作者 世嗣
オリジナル作品
額を滑る汗を袖で拭うと坂道を登る足を止めて一息。
「あっついなぁ……」
季節は夏。
油蝉は僅かばかりの命を儚く燃やし、その熱意に答えるかのように太陽は光を照らす。
茹だるような暑さの中で、ただ青空だけは我関せずとばかりにいつもと変わらずそこにある。
本当は季節ごとに違うのかもしれないが、少なくとも彼にとってはいつも空の青さだけは変わらなかった。
背負ったリュックからペットボトルを取り出すと途中の自販機で買った水を一口含む。
こぽり、と空気と水が混ざり合う音がボトルの中から聞こえて、生ぬるい液体が口を満たす。
ズボンのポケットからスマホを取り出すと、地図アプリを起動、目的地を確認。
もう随分歩いた気がしていたのに、まだまだ時間はかかりそうだった。
「まだもう少しあるな」
なら、一旦休憩したほうがいいかな。うん、そうだ、と言い訳がましく独り言。
周囲から車が来てないことを確認すると、白帯の内側、人が一人ほど入る隙間に体を押し込めてガードレールに背中を預ける。
背負ったリュックがガードレールに挟まれて悲鳴をあげる。ポケットに手を伸ばし、中でかさりと、紙が音を立てるのを聞きながら、なんとなく空に手を伸ばした。
「あの子なら、吸い込まれそうな青空、とでもいうんだろうか」
きっとそうだと思う。
あの子は、現実が見えてるのに、変なところでロマンチストだったから。
そんなことを考えて、ふっと自嘲げに鼻を鳴らした。
「こんな事を言うなんて……影響を受けてしまったのかな」
彼は伸ばしてた手をきゅっと握る。
「いっそ、吸い込んでくれても良いんだけど────なんて言ってみたりして」
握った拳を胸元で抱えて、静かに目を閉じた。
嗚呼そうだ、初めて出会った日も今日みたいに、とても暑い日のことだった。
彼は図書室という奴が好きではなかった。
「暇だなぁ」
誰もいない図書室のカウンターに座っていた彼は、ぐでっと机に身を預けた。ひんやりとした木の感触を頬に感じながら、しばらくすると新たな冷たさを求めて机の上で身動ぐ。
図書当番になったのは完全な偶然だった。何か委員会に入らなきゃいけなくて、けれど入りたかったものは軒並み取られてしまった。
ならばと消去法で委員会を選んだのだが、じゃんけんに負けに負けて、負け続けてあれよあれよと言う間に余り物の図書委員会に押し込まれてしまった。
これには流石になんらかの陰謀を感じたいところである。主に神様に割り振られた自分のじゃんけんの才能とか。
しばらくして机が彼の熱を吸い込んでしまうと、椅子に背を預けると天井を見上げて、すっかり日焼けしたクーラーへと目を向ける。
「クーラー、もうちょい冷えれば良いんだけどなぁ」
先ほど盗み見た時の設定温度は28度。けれど彼の学校のオンボロクーラーは冷気をほとんど吐き出す事なく低く唸ってるだけで大して部屋は冷たくならない。
ならば温度を下げれば良いのだろうが、カウンター横のリモコンは蓋をガチガチに固められてボタンを押せないと来た。
「…………やるか」
密かな決意を固めると彼は今まで座っていた椅子をクーラー下の長机の上にセット。周囲を伺いながらシューズを脱いで机に足をかけるとそのまま椅子に登って手を伸ばす。
「ええと、確か温度を調整するのは……」
リモコンを使えないなら本体を直接弄ってやろうという考え。あまりに高いところにあるため直接触る人は滅多にいないが、それでも調整の為のボタンが本体にあることを彼は知っていた。
「ここは電源だから、あ、これか?」
ふらふらぐらぐら。机の上で椅子が揺れる。
それでも彼は必死に天井へと手を伸ばして、手がボタンに手が届く。
「あの、すみません、本を……」
寸前に、鈴の音が聞こえた。
心に染み入るような、澄んでいて、綺麗なそんな声音。
彼が思わず背後を勢いよく振り返って、図書室の扉が開けられ、一人の少女が入ってくる様を見た。
「な、なにしてるんですかっ?!」
「あ、これはその」
胸に本を抱えた少女が瞠目して声をあげた。それにしどろもどろに言い訳を重ねようとした時、机の上に乗せていた椅子がぐらりと揺れた。
がしゃーん、とまるで一昔前のギャグのように大きく転んだ彼の元へ少女が慌てたように駆け寄った。
本を胸に抱いてスカートを巻き込むようにしゃがむと、亜麻色の髪が動きに追随してふわりと揺れた。
「大丈夫ですか!?」
「だ、だいじょうび」
あいたたた、と強かに打ち付けた背中を抑えた彼はニッと笑ってサムズアップ。
けれど彼女の不安そうな表情は晴れない。
「なにしようとしていたんですか」
「ええと、今日暑いじゃない? だから、クーラーの温度下げたら快適にならないかなぁと思いまして」
リモコンは使えないので直接弄ってた次第です、と言葉を続ける。
「あの、そんなことしたら職員室の先生方に怒られちゃうと思うんですけど……」
「え?」
「冷暖房ってお金がかかりますから。その分職員室の機械で一括管理してる事が多くて……確か、ここもそうですよ」
「マジ?」
「マジ、です」
おずおずと教えられた新情報。つまり彼女の情報によればそもそも彼の計画には無理があったらしい。
がくり、と肩を落として、ふと少女の胸に抱える文庫本のタイトルが目に入る。
「『植物図鑑』……?」
変なタイトルだ、と彼は眉を顰める。
すると少女はほんの少し瞠目して、彼の顔を覗き込んだ。
「ご存知ないんですか?」
「全く」
「か、仮にも図書委員の方、ですよね。この時間にいらっしゃるってことは」
「僕全然本とか読まんしなぁ」
「ならなんで図書委員なんかに……」
「これだ」
びしっと彼が開いた五本の指を少女の顔の前に突き出した。
少女は本を抱いたまましばらくの間戸惑ったように掌を見つめていたが、やがてそっと彼の手にひとまわり小さな手を重ねた。
柔らかい感触だった。彼の節くれだった硬い手のひらとは全然違う、『女の子』の掌。
「これは?」
「ハイタッチを求められているのかと思って……」
「これは僕の鍛え抜かれたパーがクラスメイトの軟弱なチョキに負け、図書委員になったということを示してるんだ」
「あ、それはとんだご無礼を……」
「いや良いさ。なんならもう一回ハイタッチしとくか。いえーい!」
「い、いえーい、です」
一度離れて行った手が控えめに合わせられて、小さな音が空気を揺らした。
「これは、あれだね」
「は、はい」
「結構恥ずかしいな」
「じ、自分から求めておいて?!」
「いや、なにせ僕も女子との関わり合いは無きに等しくてさ」
彼がぽりぽりと頬をかくと、少女は暫し呆気にとられたようだったが、やがて口元を抑えてくすくすと笑い始めた。
「おかしな人ですね、あなたは」
彼女が目を細めて肩を震わせる。どこまでも楽しそうに。
それは、これから何度も見ることになる、そんな笑みだった。
頬の輪郭をなぞって額からの汗が滑り落ちていく。
落ちた水滴は熱を吸い込んだアスファルトに跡を残して弾けた。けれど、この暑さからしてそれもしばらくの事で十分もすればすっかり蒸発して周りの道路と変わらなくなるだろう。
「まったく、なんでこんなとこに来てるのかな、僕は」
ぎゅっぎゅっと足に馴染ませたスニーカーが路面を踏んだ。靴の中は汗と熱気がこもってじっとりと気持ち悪いが脱ぐわけにもいかずそのまま足を進める。
「僕はそもそも暑いのなんか好きじゃないんだよ」
ぶちぶち文句を言いながら、それでも足は止まらない。
「夏なんか好きじゃない。僕の名前だってそれを示してて……」
口にして、足が止まる。
名前、夏に合わない彼の名前。
なんでそんな事を知っているのだろうと、思い返す。
「あの子が、教えてくれたんだ」
僕の名前と、意味を。
少女は『
まるで積もったばかりの白雪のような肌は病的なまでに白く、腰あたりまで伸ばされた色素が薄めの髪は枝垂れた桜の様に柔らかで。彼女は非常に聡明で緑を茂らせる葉桜の様に爽やかであったものの、どこか秋の白露の様に寂しげだった。
杏は彼が図書当番の時は大抵図書室にやってきた。
ある日、暇に明かして理由を尋ねてみると、彼女は「別に今日だけではありませんよ」といった。
杏は彼より一つ下の学年なのだが、なんと歳は彼と同じらしかった。
「私、生まれつき体が弱くて、小学生の頃一年留年しちゃったんです」
原級留置、って言うんだそうです。そう杏は教えてくれた。
そのせいで部活には参加できないし、クラスにも居づらくて、図書室に足を運ぶ機会が増えているのだと言う。
杏は昼休みと放課後の殆どを図書室で過ごす。故に、彼と彼女が話す時間が増えるのも、暇を潰すためにとりとめのない会話をするのも至って普通の流れだった。
「李下に冠を正さず、疑われる様な怪しい事はしない方がいいって意味です、先輩」
「ほへー、そうなのか」
「だから例え見てなくても制服が透けてた事を言わなかった事は怒りますっ!」
「ほんと僕は肩紐くらいしか見てないってば!」
「ちょっと見てるじゃないですかっ!」
「げ、しまった」
夏服の透けた下着を見た見てないと言う下らない会話をする二人。
杏の口調は厳しいものの、頬は赤みをさしており、怒りよりも羞恥が強いことが見て取れた。子どもらしい照れ隠しも入っているのだろう。
その後取り敢えずごめんなさい、と頭を下げて、放課後に缶ジュースを献上することで手を打ってもらう。
「それにしても」
「はい?」
杏がこてんと首を傾げる。
「理科室がなんだっけ」
「李下に冠を正さず、ですか?」
それそれ、と頷く。
「古文か何か? 少し古臭い言葉だけど」
「古文、というか、漢文ですね。先輩にわかるように言うなら中国の古い詩歌です」
「しいか」
「はい。私の名前と関係があったんで覚えてたんです」
彼がははあ、と感心したように声を漏らす。
「なるほど、杏はなんでも知ってるなぁ」
「いえ、そんなことは──あ」
首を振りかけて、杏が何かを思いついた様にコホン、と軽く咳払い。
「なんでもは知りません。知ってることだけ」
えへん、と杏が小さく胸を張ると、ゆさりと歳の割に発育のいい胸が揺れる。これには流石の彼も目をかっぴらく。
「……なんだっけ、それ。この前勧めてくれた本のセリフだっけ」
「あ、覚えててくれたんですね」
「まあ、印象的だったし」
万乳引力は男には須らく働く。これには乳トンもびっくりであろう。
思わず視線が引き付けられそうになるのを鉄の意志で堪えて口を開く。
「そ、そういえば。漢文が杏の名前と関係あるのか?」
「?」
「さ、さっきそんなこと言ってたでしょ」
「ああ、名前、というか『杏』の花言葉に、でしょうか」
「杏の花言葉」
杏と言えば果物のイメージが強いが、そんなものにも花言葉があるらしい。
彼女はカバンからノートとペンを取り出すと、丁寧な文字で先程教えてくれた漢文を書き留めた。
「李って言うのは
ノートに『杏』と『李』という字が並ぶ。
「因みに花言葉は?」
「『疑惑』、ですね」
「……さっき僕が下着見たって疑ってきた杏にはぴったりだな」
「それは先輩も悪いじゃないですか!」
頬を膨らませてそっぽを向く杏。
「それにちゃんと素敵な花言葉もあります!」
「ほほう、それは一体」
「主なのは『乙女のはにかみ』『早すぎた恋』。これは杏が桜より早く咲く事が理由みたいです。
後は由来はわかってはいないんですが……」
言いかけた彼女の表情が一瞬陰る。
彼が不思議そうに首を傾げ、彼女の瞳を覗き込んだ。
「杏?」
「い、いえ、なんでもありません」
誤魔化す様にくしくしと髪を撫で付けている杏が突然、あ、と小さく声を漏らした。
「そう言えば今私、杏の香りの香水持ってますよ。嗅いでみますか?」
「え、持ってるの? 凄えな女子」
「た、偶々です! ここ最近だけです、入れてたのは」
「ふうん、じゃあ杏の香り、どんなものかお願いするよ」
「わかりましたっ」
彼女がいつかの様にくすり、と彼に笑いかけて見せる。またもやバックから小さな瓶を取り出すと手首に軽く振り掛けると、はい、と手首を彼の方へと差し出した。
流石の彼もこれには怯んだものの、なんだか楽しそうな後輩の顔を見れば、やっぱり遠慮するとも言えず、大人しく顔を近づけた。
「どうですか?」
「これは、なんというか、不思議な香りだな。爽やかで……うん、僕は嫌いじゃない」
「良かった、人によっては苦手な人もいるので」
手を合わせて、ほう、と安心してように微笑む杏。
「にしても、杏は花に詳しいね。僕だと頭がパンクしそうだ」
「私も名前に関係のある花しか調べませんよ。先輩も調べてみれば、案外楽しいと思いますよ」
「ん、いや僕は別に思い入れのある花とかも特にないしね」
「え? でも先輩の名前お花じゃないですか?」
「え?」
「え、って知らなかったんですか? ご自分の名前なのに」
「僕の名前ウチの死んだ爺様がつけたものらしくてさ。由来とかあんま聞いた事ないんだよね」
「それは残念ですね、とっても素敵なお名前なのに」
「そ、それはどうも」
素敵、と言われた彼は背中がむずむずしてぶっきらぼうに返答する。
男だとあまり言われても嬉しい言葉ではないが、杏のような端麗な少女の言葉ともなれば流石に思うところはある。
「じゃあ、なんなの、僕の名前の花言葉」
「先輩の名前は────」
杏がまるでよく知っていた事柄のように淀みなく彼の名前の由来について教えてくれる。
自分の名前である『杏』と同じように。
杏からひとしきり説明を受けると、彼は 自身の名前について想いを馳せる。
「僕の名前の花が咲いてるとこ、見れるかな」
「うーん、どうでしょう。少しデリケートなものみたいですし……」
「そっか、残念」
「でも、日本でも咲いてるところもあるらしいので、もしかしたらそこまで行けば見れるかもしれませんよ」
「ほんと?」
「今年はもう季節的に難しいでしょうけど、来年なら見れると思います」
杏が目を細めてゆるりと口角を緩める。
「いつか、二人で見に行けたらいいですね」
もう随分歩いた。
足はとうの昔に棒のようで、最近図書室に行く回数が増えすぎていたことをほんの少しだけ後悔させた。
「あと少し、だな」
先程、アスファルトの路面は姿を消して、今はしきりに求愛を続ける蝉の怒声を叩きつけられる山道に入った。
ここまでくれば、目的地まではあともう一踏ん張り。
「杏じゃあ、この山道は登れなかったろうな」
あの子はとても体が弱かったから、と独り言ちた。
杏は体が弱かった。そのせいで学校には馴染めず、部活も出来ず、図書室に来て本ばかりを読んでいたのだから。
ああそうだ、杏は病弱だった。だから僕は今、ここに一人でいる。
夏に出会い、秋に仲を深め、そして冬になった。
その頃になると、白雪のように白かった杏の肌は尚一層透明さを増し、まるで壊れ物のような危うさを宿していた。
はじめの頃は「大丈夫です」としか言わなかった彼女も、次第に学校を休み日が増えて、図書室に一度も姿を見せない週も出てきた。
それは彼らの関係に大きな影響を与えることだった。
そもそも彼らは図書室だけで繋がっている仲だった。
性別も違うし、クラスどころか学年も違えば、趣味も合わない。
だからどちらも電話番号なんかを交換しようと言い出すことはなかったし、そもそも学校に携帯を持ってきてはいけないと校則で決まっている。
だから杏が図書館に来れないということだけで、二人の仲はぶつりと切れた。
冬は深まり、クリスマス、正月が飛ぶように過ぎ去り、冬休みは夢幻のように消え去った。
彼は依然として図書委員として図書室にいたが、それでも杏が姿を見せることは無かった。
「……暇だな」
久しい感覚だった。杏がいた半年ばかりは飽きることのない日々を過ごしていたのだと今更ながらに痛感する。
「ここは、あんまり良くない」
彼が長机を撫でる。
いつもここに二人で向かい合うようにして他愛もない話をしていたのだ。
カウンターに目をやる。
いつも制限いっぱいまで本を借りていく杏の貸し出し処理をしてあげた場所だ。
ベランダの鍵を開けて、校庭を見下ろす。
二人で夏の日に暑い暑いと言いながら部活をしている生徒を眺めていた。
この図書室は彼らの関係が詰まった場所だった。
そこいら中が杏を思い出させるものに溢れていて、いちいち胸が苦しくなる。
「なんで、こんな風になるんだろう」
胸を軽く抑えた時、からり、と扉が滑る音がした。
「あの、すみません……」
鈴の音のような、軽やかな声だった。
あの日、彼女と初めて会った日に聞こえた声。
弾かれるように振り向いて──息がつまる。
「杏…………じゃ、ないですよね」
良く似ている、だか違う。
彼の知る少女は自分より一回り小さな体躯をしており、肌は白雪のように白かった。だが、今目の前にいるのは、彼女と良く似ているが、彼女よりもぐっと大人だった。
彼が目の前の女性を、杏の母親だ、と理解するのに時間はそうかからなかった。
「杏……さん、のお母さんですか」
「はい、あなたのこと、お話は聞いています」
「ええと、それはどうも」
杏の母親に軽く会釈をされ、彼もまた慌てて頭を下げた。その様子に杏の母は笑みをこぼした。
「今日は、あの子の休学の手続きをしに来たんです」
「休学、ですか」
「あの子も、少ししなければいけない事が出来てしまって」
杏の母親の表情が一瞬哀しげに歪んだが直ぐにまた柔らかい笑みへと変わった。きっとそれは杏が、彼女から受け継がれたものだった。
「ここに寄ったのはあなたに渡すものがあったからです」
「僕に、ですか」
「はい、あの子──杏から頼まれてて」
その名前に、どくん、と胸が跳ねる。
杏の母親はバックから一つの封筒を取り出すと、戸惑ったように目を泳がせている彼に差し出した。
「あの、これは……」
「読んであげてください。きっと、あの子の気持ちが詰まってます」
しばらくして杏の母親は彼の前から去っていった。
何か言葉を交わしたのかもしれないが、生憎彼の頭は杏からの手紙のことでいっぱいで、覚えておく余裕なんてなかった。
一人きりになった図書室。
震える手で便箋に触れると、糊付けされていない隙間に指を滑り込ませるとぱり、と剥がして、中身の手紙を取り出した。
「手紙、杏から、僕への」
かさり、と紙が擦れあって乾いた音が耳朶へと届く。
中には、一字一字丁寧に
『お久しぶりです。
直接会ってもいないのに、そう書くのは、少し変な気分がしますが、良いご挨拶が思い浮かばないのでやっぱり、お久しぶりです。
先輩はお変わりないでしょうか。最近めっきり寒くなっているので風邪をひかないようにしてくださいね。図書室は冬は冷えるそうなので』
彼女らしい文だった。丁寧な挨拶。そして他人の体調を慮る優しさ。
『最近図書室に行けなくてすみません。少し体調を崩してしまって。私、冬はいつもこうで。なんというか、体があんまり冬が好きじゃないみたいです。
私自身は好きなんですけどね、冬。雪、木枯らし、氷柱に、霜。どれも触れるのが躊躇われるくらい綺麗ですから』
ロマンチストらしい彼女の言葉だ。彼ではこんな事恥ずかしくて書けない。
『今日はお話があってお手紙を書かせて頂きました。先輩にお伝えしたい、大事な話です』
静かに、読み進める。
『しばらく、学校をお休みすることになりました。体の調子が振るわなくて、少し遠くで治療することになりそうなんです。
きっと時間もかかります。ですから、もうその学校にいる間では先輩と会えないかもしれません。
でも心配しないでください。私は私で上手くやります。きっと治療は大変ですけど、きっと大丈夫』
静かに、読み進める。
『でも以前約束した、先輩の花を見に行く件は難しいかもしれません。なので、私の事は忘れて、仲のいいお友達とでも行ってくだされば私も嬉しいです』
息が、詰まった。
『花の咲いている場所を便箋に入れておきます。少し遠いですが────』
それ以上は、読めなかった。
そういう事を、言って欲しかったわけじゃなかった。
一人で花を見に行きたいわけじゃない。
思い出を作りたかったわけじゃない。
「きっと、君と、行きたかったんだ、僕は……」
でも、それはきっと叶わない事なのだろう。
杏が自分で関係を絶ったのだ。そして、それは彼も同じ事だ。
変えるチャンスはいくらでもあった。けれど、結局何も決意できなかった。
溢れた想いは、誰に伝わる事もなく、静かに図書室に木霊した。
冬は吹き抜けるように春の陽気に溶けて、彼は一つ年を重ねた。
その間、当然のように彼女は図書室に姿を見せる事はなかった。
そして彼は誰に何かを言われるわけでもなく図書委員になることを選んだ。それで何かが変わる事はないとわかってはいたが、それでも『変わらない事』はできるのではないか、そういう期待があった。
そして、彼女の来ない図書室で彼は一人の時間を過ごした。
彼女が以前好きだと言っていた本に手を伸ばしてみたり、今まで読もうとも思わなかったものを読んでみたりもした。
そして、ただ優しいだけの慰めるような春は次第に姿を消して、『彼女』と出会った夏がやって来た。
勿論、彼女が来る事はない。
それでも待っていればいつかまた、彼女と会えるのではないかという淡い期待が胸にあった。
けれど、そんな想いも直に消えた。
風の噂で、休学していた一人の女子生徒が転校になったらしい、という言葉を聞いたのだ。
杏である確証はなかったが、きっとそうなのだろうな、と彼は思ったし、現に杏の名前はどのクラスにもないようだった。
もう会う術がない、そう思った時、足は自然に、杏の手紙にあった山へと──過去に二人で見にいこう、と言っていた花のある場所へと向かっていた。
「…………着いた」
息も絶え絶えの中で彼女の教えてくれた山に辿り着いた。
山道を抜けると深い木々に覆われた森の中の開けた場所へと繋がっており、足元ほどまでの草木や花々が茂っていたが、そこには彼の名の花はなかった。
「そりゃ、そうだよな」
彼女が言うにはその花は秋に咲く花だと言う。ならば、今の夏の季節に花が咲いていないのは余りにも道理にかなった事だった。
彼はリュックを下ろすと、目元を覆って深い嘆息を漏らした。
「なに、やってんだろうな」
ここで花を見れれば何かが変わるような、そんな気がしていた。けど、ここに来たところでなにも本質は変わる事はない。
自分は杏との関係について変える覚悟はなかったし、今更後悔したところで変わることではないのだ。
「本当に、だめだなぁ、僕は」
なんとなく色々どうでも良くなってしまって生い茂る草木の中に身を沈める。服越しにちくちくと葉の先が突き刺して来たが気にすることなく、ぼんやりと空に手を伸ばした。
「忘れられるわけ、ないだろう」
自分の知らないことを語る少女に感心した。
自分が尋ねると嫌な顔一つせずに教えてくれる彼女を尊敬した。
からかうとぷりぷり怒る後輩が可愛らしいと思った。
杏との何気ない会話を交わすことが何物にも変え難かった。
なんて事はない。
ただ楽しかったのだ、杏と過ごす時間は。
青空を閉じ込める様に手を閉じたが、指の隙間から空は逃げでてしまって、手の中には何も残らない。まるで、それが今の自分のようで無性に腹が立った。
伸ばした手を力なく地面に下ろして──手の先にぐちり、と何かが当たった。
「おわっ、なんだ?!」
反射的に跳ね起きると下ろした手へと視線を移して、何かが当たった手の甲部分に何やら液体がついてるのが見えた。
「あー、やっちまったなぁ」
片手で額を抑えてボヤくと、ポケットからポケットティッシュを取り出して付着した液体をふき取ると、鼻孔を聞き覚えのある香りが擽った。
「この香り、どこかで……」
手の甲を鼻に近づけて、すん、と嗅いでみて、一つの記憶が繋がった。
「『杏』だ、これ」
はっとして地面を舐めるように見て、草木をかき分けると、やはり目当ての物があった。
オレンジ色の掌大の小さな果実。見た目だけはとても小さな桃のようにも見えるもの。
彼女がいなくなってから、なんとなく調べて知識として得ていた、『杏』の果実だった。
彼は杏を拾い上げると、目の前の木を見上げて、言葉を失った。
杏の木。
熟した果実をいくつもつけて、青い空へと存在を主張するように青々とした葉を広げ、彼の前に佇んでいる。
「これって、まさか…………」
そして、その足元に、小さな紫の花が咲いているのが見えた。周りの草木はまだ蕾すら見えず、まだまだ小さいにも関わらず、まるで杏に寄り添うように、咲いている花が一輪。
こんな暑い季節には咲いているはずのない季節外れの花。
「君が見せたかったのは、僕と見たかったのは、これなのかな」
呟いて、彼はポケットから一枚の紙を──杏からの手紙を取り出した。あの日から、続きを読んでいなかった手紙を。
『なので、私の事は忘れて、仲のいいお友達とでも行ってくだされば私も嬉しいです。
花の咲いている場所を便箋に入れておきます。少し遠いですが────』
前は、ここで読むのをやめてしまった。
彼女に、もう会わなくていいと言われてしまったのが認めたくなくて。
けど、今は読まなければならないと、読みたいと、そう思う。
『──少し遠いですが見に行けない距離じゃ無いと思います。きっと、季節に見に行けばとても綺麗だと思います。
でも、たまには季節じゃない時にも、見に行ってくれると嬉しいです。
あそこは、少し恥ずかしいですけど、杏の花もとても綺麗らしいので。時々でいいので、見てあげてほしいです。
では名残惜しいですがここで筆を置きたいと思います。
先輩も、お元気で。
読み終わって、しばらく彼は何も言わなかった。言えなかった。
ただ、青の中に映える緑をただ黙して見上げると、やがて丁寧に手紙を畳むとポケットにしまい直した。
どんな気持ちで、杏の咲く場所を紹介したのだろうか。
どんな気持ちで、忘れてくださいと言ったのだろうか。
「君は、本当にめんどくさい子だな」
忘れてほしいなら杏のことなんか書かなければいい。
忘れてほしくないなら、こんな回りくどく書かなければいい。
「でも、それは僕もだ」
自分達はきっと何処までもめんどくさい。
一言言えば済むことをだらだら時間をかけて、遠回りをして、それでこんな花なんかに頼って、それでようやく今と向き合えた。
でも、それでいいのだと、彼は思う。
もしかしたら遅かったのかもしれない。けれど、もう何かをせずに後悔するよりはずっといい。
リュックを背負い直して、山道を下っていく。
家に帰ったらまず、友人たちの力も借りて杏の家を訪ねて、そして、彼女に手紙を書こう。半年越しの、返答を。
文の書き始めはきっとこう────
『拝啓、杏様。
今日は『紫苑』の花がとても綺麗でした』
「紫苑」
・追憶
・あなたを忘れない
・遠くにいる人を想う
「杏」
・「乙女のはにかみ、恥じらい」「早すぎた恋」
・疑惑、疑い
・臆病な愛