作者 泥人形
オリジナル作品
恋なんてきっと僕には無縁のものなのだろうと、そう思っていたにも関わらず、僕は恋に落ちた。
正確に言えば、恋をしていたということに気づいたのが今なので、本当はもっと前だったのかもしれない。
いや、間違いなくそうなのだ。
思えば僕は、二年前のあの日、彼女に出会ったその瞬間から恋に落ちていた。
あの暖かく、包まれるような陽光が差し込まれる夕暮れの教室で、幸せそうに笑いながら話をしてくれた。
甘やかすように優しく見つめる彼女の瞳。
明るく光を弾く健康的な白い肌。
それなのに、どこか儚げさを思わせる雰囲気。
そして何より美しい、ほんのりの青みのかかった───例えるならば、勿忘草のような薄く柔らかい、光を馴染ませる長髪。
それらの全てを思い返してみれば思い返しただけ、鼓動は跳ね上がった。
振り払うように瞼を閉じれば満面の微笑みを僕に向けてくる。
どうしようにも逃げ切れないそれにようやく僕は、あぁ、これが恋というやつなのだと、理性では無く直感で理解したのだった。
そうと決まれば話は早い、直ぐにでも思いの丈をぶつけてこよう……となるほど僕は短絡的では無かったし、そこまでの勇気も持ち合わせていなかった。
彼女と同じ部活に所属している、という誰に向けてのものでもないのだが、アドバンテージのようなものを持っていた僕はそのポジションにあぐらをかいていたのだった。
先輩と後輩。
文字に起こしてみればたった数文字だけで成り立つ、成り立ってしまう関係性に僕は甘えたのだった。
これでもしも僕以外に部員の一人でもいたら話はまた違ったものになっていたのかもしれないが、生憎部員は僕を含めて二名しかおらず、顧問も一週間に一回顔を見せれば良いくらいのマイナーで地味な部活だったため、今年の新入部員はゼロだった。
といっても、特段部活への勧誘等をしたわけではなかったので、当然といえば当然の結果ではあった。
というのも、部長である先輩、つまり彼女が勧誘には前向きではなかったからである。
当時──つまり約一年ほど前の僕は何とか部員増やそうとしいていた訳だが、何故だか彼女は新入部員を歓迎しようとしなかったのだ。
僕が言葉の限りを尽くしてみても、「君程度に私を説得できると思うのかい?」と一蹴されたものである。
当時はそれなりに敗北感と悔しさを感じたものだが、しかしまあ、今になってみればそれは非常にプラスに働いていた。
そうでなければ彼女の姿を見ながらこうして、ゆったりと本を読むことも、彼女の小言を聞きながら文を書くこともなかっただろうからだ。
文芸部という、居心地の良いこの居場所が失われることにならなくて、今更になって僕は安堵していた。
彼女の真意は未だに謎ではあったが、少なくとも今の僕はその決断を英断だとすら思っているということだ。
まあそんなこんなで僕等は二人きりの教室で、夕暮れの光を浴びながら、優雅にお茶でも飲みつつ毎日毎日文を書き、本を読み、たまに小言を言われ、他愛のない話を繰り返していたという訳である。
何時ものように授業を終えて、足早に部室に入れば生けられてある勿忘草が目に入る。
彼女は自分の髪色を気に入っていて、僕が勿忘草のようだ、と思うのも彼女が自らそう言っていたというも原因だったりするのだ。
そういえばあれは何月ぐらいが咲く頃合いなんだろうか、なんて思えば「やぁ」と声をかけられる。
既に部室に来ていた先輩は春風にその長い髪を艶やかに揺らしながら読んでいた本から目を離し、僕へと手を挙げた。
そんな彼女を彩るように、窓の外から顔を見せる桜の花がひらりと舞っている。
「こんにちわっす」と適当に返しながらも僕の心臓は高鳴りを始めていた。
顔を見て、挨拶をしただけでこれである。
意識をした途端これなのだから、僕も存外ピュアなものだ。
顔には出ていないよな、と自分の頬に手を当てながら彼女から数席離れた場所に座り、読みかけの本を開く。
そうすれば僕のちょうど前の椅子がガラリと引かれ、何度嗅いでも嗅ぎ慣れない良い香りが鼻孔を擽った。
僕の席の机にすっと肘が置かれて「ねぇ」と彼女に語りかけられる。
それが僕等の雑談タイムの始まりの合図で、僕は開いたばかりの本に栞を挟んで机に置いた。
それから気怠げな様子を装った僕は彼女を見て「なんですか」と返す。
そうすれば彼女は満足したように笑みを浮かべ、口を開いた。
そこから語り始められたのは、何てことはないただの雑談。
強いて題名でもつけるとしたら"今日の彼女"といったところだろうか。
だけれども、その何でも無いような、ともすれば下らないとも言えるこの時間が、僕にとってはこの上なく幸せなものだった。
美味しいご飯を食べたり、仲のいい友達と遊んだり、テストで良い点数を取ったりみたいな、そういった僕の思う日々の幸せというやつを全部束ねても比べ物にならないくらいの幸せ。
この放課後の短い数時間が、今の僕にとっての最大の幸福だった。
───だが、それももうすぐ終わる。
僕は二年生で、彼女は三年生。
去年入ってきた一年生は、そろそろ二年生に上がる頃で、僕等もそれぞれ一つ上に上る時期だった。
まあ、何だ。
つまるところ彼女は近い内にこの部室にも顔を出さなくなるということである。
所謂卒業というやつだ。
そういう関係もあって、僕はその、なんだ、告白を躊躇っているという部分もあった。
卒業すればそもそも機会がなくなるのだから、自然と関わりも薄くなり、そしていずれ絶える。
何時だったか聞いた話だが、彼女は県外の大学へ受かったらしい。
県内ならともかく県外である。
そこまで距離が離れてしまえば、僕等はまた出会うことすらめっきり無くなってしまうだろう。
そしてそうなればこの部室で過ごした時間もすっかり色あせて、築いた絆も形をなくすだろう。
僕はそう思っていた。
ここが別れどきというやつなのだ。
なればこそ、想いを告げることなど出来はしない。
ただ今まで通り、仲の良さげな先輩後輩関係のまま、楽しい高校生活だったと、そう感じたまま卒業するのが良いだろう。
僕との関わりを、後腐れ無く、後味の悪さもなく、ただ爽快で、ただ美しい思い出の一部にしてくれれば、それが本望ですらあった。
そうしたまま優しく、包まれるような時間を過ごし、あっさりと彼女の卒業式はやってきた。
長ったらしい卒業式の後、僕等はいつもの部室に集まっていた。
たったの二人なのだから、集まるという言葉を使うのも変な感じはしたが、とにかく僕と彼女は文芸部の部室に足を運んでいた。
この二年、三年で習慣のようになってしまっていたのだろう。
今日みたいな特別な日でも、僕等はここに来て、向かい合わせにして適当な席へ腰を落ち着かせていた。
「卒業おめでとうございます」なんて、面白みも飾り気もない僕の言葉に彼女は本当に嬉しそうに、しかしどこか寂しそうに「ありがとう」と言う。
そこから始まるのはいつもとは少し毛色の違った話だった。
これからの文芸部の話とか、これから入るかもしれない後輩の話だとか、よりにもよって僕の好きな人の話とか(これについてはいないと誤魔化したが)、そういったいつもの彼女ならあまり好まないような話を、率先するように話され、話していく。
いつもとは少しテンポが早いようにも感じた。
出来るだけたくさんのことを話したいと言わんばかりに矢継ぎ早に、彼女は言葉を繰り出してくる。
へーこらひーこら言うようになんとか着いていく僕は、少し疑問に思って口に出した。
馬鹿正直に「今日は何だか変ですよ? 大丈夫ですか?」なんて言ったのだ。
そうしたら彼女は「そう、かな……あはは」なんて言って言葉に詰まって頭を下げた。
珍しいことだ。
彼女は見かけによらずかなりのお喋りなので、会話中に黙り込むということが無い人間だったからだ。
言葉の選択をミスったか、と思う僕に、不意に彼女は頭を上げて真っ直ぐ僕を見た。
「あのね、その、何ていうのかな。あは、ちょっと言葉にするのは恥ずかしいんだけど、その、話足りない、みたいな」
顔を真っ赤にさせて、彼女はそう言った。
しかしこの時僕は、言葉を返すどころか控えめに言っても可愛すぎるその姿に目を奪われ、言葉を失っていた。
そしてそこからようやく絞り出すように言葉をひねり出す。
「あ、あぁ……な、なるほど」
なんて情けのない返事だろうか、けれどもこの時の僕にとってこれが精一杯だった。
そんな僕を見て彼女は少しだけ不安そうにしてから「だから」と続けてこういった。
「あ、明日からも、今までみたいに話しても良い……?」
片手にはスマホが握られていて、少しだけ震えていた。
つまり毎日電話しても良いのかと、彼女は聞いているのである。
今になって考えてみれば、これはもう告白しても良かったのでは? とすら思うのだがこの時僕は完全に思考回路が焼きちぎれていて、ただ素直に「は、はい。喜んで!」と肯定の台詞を言い放ったのであった。
それを受けて彼女はほころぶような笑顔を見せてきゃっきゃと喜びながらまたゆっくりと、下校時間になるまで語り始めたのであった。
桜の並木道を二人並んで歩き、分かれ道で僕等は何時も通り「じゃあ、また」なんて気楽な言葉を交わして別れたのであった。
それから片時も、彼女のことを忘れることはなかった。
むしろ毎日会っていたときより、頭の中にいることが多かったとすら言える。
寝るときも、授業中も、部活中も。
彼女のことで頭がいっぱいだった。
廃部というのもつまらないので一生懸命勧誘活動を行った結果、それなりに集まった部員たちと話している時も、僕の頭の片隅に彼女はいたし、部室に生けてある勿忘草を眺めながら、思い出話の一つとしてこんな先輩もいたんだよ、といった話もしたほどだ。
そのせいかお陰か、僕の気持ちは肥大化する一方だった。
やがて、繰り返すように春はやってきて、僕は卒業した。
後輩たちに涙ぐまれているところを見て、思いの外慕われていたのだな、なんてことを思いながら僕は進学した。
期待を裏切るようで申し訳無いのだが、生憎彼女と同じ大学ではなかった。
あの大学は、僕の頭では少し厳しすぎる。
彼女には残念そうにされたが、僕が一番残念であったのは秘密だ。
そんな僕の卒業から何年経っただろうか。
僕は大学を卒業して、立派に社会人として就職していた。
それまでの間、僕と彼女は結局会うことはなかった。
僕の通った大学は、彼女の大学とはかなりの距離を有していて、簡単に会いに行けるようなものではなかったからだ。
……いや、それも違うか。
僕等は単に恥ずかしかったのだと思う。
お察しの通り、僕等はこの歳になっても未だに通話を続けていた。
といってもお互い忙しい身であったため、流石に毎日ではなくなったが、それでも週に3~4回ほどだ。
そんな遠いようで近い、この奇妙な関係性に浸かりすぎていて、正常な距離のとり方というのを忘れてしまっていたようにも思える。
けれども、この関係もついに破られた。
GWというものがある。
僕の会社は正直言ってこれ以上無いといっても良いくらいホワイトな会社で、見事連休を獲得していた。
それに加えて、接客業ではなかった彼女も連休を取得していたのである。
なんてことのない会話からそれを互いに知った僕等は、どちらともなく会おうか、と言葉に出していた。
とある大きな駅の前で、僕等は再会した。
彼女は何ていうか、"そのまま"成長していた。
高校生のあの姿を、本当にそのまま理想的に大人にした感じだったのである。
特徴的なあの柔らかい、勿忘草みたいな色の長髪を、ふわりと揺らしている。
お陰で一目で分かって、そしてやはり僕は目を奪われた。
胸に隠した想いが、急激に熱を広げて姿を大きくしているようだった。
暫くぼうっとしていれば、あちらが気づいて声をかけてくる。
あの頃のように何気なく、さも昨日会ったばかりのような感覚で「やぁ」と手を挙げたのだ。
けれども僕はそうはいかなくて。
この数年間で萎むどころかどんどんと抑えようが無いほどに巨大になり、今、更に熱を爆発させたそれはついに僕の身体を乗っ取った。
「お久しぶりです」と挨拶を交わした僕は有ろう事か「ところでなんですが」と言葉を続け、そして
「僕と、結婚してくれませんか」
と、さらりと言い放ってしまった。
我ながら"ところでなんですか"から繋げて良い言葉ではない。
ほら見ろ、彼女も呆気にとられたように僕を見て───
不意に彼女は、僕の手を取った。
その吸い込まれそうなくらい深く、美しい瞳には薄っすらと涙を載せて。
それでも彼女は微笑みながら
「喜んで」
と、そう言った。
それからというものの、置いていかれるのでは無いかと思うくらいトントン拍子でことは進んだ。
僕は早速転勤を申し出て、次の春を迎える頃には彼女の住む県で、彼女と同棲を始め。
その数カ月後には互いの両親へと挨拶すらかましていた。
彼女の父親は如何にもといったような厳つい顔つきだったが、僕の顔を見るなり「あぁ、君が」なんて頬を緩めた時は驚いた。
はて、会ったことがあるだろうか、と頭を捻ってみれば「いや、アリアからは良く聞いていたからね」なんて言うのだ。
驚きで思考を止めた僕にお義母さんは「高校の頃なんて毎日のように君のことを話していたのよ」とまで言っていた。
それを慌てて隠そうとする彼女───アリアは顔を真っ赤にしていて、なんとか聞かせないようにと僕の両耳を塞ごうとしたのは、今でも思い出すだけで笑えてくる。
いつも冷静なアリアのそういうところを見るのは珍しかったので、よく覚えているし、その話をしようとすれば「やーめーてー!」と表情を崩すところはあまりにも愛らしい。
その反面、僕の親への挨拶といえば、特段面白いエピソードも無く、大きな波乱もなくスマートに終わった。
精々、女っ気の一つも見せなかった僕が結婚を前提にまでした彼女を連れてきた事自体に、非常に驚かれたくらいか。
まあそんなこんなで僕等はあっさりと両者の親公認となり、恙無く、不安になるくらい順調に日々を暮らしていて。
そしてそれから二年の年月を経て、梅雨を間近にした時期に、僕等は子供を授かった。
小さな小さな命だった。
腕に抱いてみればすぅすぅと小さく息をしていて、それが何よりも愛おしかった。
これからはこの子の分も、頑張っていかないといけないのだ、と自然とそう思って、同時にこれが父親になるということなのかな、と漠然とそう思った。
しかし幸せも安寧も、長くは続かないものだ。
娘の歳が五つになったときだった。
僕等は三人で、暖かく陽光の照り当てられる中散歩をしていた。
三人一緒にいる、ただそれだけで楽しかったし、幸せだったのだ。
アリアに似て、柔らかく陽を受け止め流す少し青みのかかった長髪を揺らす娘がたまらなく愛おしくて、それに負けないくらい妻を愛していたからだ。
嬉しそうにずっとニコニコとしている二人を見ながら、僕等は少し遠目の大きい公園へと向かっていた。
一週間に一度の日曜日、一緒に公園に行くのが家族の日課となっていたからだ。
「一人でももう平気なんだよ!」と信号で元気よく片手を挙げながら渡る娘を見ながらほのぼのと歩いていれば、不意に違和感を覚えた。
何だか近くからエンジンの駆動音が聞こえて、僕は素早くを周りを見渡して、そしてそれを見た。
軽自動車が、止まること無くこちらに突っ込んできている。
やばい、と思ったときには既に僕と妻は動き出していた。
それはきっと、僕等が親だからだ。
娘を抱きかかえた妻ごと、僕は抱え込んだ。
出来たのはこれだけで、その瞬間、激しい衝撃が全身を駆け抜けていった。
「二人は大丈夫だろうか」
僕はそう思う前に、意識を溶かした。
物心がついた頃、私は親を亡くした。
しっかりと覚えているわけではないが、それでも母と父が私を守ってくれたことだけは覚えている。
あの時、痛いくらい強く抱きしめられて、その次の瞬間酷い衝撃音と痛みが私を襲った。
地面に叩きつけられて、泣き出す私をそれでも、私の両親は抱きしめてくれていた。
自分たちが死んでも尚、私を生かそうとしてくれたのだ。
二人のお陰で、私は今も五体満足で生きている。
両親がいないということに、一時期は不満を爆発させたこともあったが、何だかんだ今の私は二人に心の底から感謝していた。
成長すれば親のありがたみが分かるってやつである。
長さなんて関係なくて、自らの命を擲ってでも守りたかったと思われてたほど愛されていたのだ、と思えば自然と口角は上がっていた。
何でかって言えばそれはもう、正しく本当の愛情というやつを持っていたってことに他ならないからだ。
いやまあ、だからと言って他人が羨ましくなかったかと言われればそうでも無かったが、それでも私も大人になって理解できることも増えたってことだ。
そうでなきゃ、こうして二人のお参りなどくるものか。
視界いっぱいに、たくさんの墓石が立ち並ぶ。
その内の一つの前に来て、私は一束の花をそっと置いた。
勿忘草。
生前、両親が好んでいた花らしい。
母譲りのこの髪の色が、正しくこの花のようだったからだとか。
聞いた話によれば、父は母に二度プロポーズをしたらしく、その二回目にはこの花を渡したらしい、とも。
因みに一回目は駅の真ん前で、何か渡すこともなく、ただ言っただけらしい。
何だか情けないような、恥ずかしいような話だ。
まあ何にせよこの花は我が家族には中々縁の深い花みたいだ。
私自身も、自分の髪に似て気に入っていたこともあって、祖母から両親が好いていたと聞いた時は理由も合わせて同じだったことに吹き出したものだし、全く、本当に縁がある。
豆知識だが、勿忘草の花言葉は『真実の愛』『私を忘れないで』だ。
父も母も、遠距離恋愛の後に結ばれたとらしいが、その間片時も互いを忘れたことは無かったと聞いた。
本当、知れば知るほど我が家にピッタリだな、と私は花束を見てからゆっくりと目を瞑ってそっと手を合わせた。
それから数秒、「よし」と声を出しながら立ち上がり、
「それじゃあ、また来るからね」
と言って手を振れば、墓石の後ろに、二人の影が見えた気がして。
うん、大丈夫。二人のこと、勿忘草に誓って、私も忘れないよ。
なんて、何でかそう思いながら私は帰路へとついた。