疾風走破の鬼畜レッスン   作:gohwave

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第5話「疾風走破と漆黒の英雄」

◇◆◇

 

(まるで勝てる気がしませんわね……)

 

 レイナース・ロックブルズは笑みを浮かべながら、持っていた槍を半身で構える。

 その笑みは彼女が貴族であった頃、武芸師範に教わった槍術の極意だ。

 

 レイナースの持つ槍は集団戦で槍衾を作るような物ではない。

 長さはそれの半分ほど。

 重さは同じくらいか、やや重いくらい。

 敵騎馬の突撃を食い止めるために普通の人間なら石突(いしづき)で支えて使う重さを、レイナースは軽々と振り回すことが出来る。

 

 実家で身につけた槍術はレイナースを一流の戦士に仕立て上げた。

 彼女は槍を振るって領地に出没するモンスターを討伐し、その(いさお)しと美貌によって多くの領民に愛された。

 それからいくつもの出来事が重なって、悩みを抱えたレイナースはバハルス帝国皇帝ジルクニフの騎士となる。

 更に数年が過ぎて、皇帝の配慮とアインズ・ウール・ゴウン魔導王の慈悲により彼女の悩みが解決してしまった。

 魔導王にはどれだけ感謝してもし足りない。

 無論、この機会を用意してくれた皇帝にも、だ。

 

 レイナースの目の前の女はただ立っていた。

 両肩からは力が抜けていて、手も腰の細剣(レイピア)の柄に添えているだけ。

 それは武器の構えという訳ではない、ただの自然体だ。

 だが細くしなやかな身体の内に、爆発的な力を溜め込んでいるのがレイナースには分かる。

 

 自然体の女はクレマンティーヌ。

 そして元秘密結社の女でもあった。

 

 彼女が魔導王の覚えめでたいと聞いてレイナースは(ねた)み、喜んだ。

 地下大墳墓で見たような化け物でなくとも、人間の女でも魔導王の寵愛を受ける資格があると知ったからだ。

 

 同じ任務を任せられたことも幸いだった。

 より良い成果を出せば魔導王から評価されることは間違いない。

 魔導王から賜った恩を全身全霊をもって返すのだ。

 

 かつて“重爆”と恐れられた彼女の爆発的な攻撃力は失われている。

 それでも並の冒険者や冒険者見習いを叩き伏せるだけの力と自信は残っていた。

 だが、そんな彼女の自信は地下広場でクレマンティーヌと対峙したときに大きく揺らぐ。

 

 レイナースの自信が揺らいだのは三度目だ。

 初めては、リ・エスティーゼ王国のガゼフ・ストロノーフを前にしたとき。

 二度目は、ナザリック地下大墳墓を訪れたとき。

 そして今、自分と同じ女であり同じくらいの年齢、同じ人間を前にしたこの瞬間。

 

 得物の長さを考えればレイナースの方が圧倒的に有利と言える。

 クレマンティーヌのレイピアの長さは、せいぜいレイナースの槍の四分の一程度。

 レイナースの槍の穂先は左右に横刃が出ていて、突いても引いても相手への攻撃になる。

 その上、地下広場は障害物のない開けた場所であり、槍を振るって邪魔になるものはない。

 

 でも勝てる気はしなかった。

 だが負けるつもりもない。

 

 レイナースは右手で槍を軽くしごくと息を止め、左足を大きく前に踏み出した。

 

 三度突いて、三度空振りする。

 避け難いとされる胴から下を狙ったのに、だ。

 

 クレマンティーヌは僅かに左にずれただけ。

 彼女の足元の砂に大きな乱れはない。

 

「ふう……」

「さっすが四騎士、槍が速いねー」

 

 クレマンティーヌがにいっと笑った。

 繰り出した槍を最小限の動きで避けられた立場としては、その言葉は煽りにしか聞こえない。

 それでもレイナースは憤ることはなく、相手との力量差を冷静に測る。

 

「んじゃ、こっちも始めるとしますか」

 

 彼女はおもむろにレイピアを抜く。

 紅く輝く刃から熱気がふわりと広がった。

 熱を感じた瞬間、レイナースはもう一度前に踏み出した。

 

 先と同じ三度の突きは、先と同じ様に当たらない。

 

 更にもう一歩、身体を進めて穂先をやや左に流した。

 先読みの博打に()()()ひと突きを、クレマンティーヌはなんなく避ける。

 素早くレイナースは右手を引き付け、槍を横に薙いだ。

 

 こうなると飛ぶか伏せるかの二択だ。

 どちらにせよ相手の動きが鈍ることになる。

 

「!?」

 

 クレマンティーヌが横薙ぎの槍を手で掴んでいた。

 掴んだ手を切ろうとレイナースは槍を引いたが動かない。

 

 腕力には自信があった。

 帝国騎士同士の力比べでも負けたことはない。

 そんなレイナースが両手で引いても槍は微動だにしなかった。

 

(――それなら)

 

 相手の腕力が並外れていたとしても、体重以上の重さにはなることはない。

 レイナースは槍を持ち上げた。

 

 意外なほど簡単に持ち上がった槍の先、レイナースの真上にクレマンティーヌが居る。

 その彼女を目掛けて飛び上がろうとして――、

 

「それまでっ!」

 

 魔導国冒険者組合長の声が地下広場に響いた。

 

 真紅のレイピアがレイナースの首筋に当たっていた。

 懐の短剣を掴んだ右腕は相手の左腕に止められていた。

 クレマンティーヌはレイナースの槍に脚を絡め、自らの身体を空中に留めていた。

 それはバハルス帝国の園遊会で見た踊り子の技にも似ていた。

 

「ふー危ない危ない。組長が止めるのが遅かったら斬っちゃってたよー」

 

 レイピアを軽く振りながら、クレマンティーヌがアインザック組合長に悪戯っぽい笑みを見せる。

 レイナースには分かっていた。

 制止される前から、クレマンティーヌは剣を止める気でいたことを。

 つまり余裕を持って遊ばれてしまったということだが、それでもレイナースに悔しさはない。

 

 この模擬戦では両者共に武技を用いないと取り決めていた。

 武技で力量差を埋められる場合はあるが、レイナースとクレマンティーヌの場合は差がより大きくなっただろう。

 

「組合長だ。……優秀な指導員を失いたくはない。クレマンティーヌ君も、レイナース君も自重して欲しい」

「はーい。でも、うちらも強くなんないといけないからね。ヤり合う機会は作ったほーがいいと思うよ。……ねぇ?」

「そうですわね。指導員にも鍛錬の時間は必要だと思いますわ」

 

 槍に穂鞘を被せながらレイナースは同意する。

 それは強がりではない。

 

 アインズ・ウール・ゴウン魔導国を訪れたとき、レイナースは長らく抱えていた問題を魔導王の慈悲によって解決することができた。

 そして、それによって持っていた力の一部を失ってしまった。

 力を失ったということは、取り戻せるということだ。

 今の自分には()()()()がある。

 レイナースは自分の顔に手を伸ばし、その滑らかな感触に触れて微笑んだ。

 クレマンティーヌが訝しげに顔を顰めるが、それも気にはならなかった。

 

 これからは指導員として冒険者を育てつつ、レイナース自身も強くなる。

 魔導王が要求する強さには、見習いたちは無論のこと指導員であるレイナースでも届いていない。

 より強くなろうと言うクレマンティーヌの言葉は切実だ。

 そして、先にやるべきことはいくつもあった。

 

 組合長がひとつため息を吐く。

 

「我々の切磋琢磨も重要だが、訓練所(ここ)について検討すべきことはまだまだ残されている。この後、時間はとれるかね?」

「勿論、構いませんわ」

「いーよー。でもさ組長。若い女を二人も侍らせると奥さんにドヤされるんじゃなーい?」

「……組合長だ」

 

 組合長は顔を顰めつつ、地下広場の出口に向かって歩き出した。

 クレマンティーヌはレイナースには一瞥もくれずに組合長の後を追う。

 

(次は武技ありで戦えるようになりたいですわね……)

 

 軽装の女戦士の後姿を見ながらレイナースは思った。

 

◇◆◇

 

 組合長たちとの小会議を終えたクレマンティーヌは、ひとり訓練所を後にした。

 今日の訓練報告も併せて済ませたので、これから冒険者組合に顔を出す必要はない。

 

 訓練所と検問所の間には屋台がいくつか出ていた。

 いずれの屋台にも魔導国の旗が立ててあるところを見ると、あれが営業許可証代わりなのだろうか。

 そんな商魂豊かな屋台の間を縫うように、土地の測量をしているドワーフの姿が見られる。

 目的は街道の整備なのだろう。

 もしかすると新たな城壁を設ける下準備なのかも知れない。

 

(まぁ、城壁があろうとなかろうと、魔導国(ここ)に喧嘩を吹っかける国があるとは思えないけどね……)

 

 分析とも諦観ともつかない思索に耽りながら、クレマンティーヌは串焼きや焼き菓子の誘惑を振り切って歩き出した。

 やがて巨大な二体の魔導王像が睥睨する検問所へと到着する。

 

 クレマンティーヌは入城許可を待つ必要はない。

 通るときに軽く片手を上げ衛兵に挨拶をするだけだ。

 冒険者組合の指導員プレートにはそれだけの効果があった。

 

 入城許可を待つ商人や旅行者を尻目に悠々と門を通り過ぎる。

 ただし門の両脇に立つデス・ナイトには小さな会釈をしてしまう。

 返事が返ってきたことは一度もないのだが。

 

 そのまま大量の荷物とそれを運ぶ荷役、それを検査する徴税人と徴税アンデッドが行き交う外周部を抜け内周へと入る。

 

 昼下がりのエ・ランテルの大通りは最も活気付く時間だ。

 クレマンティーヌのように一日の仕事を終えて帰路に就く者。

 馴染みの酒場へと向かう者や晩の食事のために買出しをする者。

 魔導国への入国を果たして今日の宿を探している者も居る。

 そんな大通りの喧騒から外れて、クレマンティーヌはエ・ランテルの北東部へと足を向けた。

 魔導王に言い渡された住宅の購入を検討するためだ。

 

 円状の城壁都市エ・ランテルの外周部は軍事拠点と共同墓地、それと荷物の中継場所になっており私的な利用が認められていない。

 中央部は主に為政者のための地区であり、魔導王の居城や他国の領事館などに使用されていた。

 エ・ランテルに居を構えるとすれば基本的に内周部にあるどこかの家を買うことになる。

 

 金さえあればどこの家を買っても良いのだが、クレマンティーヌとしてはあまり金は使いたくない。

 それに加えて場所への希望も少なからずあった。

 

 まず第一に魔導王の居城がある中央部から出来るだけ離れたかった。

 ユリ・アルファの孤児院があり、嫌な思い出に満ちた共同墓地もある西側も避けたい。

 そうなると東側ということになるが、南に寄るとスレイン法国に近付くことになるのが不愉快だ。

 街の中で他国との距離を気にしても仕方がないのだが不愉快なことに変わりはない。

 自ずとクレマンティーヌが住居を探す場所は北東地区になる。

 家の値段が高い大通りから離れて、ようやくクレマンティーヌが検討できる地域に入った。

 

 王国時代にはスラム化が進んでいたその地域も、魔導国の統治になってから再開発が進んでいる。

 古い建物は作り直されるか取り壊され、明るい様相に様変わりしていた。

 新しい建物が数多く建築中であり、作業をしているアンデッドを指揮しているのはドワーフだ。

 

 かつてそこに住んでいた者達はエ・ランテル周辺の開拓村へと派遣されたらしい。

 クレマンティーヌはアインザック組合長からそう聞いている。

 

(……本当にそんな村があんのかね?)

 

 漆黒のモモンが確認したから間違いないとアインザックは確信していた。

 だが、モモンの正体をしっているクレマンティーヌとしては疑わしいことこの上もない。

 

(あの地下墳墓で()()()()実験台になってんじゃないだろーな)

 

 別に他人がどうなろうとクレマンティーヌに同情する気はない。

 ただ魔導王の言に盲目的に従い自ら死地に赴くような愚を避けたいだけだ。

 そのためには開拓村の真の姿を一度見ておきたい欲望に駆られる。

 

(外に出りゃ逃げ道だって見えてくるかもね……)

 

 逃げるためには魔導王の不興を買って殺される訳にはいかない。

 疑われずに済むようエ・ランテルの住居を決める必要がある。

 

 まず魔導王に対する間諜対策は無駄だとしても、クレマンティーヌを陥れようとする者たちへの牽制は必要だ。

 集合住宅(インスラ)よりは一戸建て(ドムス)の方が良いだろう。

 次に管理の面倒さを考えたら、庭は要らないし、そもそも大きな屋敷である必要もない。

 とはいえ冒険者組合の指導員という立場がある以上、来客のための応接室や寝室、場合によっては馬車小屋も要るだろう。

 理屈で条件を詰めてはいるものの、これまで家というものを持ったことのないクレマンティーヌには感覚的に分からないことが多い。

 加えて現在、寝泊りしている黄金の輝き亭は最高級の宿屋であるからだろう。

 客である彼女に対して何が便利なのかさえ気付かせない。

 

(戦術についてだったら、もうちょっと分かるんだけどねー)

 

 レイナース・ロックブルズとの模擬戦は楽しかった。

 全てがクレマンティーヌの思い通りに進まなかったことも良かった。

 クレマンティーヌが勝てたのは、彼女の能力を把握していたことと地力の差だ。

 仮に武技ありで戦ったとしたら負けることはないにしても、あれほどの余裕は見せられなかっただろう。

 

(帝国騎士ってのも馬鹿にしたモンじゃないか……)

 

 そこまで考えてクレマンティーヌはあることに思い至る。

 

(そっか。女騎士さんに聞けばいいじゃん、家のこと)

 

 領地を持っているかどうか知らないが、帝国に持ち家くらいあるだろう。

 それに今、彼女が住んでいる帝国の領事館も条件の叩き台になる。

 逃亡計画を悟られる訳にはいかないが、そのあたりを誤魔化して話すくらいクレマンティーヌには造作もない。

 

(明日、暇なときにでも聞くか……)

 

 ぼんやりと手探りで進めていた状況の中、ようやく次の行動の指針が見えてきた。

 気持ちが落ち着いたクレマンティーヌが周囲を見回す。

 

 そこは北東部でも大通りからかなり離れた場所だ。

 外周部と隔てる外壁も近くにそびえ立っている。

 このあたりではないが亜人に開放している地区もあるらしい。

 

 人間も亜人もクレマンティーヌにとっては大差ない。

 親しくする気はないが、カモフラージュのために近所付き合いをしてみせる必要はあるかも知れない。

 

(隣の家にドワーフやゴブリンが住んでたらどんな挨拶すりゃいーのかね? ビーストマン()があったら人間の肉をおすそ分けするとか?)

 

 エ・ランテルで頻繁に見かける亜人といえばドワーフとゴブリンだ。

 特にドワーフはエ・ランテルの土木と建築に大きく関わっており、街に長期で滞在している者も多い。

 職人組合にも所属していて、そこから資金を借り受け、滞在費を賄っているらしい。

 現在は地区でまとめられている亜人たちだが、魔導国の住人として存在する以上、いずれ隣人として現れる可能性はなくはない。

 

 ドワーフたちが滞在費を借り受けているように、組合を通じた貸付は魔導国の産業全般で行われている。

 商人組合も積極的に貸付を行っていて、訓練所周辺の屋台の店主は、それを元手に商売を始めたと言っていた。

 クレマンティーヌの懐にある金も、その一部は冒険者組合を通じて支給されたものだ。

 

 組織を通じた経済支援制度は、スレイン法国の六大神殿でも行われている。

 だが、それは特権階級か国への多大な貢献をした者に限られていた。

 魔導国のように普通の国民にまで適用させた事例を、クレマンティーヌは知らない。

 

 これほどまでに国民を優遇できるのは、魔導王が所有していると噂されている莫大な財宝があるからだろうか。

 エ・ランテル中央部に魔導国の国営銀行があると聞いている。

 国民にばら撒くだけの金があるとして、魔導王が生者の経済活動を支援する理由は未だ不明だ。

 

 支援は経済に関することばかりではない。

 孤児院を建てたり、冒険者を育成したり、神殿勢力からの協力を期待したりと、あのアンデッドのやることは常識から外れている。

 

(そういえば、六大神の一柱はアンデッドだったと聞いたことが……ん?)

 

 クレマンティーヌは奇妙な臭いが漂ってきたことに気付いた。

 魔導王のことを考えながら歩いているうちに、薬師の工房地区に入ってしまったようだ。

 漂ってきたのは様々な薬草を煮詰める臭いだろう。

 

 ポーション屋と工房を兼ねた建物が並んでいる中、ひときわ大きな工房然とした建物が目に入る。

 その建物にクレマンティーヌは見覚えがあった。

 リイジー・バレアレの工房だ。

 今は閉鎖されているようで、入口には大きな鍵がかかっている。

 

 縁のあるバレアレ家についてクレマンティーヌは色々と情報を集めていた。

 リイジー・バレアレとその孫ンフィーレアは、アンデッド騒ぎの後にカルネとかいう近郊の村に移ったらしい。

 薬草の研究に没頭するためというのが、その理由らしいが本当のところはどうだろうか。

 カジット・バダンテールの儀式のため、クレマンティーヌが攫ったことも無関係ではあるまい。

 

(何気に聞き流していたけど、そーいやあの子、生きてたんだっけ……)

 

 自分が傷つけた少年の整った顔を思い出す。

 

 移住については十中八九魔導王の差し金だろう。

 だが魔導王とカルネという村がどんな関係にあるのかは不明だ。

 そもそもカルネなんて村が存在するのかどうかも疑わしい。

 仮にンフィーレアという少年がまだ生きているならば、クレマンティーヌが死んでからの事を何か知っているかもしれない。

 

 あまりポーションの需要がないのか周辺に人通りは少ない。

 住む場所として考えれば、この静けさはクレマンティーヌの好みだ。

 しかし――、

 

(この臭いは無理だね……)

 

 騒音はどうにかなるとしても、悪臭は窓を閉め切ったくらいではどうにもならない。

 自分が住むことを考えると、薬師の近所は候補から外した方が良さそうだ。

 クレマンティーヌは工房地区に背を向けようとした。

 

「――おい。下等生物(モモブトシデムシ)

「あん!? なにが――ひっ!」

 

 後ろから声をかけられクレマンティーヌは振り返り驚愕する。

 立っていたのは地味な冒険者装備に身を包んだポニーテールの美貌の持ち主だ。

 クレマンティーヌは慌てて膝を突くと臣下の礼を取った。

 

「これは……こんなところで、まど……モモン様の()()()であるナーベ様にお会いできて光栄です」

 

 モモンの正体が魔導王であることは口外できない。

 クレマンティーヌは死ぬ訳にはいかないのだから。

 

(たしかナーベラルとか言っていたけど……そっちの名前は出さない方がいいよな……?)

 

 見下すような視線に腹を立てながらも、クレマンティーヌは生き残るための努力を怠らない。

 

「余計な挨拶は不要です。私に付いてきなさい」

 

 ナーベラルはそれだけを言うと、さっさと歩き出した。

 クレマンティーヌは慌てて立ち上がると、急いで彼女の後を追う。

 

 ナーベラルの歩みには迷いがなく、後ろを振り向く気配はない。

 それはクレマンティーヌが後をついてくること、そして後ろから襲われないと確信したものだ。

 相手の思い通りに動かざるを得ない自分に、クレマンティーヌは腹を立てるが致し方ない。

 黙って地味な冒険者装備の女について行く。

 

 艶々とした黒髪のポニーテールが彼女の歩調に合わせて揺れている。

 ナーベラルを日中に見たのは初めてだ。

 異常なまでに整った美貌にクレマンティーヌは先日墓場で見たメイドのことを思い出す。

 

「ユリ・アルファと同じ、か……」

 

 思わず呟きが洩れる。

 その瞬間、ナーベラルが立ち止まって振り向いた。

 その冷たい瞳がクレマンティーヌを射抜くように見つめている。

 

「……何か言いましたか?」

「あ。い、いえ! ナーベ様はアルファ様と同じくらいお美しいと思っただけです、ハイ」

 

 詰問するような問いかけにクレマンティーヌは慌てて取り繕った。

 ナーベラルの顔が少し呆けたように見える。

 

 クレマンティーヌは慌てる。

 よく考えたら意味不明なことを口走ってしまった。

 ナーベラルがアルファのことを知らない可能性だってあるのだ。

 

 ナーベラルはしばらくクレマンティーヌを見つめた。

 呆けた状態からは回復しているようだが、相変わらず何を考えているのか判らない表情だ。

 

 ナーベラルもアルファも魔導王に連なる者であることは間違いない。

 もしかすると魔導王の寵愛を求めて、争い合っている立場なのかも知れない。

 仮に対立していたとしたら、ナーベラルはアルファよりも美しいと答えるべきだっただろうか。

 

「……ありがとう」

「え?」

 

 意外な返答にクレマンティーヌは戸惑う。

 だがナーベラルはそれ以上何も言わず、再び歩き出した。

 彼女の反応は不可解だったが、それ以上追及されることは避けられたらしい。

 

 途中から嫌な予感はしていた。

 ナーベラルは迷うことなく城壁を抜けて中央部へと入った。

 アインズ・ウール・ゴウン魔導王の居城があり、クレマンティーヌにとって最も行きたくない場所ではあるが仕方がない。

 黙ってナーベラルの後を付いていく。

 

 エ・ランテル中央部にある建物は、内周部の建物に比べて大きい。

 ただし建物自体の数は少なく、道幅にはゆとりがあった。

 

 途中、バハルス帝国の旗が掲げられている屋敷を見掛ける。

 あれが、おそらく帝国の領事館なのだろう。

 その場所をクレマンティーヌは頭に入れておく。

 

 嫌な予感の通りにナーベラルは魔導王の居城へと向かった。

 紫色のローブを纏ったアンデッドに一言告げてから中へと入る。

 クレマンティーヌもアンデッドに会釈して、恐る恐るナーベラルの後に付いて中に入った。

 

 ナーベラルは正面の屋敷には向かわず横道へと逸れた。

 ヒュオー、ヒュオーと不気味な獣の吐息が聞こえてくる馬小屋の横を通り過ぎる。

 

 周りの景色や建物の配置から考えると本宅ではなく別宅に向かっているようだ。

 そこに魔導王が待っているのか。

 別宅に呼び出して何をする気なのだろうか。

 

 ごくりと喉を鳴らすクレマンティーヌの横にナーベラルが立っていた。

 いつの間にか目の前に屋敷の扉がある。

 ナーベラルを見ると、その美しい顎をしゃくってクレマンティーヌに中に入るよう促した。

 

(ここが……私の墓場……)

 

 死を覚悟してドアノッカーに手を伸ばそうとして――、

 

「不要です。中に入りなさい」

 

 クレマンティーヌの覚悟は簡単に流されてしまう。

 ノブを掴んで扉を開けると、目の前に漆黒の鎧が立っていた。

 

「ひっ!」

 

 素早くクレマンティーヌは膝を突いた。

 

「こ、こ、こ、これは……とん、とんだご無礼をいたしましたっ!」

「いやいや無礼はこちらの方だよクレマンティーヌ殿。何かと忙しいだろう中、呼び立てて済まなかった」

 

 漆黒のモモンは不気味なほど友好的な態度で声をかけてきた。

 それから立ち上がるよう促され、クレマンティーヌは怪訝な面持ちでのろのろと立ち上がる。

 

「玄関先で立ち話もなんだ。中に入ってくれたまえ」

 

 モモンはクレマンティーヌの背に手を添えて、屋敷の中に入るよう促した。

 クレマンティーヌの後ろにはナーベラルが立っている。

 

(逃げられないように、か……)

 

 モモンは屋敷の中にある調度品について詳しい説明をしてくるが、クレマンティーヌの耳には入らない。

 ただ、やけに生々しい大理石の女神像に少し恐怖を感じただけだ。

 

 導かれるままに歩いて、クレマンティーヌとモモンは応接室と思しき豪華な部屋に入った。

 

「どうぞ。自由に座ってくれたまえ」

 

 そう言われてクレマンティーヌは、ソファーの扉に最も近い場所にちょこんと座った。

 

「飲み物を用意しよう。コーヒーで良いかな?」

「いえいえいえいえ。お気持ちだけで充分です、ハイ」

「遠慮することはない。組合から貰った良い豆があるんだ」

 

 モモンはそう言いながら、扉の近くのテーブルで豆を挽き始めた。

 漆黒の鎧に身を包んだ戦士が豆を挽く様は、クレマンティーヌにはシュールに見える。

 

 ふと気付くと、ナーベラルの姿が消えていた。

 クレマンティーヌを連れてくることだけが彼女の役目だったのだろうか。

 

 モモンはコーヒーを淹れたカップを、隙のない仕草でクレマンティーヌのテーブルの前に置いた。

 ふわりと漂うコーヒーの芳香にクレマンティーヌの緊張が緩みそうになる。

 そしてモモンはクレマンティーヌの横に座った。

 

(おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいっ!!!)

 

 パニックに陥ったクレマンティーヌだが、なんとか声を出すことを抑えた。

 

 人間にはそれぞれ自分の安心できる間合いがある。

 それは自分にとって有利な距離であり、言い換えれば勝てる距離ということだ。

 相手が弱ければどれだけ近づいても安心だし、逆に相手が強ければどれだけ離れても不安は拭えない。

 

 ここまでクレマンティーヌに近づけるということは、このモモンがそれだけの強者であることの証なのだろう。

 

「――ん?」

 

 モモンが頭を傾げてクレマンティーヌを見つめる。

 どうやらコーヒーを飲むことを期待しているようだ。

 

(飲むしかない、か……)

 

 クレマンティーヌは意を決して震える指でカップを取る。

 宝石のようなカップに口を付け、琥珀色の液体を口に含んだ。

 死への恐怖で味はおろか温度さえも感じない。

 

「す、す、素晴らしいコーヒーです……」

 

 クレマンティーヌは大雑把に褒めたが、モモンから返ってきたのはまるで別の言葉だ。

 

「なるほど。クレマンティーヌ殿は素晴らしいマジックアイテムをお持ちのようだ」

「は、はい! どうも……ありがとうござい、ます……」

「それを見せていただいてもよろしいかな?」

 

 モモンが指し示したのは、クレマンティーヌが頭に装備していた獣耳だ。

 帝国の隠れ家で目覚めたときから持っていた物で、その効果は不明だったが見た目が気に入っているので常時身につけていた。

 

 戦いを生業としている者にとってアイテムは奥の手だ。

 特にマジックアイテムは奥の手の中の奥の手であり、その効果によって戦闘の勝敗が入れ替わることは頻繁にある。

 誰も自分が持っているマジックアイテムを他人に見せることはしない。

 逆に誰かが持っているマジックアイテムを見せろということもない。

 それは場合によっては、裸を曝け出すことよりも危険な行為だ。

 

 モモンの申し出を断ろうとしたクレマンティーヌの脳裏に、とある考えが浮かんでくる。

 

 マジックアイテムを見せない

  ↓

 モモンと争う意思あり

  ↓

 モモンは魔導王のときもある

  ↓

 魔導王と争う意思あり

  ↓

 そういえば屋敷を飾る調度品が欲しかった

  ↓

 大理石化の魔法

  ↓

 処刑

 

 魔導王の屋敷の入り口に飾られる大理石化した自分の姿をクレマンティーヌは幻視する。

 

「は、はい。よろ、よろ、よろしいです」

 

 素早く獣耳を外して差し出した。

 モモンは籠手をつけている手で器用に獣耳を受け取る。

 

 モモンがアイテムを見る様子は真剣そのものに見えた。

 ヘルムを被ったままというのがシュールだが、魔導王に連なる者に突っ込みを入れられるほどクレマンティーヌは豪胆ではない。

 どこか浮かれているような雰囲気が伝わってくるが、魔導王の配下がこの程度のマジックアイテムで喜ぶ筈がない。

 洞察力の鈍った自分を落ち着かせるべく、クレマンティーヌはもう一度コーヒーを口にした。

 

 モモンはひとつ息をついた。

 

「実に素晴らしいマジックアイテムだ。効果といいデザインといい、クレマンティーヌ殿のような美しい戦士にはぴったりの物と言えるだろう」

 

 モモンの賞賛の言葉をクレマンティーヌは引き攣った笑顔で受け止める。

 こんなお世辞を言う理由がどこにあるのかと考えながら、マジックアイテム好きの冒険者見習いのことを思い出した。

 

 コーヒーで落ち着いたクレマンティーヌの感覚は、このモモンが魔導王でないと伝えてくる。

 それでも魔導王の関係者であることには変わりない。

 よほどの無茶振りをされない限りクレマンティーヌは従うつもりだが、まずは()()モモンの目的を確認したかった。

 

「それで……今日、こちらにお招き頂いた理由はなんでしょう?」

「おー、そうだった。素晴らしいマジックアイテムに心奪われて失念していた」

 

 大仰な物言いがクレマンティーヌの鼻につく。

 だが文句を口にする勇気はない。

 

「近いうちに私は訓練所を訪問しようと思っている」

「!?」

 

 クレマンティーヌは息が止まりそうになった。

 

「な、なにか、私のやり方に不手際がありましたでしょうか?」

「いや。そんなことはない」

 

 モモンは落ち着いた様子で否定した。

 

「アインザック組合長やクレマンティーヌ殿の仕事振りについては魔導王陛下から詳しく伺っている。特に貴殿の働きを陛下は高く評価していた」

「あ、ありがとう、ござい……ます」

 

 クレマンティーヌは深々と頭を下げた。

 横に座っている相手に頭を下げるのは少しやり辛い。

 モモンが言葉を続ける。

 

「訓練所に赴くのはエ・ランテル住人からの要望によるものだ」

 

 クレマンティーヌは安心したが、緩んだ感情を表に出さないよう努める。

 

「魔導王陛下の直轄の組織である冒険者組合。そして新しく建設された訓練所。これらが無辜の者を害する組織になっているのではないかという疑念の声がエ・ランテル市民から上がってな。その疑念を払拭するため、私が確認に行くことになったのだ」

 

(そりゃそうだ。アンデッドが冒険者を育てるなんて、法国がビーストマンを援助するようなもんだ)

 

 それでも冒険者組合と訓練所の実態を知っているクレマンティーヌからしてみれば、市民の疑念は的外れである。

 だが監査に訪れるモモンもまた魔導王の配下であることを考えると、どうにも自作自演の感が拭えない。

 

「それにどんな訓練が行われているのか私個人も興味がある。抜き打ちで訪問しても良かったが、訓練に差しさわりが出るのは魔導王陛下の望むところではないからな」

 

 クレマンティーヌの前でも、モモンは魔導王への忠誠を隠さない。

 

「アインザック組合長には既に話をしている。彼の方から指導員に直接許可を取ってくれと言われたのだよ」

 

(……おっさん。知ってて黙ってやがったな……)

 

 組合長に対する不満をおくびにも出さず、クレマンティーヌは頭を深々と下げた。

 

「モモン――様であれば、いつ訓練所にいらしても大丈夫です。モモン様の姿を見れば、見習いたちの訓練にも力が入ることでしょう」

「はっはっは。本当にそうならこちらも気が楽だ。では具体的な日時が決まったら組合長に伝えておこう。そのときはよろしく頼む」

 

 両手を膝についてモモンが頭を下げる。

 誠意がこもっているとしか思えないその姿に戸惑いながら、クレマンティーヌはかくかくと頷くしかなかった。

 

◇◆◇

 

 クレマンティーヌはモモンの屋敷から出た。

 日が翳った外には夕方の気配が漂っている。

 足早に歩いて居城の門にたどり着くと、紫ローブのアンデッドはすぐに門を開いてクレマンティーヌを通してくれた。

 明らかに自分よりも強いであろうアンデッドに会釈して、彼女は居城の外に出た。

 

 魔導王の居城を出てもクレマンティーヌの歩く速度は変わらない。

 足早に内周への門に向かった。

 バハルス帝国領事館と国営銀行の位置を確認して逃げ出すように内周に出る。

 

 クレマンティーヌは疲れた。

 とにかく疲れていた。

 それでも考えなければならないことがある。

 

 訓練所にモモンが来ることが分かった。

 それはすなわちアインザックやロックブルズ、見習いたちの前でモモンと会ってみせるということだ。

 

 モモンに対してクレマンティーヌが過剰に忠誠心を見せるのは拙い。

 察しの良いロックブルズあたりがその不自然さを訝り、モモンの正体にたどり着く可能性がある。

 そうなると発覚する切っ掛けを作ったクレマンティーヌの処刑は免れない。

 その一方でアインザックに対するような態度を取ると、魔導王への敬意が不足していると判断されて処刑されるかも知れない。

 

 モモンの正体に気付かれることなく、それでいて魔導王からも罰を受けない。

 そのためにはどんな態度をとればよいのだろうか。

 そんなことをつらつらと考えながら、クレマンティーヌは黄金の輝き亭に向かって歩いていた。

 

「あっ!」

 

 ふいに脇道から飛び出してきた人影がクレマンティーヌにぶつかった。

 クレマンティーヌが立ち止まって振り返ると、女が転んで地に伏していた。

 雰囲気こそ草臥(くたび)れていたが、その女の顔は幼くクレマンティーヌよりも遥かに若そうに見える。

 城壁沿いの道は店も少なく行き交う人はそう多くない。

 倒れたままの女――少女にクレマンティーヌは手を差し出した。

 少女はクレマンティーヌの顔を見つめ、それからおずおずと手を握る。

 手を引いて少女を立ち上がらせた。

 少女は酷く軽かった。

 

「前見て歩きなよー」

「……ごめんなさい」

 

 クレマンティーヌは少女を見た。

 少女もまた落ち着きがない様子でちらちらとクレマンティーヌを見ている。

 何故だか歩き出そうとしない。

 

「ん? どったの?」

「あ、いえ……」

 

 問いかけに我に返ったのか、それから少女は何度も頭を下げてその場を離れた。

 角を曲がった少女の後姿が消えたところでクレマンティーヌが感心したように呟く。

 

「なるほどねぇ。そういう手もあるんだ……」

 

 クレマンティーヌの懐にあった筈の金袋が、ものの見事に消えていた。

 

◇◆◇

 

 ファンティーヌ・シュルバンは急いで裏通りに入ると周囲を見回した。

 近くに人影はなく、大通りから誰かが入ってくる様子はない。

 呼吸は乱れ、胸は激しく鼓動を打つ。

 時間をおいてもその動揺が収まる気配はない。

 

 動揺の原因は彼女が握り締めている金袋だ。

 ずしりと重いその袋はファンティーヌの物ではない。

 マントを羽織った金髪の女から掏り取ってしまったものだ。

 

 そのまま奪い取る気はなかった。

 相手を呼び止め、落し物だと返すつもりだったのだ。

 

 礼を貰えたら、それで良し。

 貰えなくても、それで良し。

 

 気前の良い相手からはわずかな礼を貰えることがあった。

 そのわずかな礼が、彼女とその病弱な弟を生き長らえさせていた。

 

 年若く気配が希薄な彼女に油断するのか、ファンティーヌはどんな相手からでも掏ることができた。

 あの不思議なマントを羽織った金髪の女からも掏ることができた。

 問題はその後だ。

 

 金髪の女はファンティーヌを見つめたまま振り返ろうとしなかった。

 相手が振り返って歩き出したら呼び止め金袋を渡せたのだが、それができなかった。

 困ったファンティーヌは先に頭を下げ、その場を離れてしまう。

 こんなことは初めてだった。

 

 ファンティーヌの父親はエ・ランテルの衛兵だった。

 身体が大きく優しい父だった。

 そんな父は先のアンデッドの大量発生事件で死んでしまった。

 墓地の見回り中に突如として現れたアンデッドの大群に殺されたのだ。

 

 ファンティーヌと弟ユーフランは悲しみにくれたが、母親だけは笑顔で子供たちを励ました。

 それから外周部での荷役の仕事を見つけると、母は朝から晩まで笑顔で働いた。

 そんな母をファンティーヌは薄情に思った。

 母は悲しくないのか。

 父のことが嫌いだったのか、と。

 

 母はやがて父の代わりにリ・エスティーゼ王国の徴兵に応じることになった。

 毎年行われていたバハルス帝国との戦争に出征するためだ。

 

 これまで何度も行われたが大した死者を出すことなく帝国を追い払っていた戦争である。

 母は姉弟の肩を抱いて、すぐに帰ってくると笑顔で言った。

 それがファンティーヌが聞いた母の最後の言葉だった。

 

 王国は帝国と、その味方であるアインズ・ウール・ゴウン魔導国に大敗したのだ。

 戦争に参加した王国の兵士と貴族の大半が、アインズ・ウール・ゴウン魔導王の手によって虐殺されてしまった。

 徴兵に応じたエ・ランテルの市民も例外ではなく、その殆どが戻ってこなかった。

 ファンティーヌ姉弟(たち)の母も戻ってこなかった。

 

 母が死んだと聞いてファンティーヌは悲しまなかった。

 そのとき父が死んだときの母の気持ちが分かったのだ。

 

 人が悲しめるのは寄る辺があるときだけだ。

 赤ん坊が泣くときは親がいるときだけだ。

 親が居るから安心して泣けるのだ。

 

 嘆き悲しむ(ユーフラン)を抱きしめると、ファンティーヌはこれから自分が母の代わりだと笑顔で彼を励ました。

 

 戦争の後、エ・ランテルは魔導国の領土になった。

 残された遺族に支払われた恩給はごくわずかで、生きていくためには働くしかない。

 ファンティーヌは母の知り合いに頼んで、荷役の仕事に就かせてもらった。

 だが非力な少女に支払われる賃金は少なく、その日の食事にありつくので精一杯だ。

 それでもファンティーヌは笑顔で働き、弟の前では決して泣かなかった。

 それが優しかった父と、父の死を笑顔で受け止めた母への誓いだった。

 

 ファンティーヌは掏り取った金袋の中を見た。

 銅貨、銀貨は勿論、金貨も何十枚も入っている。

 ファンティーヌがこれまで見たこともないような大金だ。

 これだけあればファンティーヌと弟の生活はすごく楽になるだろう。

 

(どうしよう。はやく返さなくっちゃ……)

 

 だがその大金を自分の物にするという考えはファンティーヌにはなかった。

 母はそんなことをしなかった。

 母の代わりになった自分ができる筈がない。

 

 ファンティーヌは懸命に考え、この金袋を詰め所の衛兵に渡すことを思いついた。

 落し物だと言えば、衛兵が持ち主を探して返してくれるだろう。

 あるいは詰め所に行く途中で、金髪のあの(ひと)をもし見かけたなら、そのとき声をかけて返せばいい。

 

 金袋を懐に仕舞うとファンティーヌは大通りに向かって歩き出そうとする。

 その前に音もなく人影が現れた。

 背後の西日で顔が見えないが、その人影が笑っているのが何故か判った。

 

「さっきはどーもー」

 

 人影が声をかけてくる。

 その声にファンティーヌは聞き覚えがあった。

 つい先ほど金袋を掏り取ったマントの女だ。

 

「まぁ私もよくやってたんだけど――」

 

 女が腰に腕を当てるとマントが少し広がった。

 広がったマントの隙間から女の肌が見える。

 短いシャツと短いズボンに帯鎧(バンデッド・アーマー)を身につけただけの肌を大きく露出した姿。

 年若いファンティーヌの目で見ても、その肌は白く美しかった。

 腰に下げている細刃の剣が、血のように真っ赤に輝いているのが判る。

 

「自分が掏られるのは初めてなんだよねー」

 

 そう言われてファンティーヌは理解した。

 彼女は金袋をスられたことに気付いていたのだ。

 ファンティーヌは慌てて掏った金袋を差し出す。

 

「あ、あの……これ……」

 

 金髪の女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに笑顔に戻った。

 

「あんた……名前は?」

「あ、えっと……ファンティーヌ・シュルバン……です」

「ファンティーヌちゃんかー。親近感を感じる名前だねー」

 

 金髪の女はちらりと周囲を見る。

 ファンティーヌと女以外に人影はなかった。

 

「この街で悪いことをするとどーなるんだっけ? 知ってる、ファンティーヌちゃん?」

 

 エ・ランテルを治めているのは母を殺した魔導王だ。

 街は魔導王の部下の黒くて巨大なアンデッドが見回っている。

 悪事を働いたファンティーヌは、あの黒い巨大なアンデッドに捕まるのだ。

 そしてアンデッドの王に罰せられる。

 母を殺した魔導王の罰が軽いものである筈がない。

 ファンティーヌは殺されるだろう。

 母と同じように。

 そうなれば(ユーフラン)も野垂れ死にしてしまう。

 

「す、すぐに返すつもりだったんです! 本当です!」

 

 女の笑顔に変化はない。

 まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。

 

「ごめんなさい……。許してください……。何でもします、から……」

 

 弟の前では見せない涙が後から後からこぼれ出る。

 もはや金髪の女の慈悲にすがるしか姉弟が助かる道はない。

 

「昔のエ・ランテルってさー。貧民窟とかあって、場所によっちゃあ、けっこー危ない街だったよねー」

 

 突然、女は違う話をし始めた。

 

「スリやかっぱらいは勿論、強盗なんかもよくあって、請負人(ワーカー)なんて怪しい奴らが3人くらい殺されても、誰も気に留めなかったんだよ」

 

 昔のエ・ランテルのことは覚えている。

 夜の街は確かに暗くて怖かった。

 それでも家に帰れば部屋は明るく暖かで、優しい両親と弟の顔を見るだけで安心できた。

 

「それが今では街中昼も夜も明るくて、怪しい人たちはいなくなって、悪いことも滅多に起こんない安全な街になっちゃった。それもこれも魔導王陛下と、あの黒いアンデッドさんたちのおかげかなー?」

 

 ファンティーヌにとって今のエ・ランテルに良い思い出はない。

 魔導王は母を殺した張本人である。

 憎しみはあれど立ち向かえる存在でもなく、その部下である黒いアンデッドも好きではない。

 

「私もエ・ランテルと一緒でさー。昔は悪かったんだよねー。今は堅気の仕事をしてるんだけど、でも、ときどき悪かった頃の自分を思い出すんだよ――」

 

 肉食獣の笑みがぐっとファンティーヌに近付いた。

 

「――人を殺したいなーって」

 

 ファンティーヌは戸惑い、そして理解した。

 この金髪の女は自分を殺す気なのだ、と。

 

(なんに)もしていない子を殺したらアンデッドの見回りさんに捕まっちゃうよねー。それは悪いことだからね。でも悪いことをした子だったら殺しても許されると思わない?」

 

 女は一度後ろを振り返る。

 

「――ふん」

 

 忌々しげに鼻を鳴らした。

 

「ファンちゃんの才能があれば風花聖典くらいになれたかもねー。それかイジャニーヤからスカウトされたりして」

 

 女の不思議な言葉が遠くに聞こえた。

 それが夢の世界のことのようにファンティーヌは感じる。

 その不思議な()()になれたら、もっと楽しく生きていけるのだろうか。

 

「まぁ、そっちの未来はなくなっちゃうんだけどねー」

 

 死への恐怖でファンティーヌの視界がぼやける。

 両親の顔、そして姉の帰りを待つ弟の顔を思い出した。

 

◇◆◇

 

「――はい、終わりじゃないよ。まだスケルトンは半分以上残ってるからねー」

 

 言葉は軽いが、その要求は厳しい。

 これまで荷役の仕事しかしたことのない少女が剣を握り締め、すでに十数体のスケルトンを打ち倒しているのだ。

 

 首に装備された鎖付きの首輪が、少女の身体を重く(のろ)いものにしている。

 少女の腕にも脚にも疲労は溜まっている。

 それでも少女は弱音を吐くことなく立ち上がり、借り物の剣を全力でスケルトンに振り下ろした。

 

 ファンティーヌは冒険者見習いになった。

 指導員のクレマンティーヌが彼女の才能を見出し、魔導国の冒険者組合に推薦してくれたのだ。

 

 もはやファンティーヌは住む所も食べる物も心配する必要はなかった。

 (ユーフラン)だって、アインズ・ウール・ゴウン魔導王が作った立派な施設で預かってもらっている。

 

 戦争で母が魔導王に殺されたことには、今でも思うところはある。

 それでも数日前からは考えられないくらいの希望を、今の自分は持っていた。

 

 そんな希望を与えてくれたクレマンティーヌ指導員のために、ファンティーヌは立派な冒険者になるのだ。

 

◇◆◇

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