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内浦に訪れてから四日が経った。四人で遊んだのが一昨日。あの日に丸一日休みをもらった千歌は連日で働かなければならなかったらしく、今日も朝からぶーぶー言いながら旅館の仕事をしていた。頑張れ、若女将さん。心の中だけで応援してる。
開放感のある窓の外には、綺麗な内浦湾が今日も輝いている。俺は窓を開けて静かな波の音と騒がしい蝉の声を聞きながら、しばらく読みかけの本に集中していた。だが昼過ぎに腹が減ったので食堂で昼飯をいただいてからまた部屋に戻り、一時間くらい畳の上でゴロっと横になりちょっとだけ昼寝に勤しんだ。
この二日間の行動を振り返ると、めちゃくちゃ暇な奴だと自分で思ってしまう。でもしょうがないじゃん。知ってる人なんてこの街に指で数えるくらいしかいないんだもん。
そんでもって昼寝から目覚めた後、せっかく帰省してんのに一日中部屋の中に居るのもどうかと思い、ぶらっと外に散歩に出かけることにして今に至る。
出かける前、エプロン姿の千歌が『コンビニでプリンを買ってきて!』とかなんかよく分かんないこと言ってきたが、適当に流して旅館から出た。仕方ねぇから買ってきてやるか。俺はいつだって頑張ってる奴の味方だからな。
「…………今日も暑いな」
ここ数日に比べれば今日は暑さも少し落ち着く、と天気予報のお姉さんは言っていたが、あれは嘘なんじゃないかと勘ぐってしまった。あんな笑顔で言ってたら信じちゃうよね、普通。意外と腹黒いんだろうか、あの美人なお姉さん。
右と左。旅館を出た直後にどっちへ行こうかと悩む。宛てがあるわけじゃないし、ぶっちゃけどっちでもいいんだけど。あ、でも右の方にコンビニあるから今日は右にしよう。
ライトな感じで足を進める方向を決めて、旅館の前を右手に曲がり歩き始める。相変わらず車通りも人も少ない。八月も中旬になればもっと観光客も増えるのかな。
「その前には帰らなきゃならないのか」
混雑する前に帰るという約束の元、俺はあの旅館に泊めてもらってる。一応予定ではあと一週間くらい居ることにしてるけど、客の予約状況では短くなったりするかもしれない。
どうしようかな。あわしまマリンパークに行って曜ちゃんにでも会いに行ってみようか。でもバイトを邪魔するのもよくないか。
そのまま淡島に行ってあの子の家に行ってみるのもいいかもな、と思ったけど、いきなり会いに行ったら困るだろうし止めておこう。
あれ、そう言えばあの子って何をしてるんだろう。働いてるのかそれとも学校に通ってるのかまだ聞いてなかった。同い年だし、大学とかに通ってるのかもしれない。
でも、そしたら彼氏とかいるのかな。あれだけ可愛いんだし、彼氏の一人や二人居たって全然おかしくない。なんだろう、考えてたらちょっと凹んでしまった。俺は初恋をした中学生か。
「…………ん?」
そんなことを考えながら歩いていると、旅館のすぐ近くにある桟橋に見覚えのある人影が目に入った。初めて会った時と同じ薄緑色のTシャツとハーフパンツ姿で、その女の子は海を眺めている。
青いポニーテールを視認した瞬間、自然に心臓が高鳴った。体温が少しだけ上がり、全身から汗が浮かび上がってくる感じがする。なのに暑さが気にならない。不思議な感覚だった。
桟橋の前で立ち止まり、その後ろ姿を見つめる。何してるんだろう。誰かを待ってるのかな。いや、でもあんな所で人を待つなんておかしいか。
「声、かけてみるか」
小さく呟き、そう決意する。ここで無視することも出来ないし、彼女が俺に気づくまで待つのも違う気がする。だったらこちらから話しかけてみるのが一番良い選択だろう。
足の向きを変えて桟橋の上を歩く。だが、青い髪の女の子は近づいても俺に気づかない。別に気配を殺してるわけでもないんだけど、何か考え事でもしてるのかな。それからさらに近づく。まだ彼女は気づかない。
そうしてちょっとした悪戯心が働き、後ろから声をかけて驚かせてみようという気になった。あの子ならビックリさせても許してくれるだろう。痴漢だと思われて海に投げ飛ばされたら大変だけど。
爪先立ちになりながら、そうっと忍び足でその女の子に近づく。相当何かに集中しているのか、まだ俺の気配に気づいていない。本当に投げ飛ばされたりしないよな。一応その準備もしておこう。残りはあと数歩。だいたいの目測で何歩で辿り着けるかを想像しながら、足を前に進ませる。
一歩、二歩。まだ気づかない。さらに一歩。あと一歩踏み出したらその子に触れられる距離にまで近づける。よーし、これなら上手く驚かせられそうだ。
しめしめと思いながら、最後の一歩を踏み出そうとした時だった。
「………………信、ちゃん」
「─────え?」
「え?」
思わぬ言葉に声を出してしまい、青い髪の女の子は後ろを振り返る。
それから、長い沈黙が桟橋の上に流れる。海鳥が俺達の頭の上で青い空を旋回しながら鳴き声を上げていた。
目に分かるほどのハイスピードでその子の顔が赤に染まって行く。なんかヤバい予感。ど、どうしよう。こういう時は何をすればいいんだ。えーっと。
頭をフル回転させてこの場に似合う言葉を探す。そして、咄嗟に思いついた言葉を口にすることにした。
「お、おはよう果南。こんな所で奇遇だな」
「……な」
「な?」
挨拶は基本のマナー。どんな状況であってもそれを守るように躾けられてきたので、俺はその教えを守ることにした。
真っ赤になった果南の口から出てきた言葉はハローでもグッドイブニングでもなく、
そして。
「なんで信吾くんがいるのーっ!!!」
そんな、おっとりとした見た目には似合わない絶叫を汀に響かせたのであった。
「あああ、なんかごめんっ」
「き、聞いてた!?」
「え? いいい、いや? 何も聞いてない。大丈夫…………多分」
「絶対聞いてたもんっ!!! ああ、もうやだぁ」
熟れたトマトのように赤くなった顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込む果南。不謹慎ながらちょっと可愛いと思ってしまったのは仕方ない。
あれは、違う。俺の聞き間違いだ。うん、そうにちがいない。というかそういうことにしておこう。そうじゃなきゃなんかもう頭がおかしくなりそうな気がする。思考停止ッ。
「え、えっと。果南さん?」
「…………うるさい。信吾くんなんて居なくなっちゃえ」
しゃがみ込む果南は籠った小声でそう言ってくる。この子にそんなことを言われるなど微塵も思ってなかった俺は、うっかり桟橋から海へと身投げしそうになった。危ない危ない。まだ折れるには早いぜマイハート。折れはしなかったものの、硝子の心臓には綺麗なヒビが入ったのでありました。
「だからごめんって。その、たまたま近くを通って果南を見つけたから声をかけようとしただけなんだよ」
「………………」
「本当に何も聞いてないから、顔を上げてもらえると凄く助かる」
ちょっとだけ嘘だけど、他にも彼女が何かを言っていたんであればその言葉はほとんど真実になる。というより、今の言葉はそんなに聞かれてはいけないものだったのだろうか。
しゃがんでそう言うと、顔を覆う果南はチラッと潤んだ目を向けて来る。それだけでドキッとしてしまうのは、どうしようもない作用だと思おう。
「…………ホントに?」
「ほ、ホントだよ。聞こえてたとしても気にしないから」
「うぅ、じゃあ聞いてたってこと?」
今のはマズったな。なんとか誤魔化すか。
「違う違う。とにかく大丈夫だから、果南も気にしないで」
そう言ってから、一生懸命微笑んでみせる。内心はもうバックバク。これで嘘だと言われてしまったらどうしようもないし。
しかし、果南は俺の言葉を少なからず信じてくれたようで、顔を隠していた両手を外し、こちらを見つめてきた。まだむくれる子供のように唇を尖らせているが、少しは落ち着いてくれたみたいだった。
「…………うん」
「よかった。じゃあ今のはナシ。で、果南はここで何してたの?」
先に立ち上がり、しゃがんでる果南に手を差し伸べる。彼女は俺の手を見て、数秒迷ったような顔をしてからその綺麗な手を重ねてくれた。
「さっきまで走ってたんだよ。今はその帰りだったんだ」
彼女の服装を見れば大体そうだろうとは思っていたが、どうやら予想通りだったらしい。まだ顔の赤い彼女は小さな深呼吸をしてからそう言って来た。
「そうだったのか。よく毎日走れるな」
「まあね。高校の頃からの日課だから。信吾くんは何をしてたの?」
素直な感想を述べると、今度は質問を投げて返される。
「ちょっと散歩しようと思ってたんだ。そしたら果南を見つけたんだよ」
「ふーん。そっか、千歌は?」
「昨日も今日も若女将をしてたよ。出てくる時プリンをパシられたけどな」
「ふふ。あの子らしいね」
まったくだ。大人なんだか子供なんだかよく分からん。いや、子供だな。働いているからといって勘違いしてはいけない。
「御守りが無いから気楽でいいけどさ」
「その割には暇そうだね、信吾くん」
なにおう? ちょっと言い返そうとしたけど止めておいた。まったくもってその通りである。弁明する余地もない。
「そういう果南は今日は休みなの? っていうか学生なんだっけ?」
「私は実家のダイビングショップで働いてるよ。今日のお客さんは午前中で終わりだったから、午後は空いてたんだ」
その答えを聞いて何故か少し安堵した。この子も働いてるのか。泳ぐの得意そうだし、ダイビングのインストラクターとか超似合ってる。
「そうだったのか。てっきり学校に通ってるんだと思ってた」
「やりたいことは決まってたから、進学する必要もないと思ってね。中学生の頃からダイビングはしてたから資格もすぐに取れたし」
果南は驕ることもなくそう語る。凄いな。容姿や髪色が海に似合って、就いた職業まで海に関する仕事をしてる人なんて、日本中を探しても数人しかいないんじゃないだろうか。また一つ、彼女のことを知って見る目が変わった気がした。
「果南はこれから帰るのか?」
「うん? あぁ、そうするつもりだったけど────」
訊ねると、果南はそこまで言って一度言葉を止めた。それからじーっと俺の顔を見てくる。
「信吾くんは散歩してたんだよね?」
「そうだよ。それがどうかした?」
俺が答えると、果南はハーフパンツのポケットの中からスマホを取り出して時間を確認していた。今は昼過ぎ。恐らく二時前くらいだろう。
「あの、信吾くん。少し時間あるかな」
「もちろん。俺は夏休みの大学生。時間しかないよ」
暇をしてるのが仕事みたいなもんだ。舐めてもらわれちゃ困るぜ。何考えてんだろう俺。
「じゃあさ、私も一緒に散歩してもいい?」
「果南も?」
「うん、これから暇だから。内浦を案内してあげるからさ、ダメ?」
ちょ、その上目遣いは反則。直視出来なくて露骨に目を反らしてしまった。この子にそう言われて俺が断れるわけないだろう。
「い、いいよ。でも、俺なんかと一緒でいいの?」
「信吾くんと一緒がいいの、私は」
「え…………それはどういう」
いちおう確認するために問うと、果南はめちゃくちゃ意味深な返事を返してくる。再びその言葉の意味を訊ねるが、彼女はよく分かっていなそうな顔で首を傾げながら何かを考えていた。
そして数秒の時が過ぎて行く。すると目に見えて果南の顔が赤くなってくる。ようやく自分が言った言葉の意味に気づいたんだろう。
「ち────ちがうちがうっ! そういう意味じゃなくてっ。あの、その、そ、そうっ! 誰かと一緒がいいっていう意味だよっ」
また顔を赤くした果南が必死に弁明してくる。今日は顔色がよく変わる日だな。昨日とは違う顔を見れて嬉しいんだけど、そこまで全力で否定しなくてもいいじゃん。
「…………うん、そうだよな。俺と一緒に散歩したいとか思う訳ないよな」
「も、もう。そんなに落ち込まないでよ。……ごめんってば」
項垂れながらいじけた感じを出していると果南は下唇を噛みながら、うーっと犬のような唸り声を出してこちらを見つめてくる。この子は意外とからかい甲斐があるかもしれない。ちょっと面白い。
「はは、嘘だよ。全然気してませーんっ」
「…………あ。もうっ、信吾くんなんて知らないっ」
「ちょ、待ってよ果南」
「待たないっ」
「待ってくれないと果南ちゃんって呼ぶよ?」
「う。……か、勝手にして」
「果南ちゃーん。待ってよーぅっ♪」
「う~。気持ち悪いっ! やめてっ」
俺の中では渾身の出来だと思った千歌のモノマネは全力で拒絶されてしまった。くそぅ、もうちょっと練習しよう。今日から千歌を見て研究だな。今度は本人と間違われるくらいのクオリティで名前を読んでやろう。
そうして果南との散歩は始まったのであった。謝ったら許してくれました。もう一回ちゃん付けで呼んだら海に突き落とされそうになったけど。
次話/果南めぐり