を立てて差し出す。

 

 約束をする時は、こうするのが当たり前だから。

 

 俺に合わせるように、果南も小指を差し出してくる。

 

 

「…………」

 

 

 だが、何を思ったのか彼女はすぐにその手を下げた。

 

 

 

「果南? 指切りしよう」

 

「やだ」

 

 

 

 何故か首を横に振られる。今まであんなに喜んでくれていたのに、急にどうしたのだろう。断る理由が俺には何ひとつ分からなかった。

 

 嫌われてしまったのか、と思う。

 

 けど、それは違った。

 

 指切りを拒否した果南は笑っていた。

 

 嬉しそうに、温かい微笑みを浮かべていた。

 

 

「信ちゃん」

 

「うん?」

 

「約束をする時はね」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 静かな潮騒と蝉時雨に包まれる。美しい夏のある日に、俺たちは同じ場所で息をしてる。

 

 離れ離れになった少年と少女は、十年という年月を経て再会を果たした。大切な記憶を取り戻して、彼らはまた愛し合うことが出来たんだ。

 

 それが何よりも嬉しかった。これ以上嬉しいことなど存在しないと今なら言い切れる。

 

 十年前に好きだった女の子を十年後にまた好きになった。それはとても素敵なこと。

 

 きっとこれ以上の恋をすることはない。それは、この子を好きで居続けると決めたから。

 

 これは揺るがない決意。もう二度と忘れることはない、大切な想い。

 

 

 

 果南は両手を広げる。

 

 人は約束をする時に指切りをする。誰もがそうするのはみんな知ってる。

 

 けど、彼女は違う。指切りよりも温かい、そんな何かを知ってるんだ。

 

 一筋の海風が吹く。それはきっと、十年前の夏がくれた調べ。いつか見たあの夏の日から届く透明な涼風が、青いポニーテールをそっと揺らした。

 

 リン、という乾いた鈴の音が何処からか聞こえた。俺だけが聞こえたのかは分からない。でも、きっと彼女にも聞こえていると思った。

 

 両手を広げる果南を見て、彼女が何をしたいのかにようやく気づいた。

 

 

 

「指切り、じゃなくて」

 

 

 

 言葉は夏に溶けて行く。陽光にあてられた氷菓のように。

 

 それを世界が飲み、冷えた温度は秋になる。時は巡り冬が来て、寒さを越えて春へと続く。そしてまた、この暑く爽やかな季節が訪れるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 それは指切りの代わりにする、優しい愛情表現の名前。

 

 

 ここが別れではないことを証明するために果南は言う。

 

 

 いつかまた会える未来を約束する、あの口癖を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────ハグ、しよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは、彼女がその四文字を紡ぐための物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつか見た、あの夏の日まで。

 

 終

 

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