禪院直毘人
直毘人は弟の扇共々、禪院の教育訓練法の限界を思い知っていた。
有り余る呪力を常に循環させ、体術も何も広域攻撃可能な術式に即死効果もあるので近づかせもしない。呪力の使用を禁止しようにも、呪力を巡らせるのが正常な生態に見える。言葉を選ばなければ
つまり今までの
繰り返すもこれが男だったならと思うとあまりに惜しい。それならばとうに次代に指名していたというのに。性転換の術式持ちを探すのもありかもしれない。子作りを強制するなという縛りは結んだが、男に変えるなとは言われていない。
「直哉には悪いが、同い年にあれがいるのでは当主候補止まりだな」
せめて十種影法術であれば対抗馬になったが、いかんせん
「誰も下手な真似をしなければ良いのだが……」
彌烙が死ねば、孁黎は爆発するだろう。下手人と黒幕で済めば御の字、禪院を鏖殺し京都を死の荒野にするまで止まらない可能性さえある。だが暗殺に動く者が皆無などと、禪院の骨肉の争いを半世紀見てきた直毘人には到底思えなかった。
禪院甚爾
石読の家から貰われてきた姉弟、特に姉の孁黎は、有り体に言って頭がおかしかった。よく分からない名前で弟を呼ぶし、呪力のない自分と一級呪術師とを同等に扱う。等しくどうでもいいものとして、だが。まあ理由は分からなくもない。あの女は呪力の塊が辛うじて肉に引っ付いているだけの怪物だと言う方がしっくりくる。あれに比べれば特級未満は等しく
生白い細腕に込めた呪力だけで甚爾に蹈鞴を踏ませる(反撃で吹き飛ばしてやった)時点で、尋常の生き物ではない。まああまりに体の使い方のセンスがないので体術のたの字もないが。なんならそういう天与呪縛かと疑われているくらいだが。
「甚爾氏、居る?」
だが一等頭がおかしかったのは、弟の彌烙が毒殺された時のことだ。呪力に頼らない毒は判別が付かなかったらしく、おまけに呪力由来でないためにか反転術式によって容態は悪化した。半年前甚爾は彌烙暗殺の一報を聞いて、禪院も終わりだなと思った。たぶん当主の直毘人もそう思っただろうし、同い年の所為で怪物と比較されまくっている従兄弟の直哉も同意見だった。
「いない」
「いるじゃん。今日は真面目な話だよ」
「いつも真面目じゃねえ自覚があんならほっとけ」
あの頃の怪物は、予想に反して静かだった。静かなまま当主候補の端の端に引っ掛かっていた人物(おそらく濡れ衣)と食事を作り運んだ女中三人を部屋に呼び出して、それで。部屋からは一人だけが出てきた。呪霊はいないが微かに気配のする場所に向かってにこにこと話しかける黒髪の娘だけが。それから、娘は次期当主候補の一人に指定された。誰も、何も言わなかった。部屋まで女中らを連れて行った炳の隊員は
「甚爾氏、僕のボディガードやる気ない?」
孁黎が、「氏」の敬称を付けて呼ぶ相手は多くない。甚爾の知る限りでは他に当主直毘人と戦術指南役の扇、炳の筆頭、学術の講師の一部、次期当主最大候補の直哉、加茂の当主と周辺数名、くらいだ。甚爾の兄甚壱は基本呼び捨て、人前でも精々「甚壱さん」だった。いい気味だ。
「あ?」
「
甚爾からすれば、信じるも何も気配がするのだから呪霊と同程度には実在するだろうと言いたい。ボディガードねえ。ほぼサンドバッグ扱いの今よりはましだろうが、この体捌きポンコツ娘の護衛とか、絶対に面倒なやつだろ。
「俺にメリットがねえ」
「……お、美味しいご飯とか」
その出来のいい頭で一分も黙って出てくるのがそれか。だがまあズレてる自覚があるだけまし、なのか?出奔するにしてもこいつの居ないタイミングを見計らわないと不可能だし、それならまあ。
「それしか浮かばねえのかよ。まあいい。飽きたら出てく」
「飽きないで……」
「さてな」
ぴるぴる震えるな。上目遣いでこっちを窺うな。鬼神のように強いのが分かりきってる怪物にやられても何も可愛くねえ。
禪院扇
双子の娘の一方が天与呪縛だと判明した頃、義姪が世迷言を吐いた。
「真希ちゃん、だっけ。天与呪縛が解けるなら、扇氏は解きたい?」
天与呪縛は解きようがないから天与と呼ばれている。過去の六眼に言わせれば単なる体質ではないらしいが、解除に成功したという例は聞かない。呪術的にも、物理的にも。天与呪縛で盲目の者に眼球を移植しても何の役にも立たないことも、失われた部分を反転術式で治すことも叶わないのは確認されている。だが、孁黎の側近は同質の天与呪縛だ。何か心当たりがある可能性は否定できない。
「無論だ」
「大した呪力はないかもしれなくても?」
なるほど。同じ歳の甚爾ほど身体能力はないと思ったが、失われた元の呪力に差がある可能性もある。あるいは真希は術式自体は奪われていないか。
「それでも天与呪縛よりは幾分かましだ」
天与呪縛とは言え非術師同然では嫁の貰い手も数段落ちる。分家とはいえ加茂の娘が甚爾の元に来たのは、お互いに近い立場だったからだ。普通は御三家当主候補の側近に非術師が嫁ぐことは罷りならぬし、逆も同じだ。精々が一般出の術師の妻、そうでなければ家中に留め置いて誰ぞの妾か女中にするくらいしか今のままでは道がない。せめて真依の六割でも呪力があれば努力次第である程度は相手を選ぶことも、見合いでなく呪術高専で婿を探させることも可能になる。
「そっか。多分できるけど、やったことないから被験者が欲しいなって思ってて、えっと」
わたわたと手を動かす娘は、やはりとことん体術に適性がない。いっそ笑えてくる。術式と呪力に依っては体術など必要ない、と言えてしまうのが空恐ろしい。実際は呪力を使ってはならない相手は甚爾に任されているわけだが。
「……同席しても」
真希に何かされるとは思っていない(この娘と真希では必要もない)。純粋に何をするつもりなのか気になった。孁黎の術式には前例がない。呪霊操術の亜種と言う者も操炎呪法の一種だと言う者も居るが、全くの別物だと扇と直毘人は睨んでいる。
「領域展開する、けど」
おずおずとそう言われる、開示を躊躇っている、というわけでもなさそうだ。強いて言うなら「本当にそれで大丈夫なのか」と言いたそうな気配。
「害する気があるなら今すぐにでもできるだろう」
「なる、ほ……ど……?」
何を問題視しているのだろう。近接戦の苦手な身で扇に此処まで近づいているのが、戦う気はないという意思表示に近い。まして対抗馬だった甚壱が分家の当主に就任した今、直毘人が死んだとして、向こう十年は一旦でも当主のできる者は扇しか居ない。継承争いが激化すれば、真っ先に狙われるのは問題が年齢と女であることだけの孁黎だ。その状況が変わる前に扇を殺すほど、この娘は愚かではない。
真希を呼びつけ、人払いをした空室へ移動する。扇が帳を下ろすと、すぐに印が組まれる。青炎が地を這って領域を区切る絵図を描いた。
「領域展開──
禪院彌烙/オルト・シュラウド
頭上の宙に
「彌烙……か?」
禪院扇が、数年ぶりの推定義甥の姿に目を瞬かせる。年格好は彌烙の享年よりも上だが、着物は呪術師家系特有の、もっと言えば禪院のものだ。顔立ちにも面影がある(厳密には「禪院彌烙」の面立ちがオルトの魂に引き摺られたと言う方が正しい)。
「お久しぶりです。禪院扇さま」
オルトは禪院彌烙の口調で答えた。オルトとしての自意識が薄かったとはいえ、禪院彌烙という少年も確かに自分のことだ。
「れいりさま、おうぎさま、このひとはどなたですか?」
下方からの声に、
「初めまして、禪院真希さん。僕は
真希の視線まで身を屈めてそう言うと、真希は跳び上がって驚いた。なにせ天与呪縛の女児に、そんなに丁寧に接する男の子など禪院には一人も居なかったからだ。
「オルト」
目に見えて輝いた真希の顔に、面白く無さそうな表情で領域の主が割り込んだ。
「なあに、姉さん」
「いいでしょ、構わなくて。さっさと用済ませたいんだけど」
「うん、わかった。そうしたら禪院真希さんは……座ってもらえるかな。正座で……うん、そう」
場所はどこだって変わりない。今はイデアとオルトの他には誰も住まない地下の安息所は、本来遍く死者に平等にもたらされる救いの地である。
「扇氏は念の為もう一歩下がってて」
危険があるわけではないはずだけれど、
禪院扇が一歩後退し、
「いい?……じゃあ、始めるよ」
冥王ハデスの権能のうちには呪いがあり、新月の女王ヘカテーは魔女の守護者であった。冥神にして女呪術師である
冥府の青炎は真希の魂を焼くことなく、肉の器に染み付いた呪いを見出して可視化する。
「これが
炎が一層燃え上がる。生あるものには死を与え、死せるものに対しては魂の傷を癒やす青い呪いが、禪院真希へ与えられた縛りを焼き切っていく。
纏いつく炎が弱まるにつれ、真希の体から力が抜ける。相手次第では大の大人にも勝てる怪力から、幼い女児相応のところまで。その代わりのように、辺り一帯を満たす気配が強くなるのを真希は感じていた。これを、きっと呪力と呼ぶのだろう。茫漠とした青が、炎の形に収束する。孁黎の金眼を真希は初めて目に映した。禪院の黒ではない、金と青。
冥府の炎は
禪院真希の術式は、それから一週間後に判明した。対象の対物・抗呪耐性を大幅に上げるその術式──抗捩呪法──は、禪院本家の相伝でこそないが男であったなら分家当主程度は務まる強力な術式であった。