“暗い回廊。進み続けるEGO。睥睨する王。
旅人はエスの部屋に来て本棚を眺めながら言う。
「そういえばさ、エスに貸してもらったこれ『self-reference-engine』なんだけどね」
「その言い方だと口に合わなかったかしら?」
旅人の愚痴めいた話し方にエスは冷たく返す。旅人はエスを肯定してくれるが、本はあまり読んでこなかったと言っていた。
エスは貸した時からよく分からなかったという感想を予想していた。しかし読んでもらってから自分が良いと思った所を聞いて欲しい。そういう甘えにも似た思いも持っていた。
旅人に貸してからその気持ちに自己嫌悪を覚えていたエスは自分の予想通りの結果に少し目を落とす。
旅人は言う。
「何が何だかよく分かんないんだよね。なんか色々ごちゃごちゃしてるし、難しかったよ」
「……そう」
案の定だった。だから別にショックでもない。悲しくもない。難しいという旅人に自分の事を聞いてもらおうなんて自分勝手だった。
その気持ちをエスは目を落とす以外は顔にも出さない。
「でもね」と旅人はエスを見て話始めた。
「面白かった。ジェイムスとリタとリチャードの奇妙な物語もフロイトの話もおかしくて笑えてね。
いきなり現れたあいつに慌てふためく巨大知性体達も超超超……いくつあったか忘れたけど超越知性体とユグドラシル&ボビーも。
変な精神病もだし最期の何か始まるぞって感じも面白かった。ジェイムスもリタへの思いを取り戻してて、あれリチャードが黒幕だと思うの!
最後もよく分かんないけど面白かった!」
素っ気なかった評が熱い口調に変わって感想を吐き出した。笑顔で言って、地味に肩を持っていた旅人の手をエスは払いのける事ができなかった。
すましたエスの顔に亀裂が入って俯く。
「ありがと、エス。また自我を在らしめたよ」
「……それは、よかった」
本当に安心したように震えているエスに冗談めかして言った旅人が慌てる。
「エス! 大丈夫! EGO王に何かされた! おっぱい揉んでいい?」
「いい訳ない!」
突然の暴言に思わず顔をあげたエスの顔をぴたり、と旅人の手がはさんだ。
「ほら、泣いてる」旅人は涙目のエスを見て言った。
「泣いてない」エスは旅人を睨み付けて言った。
そうして視線をぶつけたまましばらく見つめ合う。先に目を反らしたのはエスだった。エスに旅人は言葉をかける。
「エスも何かあったら甘えていいんだよ」
「じゃあ……」エスは目は反らしたまま遠慮がちにきりだす。
「甘えていい?」
「喜んで」
「で、なんでこうなってるのかしら」
「甘えるといえば膝枕でしょ」
元の素っ気ない声に戻ったエスに旅人は得意気に返す。部屋のベットに座った旅人は恥ずかしそうに頭を膝に乗せたエスを撫でていた。
「それで、エスは何があったの?」
真剣な物言いにエスは答えた。
「その……あの本、私は好きだけど、あまり本を読まないあなたにはちんぷんかんぷんじゃないか、って思って、でも分からなくてもわたしが教えられるし、お互い知ってる作品で話すのはとても楽しそうに思えて。
でも貸してからあなたがここにくる回数が減って、自分勝手な事を考えてたんじゃないかって思うとあなたに申し訳なく感じて、でも楽しみだったから……」
つらつらと語り出す。しかし途中から表情が暗くなるのを見て、止めにはいる。
「エス、私はこれ面白かったって言ったじゃん。よく分かんないって言ったけど」
「だからよかった、って言ったの。面白かったって言ってもらえて嬉しくて……だから大丈夫よ」
エスは仰向けに姿勢を変えて下から旅人を真っ直ぐ見上げた。その目に強いエスを見てとって旅人は目を見開いてからけらけらと笑う。
「えっ、じゃあ嬉しいエスにあんな事言ったの! 恥ずかし!」
「そうね。でもありがとう」エスも笑って言う。
「どういたしまして」
◼ ◼ ◼ ◼ ◼
「ねぇねぇ、エス。まずこの『self-reference-engine』って何?」
「ずいぶんと抽象的ね。……作者と同じSF作家の神林長平は『オイラーの等式を文学的に表現しようと企図したと想像する』と言っていたわ。」
「オ、オイラー等式!?」
「他には『爆笑ソラリスの海ジョーク』と言った人もいたわ」
「爆笑!? ジョーク集だったの!?」
上であわあわと混乱する旅人に思わず笑みが溢れた。
「わたしは難しいものを楽しく読める小説だと思ってるの。オイラーの等式もソラリスの海も知らなくても、読むだけで不思議と面白く思える小説。あなたが面白いと思ったならきっとそれがわたしにとっての正解なのよ」
「エス、とても楽しそう」
生き生きと語るエスに旅人はもう一度膝の上のエスの頭を撫でた。エスは答える。
「ええ、今がとても楽しい」
暗い回廊。進み続けるEGO。睥睨する王”
また一つ新しい頁が書かれた。
解釈違いの方は刺してくださいね。