RE:ヒカルの碁 ~誰が為に碁を打つのか~ 作:faker00
「佐為に打たせてやれば良かったんだ……初めっから……」
日本棋院。大都会東京、そのど真ん中に位置するこの場所は、現在国内に凡そ200万人いると言われる、囲碁を嗜む者ならその誰もが知っているであろう、文字通りの総本山である。
しかしながら、実際にその場を訪れ、ましてや内部にある棋譜の保管庫を訪れたことがある人間は一体どれほどいるだろうか?
数日前に行われたようなタイトル戦から遠い昔、年号を数個飛び越えるほど遥か彼方のものまで。その歴史は確かに同じ足跡の中に連なっていることを証明する。
この日は雨が降っていた。それは、現在この場所を訪れている少年にとっては、その叫びをかき消してくれる幸いだったか、それとも彼自身の心を映すものだったのか。それは誰にも分からない。
ただ、咽び泣く声と嗚咽だけが、少年──進藤ヒカル以外誰もいない室内に反響する。
「誰だってそう言う。俺なんかが打つより佐為に打たせた方が良かった──全部! 全部!! 全部!!!」
全てを吐き出すような絶叫。
それでもヒカルの激情は収まらない。棋譜が煩雑にばらまかれた机に両の拳を叩き付けると、目に写るそれら全てが心を逆撫ですると、思いっきり右から左に払い除ける。
まるで散っていく花びらのようにヒラヒラと空を舞う"彼"の棋譜。
それすら見たくなくて、自らが犯した最大の失着を受け入れられなくて、ヒカルは天を仰いでまた叫ぶ。
「俺なんかいらねえ! もう打ちたいって言わねえよ! だから──」
「神様! お願いだ! はじめに戻して! アイツと会った一番はじめに時間を戻して!!」
それは、心からの願いだった。
だが、それに応える声など有りはしない。この時期特有の冷たい雨の音だけが、何もかも吐き出したヒカルの耳に、静かに響く。
「ははっ──そんなの無理に決まってるよな……」
最大の奇跡と幸福は今まですぐ目の前にあったのに、それを投げ棄てたのは他ならぬ自分だ。
そんな自分がまた何かを願うなんて、どうかしてるとしか言い様がない。
自身のムシが良すぎる考えに吐き気を催しながらヒカルは空虚に笑った。
その瞳は光を失い、頬を涙が伝いつづけている感覚すら最早無くなっていた。
そのまま覚束無い足取りで保管庫を出ると、玄関へと歩を進める。
「おい、きみ──!」
「大丈夫、大丈夫だから」
「そんなわけがないだろう! ほら、貸してあげるから持っていきなさい!」
「……ありがとう」
この雨空の中、傘も差さずに外へ出たヒカルは明らかに異常だったのだろう。血相を変えた職員が彼の後を追い、ただならぬ空気に気圧されながらも傘を差し出す。
その傘を力無く受けとるヒカル。
その間も、彼の顔には先程からの渇ききった笑い……いや、嗤いが一時として離れること無く張り付いていた。
「あの子は──何もなければ良いが」
今夜は雷も落ちるらしい。
とぼとぼと、今にも崩れ落ちそうになりながら去っていくヒカルを不安げに見守りながら、職員は雨足が強くなってきた空を眺めた。
「ははは……」
俯いたままのヒカルは、まるで壊れてしまい、そのまま止まらなくなった玩具のように機械的に嗤い続けた。
ことこのタイミングにおいて、降りしきる雨は彼にとって幸運だったと断言できる。
そうでなければ、一目で異常と分かる彼は早々に警察に通報されていたことだろう。
ヨロヨロと揺らめく。歩道と車道の区別の無い道でその歩みは余りに危険だった。
「──!! バッキャロー! 気を付けやがれ!!」
大きなクラクションの音と共に怒号が降りかかる。
それが自らに向けられたものだとヒカルが気付いたのは、その発信源である軽トラックがとうに自分の横を通り抜け、先にある曲がり角に差し掛かってからだった。
──いっそのこと、俺を轢き殺していってくれればよかったのに
ボーッとする頭で、なんの感慨もなくそんなことを考える。
そうすれば、もしかしたら自分がいなくなったスペースを埋める為に佐為が帰ってくるのではないか、なんて思考が頭を巡る。
消えてしまいたい。それが今のヒカルにあるたった1つの感情だった。
「あ──」
そのような事を考えていても、習慣は身に付いているようだ。
目の前の信号が赤になっていることに気づき、ヒカルは足を止める。
絶え間なく横切っていく車の波、ぶつ切りのフィルムのように色もなく断片的に視界に入ってくるそれを流し見る。
何故佐為は消えたのか──知らない、けどアイツに打たせてやっていればこんなことにはならなかった
何百回、何千回、それこそこれまでヒカルが佐為と打ってきた碁の数と同じくらい繰り返した自問自答の答えは決まっている。
自分が打とうと思ったのがいけない。全ては囲碁の神に愛されたアイツに捧げるべきだったのだ。そう、江戸時代、佐為の実力を理解し、委ねた虎次郎──本因坊秀策のように。
自らもプロとなった今なら分かる。アイツなら、佐為なら、この時代の囲碁をより高みに導けた筈なのだ。
──ごめんな、塔矢
これまで佐為一色だった脳裏に、ライバルだと信じたかった青年の顔が浮かぶ。
そうだ、自分は彼からも道標を奪ってしまったのだ。終生の道標を。頑固な塔矢の事だ。何年も、何十年も、もういない佐為の亡霊を、いつまでも追いかけ続けるに違いない。
初めから分かっていた。その隣にいるべきは自分ではなく、前を行く佐為こそふさわしかったのだ。
出来ないものに憧れて、全てを壊してしまった。
悔恨の念は止まることを知らない。
「……俺は、もう打たねえ。もしも打つことがあるとしたら──」
それは佐為とだけだ。アイツの為に俺はいる。
進藤ヒカルなんて碁打ちは、この世にいらない。
信号が赤から青に変わる。
水溜まりに足が嵌まることも気にせずヒカルは一歩を踏み出し──
「え──」
眩しい光と、耳をつんざくブレーキ音に気付くと同時に意識を手放した。
────
「ヒカル……起きなさい! ヒカル!!」
「んー……なんだよ。今日は日曜日だろ……」
「何言ってんの! あかりちゃんそろそろ来ちゃうわよ!」
「あかり──?」
なんのことだろうか。台所にいるであろう母である美津子の呼ぶ声に、ヒカルは目を擦りながらゆっくりベッドから起き上がる。
いつの間に自室に戻り寝てしまったのだろうか。
そもそもあかりがもうすぐ来るとは何の事なのか?
色々と気になる点はあるが、取り敢えず聞けば良いだろう。そう結論付け、ベットから降りて壁に掛けてあるはずの制服を取ろうとし──
「あれ──」
本来あるべき場所にそれが無いことに気がついた。
脱ぎ散らかしたのかと思い辺りを見渡すが、どこにも見当たらない。
しかし、それ以上にヒカルに違和感を覚えさせたことがある。
「碁盤が……ない」
有り得ない。
ヒカルは背筋から血の気が引くのを感じた。あの碁盤が、佐為と何度も何度も碁を打った思い出の碁盤、常に部屋の中央、そしてヒカルの人生の真ん中に位置していたそれが、無くなっている。
「うそだろ!? そんな、そんなわけ!!」
漫画が散らばる床を掻き分け、ベッドの下もくまなく探すが見当たらない。
無い、無い、無い、混乱と焦りだけが募っていく。
「なんで、なんで、なんでなんだよぉお!!」
「煩い!! さっさと支度しなさい!」
「ほっといてくれよ!!──」
端から見れば完全な八つ当たりだが、当のヒカルが気付くわけもない。
ドアを開けたのであろう美津子を思いっきり睨み付け──その後ろからひょこっと顔を出した少女の姿に言葉を失った。
「ヒカル……早くしないと6年生初日から遅刻しちゃうよ?」
幼なじみの藤崎あかり、彼女がここに来ること自体はそれほど珍しいことではない。
昔からそうであるし、ヒカルが囲碁に打ち込むようになってからも彼女も囲碁部に入部することで、彼が院生になり、プロになっていくなかでその頻度こそ落ちさえすれど、交流自体が無くなることは無かった。
だからそれは良い。ヒカルが言葉を失ったのは彼女がここにいる事実そのものについてではないのだから。
問題は──
「あかり……お前、何でランドセル?」
現在中学3年生として受験勉強真っ盛りの筈の彼女が、何故当たり前のような顔をして真っ赤なランドセルを背負っているのか、と言うことだ。
─────
「ねえ
「ん、どーかした?」
「いや、入学式の直前に言うことじゃないけどさ……あんた、ほんとに高校進学なんかして良かったの? 忙しいでしょ、囲碁のプロって。只でさえ中学の後半は結構休んでたってのに」
「まあどうにかなるでしょ。最悪ギリギリの出席日出ておけば後はテストの点数さえ取ってれば卒業は出来るだろうし」
「……風鈴は腹立つくらい頭良いからね。寄越せ、その顔か頭脳か、どっちか半分で佳いから寄越しなさい!」
「ちょっ!? やめて、まだ入学式すら終わってないのに目立つのは嫌だって!」
中学からの友人であるあっちゃんが私の頬を摘まむ。
基本的に入学式なんてものは、皆静かに、杓子定規か! と言いたくなるくらい同じように背筋を伸ばし、同じように姿勢を正して座っているものである。
そんな中でこれは不味い。周りからの嫌な視線を感じて、直ぐにあっちゃんの手を振りほどいた。
「はいはい、分かった分かった。勿体無い……風鈴はなんもしなくても美人なのに、中身は基本囲碁の事以外スッカラカンの残念で見ているこっちがやきもきするわほんと」
「余計なお世話だよ。私はね、ただ楽しく学校生活を送りたいの。囲碁は大好きだし、将来人生懸けて戦っていく覚悟もある。けど、学生生活は今、この時、10代でしか楽しめないんだから……!」
そう、星目風鈴、ほぼ囲碁用語のこじつけだ。
こんな名前を付ける時点で私の家族構成は大体分かるだろう。大の囲碁馬鹿と言ってなんら問題ない。
まあその囲碁馬鹿成分の内訳は父6:私3.5:母0.5程度でほぼほぼ父が引っ張っているようなものではあるのだが……
とにもかくにも、私の人生は碁盤と共にあった。何せ、学校行事以外のプライベートで幼少の頃から撮られてきた写真を見返してみれば、碁盤、もしくは碁石が私と一緒に写っていないものが無いのだ。
例外1つ無い。幾らなんでも海の写真で碁石を持ってピースしてるのは流石にどうなのか? 白に黒縁取りの浮き輪だけでは満足できなかったのか?
そんな私が囲碁に興味を持ち、のめり込んでいくのはある意味必然だったのかもしれない。
段位を付けるなら、アマ有段の中でもかなり高位に位置できるだろう父と毎日毎日飽きるでも無く打ち続け──何故プロになろうとしなかったのか不思議なほどの情熱である──絵本を読んでくれるのかと思い父の膝に乗ってみれば、何故か月間囲碁ワールドの音読と父の解釈論評が始まるなんて事も日常茶飯事な我が家において、私は普通ではあり得ない常識の中で私はメキメキと力を付け──そして中学1年生の秋にはプロになった。
女流でこれはかなりの快挙であるらしいことは、当時の私にも何となく理解出来た。
そうしてプロの世界での道を進んでいくなかで、1つの違和感が生まれていることに私は気がついた。
そう、今考えてみればまともな学生生活を送っていなかったのだ。
部活動、16時には帰宅して21時まで基本囲碁オンリーだったのですがどこにそんな時間が?
友達、同上。あっちゃんには本当に感謝している。因みに私は運動はそう得意ではない。
恋愛……父に殺されること請け負いだ。誰がと言われれば、私も、その可哀想な彼氏も、両方である。
そんなことに気がついたのは、上へと勝ち進むことが増え、対局が忙しくなり、中々学校に顔を出せなくなり始めた中2の冬の事だった。
いくらなんでもこれは寂しすぎる。遅かれ早かれ20や其処らからは人生の100%を囲碁に注ぎ込むつもりでいるというのに、残された時間もこれなのは如何なものか?
その事実に焦り、囲碁に裂く時間を減らさないことを条件に父に土下座までして頼み込みなんとか高校への進学を許可してもらい、受験勉強に励み今に至る。
冷静に考えれば娘に中卒を当たり前のように勧める父親もどうかしてると思うが……囲碁社会は普通じゃないから仕方無いと諦めるしかあるまい。
「はいはい。分かった分かった。それならひとつアドバイス。普通のJKはヒカルの碁を鞄に10巻も詰め込んでこない。覚えておきな」
「う……仕方無いじゃない。好きなんだから……」
そんな私の数少ない娯楽。それが、十数年程前に一世を風靡した囲碁漫画、ヒカルの碁である。
まさしく聖書、まさしくバイブル。キャラクターの魅力は元より、囲碁に懸ける情熱がどこまでも心地よいのだ。
と言うわけで常日頃から持ち歩いているのだが……異常だという自覚はある。自重する気が無いだけだ。
「その言葉と上目使いを向ける相手を私じゃなくて男にすれば良いのに。あ、先生入ってきた」
皆の視線が一斉に前へ向かう。見てみれば、校長先生と思わしき初老の男性が壇上に上がったところだった。
前置きが長くなったが、なんにせよ、私の輝かしい高校生活はここからはじまりのだ!
なんて事を考えているうちに私の瞼はどんどんと重くなり──そのまま眠りに落ちた。
────
「な、なにこれ……」
目を覚ました私に待っていたのは絶望だった。
説明しろと言われても無理だ。だって私にも分からないのだから。
現状を整理しよう。私は星木風鈴、15歳、今日から花の女子高生である。
県内でも可愛いと評判の制服をバッチリ着込み、入学式に挑んでいた筈である。
だというのに──
「今日から皆のお友達になる、星木風鈴ちゃんです。皆、仲良くしてあげてね」
何故私は、ランドセルを背負い、転入生として優しそうな先生の紹介を受けているのか?
そして、ワタシよりも5つほど年齢が下である筈の小学生から熱烈な歓迎を受けているのか。
何も理解出来なかった。
「──もしかして私の高校生活、始まる前に終わった?」
どうもはじめまして!faker00です!
ヒカルの碁、大好きですし素晴らしい二次名作もあるのですが、現行作はやはり中々少ない……と言うことで、私自身で書いてみようと思い当たった次第です
"未来の本因坊"更新されないかなあ……
と言うわけで、宜しくお願いします!
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