1937年 7月19日 正午 この日第五軍団所属の陸軍航空団第1 第2部隊と九州方面軍 長崎空港所属 大蘇我航空団第11 12 13 14 15爆撃団が
黄海で空中集合した。 九六式陸上航空機 全100機と第5軍部隊600機 それに加え
赤坂謙信 武田信康が直掩につき後藤建夫が後方で敵増援の阻止 これが作戦の全容であった。
公開北部 目標より100km前の洋上で戦闘が行われた 日本軍600機に対し中国軍総軍340機 その内79機が爆撃機で113機が偵察機であり
実際に戦闘機として訓練を受けた機体は148機でそのほとんどが複葉機もしくはアメリカ ドイツの旧式機であった。
さらに偵察機や爆撃機には機銃が搭載されていない物もあり、パイロットが拳銃を片手で持ち対抗しようとした。
しかし戦闘が行われてわずか五分で決着がついた。 中国軍機のほとんどは日本軍より低空を飛んでおり、日本と同高度で飛んでいた
戦闘機部隊は、赤坂が率いた200機と交戦し 性能 練度共に圧倒的不利な中国軍機が次々と落とされ 戦闘開始1分で148機全機が全滅した。
気づいていない192機は、武田率いる200機による急降下攻撃により一方的に撃ち落とされ 結果日本軍直掩機 爆撃機に損害なく
中国軍機全機が喪失 事実上壊滅した。 同日15時 100機の陸上攻撃機が前線において爆撃をわずか10分で行った。
約100を超える爆弾が大陸と落とされ爆発する。 そしてこの爆弾による中国軍の被害は二万五千人の戦死と多く
対してこちらは偽の司令部 塹壕が丸々吹っ飛んだだけであり むしろ殿を務めていた部隊の撤退させる時間を作り 撤退を成功に導いた。
この時の中国軍司令官 不幸[ブシン]はこの攻撃で日本軍か。自滅したと確信し、全軍を無理やり集結させ
満州首都である新京に前進した。 この時不幸は蒋介石に「あまりにも無謀すぎる 、今すぐ軍を停止させ 待機せよ」と言われていたのに
「我が軍有利 前線に口を出すな!。」と言い通信を強引に切ってしまった。
蒋介石の考えは正しかった。 日本軍の作戦は敵を内側に引き込み 強襲上陸による包囲殲滅が目標だった。
これは蒋介石が戦争の名人であったから故にわかったことであり 各中国軍の指揮官には日本の自滅にしか見えていなかった。
これが中国軍の第敗北の原因の一つであると後世の歴史家のほとんどが語る。しかし現在の状況では、
敗北の危機に気づいているのは蒋介石のみであり この時それ以外の中国軍閥の指導者 軍の司令官は日本への勝利したと言う
事実に酔いしれ 、更なる勝利の美酒を飲むために蒋介石の発言を軽んじた結果 その先でほとんどの兵士が死んだのだから
遺族にとってたまったものではない。
中国軍が遼寧 遼東方面の要塞に接敵したのが1937年[東方3年] 8月3日のことである
中国軍の不幸司令官が早急に全軍を移動させたため、補給の観点から行軍を遅らせることになり
結果 日本軍の要塞はほぼ完成した状態で戦闘を始めることになった。
中国軍の攻勢は初日から頓挫することになった。
日本が遼寧 遼東方面に作った大要塞は単純に言ってしまえば、古代中国からある万里の長城のようなものである
遼寧 遼東に作られた城壁 は500cmのコンクリートで出来ております それが3重になっていて 区画の一つが破壊されても
その区画ともう一つの区間の通路で殲滅し 破壊された部分を人員を使い修理するといった感じになっている
到底歩兵の装備で この要塞に傷をつけられるはずはないのだが 不幸は、この時、入り口だったら絶対に破壊できるだろうと思い
第一陣 先方で到着した2師団二万五千人を突撃させた。
第一陣は勇敢に戦ったが、戦闘開始一時間で全滅した。
日本軍は城壁の上から九二式重機関銃の雨を降らせ中国兵に弾丸の雨を降らせ、後方から臼砲と野砲の全てを使い反撃した。
これにより中国兵は抵抗する間も無く消滅したのである
これにより前線にいた各参謀は不幸に対し撤退すべきと主張したが不幸は全軍を持って要塞を占領すると宣言し、
残りの予備兵力全てを前線に召集せよと伝え 作戦を考え始めた。
翌日 終結した全軍を率いて中国軍の突撃が始まった。 その数200師団 総勢225万名と 第一次約100倍以上の戦力を投入した。
本来ならこの突撃でも日本軍の重機関銃部隊を総動員すれば殲滅は容易かったが、ここでとんでもない兵器が投入されたのである
その兵器はドイツ軍が中華民国に輸出していた一号 II号戦車である
ドイツはこの時 中華民国に試験兵器として 一号 20両 二号 3両 を含め多数の武器を試験として中華民国に輸出していた。
この一号 二号戦車の攻撃により日本軍重機関銃部隊の攻撃を止めたことによりこの突撃は成功するかに見えた。
しかし、日本軍とて甘くなかった。 日本軍は制空権をすでに掌握しており 後方の臼砲に敵の位置を的確に伝え 戦車部隊を殲滅しようとした。
この攻撃はほぼ成功するかに見えた。
しかし次々と戦車部隊が臼砲の餌食になりながら 最後に残った二号戦車が意地を見せた。
この二号戦車の車長は、敵の要塞に突撃すれば城壁を崩せると思い、二号戦車を中央部に突撃、自爆した。
要塞自体が崩れることはなかったが 中央部の一区画に完璧に穴が空いでしまう事態となった。
なおこの攻撃で城壁内に駐屯していた二個大隊、68名が炎の中に消えたのはいうまい、
その結果、100師団110万人の兵が突破口に突入した。 しかし、戦車の支援もなく突撃したため、約六割の65師団65万が到着前に
戦死するも、残りの四割が突入に成功しており、要塞内では激しい戦闘が行われることになる。
この要塞内での戦闘は苛烈を極めた。なにせ要塞の外壁を壊しただけであり要塞内にあるトラップなどはほどんと無傷であったからだ
結果的に突入した半数約22万名がトラップにより死亡したとみられる。残りの部隊は日本軍と交戦したが
民兵で前近代的武器を持ってるものが結構いたためほぼ一方的な虐殺に近いことになっていた。
この2日間の戦闘で、生き残ったのは約15万人 さらに生きて撤退できたものは約5万名で約4師団のみであった
不幸将軍はこの結果に困惑したが、日本軍の方も大損害を被ったに違いないと思い、
二日後の8月9日に全兵力をもって要塞を攻略すると宣言、各将校を抑え、作戦を開始しようとした。
作戦開始当日、敵からの砲撃が二日前から止んでいたため不幸ですら、おかしいと思い始めていた。
しかし、敵の弾薬切れを起こしたと自分に言い聞かせ、作戦開始を宣言する直前、
後方の伝令兵がボロボロになった状態でこちらに至急連絡があると言ってきたのだ。
仕方なしに作戦開始を一時中断して報告を聴きに行った。
「北京市が陥落し我が軍はすでに包囲されております」
この報告を聞き 不幸将軍は全て察した。 蒋介石が言っていたのはこのことだったのかと、
そして私は、敵に見事に嵌められてしまったのだと。
そしてこの数分後 中国軍にとって史上最悪な事態になることを、彼らはまだ知らない。