作者 銭葵
オリジナル作品
あなたが好きなの。
そう、全身が叫んでいた。
思い出した、思い出した、思い出した。
決して忘れてなんていないつもりだったけれど、記憶は、想いは、薄まるものなのだということを思い出した。
鮮やかな感情が、舞い戻る。
あぁ、その顔を思い出した。声を思い出した。言葉を思い出した。仕草を思い出した。想いを思い出した。
あなたが好き。
そんな当たり前の感情が、いま鮮やかに、蘇った。
金木犀、という花がある。
モクセイ科モクセイ属、銀木犀の変種。
特徴は、非常に強い香り。甘い甘い、吸い寄せられるような芳香。
鼻を近付けて嗅がなくても、数メートル離れたところを通り過ぎるだけでその存在を強く感じ取れる。
だから、別に花なんて詳しくともなんともない私でも、金木犀という花のことは知っていた。珍しい花ではないが、どこにでもあるわけでもないため、知っている人は知っているだろうけど、知らない人も普通にいる。私が知っているのは、私の家の近所の公園に、金木犀の木があったから。
幼いころから私は、金木犀の香りが好きで、よく金木犀の近くのベンチに座ってのんびりするのが好きだった。
高校生になった今もそれは変わらず、秋になると自然と近所の公園へと、足を向けてしまうのだった。
ぼぅ、と。
今日もいつものように、金木犀の香りに浸っている。
目を閉じて、呼吸を止めて。
そんな日常――のはずだったのだけど、今日、少しいつもと違うことがあった。
「なぁ、アンタ」
ぶっきらぼうな、低い声。
距離感、向き、香り。
あぁこれは自分に向けられた言葉だなと知覚して、目を開ける。
「な、なんでしょう」
思わずびっくりして、どもる。
低い、いい声をしているとは思ったけれど、目の前にいたのはその声に似つかわしい男性で―――平たく言ってしまえば、なかなか厳つい顔をした、ヤンキー然とした同年代くらいの異性だった。
「アンタのこと、見てたんだ、ここ数日……ってあぁ! 別に変な意味じゃねーぞ! ストーカーとかそんなんじゃなくて……いや、状況だけだと否定できねーんだけどそうじゃなくってだな。ええと、その……」
ぽかんとして、思わず、くすり、と笑みがこぼれた。
悪い人では、ないみたい。
「……なんだよ」
「ううん。なんでもない。それで、何?」
きょとん、と呆けた顔をした彼は、思い出したかのように慌てて、再び口を開く。
「いや、あの。アンタ、何してんのかなって……思って」
「あぁ」
なるほど、と思う。
彼の先ほど言った言葉を受け取るなら、ここ数日、毎日私がここにいたことを知っているのだろう。
確かに、奇異に映るのかもしれない。ただ、座っているだけだから。それで、興味を引いたのだろう、と得心する。
「金木犀って、知っている?」
「……いや」
「うん。まぁ、この花のことなんだけど」
と、自分の真後ろに存在する花を指差す。
「へえ」
「この花、その距離ならわかったかもしれないけど、甘い香りがしたでしょう? 近付いたとき、一瞬だけ。もう慣れて、あんまり感じなくなっちゃったかもしれないけど、私、この花が好きで」
だからここにいるの、と言う。
「あー。確かに、なんか甘ったるい臭いがしたな。こいつか」
「そう」
「んでも、慣れたらわかんなくなるんじゃねーのか? なんでずっといるんだよ」
「……なんとなく?」
「……そうか」
ふと、そういえば彼だけ立たせたままだな、と思ったので、ベンチの空いたスペースを、ぽんぽん、と叩く。
彼は、身体一つぶんほどの距離を開けて、どかっと座った。
ふんす、と腕を組んで、彼は真正面を向いていた。
別にこっちを見てもいいのに、と少しおかしくなってしまう。
「私、望月侑子」
「……おう」
「おうじゃないよ。あなたの名前は?」
「信也」
「そう。信也くん」
「……むず痒いから君付けやめろ」
「えぇー? じゃあ信也? 私、男の子呼び捨てにとかしたことないんだけど……」
まぁいいか、と。
「信也」
「……んだよ」
「別に。ただ……よく言うところの、『呼んでみただけ』ってやつかな?」
「馬鹿じゃねーのか」
「誰がよ」
ちょっとむっとして唇を尖らせると、彼はバツの悪そうな顔をして、謝る。
「わりぃ。俺口が悪くて」
「……私も別に言うほど怒ってないし……」
侑子って呼んでくれたら許してあげる、と言おうと思って、我ながら馬鹿だな、と我に返ってやめた。
何故だろう。
出会って間もないのに、どうしてか凄く心を許してしまっている。
なんだか不思議な感覚だな、と少し浸る。
「…………」
「…………」
「……あの、よ」
「うん?」
「また、来てもいいか。会いに」
「うん」
普通に考えたら難色を示すところなんだろう。
というか、彼はそういう対応をされてきたのだろう。
吊り上がった目に、緩まない口角、ドスの効いた声。
正直ちょびっと怖いとも思ったけれど、なんだかもう、心のパーソナルスペースは大分縮まっていて。
だから。
「またね」
と、心のままに、笑顔で、言うことができた。
「……おう」
翌日。
学校の帰り、家に自転車だけ停めて、そのままの足で公園へと向かった。
すると、昨日と同じ位置に彼がいた。
「信也」
「……おう」
彼に声をかける位置、そこまでくると、甘い香りがした。
心地よくて、すん、と一度鼻をならす。
甘い香りがしたのは一瞬で、それを追いかけるように鼻に意識を集中させるけれど、あまり強くは感じられない。
少し寂しさを感じつつも、まぁそれはいつものことだった。
だからいつものように、甘い香りを反芻しながら、ベンチに腰掛ける。
「…………」
「…………」
いつもなら、特に何も考えることはない。
ただただ、甘い香りに身をあずけて、いくらかのんびりと過ごすだけ。
だけど今は連れ合いがいて、彼について、考えてしまう。
「ねぇ」
と、呼びかける。
顔を向けてはいないから、正確なところはわからないけど。彼が無言で、こちらへと意識を割いたのが何となくわかる。
「……」
「……」
「……んだよ」
「ううん。あのね、話しかけようと思ったはいいけど何話そうかなと思って」
「おう」
「私、あなたのこと何も知らないし。知りたいなぁって思うわけです」
「そうか」
「…………」
「…………」
「何かお話しません?」
「……何話せばいいんだ」
「なんでもいいけど。なにかないの」
「……あー」
目を、閉じる。
彼の声に、耳を傾ける。秋の風で、鼓膜が震える。
「…………つまんねー話しかできねーぞ」
「うん」
「俺、昔から友達ってのができたことなくてさ。親父も目つきわりーし、俺も目つきわりーし、愛想の撒き方なんて知らねーし。ガキのころからいままでずっとそうだったんだよ」
「……」
「だから、よく覚えてねーんだけど、公園でも一人でしか遊んだことないんだよな。だから、なんつーか…………」
「うん」
「わり。やっぱ上手く言えねーわ。忘れてくれ」
「うーん。……忘れろって言われてもすぐには忘れられないなぁ」
「忘れろ」
「ていうか、公園で一人遊びって何してたの?」
「砂いじり」
「あ、やっぱり砂場か。いいよね」
懐かしくなって、砂場のほうを眺める。
もう夕方だから、小さな子供はいなくなっていた。
「すべり台とかブランコは誰かしら使ってっし、俺が使ってっと誰も近付いてこねーから全然やらなかったな」
砂場は隅っこでいじってるぶんには誰も文句言わねーからいい、とぶっきらぼうに彼は続ける。
「ふうん」
なんだかちょっと寂しいな、と思って立ち上がる。
少し歩いて、振り返り、座ったままの彼を手招きして、また歩き出す。
やってきたのはブランコの前。
そして、ブランコに乗って、漕ぎ始めた。
スカートだから少し恥ずかしいけれど、腿で押さえていればさほど問題はなかった。
「めっちゃ懐かしい」
「……」
「別に今更って思うかもしれないけどさ、大きくなってやるとこれはこれで面白いもんだねっていう。特に他意はないよ」
「そうか」
眉間にしわを寄せて、彼は私の隣のブランコへと足をかける。
ぐいんぐいん、と立ったまま勢いをつけていて、スカートではとてもできない振る舞いに少し羨ましくなった。
「――――っ」
勢いを増すブランコを操る彼は、頬を吊り上げていた。
がしゃがしゃ、ぎぃぎぃ。
チェーンが踊り、歌う。
スイングの速度が最高潮に達したとき彼は、手を、足を宙に放り出して、跳んだ。
「うおおっ」
ブランコの周りには簡素な鉄柵が設置されていて、大きく跳ぶとそこに衝突する危険性が高まる。まさに彼の着地位置は柵のある位置そのもので、ぶつかるんじゃないかと、息を呑む。
「あっぶね」
ガン、と鉄柵を足裏で踏み、向こう側へとたららを踏むように着地した。
「ちょ、大丈夫?!」
「ちょっと焦ったわ」
慌ててブランコから降りて、ぱんぱんと砂ぼこりを掃う彼に駆け寄る。
「怪我とかない……?」
「問題ねー」
「ならいいんだけど。めっちゃ飛ぶからびっくりした」
「おう。俺も思ったよりいって驚いたわ。意外といけんのな。面白かったわ」
「もう……」
呆れたが、まぁ嬉しそうにしているからいいか、と思った。
翌日。
学校帰り、また金木犀のベンチに向かう。
今日は誰もいなかった。
後から来るのだろうか。それとも、もう来ないのだろうか。
すん、と鼻を鳴らす。
甘い甘い、金木犀の香り。
ベンチに座って、香りに浸って、目を閉じる。
すん、すん。
私は今日も、刹那の甘さを思い出している。
「――おっす」
いくらか経ったあと、声が聞こえた。
低い、芯の通った真っすぐな声。
彼の声。
「や」
目を開けて、手を振る。
彼はどかっと座って、いつものように腕を組んで真っすぐ前を向いている。
その姿を眺めて、彼は私のことが好きなのかなぁ、なんてことを思う。
だって、じゃなかったら、話しかけたりなんてしないだろうし、こんな一緒にいる意味なんてないだろうし……と、根拠を頭の中でつらつらと挙げて。
もし。
そうだったら私はどうするんだろう、と思って。
「なぁ」
「ひゃいっ」
変な声が出た。びくり、と体を震えた。
「えと、ごめん。ちょっと考え事してて。なに?」
「いや。わりぃ、なんでもない」
話しかけておいて、何でもないって言うことはないと思うのだけど。
ちょっとバツの悪そうな彼の表情を踏まえると、何か話したいことがあるけど、聞くことに躊躇いがあるのだろうか。
まだ出会って三日だから、その気持ちはわかるけど。
でも、別に聞いてくれても構わないのにな、と思う。
「そういえば、信也っていつも何してるの?」
「何、って……」
「私は、こうしてのんびりすることが趣味みたいなところがあるけど、信也は普段何してるのかなって」
「別に大したことはしてねえけど…………そうだな、普段は飯食って風呂入って、空いた時間は、爺さんと碁打ったりしてるな」
「へぇ、凄い。囲碁できるんだ」
「一回覚えたら簡単だぞ。ただの陣取りゲームだしな」
「陣取り……?」
「ああ」
私の抱いている囲碁、というボードゲームへの印象とあまりに違う言葉に疑問を抱く。
どういうこと、と聞いて、「つまり――」という説明を聞く。
なるほど。
よく、わからない。
「……今度、やってみるか?」
「うん」
一緒に遊ぶ、約束をした。
翌日。
今日は休日だった。
約束なんてしていないけれど、今日も待っていた。
何を? 彼を。
どうして? 心地いいから。
変な自惚れでなければ、彼はきっと私のことが好きだろう。
私も、彼のことが、嫌いじゃない。むしろ、好きだと、思う。
あの不器用な振る舞いが、低く通る声が、そして心の距離感が。
自分のちょろさに、少し、いやかなり驚いているけれど、なんだか不思議なほどに心惹かれていた。
今日会えたら、連絡先を聞いてみようと決めて、いつものように香りに浸る。
甘い甘い、金木犀。
だけどその日、彼は姿を見せなかった。
翌日。
今日も休日。
金木犀の花はほとんど散ってしまっていた。
元々、そこまで長く咲く花ではないし、仕方のないことなんだけど、無性に寂しかった。
彼は今日も、来なかった。
翌週。
金木犀の花は完全に散り、葉を残すだけになった。
彼の姿は見えない。
翌月。
ずいぶんと冷えるようになった。
そろそろ、外にいると、なかなか寒い。
半年後。
桜も散り、新しい環境にも慣れてきた。
本当に、連絡先を早く聞いておけばよかったなと今更ながら後悔の念が積もる。
金木犀が咲く季節になった。
つまり秋になっていた。本来、暦や気温などで季節を感じるのかもしれない。だけど、気温なんてものはその年によって結構バラつくものだし、正直よくわからないことが多い。だから私にとっては、金木犀が咲くことが、金木犀の香りが秋の象徴になっていた。
いつものように、まず家に自転車を停めて、少し歩いて公園に着く。
そして公園の端のベンチへと、歩みを進める。
一歩、二歩。
距離が短くなって、どこかの境界を乗り越えた瞬間香りがする。
甘く切ない、恋の香り。
鼻腔をくすぐるそれは、その場に十秒も留まると感覚から滑り落ちていく。
決してその場から消えたわけではない。だけど、一番最初の鮮烈な情感はすぐに失われてしまうのだ。
私は、知っている。
鮮烈な想いは、はじまりにしかないのだということを。
それ以降は、その名残を追うことしかできないのだということを。
香りに身を潜らせながら、ベンチへと座り込む。
瞳を閉じて、膝を揃えて、香りに浸る。
すん、すん。
私は知っている。
鮮烈に感じ取ることができなくなったとしても、その名残は絶対にあるのだということを。
それを感じて、浸っているだけでも幸福な気持ちは湧いてくるのだということを。
だから私は、今日も金木犀に浸っている。
じゃり、と音がした。
公園の地面を踏み鳴らす音。
別に特別ではないはずのありふれた音。
だけど気になって仕方がない音。
「……うす」
懐かしい感情が蘇る。
三日しか会わなかった人。だけど一年忘れられなかった人。
一番最初の、鮮烈な想いが戻ってくる。
ただただ単純な一つの想い。
きっとこれを皆、恋と呼ぶのでしょう。
「久しぶり」
笑みを浮かべて、彼を迎える。
あなたが好きです。
その想いを、内に秘めて。
[金木犀]
・謙虚
・気高い人
・初恋