月一度の大切な日
それはわがままから始まった約束の日
今月もその日がやってきます

(2013年、Pixivさまにて初公開)

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オンブラ・マイ・フ ~やさしい木影~

 明日は、月に一度の約束の日です。

 毎月毎月、この日が来るのがとても楽しみで、夜、ベッドに入ってもなかなか寝付けません。

 最近はプリキュアになったことでお逢いすることが増えてとても嬉しいのですが、毎月のこの日は特別なので嬉しさもひとしおです。

 想い人に逢う前日、その想いに身を焦がして眠れなくなるなんて、以前の私からは全く想像できませんでした。

 四葉の後継者である私は、むやみに感情を表に出してはいけない、常に冷静にいるべし、そうしつけられてきましたので、恋などというものにうつつを抜かすことなど絶対にないと思っていましたから。

 

 でも…ある日、気づいてしまったのです。心の中にいつまでも消えない貴女の存在を。

 

 気づいてしまったが最後。私の心は貴女を求めるようになってしまいました。

 貴女のことをもっと知りたい。貴女のすべてを見せてほしい。貴女の全てを私に捧げてほしい。

 してはいけない。そう思っていた恋を知ってしまった私は、その反動でしょうか、どこまでも貴女のことを考えてしまうのです。

 

 もちろん、この想いは心の中だけとどめていて、誰にも悟られないようにしています。

 幼い頃から社交界に出ていた賜物でしょう。外では常に自分を消して、何事もないように振る舞うことができますから、未だにどなたにも悟られておりません。

 

 でも、ひとりでお部屋にいる時、ベッドの中で眠りにつくとき、ふと、私の中から勝手に感情があふれ出てしまうのです。

 それも、抑えられていたので余計にでしょう。私の心からあふれる感情は全身を覆い尽くすようです。

 ベッドの中で誰にも聞かれないようにその人の名前をつぶやくと、頭に浮かぶあの人の顔、大好きな笑顔です。

 すると、私の心は恋しさにあふれ、そして、全身が熱を帯びてゆきます。

 まるで自分の躰が知らない何かになってしまったような気がして少し怖くなり、思わず全身を抱きしめてしまいます。

 軽く揺らぐベッド、少し乱れる布団。私は躰を抱きしめたまま、感情が落ち着くのを待ちます。

 それでも、ますます私の躰は熱くなってゆくのです。

 はしたないですが、枕に顔を押しつけて、枕カバーを軽く噛み、自らを押さえ込もうとします。

 …それでも、どうしても、感情が落ち着かないときは、こう思うようにしています。

「最期までは一緒にいられないのですから」

 私は四葉の後継者です。大人になれば望まない結婚が待っているのでしょう。

 いくら彼女を想っても、もし、彼女と想いが通じ合っても、最期までは一緒にいられない。いつかは悲しい別れが来る…

 現実を直視することで、私の熱い想いは、涙とともに流れて、そして、醒めてゆくのです。

 

 

 

 約束の時間まであと1時間です。準備は万端なのに、まだ何か足りないのではないか、忘れていることがあるのではないか、ドキドキそわそわしてしまいます。

 何度も鏡の前に立って、髪型やお洋服をチェックしてしまいます。

 何度チェックしても同じなのに、どうしても気になってしまいます。

 これは自分の一番をお見せしたい気持ちのあらわれでしょう。

 お茶の準備も怠りません。先日、おいしいダージリンの夏づみが入りましたからふるまってみましょう。気に入っていただけるでしょうか。

 お部屋は綺麗でしょうか。セバスチャンを初め、使用人のみなさんのお仕事は完璧ですから大丈夫だと思いますけど…特別な日なので余計な心配までしてしまいます。

 時が近づくと、期待と心配で浅いため息がもれてしまいます。

 ため息は幸せが逃げるそうですけど、これから幸せな時間が訪れる私ですから問題はない。そう思うことにします。

 

「コン…コンコン」

 このノックはセバスチャン。私は扉に向けて返事をすると、ゆっくりとその扉が開きます。

「お嬢様、菱川様がいらっしゃいました」

「あり…!」

 その言葉を聞いて、私は恥ずかしいぐらいの笑顔をセバスチャンに向けてしまいます。これではいけません。自分を律してこそ四葉の後継者です。

「こほん…ありがとう、セバスチャン」

 なんとか取り繕って、お部屋を出ます。

 

 私のお部屋からおよそ2分。この間にも私の心はだんだんとドキドキしてしまいます。

 今日の六花ちゃんはどのようなお姿でいらっしゃっているのでしょうか。

 あの、見た目にも涼しやかなサマードレスでしょうか。

 それとも、半そでブラウスにゆるやかに広がるロングスカートでしょうか。

 ポロシャツにショートパンツ、なんていうのも六花ちゃんに似合いそうです。

 六花ちゃん自身はそんなお姿はされないでしょうけど…

 …いけません。このような妄想の海に沈んでいたら、お部屋の扉にぶつかるところでした。

 

 2階、南側の行き止まりのお部屋は私専用の特別な応接室。セバスチャンがノックしようとするのを手で制します。

「ここは私が」

 私の一番大切なお友達、六花ちゃんを直接お迎えしたいですから。

 

「こんこん」

 厚めに作ってあるドアが低い音を響かせます。

「は~い」

 ドアの内側から響いてくるのは、いつもと同じ、澄んでいて、可憐でいて、なのに、その心の強さを感じさせる、しっかりした声。

 ドアを開くと、ソファに座っている六花ちゃんがこちらを向きます。

 この応接室は窓が大きくとられていて、柔らかな陽の光が部屋中に降りそそぎます。

 その外には裏庭の綺麗な花々が見えます。もう少し季節が下ればコスモスの濃桜色が広がるでしょう。

 その、裏庭に面する窓の前、やわらかな陽射しに包まれる六花ちゃんは、髪が陽に輝いてとても綺麗で触れてしまいたくなります。

 今日はいつもと同じサマードレスですね。お似合いの帽子を膝の上に置いて、小さく私に手を振ってくれます。

「こんにちは、六花ちゃん」

「こんにちは、ありす」

 にっこりとした笑顔の六花ちゃんは、私の好きな表情の3本の指に入ります。そんな、大好きな笑顔を見せられて、私も思わず笑みがこぼれてしまいます。

 

「どうぞ、六花ちゃん」

「ありがとう」

 この、特別な日にお茶をいれるのは私の役目です。六花ちゃんには私がいれたお茶を飲んでいただきたいですから。

 ダージリンの夏づみは、その香りを部屋中に漂わせ、陽の光で溶けきったような部屋の雰囲気を一瞬で瑞々しいものに変えてしまうかのようです。

「素敵な香りね」

「はい。入ったばかりのダージリンの夏づみですよ」

「もうそんな季節なのね」

 六花ちゃんはカップを顔に近づけて香りを確かめると、その顔に笑みを浮かべます。

 私もストレートでいただきます。今年の夏づみは普通の出来と聞いておりましたが、香りはいいですし、味も瑞々しくて、思った以上に良い出来です。

 カップに一口つけるだけの姿も美しい六花ちゃん。一口飲んで、おいしそうにため息をついて、カップをテーブルに置く姿もとても綺麗です。

 

「それにしても…」

 あきれたような口調に小さなため息、これはマナちゃんのことを話すときの六花ちゃんの癖です。私の心が少しだけ沈みます。

「このあいだの文化祭はびっくりしたわ」

 やれやれって顔の六花ちゃん。

「ええ、マナちゃんが倒れてしまうなんて…」

 私も驚きました。いつでも元気いっぱいで私たちにも元気をくださるマナちゃんがまさか倒れるなんて。

 でも、私が一番驚いたのは、そのときの六花ちゃんからの電話です。

 常に冷静で、どちらかといえば慌てる私たちをフォローする側の六花ちゃんが、大変慌てふためいた様子で電話をしてくるのですから。

 六花ちゃんがどれだけマナちゃんのことが心配だったのか、六花ちゃんにとってどれだけマナちゃんが大事なのか、それを改めて思い知らされて、胸がちくちく痛みました。

「しかも翌日にはちゃんと回復するんだから、ますますマナには驚かされるわ」

 眉がさがって、本当に困った子ね。そう言いたげですけど、その唇の端がわずかにあがっているのを私は見逃しません。

「本当に、驚かされっぱなしですね」

 そう言う私はいつも通りの表情を決して忘れることをしません。

 六花ちゃんによるマナちゃんのお話はまだ続きます。私は六花ちゃんの言葉を聞きながら、笑顔を見せたり、うなづいたり、短い返事をしたり。

 …でも、心は雪が降り積もっていくかのように小さな嫉妬心が何層にも積み重なってゆきます。

 私の心がだんだんとその冷たさに動かなくなってしまうのではないか、そう思えてきてしまいます。

 

「おかわりは如何ですか?」

 話題を変えるようにポットを軽く持ち上げる私は、少し失敗したと思いました。

 六花ちゃんのカップは、まだ紅茶がそれほど減っていなかったのです。

 マナちゃんのお話に夢中になる六花ちゃんは飲むのが遅くなります。逆に、私のカップはもう空です。

 六花ちゃんの口から紡がれるマナちゃんのお話をなるべくならお聞きしたくない。そんな気持ちが無意識に私を動かしているかのようです。

「ありす、早いのね。私はまだ大丈夫よ」

 苦笑する六花ちゃんに私は少し照れた表情を向けるしかありませんでした。

 

 ややあって、六花ちゃんのカップも空になりました。私のカップも2杯目の紅茶をわずかに残すばかり。

 カップの中、琥珀色に映る私の表情は、まだ大丈夫。いつもの表情です。

「セバスチャン」

「はい、お嬢様」

 私が呼ぶとセバスチャンは手早くお茶を片づけます。

「おいしいお茶でした。葉の追加をしておいてくださいね」

「かしこまりました」

 片づけをするセバスチャンの手を見ながら、追加を頼んでちょっと失敗したと思いました。この紅茶を飲むたびに今日のこの寂しさを思い出してしまうでしょうから。

 

 

 

 2階、北側の突き当たりは音楽室です。

 学校のそれよりは小さいですが、ピアノを初め、いろいろな楽器がそろっています。

 今日の大切な約束、それは、六花ちゃんとのピアノのレッスンです。

 レッスンといっても、先生が来るわけではありません。

 六花ちゃんと私、ふたりだけのレッスンです。

 この、月1回のレッスンを始めたのは、珍しい私のわがままからでした。

 

 

 

 中学校に上がる前の3月まで、私と六花ちゃんは同じ先生にピアノを習っておりました。

 六花ちゃんは幼い頃からずっと習っておりましたから大変お上手です。

 また、六花ちゃんが奏でる旋律は、六花ちゃんの清らかさ、優しさ、そして、時に見せる厳しさを現しているようで、とても六花ちゃんらしくて大好きでした。

 中学校は離ればなれになってしまうことが決まっていた私たちでしたが、すでに約束したお茶会、そして、ピアノのレッスンもありますから、六花ちゃんとは今までとそれほど変わらずにお逢いでき、また、六花ちゃんのピアノも今まで通り聴くことができる。そう思っておりました、のに…

 

 その、3月の第1レッスン日、六花ちゃんは先生にこの月いっぱいでピアノのレッスンを辞めることを伝えました。

 私はその時、思わず席を立ってしまうぐらいのショックでした。

 この先いつまでも一緒にピアノを続けられると思っていましたのに。

 この先、いつまでも六花ちゃんのピアノを聴くことができると思っていましたのに…

 だんだんと私の視界が暗くなっていくように感じました。

 

 その日のレッスンは最低でした。

 楽譜を見落としてしまったり、指が思うように動かなかったり、今までで一番ひどいレッスンだったと思います。

 先生もあきれて、途中でレッスンを打ち切ってしまいました。

 六花ちゃんが本当に申し訳なさそうな顔で私のことを見ていたのが印象的でした。

 

 その帰り道。

 六花ちゃんと私はセバスチャンの運転する車に揺られていました。

 私はずっと下を向いていたと思います。

 六花ちゃんは心配そうに私に幾度も声をかけてくださいます。

 でも、私は、悲しくて、悔しくて、ピアノのレッスンを辞める理由も聞けなくて、ただ、ただ、くちびるを真一文字に結んでいました。

 どうしてピアノを辞めてしまうのですか。

 せっかくお上手なのですから続けてほしいです。

 いつか、六花ちゃんと連弾で同じ曲を奏でたいです…

 心の中に生まれる言葉はどれも声には出せなくて、ずっと下を向いていました。

 六花ちゃんも私に話しかけることを途中からあきらめて、黙ってしまいました。

 セバスチャンは何も言わず、いつもより速く六花ちゃんのおうちに向かっていってくれました。

 

 

 

「わがまま」という言葉は人の上に立つ者は決して覚えてはいけない。

 幼いころに何度も聞かされた言葉です。

 その言葉の通り、幼いころに少しでもわがままを言えば、すぐに怒られました。

 お友達が持っているおもちゃがほしいとお伝えすれば、わがままを言ってはいけないと怒られました。

 テレビで見ていた素敵な風景の場所に行きたいと口にしますと、わがままは駄目だ、と怒られてしまいました。

 必要最低限のものは用意されておりましたが、友達と同じようにほしいものを買っていただいた記憶が全くありません。

 でも、それすら、いつの間にか普通だと思うようになったのは、まわりの皆様の教育の賜物でしょう。

 私はなにもわがままを言わない子供になっておりました。

 

 でも、その時私は生まれて初めてどうしても押し通したいわがままが生まれました。

 

 私は六花ちゃんの旋律をお聴きしたい。

 六花ちゃんと一緒にピアノを奏でたい。

 

 これはとてもわがままなこと。わかっております。

 六花ちゃんを困らせてしまうでしょう。よく理解しております。

 でも、それでも、私の心はこのわがままをおさえることができませんでした。

 

 

 

「ありす…ごめんなさい」

 ふと、聞こえる六花ちゃんの声で、私は現実に戻されました。

 気が付けば、六花ちゃんのおうちのご近所まで来ていました。

 私は六花ちゃんの声にゆっくり顔を向けます。

「ピアノを辞めること、黙っていてごめんなさい」

 本当です、六花ちゃん。私に黙って辞めてしまうなんて。

 心の中でそんな言葉が生まれてしまいます。

 でも、どうして、って理由はお聞きしません。

 本当は、知っております。その理由を。

 気づきたくなかっただけ…

「マナ…

「ええ、びっくりしましたけど…大丈夫ですわ。来月からは私ひとりで先生の元へ」

 理由を語ろうとする六花ちゃんをさえぎって言葉を割り込ませてしまいます。

 今は、その理由、いえ、原因となった方のお名前すら、お聞きしたくないのですから。

 

 

 

 六花ちゃんがピアノのお稽古を辞めてしまう理由は、実はすでに気づいておりました。

 先日の、小学校でのできごとで。

 

 

 

 それは、小学校の作文の時間でした。

 その日の作文の題は、「中学校になったらやりたいこと」です。

 私と六花ちゃん、そして、マナちゃんとで自然に集まって相談が始まります。

「あたし、中学に入ったら絶対に生徒会長になるんだ!」

 相談が始まるや否や、全く淀みのない言葉でそう宣言するマナちゃん。

 六花ちゃんは自然と「やれやれ」といった表情に。

 私は、もうすでに別の学校に入ることを決めておりましたので、マナちゃんの生徒会長としての勇姿を見ることができなくて、少しだけ残念に思いました。

「もちろん、六花も一緒に生徒会に入ってくれるよね?」

 その言葉に、六花ちゃんは一瞬止まります。そして、私の顔をちらっと見て、そして、マナちゃんに視線を戻し、その瞳をゆっくり閉じて、考えに入ります。

 でも、私はわかっていました。六花ちゃんは絶対に生徒会に入ります。理由も簡単に思い浮かびます。

「私がいないと、マナを止められないからね」

 瞳を開いた六花ちゃんがそう口にすると、マナちゃんは嬉しそうに六花ちゃんの手を握ります。

 六花ちゃんは突然のことに恥ずかしそうにしながらも、しっかりとその手を握り返します。

「マナちゃんのますますのご活躍、期待しておりますね」

 小学校の児童会でのマナちゃんのご活躍は誰もが知るところです。

 それをフォローする六花ちゃんのご活躍も。

 中学校でもおふたりは仲良くご活躍されるでしょう。六花ちゃんのご活躍を見ることができないのは残念です。

 でも…その時ふと頭の中にひとつの心配が生まれました。

 生徒会は夕方遅くまで活動すると聞いております。

 ピアノの練習はどうされるのか、私はそれが心配になりました。

 時間を見つけて続けられるのか、回数を減らして続けられるのか、

 …もしくは、もうピアノを辞めてしまうのか。

 残念ながら、思った中で一番悪い方向に進んでしまうのですね…

 

 

 

 思い出から戻ると、六花ちゃんのおうちの目の前でした。

 見慣れた風景、マナちゃんのおうちも見えます。

 もう、こうやってピアノのレッスンから一緒に帰れなくなるのですね。

 六花ちゃんとともにピアノの練習もできなくなってしまうのですね。

 六花ちゃんが奏でる旋律を聴くことができなくなってしまうのですね。

 …もしかしたら、六花ちゃんと離ればなれになってしまうのではないでしょうか。

 そんな悲しい考えまで浮かんでしまいます。

 あまりに思い詰めて私の涙腺が限界に達しそうになった時とセバスチャンが運転席から降りようと、その扉を開いた時と、ほぼ同時でした。

 私が六花ちゃんに向き、その腕をつかんだのは。

「ありす…?」

 不思議そうな表情の六花ちゃん。

 私は精一杯に言葉を紡ぎはじめます。

「あ、あの…六花ちゃん…」

 かすれる声、あふれそうになる涙。それを耐えて、私は言葉を口にします。

「中学生になったら、もうピアノはされないのですか…?」

 私の質問に六花ちゃんは口をつぐんでしまいます。

 逆に私は六花ちゃんに一生懸命話しかけます。先ほどとは全く逆です。

「六花ちゃん。ピアノを辞めてしまうのはもったいないです。中学校に入ったら生徒会などでお忙しいでしょうけど、せっかくここまでされてきたのですから…」

 私のあふれる言葉に六花ちゃんはだんだんと困った顔にかわります。

 そうですよね。六花ちゃんのことを追いつめていますから。

 それでも、私は、言葉を止めることはできません。

「せめて、月に一度、私のおうちにピアノの練習にきませんか?」

 後先考えずにそんな提案をしてしまうほどに。

 六花ちゃんは、本当に不思議そうな表情を見せます。

 そう言えばそうですよね。六花ちゃんのおうちにもピアノはあります。練習しようと思えばいつでもできるのですから。

 私はふと口にしてしまった言葉に恥ずかしさを感じて顔を下げてしまいます。

 セバスチャンは車の外で待ってくれています。

 六花ちゃんは黙ったままです。

 静かすぎる車の中。エンジンの音だけが小さく響きます。

「考えてみるわね」

 ややあって、聞こえる六花ちゃんの優しい声。私は顔を上げて笑顔になってしまいます。

「ええ、是非とも前向きに」

 もう、私はいつもの表情に戻れていますでしょうか。今までの恥ずかしい、自らをさらすような表情になってはいないでしょうか。

「それじゃ、ありす。今日もありがとう。また学校で」

 その言葉を合図にセバスチャンがドアを開けます。六花ちゃんは笑顔で私に手を振ってくださいます。

「ええ、また」

 小さく手を振って、六花ちゃんに応えます。

 やがて、車は走り出して、後ろに六花ちゃんが小さくなります。

 いつまでも手を振ってくださる六花ちゃん。私も後ろを向いていつまでも手を振っていました。

 

 角を曲がると、六花ちゃんの姿は見えなくなります。

 私もゆっくりと振っていた手を戻します。

「…セバスチャン、ゆっくり」

 私の声はすでに震えています。

「わかりました、お嬢様」

 優しく、セバスチャンが応えてくれます。

 私はもう限界でした。楽譜の入ったトートバッグを抱きしめて、大きな声で泣いてしまいました。

 六花ちゃんがピアノのお稽古を辞めてしまうこと。一緒にもうピアノを弾くことができないかもしれないこと、でも、もしかしたら、一緒にピアノを弾けるかもしれないこと、そんな、いろいろなことが私の中でぐちゃぐちゃに混ざってしまって。

 やさしいセバスチャンは、私の涙が止まるまで、ゆっくり、ゆっくりと車を運転してくれました。

 四葉の後継者たる私が、感情のままに涙を流すなんて、とうてい許されないことです。

 それをわかっていても、それでも、涙は止めることができませんでした。

 

 

 

「やっぱりちょっとさぼりすぎちゃったかな…」

 思い出から意識を引きあげてくださるのは六花ちゃんの声。

 楽譜をめくりながらちょっと難しそうな顔です。

「ご自宅でピアノの練習はされていますか?」

「それがぜんぜん。家に帰るのも毎日遅いし…夜遅いと近所迷惑だから」

 本当はもっと弾きたいんだけど。そう言う六花ちゃんの表情から、未だにピアノへの熱情が失われていないことがわかって嬉しいです。

「では、先に私が弾かせていただいてよろしいですか?」

 私は楽譜を持って立ち上がります。六花ちゃんは楽譜から瞳をあげてうなづきます。

 ゆっくりとピアノの前に座ると、自然と気持ちが落ち着いてきます。

 瞳を閉じて、深呼吸して、小さく手をあげて…

 ピアノを弾く時は六花ちゃんのことを思い浮かべるようにしています。

 すると、自然と旋律は優しくなり、心穏やかに弾くことができます。

 短い曲でも想いをすべて込めて、弾いてゆきます。

 今日はいつもより調子がよいです。おいしいお茶をいただいたからでしょうか。

 …六花ちゃんがそばにいてくださるからでしょうか。

 

 やがて、最後の音符、余韻を残します。

 その余韻が終わり、ひと呼吸おいて立ち上がり、笑顔を向けると、六花ちゃんは拍手をしてくださいます。

 

 もう一曲、私が弾いて、六花ちゃんが拍手をしてくださって、次は交代というころ、六花ちゃんはまだ悩んでいるようです。

 私はその横顔を見ながら、六花ちゃんを想うようになった理由を、ゆっくりと想い出していました。

 

 

 

 幼いころは病弱だった私は、外に出ることがあまりできない子供でしたから、仲のよいお友達はおりませんでした。

 でも、ある幼い日、私は六花ちゃんとマナちゃんと運命的な出逢いをしました。

 私たちはすぐに友達になり、いつも一緒に遊ぶようになりました。

 ふたりは私の知らない世界をたくさん教えてくださいます。

 今まで知らなかった輝きにあふれるこのすばらしい世界。

 私は、この素敵な世界に連れ出してくださったふたりのことをいつの間にかとても大好きになっておりました。

 

 マナちゃんは、明るく、優しく、そして強く、とてもあこがれる存在です。

 …でも、その強さ、明るさが時に私には強い太陽のように感じられました。

 強い太陽は弱い私の体をちりちり焦がします。

 

 六花ちゃんは、清く、優しく、そして、時に厳しく、私を見守ってくださいました。

 それは、まさに窓から覗くお月さまのよう。私を優しく包みこんでくださいます。

 その、六花ちゃんの暖かさに、その穏やかさに、いつしか「友達」という気持ちではなく、もっと大きな気持ちを抱いている自分に気づきました。

 

 でも、私は知っておりました。

 六花ちゃんは常にマナちゃんのことを見続けていることを。

 マナちゃんも、六花ちゃんを常に信頼し、その手を強く握りしめて離さないことを。

 私には最初からそこに入り込む余地はありませんでした。

 マナちゃんの無限に無償の愛は、六花ちゃんにも、私にも、マナちゃんの周りにいるみなさんにもわけへだてなくそそがれています。

 そんなマナちゃんへ愛をそそぐことができるのは六花ちゃんだけです。

 六花ちゃんの無償の愛がマナちゃんの力になり、マナちゃんからそそがれる愛が六花ちゃんの力になります。

 この関係に、私はどこからも立ち入ることはできません。

 わかっておりました。わかっておりましたけど…私はどうしてもそこから六花ちゃんを引き離して自分のものにしたくなる気持ちになってしまいます。

 

 何度もあきらめようと思いました。

 あきらめてしまえばこれ以上悲しい想いをしなくてすむのですから。

 …でも、私はあきらめられませんでした。

 六花ちゃんへの想いは、そう簡単には消せません。

 たとえ永遠に結ばれなくても、六花ちゃんを想うこの気持ち、あきらめられません。

 六花ちゃんの優しさ、厳しさ、かわいさ、そして、少し弱いところ、そんな、すべてを私は愛しているのですから。

 六花ちゃんへの想いを断ち切る位なら…私は…

 

 

 

「よし、決めたわ!」

 深い海に沈むような気持ちは、六花ちゃんの言葉に一瞬で戻されます。

 ゆっくりと、六花ちゃんに視線を向けると、少し新しめの楽譜がその手にありました。

 少しだけ角がくたびれたそれは薄いピアノピース。タイトルには『ラルゴ』とありました。

 それは、私も幼い頃に弾いたことがある曲です。

 別名『オンブラ・マイ・フ』は木影の優しさを歌ったオペラの歌曲です。

 私を強い光から優しく守ってくれる六花ちゃん。そんなイメージを持って弾いていた頃を思い出します。

「六花ちゃんのラルゴ、初めてお聴きする気がします」

 でも、この曲を六花ちゃんが弾いていた思い出はありません。私が忘れているだけかも…いえ、六花ちゃんが今まで弾いた曲はすべて覚えておりますので、そんなことはないと思いますが…

「うん、初めてかな…」

 少し頬を染める六花ちゃん。初めての曲で緊張しているのでしょう。

 椅子に座り、ピアノに向かいます。

 開かれる楽譜、真剣な眼差し、ふいにあげられる手。

 私はじっと六花ちゃんの表情や指の動きを見守ります。

 

 始まる旋律はゆっくりで、そして、優しくて、まるで六花ちゃんの心そのものです。

 余りに優しく、ゆっくりとしたその旋律に、私は六花ちゃんとのことを思い出してしまいます。

 初めて逢ったその日から、今日までのこと。

 何度も、何度も、六花ちゃんに助けられたこと。

 そんな、たくさんの想い出が私を包んでゆきます。

 ずっと、夢心地で、その想い出にまどろみながら、六花ちゃんの音符を感じてゆきます。

 元々ゆっくりとした曲ですが、六花ちゃんは更にゆっくりと奏でてゆきます。

 私は瞳を閉じて、音符のひとつひとつをなぞるように聴きます。

 

 やがて、その旋律は終わりを告げます。

 ゆっくりと、六花ちゃんの腕の力はほどかれて膝の上に戻ります。

 そして、私の方に向いて立ち上がると、お辞儀をします。

 私はやさしく拍手をします。とても素晴らしい演奏でした。

「こんなに優しくて、愛しい木陰…」

 不意に六花ちゃんが紡ぐのは『オンブラ・マイ・フ』の歌詞の一部です。

 続けて、恥ずかしそうにぽつりと語ります。

「この間テレビを見ていたらこの曲のことをやっていて、なんだかありすのことを思い出しちゃったの。戦いの時にいつも大きな力で私たちを守ってくれるありすのイメージに似ているような気がして」

 ますます恥ずかしそうにする六花ちゃんはとてもかわいいです。でも、私もちょっと恥ずかしくなってきました。そんなにほめられるようなことはしておりませんのに…

 ふいに、六花ちゃんは私の手を握ります。

 私の胸はドキドキが増してしまいます。

「この曲は、いつも私達を守ってくれるやさしいありすへのプレゼント。これからもよろしくね、ありす」

 優しくそう言う六花ちゃんに、私は我慢できずに抱きついてしまいます。

「あ、ありす…?」

 私の腕の中で不思議そうな口調でつぶやきます。

 私はその耳元に唇を寄せます。

 腕の中の六花ちゃんは身じろぎもせず私に抱かれたままです。

 ここで、愛の言葉をつぶやいたら、六花ちゃんはどんな反応をされるのでしょう。

 今までの想いの丈を伝えたら、六花ちゃんはどんな反応をされるでしょう。

 言ってしまいたい。伝えてしまいたい。この、胸に秘めた想い。

 もう、私の我慢は限界です。その耳元に唇を寄せて、想いを伝えようとしたときです。

「ありがとう、ありす。これからもずっと友達でいてね」

 くぐもった声が私の耳に届きます。

 私の熱情はそこでとどまります。

 六花ちゃんの私への想いの丈は、私のそれよりはずっと低くて…

 私の腕の力が抜けていきます。

 六花ちゃんがゆっくりと私から離れます。

 私は小さな声で伝えます。

「ええ、これからも、末永く、お願いいたしますね」

 涙声ではなかったのはほめていただきたいです。

 六花ちゃんの瞳をじっと見つめて伝えました。

「…ありす?」

 でも、そんな私を心配するような表情で見つめる六花ちゃん。その指が私の頬に優しくかかります。

「どうしたの?」

 ひとしずく、私の頬を勝手に流れてしまった涙は、六花ちゃんの指先で陽の光にきらめきます。

「いえ、六花ちゃんの演奏がとても感動的でしたので…」

 そう言い訳をします。

 本当はもっと深い、色々な理由がありますけど、六花ちゃんに伝えるわけにはいきません。六花ちゃんの心を知っていて、なお、みずから傷つくために想いを伝えられるほどには今の私は強くありません。

 六花ちゃんはまだ心配そうな表情で私を見つめます。

 私は笑顔を向けて、

「もう大丈夫ですわ。素敵なプレゼント、ありがとうございました」

 そう伝えて、おじぎをします。

 でも、心の中、止められない想いが軋みを立て、ずっと涙を流し続けます。

 いつまでも、とめどもなく、いつ枯れ果てるかわからないほどに…


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