序「私も月森町を守りたい」
はぁ……はぁ……はぁ……。
少女が息を切らしながら、夜の街を駆けている。
長い黒髪をたなびかせながら走る彼女の姿を、照らすものはない。
室外機とダクトがむきだしになった建物に挟まれた、暗い裏路地。
街灯はなく、月の明かりも建物に阻まれて届かない。
ただ、彼女の履くローファーの音だけが、コツコツと静寂の夜に鳴り響いている。
このロングヘアの少女を追う足音は、聞こえない。
それでも、彼女は背後を気にしながらも、走り抜けていく。
はぁ……はぁ……はぁ……。
ほとんどの人には彼女を追うモノを見ることはできないだろう。
ただ、オルタナと呼ばれる少女のみ、その姿を捉えることができるのだ。
夜の獣、ナイトビースト。
黒い霧から出現する正体不明の存在。
少女たちを狙い、少女たちを黒い霧に引きずりこむ、恐るべきモノ。
このロングヘアの少女はオルタナ候補生だが、覚醒者ではない。
彼女のような候補生は、夜獣を察知できるが、倒すことはできないのだ。
だから、彼女は逃げることしかできない。
彼女は走りながら、本を片手に持っている。
まるで禁断の魔術書のように、それを大事そうに小脇に抱えたまま、彼女は駆ける。
はぁ……はぁ……はぁ……。
彼女は前方を見る。路地が開けている。
その先にたどり着いても、街の明かりはほとんどない。
この町は、夜獣の出現によって、ゴーストタウンと化してしまったからだ。
街灯がその役割を果たさなくなっても、文句を言う住民はいなくなった。
それでも、今夜は満月だ。
明かりを失った町が、もっとも輝く夜。
彼女はその光を目指し、駆けていく。
背後から追ってくる夜獣の気配を感じながら。
もうすぐだ。あそこまで行けば。
追われる身でありながら、非力な候補生の身でありながら、彼女の足取りがゆらぐことはない。
しかし夜獣は、候補生にすぎない彼女とは比較にならないほどの速度をもって、距離をつめていく。
グオオオオオ!
獲物を捕らえようとする寸前、夜獣は咆哮する。
そして、刃のように尖った爪で彼女を切り裂くべく、重心を傾けた。
そのときだ。
「させないよ!」
空からの声。
夜獣が気づき、頭を上げたその先には、新たな少女の影があった。
まるで、天使のように、あるいは悪魔のように、その人影が夜獣に向かって降ってくる。
その両手ににぎられているのはソード。
月明かりに照らされて、剣は光り輝く。
黒と白のコスチュームをしたその少女の顔を、夜獣は見ることができただろうか。
思わぬ方向からの攻撃に、夜獣は身体を斜に傾けたまま、一瞬、動けない。
「スキあり!」
剣を持つ少女は、ためらうことなく、上段からその武器を振りおろした。
グァアアアアア!
夜獣の断末魔が、町にこだまする。
いや、その声ですら、オルタナ能力を持つ少女たちでなければ聞こえないだろう。
一刀両断にされた夜獣は、血を流すことなく、黒い霧に戻っていく。
それを見届けたあと、剣を持つ少女は、逃げていた少女を振り返って見る。
ロングヘアの少女は息を切らしながらも、本を大事に抱えたままだった。
「……まったくもう、若菜ちゃんは」
夜獣を倒したばかりのオルタナ少女は、逃げていた候補生の少女に声をかける。
いつの間にか、その両手に持っていたはずの剣は消え失せている。
それでも、彼女の頭部には、人としてあるまじきものが生えたままだった。
獣の耳。
それこそが、彼女がオルタナ覚醒者である証だった。
「ごめん美弥花、また助けてもらったわね」
若菜と呼ばれたロングヘアの少女は、ゆっくりと身体を起こしながら言う。
「候補生なんだよ若菜ちゃんは。夜の町を歩いちゃダメじゃん」
美弥花と呼ばれたボブショートの髪型の少女は、若菜を叱りながらもその口調は優しかった。
「でも、空から来るとはね。美弥花は飛べるようになったの?」
「いくらオルタナでも飛べないから! あの建物の上から降りただけだよ」
裏路地の出口の廃ビルを指差す美弥花に、若菜はなるほどとうなずく。
「そういう作戦だったのね」と若菜。
「そういう作戦だったんだよ」と美弥花。
「……私が電話で夜獣のことを教えてから、美弥花はずっとそこにいたの?」
「まさか。急いで駆けつけたよ。もし、私がこのあたりじゃなくて、遠くで夜回りしてたら、若菜ちゃん、危なかったんだからね」
「でも、今夜は満月だから、夜獣も出ないかと思って……」
「そんなことないよ! ったく、若菜ちゃんは優等生なのに、どうして夜歩きなんてするかなあ」
「これが家にあったのを思い出してね」
若菜が美弥花に差し出した本の表紙には、こう書かれていた。
『今夜のおかず大全集』
「……こ、こんなもののために、若菜ちゃんは身を危険にさらしたってわけ?」
「こんなものってなによ? 前に美弥花が喜んで食べた『ほっけハンバーグ』だって、この本で知ったんだから」
「そうなの? あれ、おいしかったね! ほっけ♪ ほっけ♪ ほっけっけー♪」
ほっけと聞いて、いきなり踊り始める美弥花。
そこには、夜獣を一刀両断したオルタナ覚醒者の恐ろしさはどこにもない。
年相応の無邪気な少女。
頭部に生えた耳に気づかない者には、この少女が恐るべき能力があるとは思えないはずだ。
「美弥花、明日だよね? 新しいキャプテンが来るのは」
「まさか、若菜ちゃんは、キャプテンをもてなすためにこの本を?」
「……候補生の私にできることは、これぐらいだし」
「そんなことないよ。キャプテンって人が来たら、きっと若菜ちゃんだって覚醒できるから!」
美弥花は若菜の肩に手をかけながら言う。
「若菜ちゃんは、小さいときから私をずっと守ってくれたし」
「昔の美弥花は、泣き虫だったからね」
「うん。月森神社に肝試しに行ったときも、若菜ちゃんがいなかったら、私、きっと怖くて死んじゃっていたよ」
「そんなことあったっけ?」
若菜は首をかしげる。
幼なじみである美弥花との思い出は多すぎて、すぐに記憶の箱から引きだすことができなかった。
「私にとって、若菜ちゃんは命の恩人なんだよ。そして、今、オルタナとして戦えるようになったのも、きっと、若菜ちゃんのおかげ」
「そんなことないって。美弥花に才能があって、私には無いだけのことよ」
「ううん、若菜ちゃんなら、絶対に覚醒できるよ」
「……そうね。私だって美弥花と同じように覚醒したい」
「そうしたら、若菜ちゃんと一緒に夜回りできるね?」
「うん、私も月森町を守りたい」
若菜は力強く、そう宣言する。
月森町は、夜鬼の出現により、住民を失いゴーストタウンと化した。
大人たちは頼りにならない。大人たちには夜獣は見えないからだ。
ただ、キャプテンと呼ばれる者を除いて。
「ねえ若菜ちゃん、オルタナを指揮するキャプテンって、どんな人だと思う?」
「……厳しい人、だと思う」
「そんなことないよ、優しいひとだよ、きっと」
「厳しい人よ。美弥花も怒られるかもね」
「うぅ、私、リーダーになったからなあ」
「そうよ、美弥花はリーダーなんだから、もっとしっかりしないと」
オルタナは6人でチームを結成している。
美弥花はそのチームのリーダーなのだ。
「若菜ちゃん、私はもう昔の泣き虫じゃないよ。今日だって、ちゃんと夜回りしてたじゃん」
「うん、おかげで、私も助かったし。ありがとう美弥花」
「どういたしまして若菜ちゃん。えへへ」
ぴょこんとお辞儀をして、美弥花は若菜の手をにぎる。
「私がリーダーになったのは、若菜ちゃんのこともあるんだよ」
「……もしかして、私がいないと寝坊するから?」
「そ、それもあるけど、それより大事なこと! 私、キャプテンに若菜ちゃんのこと、お願いしたいんだ」
「お願いってなにを?」
「きっと、キャプテンって人なら、若菜ちゃんを覚醒させる方法を見つけられると思うんだよ」
「……でも、学園には多くの候補生がいるし、私だけを見てくれるわけじゃ」
「チッチッチー。若菜ちゃんはリーダーであるこの私の幼なじみで親友だからね!」
「そんな特別あつかいしてくれるかな?」
「リーダーとしてがんばったら、キャプテンは私のわがままを聞いてくれると思うんだ。そのとき、私、若菜ちゃんのことお願いするつもり」
「美弥花、ありがとう!」
「わわわ、いきなり、抱きつかないでよ若菜ちゃん」
「……あなたがこの町に帰ってきてくれて、本当によかった」
「そうだよね。私が前に引っ越してからも、若菜ちゃんは、ずっと、この月森町にいたからね」
「私はこの町を守りたいの。だから、覚醒して、みんなのために戦いたいの」
彼女たちは何も知らない。
夜獣がどういう存在なのか。
その夜獣を出現させる黒い霧の正体がなにか。
多くの少女が、その能力に目覚めたとき、恐れをいだいた。
少女であり続けたいために、ほとんどの少女が黒い霧から目をそらし、その使命から逃れようとした。
しかし、オルタナとしての運命を受け入れ、夜の獣たちと戦おうとする者もいたのだ。
ある少女はみずからの宿命と向き合うために。
また、ある少女は自分の世界を守るために。
己の青春をかけて、少女たちは戦う。