溢れ返った赤の奔流。
あまりに唐突過ぎる現象に慶次は、
「……は?」
と、茫然と声を上げるしかなかった。
不可思議な紋章が地を走り、噴き上がった炎が物を、人を呑み込むように周囲に立ちふさがっている。そして、それはある地点を境にピタリと止まっていた。まるで、そこが世界の狭間とでも言うように。
幻想としか受け取れない光景に、慶次は動くことができない。
が、その現実逃避も現れた“奴”に粉々に砕かれる。
「なっ!?」
四足歩行の生物、所謂犬が石垣を打ち破り、先まで慶次がいた庭の中央を踏み砕く。
慶次は驚愕の表情でこれを眺める。正確には、眺めるしか出来なかった。
そいつは全長で言えば人間ほどある……犬の型に合わせるなら大型犬に分類されるだろうか? とにかく、そいつは大きく、特徴的な白毛は口や目を覆うほど伸びきっている。『コモンドール』という体毛の長い犬種は存在するが、それにしては身体が細すぎる。加えて、毛は針を連想させるほど直毛だった。
ここまでなら『慶次の知らない犬種』で、別に驚きもしなかっただろう。
問題はその頭頂部だ。
犬は基本的に口で呼吸をする。この犬は、それに則って(?)巨大な口で呼吸をしていた……ただし、一つではなく、二つ。頭頂部とその腹部に、鋭い牙を浮かべて。
「オオオオオオォォォォォッ!!」
「ブオゥォォオォォォォッ!!」
「っ!?」
化け物の瞳に慶次の姿が映る。ただし、頭に付けられた双眼ではなく、全身から逆立った体毛の下、本来なら皮膚が見える部分。そこには幾十、幾百もの血走った“眼球”が慶次を捉えていた。“それ”の機能は本当に“見るだけ”なのだろうか、守るためのまつ毛や瞼はない。
日常では決してあるはずのない、明らかな“異常”。
あまりにもありえない現象が、慶次の心を強く揺さぶる。
(い、一体何が――っ)
化け物の持つ幾百の眼球。その全てが慶次を捉える。
そこには明確な殺意が燃えている。
心臓の鼓動が飛び上がる。
――殺される。
それは混乱する慶次が、唯一確信を持って告げられる事実であった。
(なんで――っ)
それはあまりに理不尽な事実であった。
しかし、世界とは身勝手で、どんなに慶次が矮小な存在であっても容赦しない。それは“六年前の事件”で慶次が学べた少ない事柄だ。目の前に決して甘受できない現実があるなら、立ち向かい打ち破るしかない。
慶次は恐怖を、身勝手な世界に苛立つ怒りに変え、二の足で地面を踏みしめる。
「くそっ!!」
慶次は悪態を吐くと、バットを構え相手の直線状から外れるように、化け物を中心に円状に歩を進める。四足動物である以上、左右の動きは制限される。ならば、前後の動きに横移動で対応すれば隙が出来、おのずと勝機は見えてくる。
大きく息を吐き出し、右へ一歩。
慎重に歩を進める慶次の眼に、化け物の後ろ脚が土を掴む。化け物が跳躍の準備に入っる。慶次はいつでも横に避けられるよう、足に力を込める。
後は奴の飛び込んできたタイミングに合わせて、避けて殴りかかるだけ。
決して慌てず騒がず、慶次は冷静に場を見極めていた――はずだった。
「――――ぇ」
奴の踏み切り音とともに避けようとしたとき、慶次の眼前に奴がいた。
振り下ろされた爪を、ギリギリのところで避けると――彼は宙を舞っていた。
なぜ、と思う暇もなく背中から地面に叩きつけられる。
衝撃で肺から空気が無理やり押し出され、激痛が頭からつま先まで襲いかかってくる。
(一体何が起き――っ!?)
自分はさっきまで化け物の前に立っていた。もちろん、ただ突っ立っていただけではなく、何が起きても反応できるようにしていた。さらに、奴の動きも計算した上で動いて――次の瞬間に奴は目の前にいて。爪が振り下ろされたときには、自分は地に足がついていなかった。
何が起きたのか分からない。
思考が混乱する。
(馬鹿、な――っ!?)
起きた事象に理解が全く追いつかなかった。何が起きているのか全く分からなかった。しかし考えを纏めるどころか、全身を苛む痛みがまともに息を吸うことさえも阻害する。
それでも、視線だけは周囲を巡らし状況の把握に努めると、化け物の足元にクレーターが出来ている。
もし先の一振りでクレーターを作ったとしたら、慶次が衝撃のみで吹き飛ばされたことになる。
「嘘、だろ……」
「オオオオオオォォォォォッ」
再び咆哮が轟き、跳躍の態勢に入る。
現状を否定している暇はない。
「ぐ……ぉお……っ!」
しぶとく掴み続けていたバットを盾にしながら、その場を跳び退る。しかし、煌めく閃光が一陣はバットをすり抜け、脇腹に数筋の爪跡が走る。
「が……っ!!」
慶次は咄嗟に脇腹を左手で、噴き出す血を押さえつける。手に爪跡に沿って、皮も肉も骨も抉りとられた感触が伝わる。
口の中が血の味で溢れ返す。
ヤバい。
殺される。
本能が必死に警鐘を鳴らし、転がるようにその場を離れようとするが、足が絡まり上手く走れない。
意識が遠のく。
必死に意識を繋ぎとめようとするが、揺れる視界は安定しせず、足取りはさらにふらつき、ついには倒れる。
(ちょ……冗談、だろっ!!)
うつ伏せに倒れた慶次の前方から、砂を踏み躙る音を聞こえる。
力を振り絞り霞んだ視界を前に向けると、正面に化け物が立っていた。
幾千の眼球が慶次に焦点を合わせる。
暗闇にあっても怪しく爪牙が輝き、跳躍の態勢に入った。
化け物が地面を蹴り上げ、一瞬で幾百の眼球と双口が慶次の眼前まで迫る。しかし、慶次に抵抗する力は残っていない。
(なん……でだよ……)
名家に生まれ、己の才能の無さに絶望した幼少期。
家族を喪い、遺族に財産を食い散らかされた思春期。
そのいずれを乗り越え、ようやく平穏が訪れたというのに。
(俺は……ここで、死ぬ……)
化け物の鋭い爪牙が慶次に振り下ろされる。それは慶次の急所を捉え、五臓六腑を斬り裂き命を狩る。明確な死が慶次の脳裏に浮かんだ。
次に気付いたときはあの世か、はたまた衝撃による激痛か。どちらにせよ、慶次にはもう、打つ手はなかった。
(悪い、みんな……ちょっと早いけど、みんなのところに、逝くわ)
覚悟を決め、強く目を閉じる。
「……………………」
しかし、いつまで経っても衝撃はこなかった。
痛覚を感じる暇もないのか、とも思ったが手足の繋がった感覚はしっかり残っている。
息も吸える。
肺に冷たい空気が入ってくる。
僅かだが指も動くし、自分が地面に突っ伏しているのも分かる。
生きていることへの疑問も、ここまで来ると生存の確信へと変わり、再び別の疑問が湧き上がる。
(何、で……?)
閉じた視界を無理やりこじ開け、霞む世界で慶次は見つけた。
それは気味の悪い双口の化け物ではなく、小さな背中。
紅蓮の火の粉を舞い落しながら、腰まで伸びた艶やかな髪を流していた。
(……って、そんなことより――!)
少女? の先にはあの化け物がいた。
彼女が立っているのは慶次と化け物の間……つまり、最も危険な場所にいるのだ。手に武器(身の丈ほどもある刀?)が握られているが、一振りできるかさえ怪しい。無論、身を守れるとは到底思えない。
そこまで思い慶次は危機感をそのまま口にする。
「あぶな――」
ザッ、と慶次の言葉を遮るように土煙が舞う。
しかし、それは化け物の発した音ではなく、眼前の少女が起こしたもの。信じられないことに、少女から化け物に飛びかかっていたのだ。しかも、奴より疾く。
疾走する少女は瞬く内に大太刀の間合いに詰め、逆袈裟に一閃。跡には薄桜色の火の粉が舞い散るだけ。
「すごい……」
髪と瞳を紅蓮に滾らせた少女。
それは可憐に舞い落ちる花弁のように現れ。
戦場にも関わらず、少女の一歩は舞踏のようでもあり、戦慄を奏でているようで。同じ場所にいるはずなのに、自分とは別世界に立っているのではないかと思う。
そんな現実離れした感覚以上に。
――美しい。
幼く整った顔立ちは、しかし意思の込められた紅蓮の瞳が、決してあどけなさを感じさせない。
か細い指に絡め取られた、身の丈を遥かに超す大太刀を軽く振る。
見た目だけではない。存在自体が圧倒的だった。
「――――」
灼熱を灯した艶やかな髪をたなびかせ、少女は振り向きざまにどこか幼さを残す声で呟くが、聞こえない。
疑問を呈する暇もなく視界に再び霞がかる。
瞬間、力強さに儚さが加わり、世界が一つの景色になった。
思わずそれらを掴み取りたくなり掌を伸ばすが、赤い絵の具が世界を穢す。
「――! ―――っ!!」
急速に力を失っていく身体に、慶次はそのまま意識を失った。
○
ゆっくりと目を開けた先には、白の壁紙とシャンデリアが広がっていた。慶次の生活空間、リビングの天井だ。
その意外な景色に、慶次は少なからず動揺した。
陽炎のドーム。
百目の二口、四足の化け物。
その攻防、奴からすれば戯れに過ぎない一撃は、確かに彼の身体を引き裂いた。重傷を負ったはずだった。ならば、慶次が次に目覚めるのは病院か、それに準ずる場所でなければならない。
少なくとも、自宅というのはありえない。
(一体何が――っ!!)
背中を柔らかに押し返すソファーから半身を起そうとすると、激痛が腹部に走る。化け物に抉り刈られた部分がズキズキと痛んだ。
どうにか起き上がると毛布がずり落ちる。身体を見下ろすと、上半身に包帯が巻かれていた。
おかしい。
気を失った時、失血死してもおかしくないほど大量に出血していた。この程度の治療で済むはずはない。
何か腑に落ちないものを感じていると、
「やっと起きたわね」
「っ――!?」
やや不機嫌そうな声が掛けられる。
振り向いた先には、“異常”を完全に証明する少女がいた。
看病しやすいように椅子をソファーの隣に寄せ、慶次の顔を覗きこめるように座っている。
なぜか瞳と髪は燃え滾る紅蓮ではなく、冷えきった黒色を宿している。さすがに眠いのか、鋭い眼差しは潜めていた。
「えっと……とりあえず、さっきはありがとう。助かった。で、早速で悪いんだが、これってどういう状況?」
「お前は“紅世の徒”の下僕、“燐子”に襲われたのよ」
「リン……って、何だ?」
少女にとっては常識なのか、さらりと訳の分からない単語を大量に用いられ、慶次は思わず疑問を呈す。
それを聞いた少女は、殊更落胆を示すようにため息を吐くと、視線を胸元のペンダントに落とした。
「はあ……こんなのに聞かなきゃいけないの、アラストール?」
少女は慶次の謝辞と疑問を軽く無視すると、ため息を一つ吐き、視線を胸元のペンダントに落とす。
こっちがため息を吐きたいよ、と思いながら慶次もつられてペンダントを見る。
「“燐子”が喰らった跡がない以上、“燐子”に襲われたこやつから情報を訊き出すしかあるまい」
「………………」
胸元のペンダントが遠雷のように低く轟く男の声で、同様の難解語を喋った。
通信機にしては小型過ぎる、声が通り過ぎるなど不審な点が数多あるが、これは何かの通信機だ……と慶次は自分を思い込ませる。内容はおいおい理解しよう、と自身の未理解は脇道に投げ飛ばす。
静かに混乱する慶次に対して、少女は仕方ないといった風に答える。
「紅世っていう“この世の歩いていけない隣”。その住人の事を“紅世の徒”。そして、その“徒”が作った下僕を“燐子”って呼んでいるのよ」
「……はい?」
さらに話が飛んだ。
歩いて行けない隣? と頭に疑問符を浮かべる慶次を、少女は露骨に面倒くさそうな表情をする。彼女にとって、これは“常識”と呼ぶべき知識なのかもしれない。ここで慶次が“非常識”だと(彼にとって)一般的な感覚で反論しても、話しが進まなくなるだけだろう。
とはいえこのまま流れに任せ、話を聞くべきなのか判断できない。
慶次は寒さで身震いをする。部屋はなぜか、暖房の類が使われておらず、カンカンに冷え切っていた。
「ストーブ点けていいか?」
纏まらない思考を誤魔化すように、慶次は少女に尋ねる。
少女は何か言おうと口を開くが、吐息が白い事に気付き言葉を呑み込み、
「……いいけど」
「そっか。んじゃ、点けるぞ」
「ちょっと待って」
何気なしに立ち上がろうとする慶次に、少女は制止の声を上げる。
「……何?」
奇妙な姿勢で固まった慶次は、首だけを少女に向けて訊く。
「その“宝具”を放さないで」
「“ホウグ”とは何なのか、具体的に教えてくれたら非常に助かるんだけど?」
「はあ……お前の右手にあるバットのこと。手放すと傷口が開くわよ」
「開っ――!?」
ギョッとして右手を見ると、確かに少女の言うとおり慶次の金属バットがある。しかし、バットと傷口と関係あるとは、慶次には到底思えない。が、少女の表情は真剣そのものである。
(―――――もう訳分からん)
慶次は半ばやけくそにバットを強く握りしめ、ストーブを点ける。上半身包帯(よく見たら下手)に巻かれた男が金属バットを片手にストーブを操作する……何ともシュールな光景である。
作業をしながら、慶次は今までの出来事を反芻する。
陽炎の壁。
謎の四足動物。
そして、それを退治した紅蓮の少女(今は黒)と、なぞの通信機。
(どうすりゃいいんだろうね)
おそらく、化け物……少女風に言えば“燐子”について情報収集を行うことが彼女の目的であろう。あんな物騒な奴に対処してくれるなら、慶次は喜んで協力するつもりだ。
だが、少女は普通ではない。化け物を一撃で屠る身体能力に加え、瀕死の状態であった(今はなぜか動けるまで回復しているが)慶次を自宅に留めた。病院へ運ぶ、という至極真っ当な選択を少女はしていない。慶次の常識とかけ離れた彼女も危険と判断せざるを得ない。
そんな少女の口から語られる内容が“まとも”なはずがない。さっきは興味本位で質問をしたが、これ以上踏み込むべきなのだろうか。引き返すとしたら今しかないだろう。
(でも、逃げたところで状況が好転するとは思えないんだよな)
悩んだ末、少女の言葉の真偽は置いといて、情報を求めることにする。聞かなかったからといって、再び不幸が舞い降りてこないとは限らないのだ。むしろ、先とは比べ物にならない理不尽が襲いかかってきた場合、少女の情報は不可欠となる。腹をくくるしかない。
ストーブでは青い炎が力強く静かに燃え上がる。
「時間取らせた。続き、話してくれないか?」
「……分かった」
ソファーに座り直し、少女と膝を突き合わすよ。彼の明らかな変化に面食らったのか、少女の返答が僅かに遅れた。