原作七巻の直後からのIF妄想です
読み終わった後一通り悶てから書きました
侑があの直後、事故にあって目覚めるのに時間が経ったら……みたいなお話

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君だけを知らない

「七海先輩」

 

 小糸侑は走る。

 愛する人の元を目指して。

 小糸侑は走る。

 自分の気持ちを伝えるために。

 小糸侑は走る。

 自分のすべてをぶつけるために。

 

 侑はつい先程まで、失恋の失意の中にいた。告白した相手に、振られたと思ったからだ。

 相手は、七海燈子。自分を好きにならないという条件で、共にいることを望んだ少女だ。

 そんな彼女を、侑は共に過ごす時間の中で好きになった。だからこそ、思いを伝えた。だが、それは失敗した。そう思っていた。しかし、それは違った。燈子は自分の中の想いに気づき、侑を生徒会室に呼び出したのだ。

 その想いを花開かせるために、侑は走った。会いたい。会って、もう一度話をしたい。その一心で。

 

「先輩、先輩……!」

 

 侑は走る。高鳴る鼓動を、眩む視界を、しびれる体を抑えながら。

 

「先ぱ――」

 

 だからかもしれない。侑は気づかなかった。横断歩道の青信号が点滅していることに。すぐ横から車が走ってきていることに。その車の速度が、簡単には止まれない速度だったことに。

 

「――……っ?」

 

 次の瞬間、侑の体は宙を舞った。最後に侑が見たのは、夜の帳が落ちてきた中での、冷たいアスファルトの地面だった。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

「侑が、事故に……?」

 

 燈子は愕然としていた。いつまで立っても生徒会室に来ない侑に、不安と焦り、そして悲しみを覚えていたところに、彼女の親友である佐伯沙弥香が、血相を変えてやって来て伝えたのだ。

 

「ええ、学校の直ぐ側の横断歩道で車にはねられたらしくて、それで、意識不明の重体だって……」

「私の、せいだ……」

 

 燈子は涙をこぼしながら力なくその場に崩れ落ちる。

 

「私が、侑を呼びつけたから、こんなことに……」

「燈子、落ち着いて」

「私が、私が侑を呼ばなければこんなことには……!」

「燈子っ!」

 

 パシンっ!

 乾いた音がした。沙弥香が、燈子の頬を叩いたのだ。

 

「落ち着きなさい! 小糸さんの事故は、あなたの責任なんかじゃない。偶然、そう偶然めぐり合わせが悪かっただけ。気をしっかり持ちなさい」

「沙弥香……」

 

 燈子は沙弥香の目を見る。その瞳は、まっすぐに燈子を貫いていた。力強く、しかしそれでいて慈愛に満ちた視線。

 そこに、燈子は沙弥香の自分を思う気持ちを感じ取った。

 

「……ありがとう。そうだよね、私が取り乱しても、どうしようもならない。今は、気をしっかりと持たないと」

 

 燈子は涙を拭い、力強い表情になる。

 

「それでこそ、燈子だわ」

 

 そんな燈子に、沙弥香は頷く。

 

「さあ、病院に行きましょう。今は、ただ彼女の無事を祈ることしか、私達にはできないけど」

「……うん!」

 

 そうして、燈子と沙弥香は二人で侑の搬送された病院へと向かった。

 

 

 病院の手術室前では、重苦しい雰囲気が漂っている。燈子、沙弥香、そして侑の家族が手術室の前で今か今かとその扉が開かれるのを待っていた。

 

「…………」

 

 誰も何も話そうとしない。話せる空気ではない。誰もが沈黙を保ち、ただ侑の無事を祈っていた。

 

「……!」

 

 そのとき、手術室の扉の上にあるランプの灯りが消える。そして、中から医者が出てくる。

 

「先生! 侑は! 侑は大丈夫なんですか!?」

 

 侑の母親が聞く。その言葉に、汗だくの医者は答える。

 

「……なんとか、峠は越えました」

 

 医者のその言葉に、安堵の空気が流れる。

 

「よかった……!」

「ですが」

 

 しかし、そこで医者は続けた。

 

「意識レベルが非常に低い状態にあります。この状態だと、いつ意識を回復するか分かりません。もしかしたら明日目覚めるかもしれませんし、もしかしたら一生目覚めないという可能性も」

「そ、そんな……」

 

 その場に、再び大きな絶望感が降りかかる。命は助かった。しかし意識は戻るか分からない。そんな事を伝えられては、そうなっても仕方のないことであった。

 

「……待ちます」

 

 そんな苦しい沈黙の中、言葉を発したのは燈子だった。

 

「私は、待ちます。侑の目が覚めるまで、いつまでも待ち続けます! きっと侑は、目覚めてくれるから……!」

「七海ちゃん……」

 

 侑の姉の怜が呟く。

 燈子の言葉には、確固たる意思が宿っていた。その燈子の言葉に、侑の家族や、沙弥香は心動かされる気持ちになる。

 その言葉に、医者は少しばかり暗い表情をしながらも、コクリと頷いた。

 

「その気持ちだけでも侑さんは嬉しいでしょう。ですが、無理をしないでください。侑さんを思うあまりに自分の人生に影響が出ては、きっと侑さんも喜ばないでしょうから」

「……それでも、私は待ちます」

 

 燈子の意思は確固たるもののように思えた。

 誰もが、その燈子の意思を邪魔することはできない、そう思った。

 

「……だったら、私も一緒に待つわ。あなた一人じゃ、壊れてしまいそうだもの」

 

 だからこそ、沙弥香は言った。

 こんな燈子を一人にできない、そう思って。

 

「沙弥香……ありがとう」

「いいのよ。私も、小糸さんとは浅からぬ仲だし」

 

 燈子は沙弥香を抱きしめる。

 そうして、その日から、燈子と沙弥香の、侑の病床を見舞う生活が始まった。

 

 

「侑、おはよう。今日はいい朝よ」

 

 ある日は朝から侑のそばにいて。

 

「侑、今日は雨よ。ちょっと湿っぽいわね」

 

 ある日は一日中侑のそばにいて。

 

「小糸さん、体調はどうかしら。今日は少しばかり暑いから、汗拭かないとね」

 

 そしてある日は、燈子の代わりに沙弥香が侑を見舞った。

 

 だがいくら側にいても、いくら見舞っても、侑の意識は一行に回復することはなかった。

 そうしているうちに、どんどんと時は過ぎていく。

 一年、二年、五年――

 時が経つにつれ、侑の家族が侑の側にいる時間は減っていった。最初は、燈子と一緒に常に侑の側にいたほどだと言うのに。

 それだけでなく、燈子達もまた、実生活の多忙さから、侑の元にいられなくなってきた。

 最初、燈子は私生活を投げ出しても侑の側にいようとした。だが、それを沙弥香が諌めた。

 医者に言われた通り、燈子が生活を崩しては侑も喜ばないと。

 そうして、だんだんと侑の側にいる人は減っていった。それでも、燈子は時間があれば侑の見舞いに行った。沙弥香と交代しながら、できるだけ侑の側にいた。

 そうした生活が日常となっていき、やがて普遍のものとなっていく。

 気づけば、十年の時が流れていた。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

「……ん……ここは……」

 

 最初に視界に入ってきたのは、見知らぬ天井だった。

 白く、無機質。少なくとも自宅の天井はこんなものではなかった。

 状況を確認するために、ゆっくりと体を起こそうとする。

 しかし、不思議な事に体に力が入らない。体を、ほとんど動かすことができない。

 仕方なく、できる限りの力を持って、顔を横に動かす。

 すると、そこにはどこか見知った人の顔があって――

 

「小糸、さん……?」

「……佐伯、先輩……?」

 

 そこにいたのは、おそらく、沙弥香だった。おそらくというのは、彼女の記憶にある沙弥香とは、少し違っていたからだった。

 

「っ!? 誰か! 誰か来てください! 小糸さんが、小糸さんが目を覚ましたんです! 燈子! こっちに! 早く来て! 小糸さんが! 小糸さんが!」

 

 沙弥香が慌てた様子で叫ぶ。

 その声を聞いて、多くの看護師や医者がやって来る。

 その中に、長い黒髪が綺麗な女性の姿もあった。

 

「侑……!」

 

 その女性は感極まった声で、涙を流しながら侑に抱きつく。それを受けて、彼女は――

 

「あの……誰、ですか?」

 

 小糸侑は目覚めた。

 そして、記憶を失っていた。七海燈子に関する記憶だけ、すっぽりと。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

「…………」

「…………」

 

 病室において無言でベッドから上半身を起こしている侑の側に、燈子はいた。

 二人共、何を話していいかわからないと言った状態だった。

 侑は、目覚めてから医者に様々な検査を受けた後、家族と会った。家族は皆、侑の記憶よりも老けており、医者から知らされた十年の月日が本当のものであることを実感した。

 しかし、家族の温かみは確かなもので、そこに侑は確かな家族の絆を感じた。

 沙弥香の事もはっきりと覚えていた。自分がいた生徒会の先輩。色々困ったときに助けてくれた、いい先輩だと。

 だが、燈子の事だけは分からなかった。燈子からいくら説明されても、まったくピンとこなかった。

 確かに、言葉で説明されればなるほどとは思った。生徒会長が誰だったかは不自然に覚えていないので、きっとこの人が説明するような人だったんだろうな、と思った。

 だが、それはあくまで情報を整理した上でのこと。感覚的には、侑にとって燈子は初めて会った、知らない人間だった。

 

「…………」

 

 そんな燈子と一緒にいることが、侑には気まずくてしかたなかった。

 どうも彼女は、とても侑のことを想ってくれているらしいことだけは分かった。だが、侑はそれに答える感情を持ち合わせていない。

 そう思った。

 

『……あのっ』

 

 それをなんとか打ち破ろうととりあえず口を開いた侑。だが、それは同じ目論見であったであろう燈子と重なり、再び気まずい空気が流れてしまう。

 

「……そちらから、どうぞ、七海さん」

「えっ、あっ……うん」

 

 侑は燈子に促す。『七海さん』と言った瞬間、燈子が悲しそうな顔をしたが、侑はそれを見なかったふりをした。

 どうすればいいか、分からなかったからだ。

 

「……その、体はもう大丈夫なの。十年も寝てたから、全然動けなかったって聞くけど」

「え、ええ。大丈夫ですよ。あれからリハビリもしましたし、寝ている間も病院で体を動かしてたりしてくれていたみたいで、回復は早かったです」

「そう……あ、髪! 髪、伸びたね……!」

「……そうですね。さすがに十年も寝ていれば、長髪になりますよね」

「…………」

「…………」

 

 そこで会話が途切れる。再び訪れる、気まずい沈黙。侑は、なぜか燈子と会話を続けることができなかった。

 

「燈子ー、いるー?」

 

 と、そこに別の声が響き渡る。

 その声を聞いて、侑は表情を明るくする。

 

「あ……沙弥香先輩!」

「沙弥香……」

 

 やって来たのは、沙弥香だった。その沙弥香の姿に、侑は先程までとは打って変わって明るい雰囲気になる。

 

「どうも小糸さん。燈子、そろそろ劇団に行く時間じゃないの? 私が代わってあげるから、行ってきなさい」

「あ、もうそんな時間……分かった。行ってくる」

 

 燈子はその場から立ち上がり、名残惜しそうに病室から出ていった。

 そして、病室には侑と沙弥香の二人だけになる。

 

「ありがとうございます沙弥香先輩、今日も来てくれて」

「いいのよ、別に。私が来ないと燈子がここに根を張っちゃうから」

 

 沙弥香はあっけらかんと言う。だが、そんな沙弥香の言葉や仕草が、侑にとっては嬉しく思えた。

 

「それでもいいんです、沙弥香先輩が私のところに来てくれるなら、それで……」

「そう……というか、いつの間にか下の名前で呼んでるわね、あなた」

「え? 駄目でしたか?」

「いや、別にいいけど……」

 

 それから侑と沙弥香は、色々と会話をした。

 燈子がいたときとはまったく正反対に、二人の会話は時間の許す限り行われた。

 

「それじゃあ、私はこれで……」

 

 いつしかタイムリミットが来て、沙弥香は席を立つ。

 

「また……来てくださいね?」

 

 そんな沙弥香に、侑は言う。

 とても、心細そうな声だった。

 

「……ええ、大丈夫よ。また来るわ」

 

 そう言って、沙弥香は去る。その背中を、侑はずっと眺めていた。

 その視線は、とても熱を帯びたものだった。侑は、自分がいつしか沙弥香に特別な感情を抱いていることに、薄々自覚を持ち始めていた……。

 

 

   ◇◆◇◆◇

 

 

「侑、来たよ」

 

 その日も燈子は、侑の病室へと見舞いにやって来ていた。

 侑の記憶が戻る気配は一向にない。

 それでも、燈子は侑の記憶が戻るのを信じて、病室へと見舞いに行っていた。自分が来られないときは、沙弥香が来てくれているため、負担もそれほどない。

 先日、沙弥香は少し忙しくなるためしばらく侑の元へはいけないと言っていたが、それもまあ仕方のないことだろう。

 まだ今の侑とのコミュニケーションはうまく取れないが、きっといつか元のように笑い会える日が来る。

 そして、そのときは自分の気持ちをちゃんと伝えるんだ。

 燈子は、そう思って病院を訪れていた。

 

「あれ……?」

 

 しかし、病室に侑の姿はなかった。

 ベッドの上は少し乱れたシーツが残っているだけだった。

 

「あの」

 

 燈子はちょうど近くに来ていた看護師に聞いてみる。

 

「ここの病室にいる小糸侑さんなんですけど……」

「小糸さんですか? それなら多分、リハビリで病院内を歩いていると思いますよ? そういえば、なんだか今日は少し思いつめた顔をしていたような……」

「侑……?」

 

 その言葉に、燈子は妙な不安を覚えた。なんだか、何かが起きた、そんな気がして。

 なので――

 

「わかりました。ちょっと探してみます」

 

 燈子は、侑のことを探すことにした。

 なんだろう、胸騒ぎがする。

 燈子は焦燥感にも似た感情を胸に抱いていた。

 侑の身に何かがあった、そんな気がしたのだ。

 燈子は看護師から侑がリハビリに使っているルートを聞き出し、それをたどった。

 しかし、侑の姿は見つけられなかった。一体侑はどこへ行ったのか。そこで、燈子は考え、一つの場所が思い当たった。

 それは、病院の屋上だった。燈子は足早に屋上へと向かう。

 そして、屋上への扉を開けると、そこには曇天の下、フェンスを掴みながら外を眺める侑の姿があった。

 

「侑……!」

「……七海、さん?」

 

 侑は燈子の言葉に振り返って答える。

 相変わらずの七海さん呼びに、チクリと心が痛むも、燈子はとりあえず侑が無事な事にほっと胸をなでおろす。

 

「心配したんだよ侑、リハビリに行ったって聞いたのにどこにもいなかったから」

「……ええ、すいません。ちょっと、一人になりたくて……」

 

 侑の顔色は暗い。声も重たい。

 やはり侑に何かあった。燈子はそう思った。

 

「侑、何かあったの……?」

「え……?」

「だって、そう顔に書いてるよ。沙弥香の前では、いつも昔みたいに明るいのに、今はまるで……」

 

 まるで、あのとき燈子が侑に謝ったときのよう――

 燈子は、その言葉をぐっと飲み込んだ。

 

「……そうですね。確かに、今私は落ち込んでいます。今までに、ないぐらいに」

「侑……?」

「……聞いてくれますか、七海さん。今、正直この気持ちを吐き出したい気分なんです」

「……いいよ。侑の言葉なら、なんでも聞く」

 

 燈子は答える。すると、侑は少しだけ驚いたような表情をしたのち、ぽつりと語った。

 

「……私、多分、失恋したんだと思います。思う、というのは、私が恋のことをまったく分からないからなんですけど」

「……え?」

 

 その言葉は、燈子にとって予想外すぎる言葉だった。

 侑が、失恋? 一体、誰に。いつ、どこで。

 燈子は矢継ぎ早に質問したくなる気持ちを抑え、侑の言葉を待った。そして、侑の口から出たのは、驚くべき言葉だった。

 

「私、告白したんです。……沙弥香先輩に」

「沙弥香に……!?」

 

 侑が、沙弥香に告白した。それはあまりに衝撃的な事だった。一体いつから。どうして。

 燈子は聞こうと思うも、うまく言葉が出なかった。

 そんな燈子の気持ちに答えるかのように、侑は続ける。

 

「私、目が覚めたときから、なぜだかずっと沙弥香先輩の事を目に追ってたんです。不思議ですよね、事故の前は、特別な感情なんて抱いていなかったはずなのに。でも、今は沙弥香先輩の事で胸がいっぱいになっていました。それで、その気持ちはどんどんと大きくなっていって、ついに、私の中で留めておくには耐えられなくなって……そして、ついこの間、沙弥香先輩に伝えたんです。あなたのことが、好きですって。でも……帰ってきた答えは、否定、でした」

「否定……沙弥香が……」

「はい。沙弥香先輩はこう言いました。『あなたの抱いている感情は一時の記憶の混乱、気の迷いのようなもの。だから、あなたの本当の気持ちを思い返しなさい』って」

「沙弥香……」

 

 それはきっと、沙弥香なりに侑と燈子の事を思っての答えだったのだろう。

 だが、その回答は今の侑には残酷な答えだったようだ。

 

「私、十年前に誰かに恋をして、その気持ちをそのまま沙弥香先輩に錯覚しているって。そういうことなんでしょうか。でも、今私が好きなのは沙弥香先輩で、知らない誰かじゃないんです」

「…………」

 

 その言葉は、燈子にとってあまりに残酷だった。侑も気づいているのだ。自分が昔、燈子に恋をしていたことを。しかし、今の侑にはその気持ちがまったくない、ということも。

 

「だから、私は今こうして、胸にぽっかりと空いた穴を埋めるために、ふらついてるんです。ねぇ、七海さん、恋ってなんなんでしょうね。私、恋ってもっと素敵なものだと思ってたんです。恋をしたら、ふわふわと空を飛ぶような気持ちになって、それで……。でも、今私が感じているのは、苦痛。ただそれだけ。もう二度と戻らないものへの、羨望なんです」

「……そ、れは……」

 

 燈子は胸が苦しくなる。吐き出したくなりそうになる。

 今の侑に寄り添うことは簡単だろう。侑も気づいているように、かつて恋をしたのは自分だと言って、共に歩いていこうと言えば、侑は優しいからきっとついてくるだろう。

 でも、それはやってはいけない。それだけは、駄目だ。

 なぜなら、それはかつての侑の気持ちを裏切ることになるからだ。

 侑は、ありのままの自分でいいと、かつて演じた劇を通して言ってくれた。

 そして、その劇の中で、燈子が演じた配役に、今の侑はぴったり収まるのだ。

 記憶を失い、自分自身を探し求める一人の女。そんな女に、ありのままでいい、今の自分こそが自分だと言ったのは、侑自身だ。

 今それを否定することは、侑自体を否定することになる。今の、沙弥香に恋をしている侑を。

 それだけは、してはいけなかった。

 自分を救ってくれた侑を、かつての自分と同じ苦しみに陥れることになるから。

 でもそれならどうすればいいのか? 侑にどんな言葉をかければいいのか?

 激励? 叱咤? 同情?

 燈子には分からなかった。それゆえ、燈子は、何も語ることができなかった。

 

「…………」

「すみませんね、こんな話を、あなたにしてしまって。ずっと待っていてくれていたのに、あなたの事を思い出せないというのに。私って、本当に、駄目ですね……」

「そんな、こと……侑は……駄目なんかじゃ……」

 

 燈子は声を絞り出して言う。だが、小さすぎて、侑には届かなかった。

 そして、侑は言う。今にも泣きそうな表情で。今にも切れてしまいそうな細い声で。

 

「ああ、こんな気持ちになるなら、恋なんて、しなければよかった」

 

 そこで、燈子は理解した。理解してしまった。

 今の侑は、もうすべてを拒否している。恋も、過去も、現在も、未来も。

 それは、記憶の否定でもある。燈子と過ごした時間の、否定でもある。つまりそれは、侑が燈子との記憶に完全に蓋をしてしまったということ。

 燈子と共に過ごした侑はもう、帰ってこないということを。

 

「ゆ、う……」

「…………」

 

 燈子は、いつの間にか泣いていた。だが、それは気づかれることはなかった。

 なぜなら、曇天からいつしか雨粒が落ち始め、屋上と、屋上にいる二人を濡らしていったのだから。

 侑は屋上から街を見る。雨を意に介さずに、街を見下ろす。

 街はいつもと変わらず雨の中でも動き続ける。

 それを、侑は眺めることしかできない。燈子もまた、そんな侑を見つめることしかできない。

 少女時代に心を忘れてしまった、かつての憐れな少女達の末路だった。

 


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