◇
「着いたよー、信ちゃんっ」
「そうだな」
曜ちゃんにお礼を言って、俺と千歌は内浦と淡島を繋ぐ連絡船から降りる。それから木の桟橋を歩いていると、目の前に広がる懐かしい淡島の光景に目を奪われた。
ここにも何度か訪れた記憶が残ってる。よく山の中でかくれんぼとか鬼ごっこをしたっけ。時間を忘れるくらい遊んで、最後の連絡船に乗れなかったこともあったような。
あの時はひどかった。『泳いで帰るよ!』と真面目な顔をして言い張る千歌と曜ちゃんに、泳げない俺は本気で泣かされた記憶がある。でも結局は諦めて知り合いの家に泊まらせてもらったんだ。
あれ? でも、それって誰の家だったっけ?
「なんかあんまり変わってないな、ここも」
「そう? あ、なら時間もまだあるし散歩していこーよ!」
「あいよ。案内任せた」
「了解なのだ~。じゃあしゅっぱーつ!」
そう言って先に歩いて行く千歌の後を追う。桟橋を抜けて右に曲がり、左手に淡島の深緑を眺めながら道幅の狭い舗装路を進んで行った。
「そう言えば山の頂上に神社があるんだよな?」
「うん、淡島神社があるよ。行ってみる?」
「や、今日はやめとく。着いた頃には疲れ果てた思い出しかない」
ここの長い階段をダッシュして、誰が一番最初に頂上まで着けるかっていうのをよくやった。途中の“がんばって”と書かれた看板に何度背中を押された事か。まだあんのかな、あの看板。見たいけど今日はやめておこう。
「ふふっ。信ちゃんはいっつも二番目だったもんね」
「そうだったか? ああ、でも確かに一番になったことはない気がする」
「悔しがって泣いてたこともあったよね~」
それはよく覚えてる。毎年競争で負ける度に来年こそは、と思いながら東京に帰っても一人で階段ダッシュをしてた。
ん? けど俺はいつも誰に負けてたんだ? 千歌には勝ってたし、曜ちゃんだっけか。多分そうだ。あの子は運動得意だったから、きっとそうだったに違いない。
そんなこんなで思い出話をしながら、俺達は海沿いの道を歩く。しばらくするとクリーム色のデカい建物が目に入って来た。あれは淡島ホテルだよな。めちゃめちゃ高級なホテルだった気がする。
「ん?」
そこを横目に進んで行くと、道の先にある人影を見つけた。
「…………金髪?」
離れた所からでも目立つその髪色に目を奪われ、思わず歩く速度を落とす。
視線の先に居るのは大きな黒い馬に跨る金髪の女性。白い乗馬用帽子を被り、黒のジャケットと白のキュロット、それに
「あ、鞠莉ちゃんだ。おーい、鞠莉ちゃーんっ!」
「は? 知り合い?」
千歌は手を上げて、恐らくその人のものであろう名前を呼び、駆けて行った。何もんだあいつ。あんな金持ちそうなお嬢さまと知り合いだとか、この十年で何があったらそうなるんだろう。千歌の交友関係がさらに気になった。
気づいた金髪の女性は手綱を引いて馬を操作し、パカパカとこっちにやってくる。やっぱり知ってるのか。訝しみながらも、俺は千歌の後を追った。
「ハロー、千歌っち。久しぶりね」
「久しぶりーっ。鞠莉ちゃん帰って来てたんだ~」
「今はサマーバケーションなのデース。昨日帰って来たのよ~」
「そうだったんだ。もー、それなら連絡してよーっ」
「ふふ、ソーリー。驚かせようとしてたのよ。まんまと見つかっちゃったけどね」
そう言ってパチッとウィンクをする金髪の女性。俺に向けられたものではないのに、ドキッとしてしまった。上品で大人な雰囲気。間違いなく俺よりも年上だってことが、外見を見ただけで分かった。ていうか日本語めちゃくちゃ上手いな。
そうして二人の会話を傍からボーっと聞いていると、金髪の女性は俺の存在に気づき、ニコッと明るいスマイルを浮かべてくる。
「千歌っち、そこの可愛い顔をした男の子は誰? もしかしてボーイフレンドかしら?」
「ちがいます」
「ワォ、即答ね」
千歌に対しての質問だったのに、反射的に俺が答えてしまった。可愛いと言われたのがショックだった訳じゃない。……本当だぜ?
「えへへ、そう見えるかな?」
「見えねぇっつーの」
何ちょっとその気になってんだこいつ。思わずキレの良いツッコミを入れてしまった。普段の俺はツッコミ役じゃないってのに。どうにもこいつの近くに居ると自然にその役を担ってしまうみたいだ。
「仲良しなのねぇ。でもカップルって言うよりは……シスターズ、かしら?」
なんか意味不明な事を口走り出した金髪美女。いや、従兄妹同士なんだから多少は似てるかもしんないけど、それを加味してもその感想はどう考えてもおかしい。まずなんだよシスターズって。俺の性別が変わってんじゃねぇか。
「うーん。惜しいけどちょっと違うかなぁ」
「どの辺が惜しいんだ、なぁ。頼むから詳しく教えてくれ」
もうツッコむのもめんどくさくなってきた。シカトしてもいいかな。
「この人はね、東京に住んでる千歌の従兄さんなんだよっ。今日十年振りに内浦に帰って来たんだぁ」
「そうなのね。どーりでちょっと千歌っちに似てると思ったわ」
「初めまして、高海信吾です」
「よろしくシンゴ。私は小原鞠莉。気軽にマリーって呼んでね」
「よろしくです、鞠莉さん」
「フフ、敬語だなんてシンゴはジェントルマンなのね。もっとラフでいいのに~」
「年上には敬語を使わなくちゃいけないのがジャパニーズ・スタイルなんですよ」
「あ、鞠莉ちゃんは信ちゃんと同い年だよ~?」
俺は頭を抱えた。もう何も信じられない。
「ならこれからはマリーって呼んでね、シンゴ」
「…………オーケー、マリー」
「グレ~イト。じゃあ楽しんで行ってね、チャオ~」
「バイバイ鞠莉ちゃーん。今度遊ぼうね~」
手を振りながら馬に乗って離れて行く金髪の女性、もとい、マリー。
そんな感じで十年振りの淡島散策は続く。懐かしいのやら新鮮なのやらで頭をついて行かせるのが大変だ。はぁ、頑張ろ。
◇
それから俺達はゆっくり歩きながら淡島を一周した。太陽はまだ高い所にあり、これでもかというくらいの灼熱を俺達が歩くアスファルトに作り出している。近くには山がある故に、蝉の鳴き声は絶え間なく、もはやこの島に流れるBGMと成り果ててしまっていた。
シャツに汗が滲んでくる。夏は嫌いじゃないけど、歩き続けていればきつくなってくるのは当たり前の作用。隣を歩く俺の従妹は涼しい顔をしてこの十年で何があったのかをつらつらと語っていた。
適当に相槌を打ちながら、右側に見える海へと視線を移す。陽の光に当てられた内浦湾は青空と似たような色をしていて、そこから時折吹きつける穏やかな海風は、火照ったこの身体を少なからず癒してくれた。
「とうちゃーくっ!」
千歌がそう言って足を止める。目線の先にあるのは平屋の木造の建物。数段の石段があり、入り口の上にはイルカのマークが描かれた看板が掲げられていた。ここが目的地だったのか。でも。
「あれ、こんな所あったっけ?」
「え~? 忘れちゃったの信ちゃん?」
「うん、全然覚えてない」
千歌の口ぶりからすると十年前からあった建物らしい。淡島にあるものはほとんど覚えてたっていうのに、ここだけ綺麗に忘れてしまってる。なんでだろ。
「何回も遊びに来たのにね~」
「? そうなのか。ん~…………ダメだ、思い出せない」
蜜柑の入った段ボールを抱えたまま、首を傾げて記憶の抽斗を開いて行くけど思い当たるものが無かった。うっすらと覚えているくらいなら分かるけど、ここに関してはそんな感覚すら無い。
「そういうこともあるよ。じゃ、入ってみよーうっ」
その建物を眺めながら頑張って思い出そうとしていると、千歌はそう言って先に石段を上がって行く。不思議に思いながらも俺は千歌の後を追った。
「ごめんくださーいっ。高海でーすっ」
ガラスの戸を開けて建物の中に入り、千歌はそうやって声をかけた。俺も中に入り、内装を見渡してそこに見覚えがあるかを確認する。
「…………ここは」
窓際に並べられた銀色のボンベ。棚にはシュノーケルやフィンなどのグッズが揃っており、その横にある横長のラックには数々のウェットスーツが掛けられていた。
詳しいことはよく分からないが、ダイビングショップなんだろう。入り口の近くに置いてあるチラシにはライセンス取得の内容やらツアーの詳細が書かれている。
しかし、ここには初めて入った。それだけは間違いない。こんな所があったのを俺は知らなかった。
だから、さっき千歌が言った言葉が頭から離れて行かなかった。
『何回も遊びに来たのにね~』
「あれ、誰も居ないのかな。こんにちはーっ。果南ちゃーんっ、千歌だよーうっ」
千歌が店の奥にそう呼びかける。すると受付と書かれた札が置かれたカウンターの後ろの扉から、誰かが現れた。
「─────あぁ、千歌ちゃんごめんね。今ちょっと手が離せなかったから」
出てきたのは青い髪にパーマをかけた女性。アレが果南ちゃん、という人なのだろうか。綺麗な人だけど、千歌がちゃん付けするにしては歳が上過ぎるような。
「果南ちゃんのお母さん、こんにちはっ。お遣いに来ました~」
「はい、こんにちは千歌ちゃん。いつもありがとうね」
「えへへ、今はもう千歌も若女将なんだよ。これくらい当たり前ですっ」
その女性は千歌の頭を撫でる。子供に見られてるのにそれを自覚してないのは、むしろこいつの長所とも言えるだろう。
相当若く見えるけど、千歌の友達のお母さんだったのか。納得。店の奥から出てきたってことはここの店員なんだろうな。
「果南ちゃんはー?」
「ついさっき走りに行っちゃったの。ごめんね千歌ちゃん」
「そうなんだ。じゃあ一時間は帰ってこないねぇ。残念」
そんな会話を黙って千歌の後ろで聞いていると、その青い髪の店員は俺に気づき、こちらに視線を向けてくる。
「こんにちは。千歌ちゃんのお友達、かしら」
店員さんは微笑みながら挨拶をしてくれた。すぐに自己紹介しようとしたが、うちの従妹は俺が口を開く前に余計な横槍を入れてくる。
「友達じゃないよ~。曜ちゃんと鞠莉ちゃんにはね、彼氏さんに見えたんだって」
「おい。そんなどうでもいいことを今言うんじゃねぇ」
つーかなんでお前が誇らしげなんだよ。従兄をなんだと思っていやがる。本物の彼氏が出来たらうるさくて仕方なさそうだなこいつ。
「あら、確かにお似合いよ。あれ……でも」
その青い髪の店員は口を閉ざし、ジッとこちらを見つめてくる。
千歌がまた何かを言う前に、今度こそ自分の名を名乗ることにした。まったく、頼むから自己紹介くらい普通にさせてくれっての。
「初めまして、千歌の従兄の高海信吾です」
「─────あ」
─────そう言った途端、店員の動きが急に凍った。何故かは知らない。初対面の俺に、そんな異常の意味が分かる筈が無い。
沈黙が店内に落ちる。空調が効いていて温度は低く、さっきまでかいていた汗が冷えていく感じがした。店の外から蝉の鳴き声が遠く聞こえる。静かな店内で、それだけの音に耳を澄ましていた。
「あの、何か?」
「あっ、ごめんなさい。そう、千歌ちゃんの従兄さん、なのね」
そして堪らず声をかけるとあからさまに目を反らされた。何かしてしまったのだろうか。身に覚えはない。なのに、どうして。
「んー? 果南ちゃんのお母さん、ビックリしないんだ。あの信ちゃんなんだよ?」
千歌が首を傾げながらそう言うと、青い髪の店員は目を伏せて口を閉ざしてしまった。
それが何処か申し訳ないような顔に見えたのは、気の所為なのだろうか。
千歌の言葉の意味も、店員の態度が変化した理由も、俺には何も理解出来なかった。
「あの」
「あ、電話だ」
理由を訊ねようとした時、着信音と千歌の声が俺の言葉を遮った。
「もしもし? 美渡姉、どうしたの?」
電話の相手はどうやら美渡姉だったらしい。千歌は耳に携帯を付けて数回頷き、しばらくしてえーっ、と嫌そうな声を出した。
その間、あからさまに目を反らされた店員のことをジッと眺めていた。それでも、その人は俺の目を見ることは無かった。
「うん、分かったよ。すぐに帰るから待ってて」
「どうしたんだ?」
電話を切った千歌はため息を吐きながらスマホをポケットに入れる。こいつがため息を吐くだなんて、めずらしいこともあったもんだ。
「今日の夕方に来る筈だったお客さんがもう旅館に着いちゃったんだって。だから早く戻ってきなさいー、って。せっかく信ちゃんを案内してたのに」
「あぁ、そういう事」
それは仕方ない。一社会人である千歌にも自覚はあるんだな。仕事があるなら早く帰らないと。
気にはなるが、あまり悠長に話してる時間も無いみたいだ。これから数日間の猶予は残されているんだし、別に今日知らなくたっていいだろう。
でももし、それがここで知らなくちゃいけないことだったのなら、俺は後悔してしまうのだろうか。
今は、まだ何も分からない。
「それじゃ、お邪魔しました果南ちゃんのお母さん。あ、信ちゃん蜜柑は置いて行ってね」
「あ、あぁ。そうだったな」
その店員さんに近づき、手に持った段ボール箱を渡す。受け取る時でさえも目が合うことは無かった。俺はもう訝しまず、疑問を抱くこともやめた。
考えても分からないことを考える時間ほど、無駄な時間はこの世には存在しないから。
「お邪魔しました」
それだけ言って店員から背を向ける。千歌は早足で店を出て行った。
暑い日差しが照り付ける外に出て、開かれた入り口のガラス戸に手をかける。
潮騒と蝉の声。ただそれだけが聞こえてくる外の世界。
そこと静かな店内を分けるように、俺はガラスの扉をスライドさせた。
「…………大きくなったわね。お帰りなさい」
そんな声も、騒がしい蝉時雨に掻き消されてしまった。
◇
千歌の横に並び、考え事をしながら連絡船が止まる港までの道を歩く。あれほど鬱陶しく思っていた暑さも、今は気にならなかった。
よく分からない出来事を経て、俺の頭は混乱していた。少しだけ冷静になる時間が欲しい。そう思いながら、自動的に足を交互に前へと進める。
「信ちゃんっ」
「ん?」
「久しぶりの淡島はどうだった?」
隣を歩く千歌が微笑みながらそう訊ねてくる。
「うん、懐かしかったな。今度は神社にも行ってみようぜ」
「いいよーっ。じゃあ久しぶりにみんなで競争しよーうっ」
「ふん、望むところだ。インターハイ選手の実力を思い知れ」
そんな話をしながら、俺達は港に向かう。
「じゃあ、今度は
「当り前だろ。俺を誰だと─────」
そこまで言って言葉を止める。
今、千歌はなんて言った?
「でも残念だったね。信ちゃんも
足を止める。それに気づかない千歌は、数メートル先に歩いて行った。
蝉の鳴き声がうるさい。コンクリートが反射させる太陽の熱が暑い。
そんなことすら気にするのを
「──────」
「あれ、信ちゃん? どうしたの?」
ようやく俺が立ち止まったことに気づき、千歌はこちらを振り返る。
千歌の言ってることが分からず、途方に暮れる。もはや理解出来ない理由さえも理解出来ない。
どうして、あいつは俺が知らないことを既に知ってるかように語ってるんだ? 俺には、何も分からないのに。
十年の月日は確かに果てしなく長い時間だった。それでも、思い出せるものはたくさんあった。一度しか見たことがないものでも、印象深ければ思い出せるものもきっとある。
だけど、まったく身に覚えが無いことは思い出せる筈が無い。見たことが無い人やものを、どうやって思い出せばいい。
俺にはその方法が分からなかった。知っている人がいるのなら教えてほしかった。
「千歌」
「ん?」
覚えているその名前を呼ぶ。成長した従妹の顔を眺める。確かに別人のように変わってしまった彼女の顔を、俺は見ていた。それでも彼女が誰であるのかをすぐに判断できた。
そして、今度は知らない人の名前を口にした。
思い出せる筈も無い、
「
「え?」
◇
それから数十分後、散歩の最中に降った夕立。
雨宿りをするために駆け込んだバス停。
そこで、俺は一人の女の子に出会った。
どこかで会ったことがある気がした、青い髪色の女の子に。
第一章 終
次話/あの夏空に青く澄み