窓を開けると漂う香り、それは金木犀
その香りから始まる穏やかな時間
(2013年、Pixivさまにて初公開)
それは、ある日の放課後。マナと私、ふたりだけの生徒会室。
少しだけ残ったお仕事を終わらせたくて居残り。
でも、もうそろそろ終わり。私は片づけにまわる。
少しだけ開けていた窓からゆるやかに風が流れ込んでカーテンを揺らす。
その風の冷たさに、やっと秋も本格的になってきたって感じる。
カーテンを開いて窓から空を見上げると、高い雲、秋らしい青。
そして、かすかに漂ってくるのは金木犀の香り。
その甘い香りを楽しみたくて、窓を大きく開いて、思いっきり鼻から息をしてみた。
「ん…?」
マナもその香りに気づいたみたいで鼻をすんすん鳴らしている。
「ねぇ、六花」
「なぁに?」
甘い香りにつられるように、のんびりとした私の返事。
「この匂い、なんだっけ?」
「これは金木犀の花よ」
いつもよりゆっくりと、そして、息をおさえて答える。金木犀の香りが言葉とともに逃げないように。
「金木犀…あの花の匂いなんだ。知らなかった」
マナは席を立つと、私の横に並んで瞳を閉じて、鼻から思いっきり息を吸い込む。甘い香りにとろけそうになる顔がなんだかかわいい。
その顔をじっと見ていると、のんびりと「六花って、本当に物知りだよね」そう口にした。
その言葉は、マナに知らないことを教えてあげるともらえる私へのほめ言葉。
「ありがとう、マナ」
それに対して、私もいつもと変わらない返事をする。
けど…マナにそうほめられるたび、私の心の中にはいつも別の言葉が生まれていた。
「私はマナが感心するほど何でも知っているわけじゃないんだよ」
「自分のことなのにわからないこともあるんだよ」
そんな言葉が。
マナの言う通り、幼いころから沢山本を読んでいた私は、知っていることは多かったし、必要があればすぐに頭の引き出しから取り出すことができた。
けど、本に書いていないようなことになると、とたんにわからなくなってしまう。特に自分のことになると。
例えば、横で金木犀に心を奪われているマナに対して、私は時々、こんな気持ちを抱いていた。
「いつも、すぐそばにいたい。なんでもしてあげたい」
「いつでも私のそばいてほしい。私を頼ってほしい。私だけを見つめてほしい」
「もっと触れ合いたい。ぎゅっと抱きしめたい。もっと、もっと、マナのことを全身で感じたい…」
どうしてこんな気持ちになってしまうのか、いくら考えても答えが出なかった。
心に生まれた別の言葉は心の奥底に沈め、決して口には出さなかった。ほめてくれるマナに申し訳ない気がして。
だけど…今日の私は金木犀の香りに心がほどけてしまったのか、
「でも…何でも知っているわけじゃないのよ。自分のことだってわからないくらい」
心の奥底に沈めたはずの言葉が勝手に口からあふれていた。
マナはゆっくりと私に視線を向ける。きょとんとした表情で。
思わず口から出てしまった言葉に、私はマナを傷つけたと思った。
頭の中はとりつくろう言葉をあわてて探し始める。でも、
「それって、普通じゃない?」
きょとんとした表情を変えずそれだけ言うと、外へ瞳を向けて鼻を鳴らす。さっきの続き、金木犀の香りを楽しんでいるみたい。
私はその横顔を見ながら、マナを傷つけたわけではないことに安堵した。
綺麗なマナの横顔、その、綺麗な首の線が少し震えると、
「あたしだって、自分のことなのにわからないことだらけだよ」
金木犀の香りで、さらに甘い、甘やかな声が届く。
「わからないことがあった時ね。あたし、六花のこと、考えるんだよ」
「私のこと…?」
とくん。突然私の名前が出てきて、胸が少しだけ響く。
「うん。あたし、わからないことがあって、考えても答えが出ないとき、今まで六花が教えてくれたことを思い出すんだ。そして、六花が教えてくれたことをパズルみたいに組み合わせると、いつの間にか答えが出ていたりして。そういう時、やっぱり六花ってすごいなって思うんだ」
こちらを向くマナ。その笑顔がとてもかわいくて、私の胸がもう一度「とくん」と響く。
頬が熱を帯び、心が嬉しさで満たされていく。
「…私も」
マナの言葉にすっかり溶けきってしまった心が、勝手に言葉を紡ぐ。
「マナのこと、時々考えるの」
「あたしのことを?」
再び、きょとんとするマナの顔。私の頬の熱はさらに増して、朱くなっているのも簡単に想像できる。
「マナって、小さいころから、初めての事でも取りあえずやってみて、そして成功しちゃう子だったよね」
保育園の時のなわとびとか、小学校の時の逆あがりとか、工作とか、お料理とか。
マナはどんな事でも積極的に挑戦して、そして、成功する子だった。
「でも、私の場合、まず知っていることを思い出して、どうしたら成功するかを考えるんだけど、次に、失敗したらどうしようってことまで考えてしまって、最後は、周りに迷惑をかけたらどうしようって思って…考えてばっかりで何もできなかった」
だから、いつの間にか積極的に行動できなくなっていたし、運動も苦手になってしまった。
「でも最近は、マナのように、とりあえず行動してみることにしたの。そうしたら、意外とすんなり上手にいったりして。これもマナのおかげかなって」
話しているうちに、恥ずかしさがだんだんと積もって、思わずマナから視線をずらしてしまう。
すると、マナは私に近づいて、窓枠にかけた私の手をその綺麗な手で優しく包む。
暖かいマナの手、頬の熱が引かないまま視線をマナへ戻すと、大きな笑顔で私を包んで、
「やっぱりあたしたちって、最高のコンビだね!」
そう、嬉しそうに言う。
握られる手にかかる力が強くなる。その手の熱さで、マナの想いの深さを知る。私の手にもその想いが流れこんでくる。
「これからもずっと一緒にいようね、六花。六花と一緒ならあたし、何でもできちゃうよ!」
それは、なんだか幼い子供たちが交わす約束みたいで、ちょっと恥ずかしくて、
でも、とても純粋なマナの願いだから、
私も心でいつも想っている願いだから、
「もちろん。ずっと一緒ね」
恥ずかしいから短い返事。だけど、それを聞いたマナの笑顔は、さらに大きく、嬉しそうに輝いていた。
「でもね、六花」
嬉しそうな顔は、急に真剣な表情に変わる。
「今、ひとつだけわからないことがあるんだ」
「そうなの?」
暗くなるマナの表情。わからない答えに本気で悩んでいるみたい。
「考えても答えが全然出てくれないし、でも、答えが出ないからって走り出したらいけないような気がして…」
考えて答えが出ないどころか、走り出すこともできないなんて、珍しい。
「私でよければ相談に乗るわよ?」
マナの悩みを少しでも軽くできることを願って、優しく伝える。
すると、マナは私を一瞬見て、でもすぐに視線をおろして、そして、再び私をじっと見て、また視線を手におろして…もじもじとして、何も言わない。こんなマナは本当に珍しい。
「言いにくいことだったら無理にとは言わないから。話せるようになったらいつでも相談してね」
心の中で少しだけ寂しさを感じたけど、無理に聞き出すとマナは困ると思って、それだけを伝える。
少しだけ、頬の染まったマナは、小さくこくんとうなずいた。
「でも…」
マナはこういう時は結局行動に移してしまう。そして、だいたい成功する。だから、こんな言葉は必要ないと思うけど、
「結局マナって動いちゃったほうがいい結果になると思うわ。いつもそうだもの」
背中を後押しするつもりで伝える。
「動いたほうがいいかな…?」
「ええ、絶対に」
見つからない答えがどんなものであれ、悩むより動いてしまったほうがいつも元気なマナらしいし、そのほうが絶対にいいほうに転ぶ。そう思って、私は力強く伝えた。
「それじゃ…動いちゃおうかな…?」
私の言葉に自信を持ってくれたのか、マナはふっきれた顔をすると、すぐに自信に満ちた表情に変わる。
私の好きな表情。もう安心、そう思った時だった。
「…え?」
急に体の自由が奪われる。
何が起こったのか一瞬わからなかった。
「…え、っと…ま、まな…?」
私は、マナに抱きしめられている、ってことに気づいて、その名前を思わず呼ぶ。
背中に回される腕、頬をくすぐるマナのくせっ毛。
そこから漂うのは、金木犀とは違う甘い香り、マナのシャンプーの香り。
鼻をくすぐるその香りは、金木犀の香りと合わさって私の心は何も考えられなくなりそう。
「いつからかな…ずっと六花にこうしたいって思っていたの」
耳元でささやかれるマナの声。吐息も聞こえそうなくらいに近くて、くすぐったさに体が震えてしまう。
「どうしてこんなことを思っちゃうのか、わからなかった」
マナの吐息が、何度も、何度も、耳をくすぐる。私はくすぐったさに我慢できなくて、思わずマナの背中に腕をまわしてしまう。
マナの体は柔らかくて、背中は思ったよりも小さくて、だから、もっとマナのことを感じたくて、しっかりと背中を抱きしめると、お互いの鼓動を感じられそうなくらいに重なる胸。
マナも、私の背中をもっとしっかりと抱きしめてくれる。
「実は…私もなの」
マナの耳元でささやくと、揺れるくせっ毛、震える体。
私の鼓動はますます大きくなって、マナに聞こえたらちょっと恥ずかしいなって思って…
でも、マナを抱きしめる力をおさえることができなくて…
「いつからか、マナのことこうやって抱きしめたいって思ってた。もっと触れたいって思ってた。でも、どうしてそう思ってしまうのか、わからなくて…」
恥ずかしい告白も、マナの体を抱きしめて感じる暖かさに、全身ゆるんでしまったかのように、するすると出てきてしまう。
マナは耳がくすぐったいのか、私の中で小さく、震えていた。
「「どうして」」
その言葉は同時に。私とマナのくちびるを震わす。
あまりのタイミングの良さに、お互い小さく笑ってしまう。
「そう思っちゃうんだろうね…?」
マナは不思議そうにささやく。
「どうしてかしらね…?」
私もわからない、どうしてマナとこんなことをしたい、って思うのか。
「六花にわからないんじゃ、あたしもわからないよ」
答えを探るように私の背中を撫でるマナ。
私もマナの背中を同じように撫でてみるけど、答えは出てこない。
「でも…六花いい匂い…ずっとこうしていたくなっちゃう」
「私も…マナとずっとこうしていたい…」
答えを見つけ出せない私たちは、その答えを探すことをあきらめて、お互い求めるままに、ずっと、ずっと、抱き合っていた。
空の橙に、紫が、紺が混ざり、窓から入り込む金木犀の香りに、私たちの全身が覆われる頃になっても。