意味なんて何処にもないけれど、それでも誰かに伝えたい。
そう思ったから書きました。
僕は、リストカットが好きだ。
少し極端に過ぎるかもしれないけれど、そう言っても間違いではないと思う。
滲みだす赤が好きだ。
鋭い熱さが好きだ。
喪失の快感が好きだ。
これをまとめると、結局そういうことに落ち着くんだ。
何も初めからリストカットが好きだったわけじゃない。
もし初めから好きだったとしたらそれはただの破綻者だ。
僕はクラスで、いじめを受けていた。
悪口陰口は当たり前。
物を盗まれるのも、手を上げられるのも日常茶飯事。
ひどい時なんてはさみが飛んできたり植木鉢が降ってきたりしていた。
いじめには、先生も参加していた。
ある時胸を強く殴られて、しばらく息ができなくなった。
その場でうずくまって立てなくなって、息を吸おうとすると胸がひどく痛んでできなくて。
そんな様子を、先生も見ていた。
初めから最後まで、余さず見ていた。
全部しっかりと見ていて、そして。
「大袈裟だ。気合でどうにかしろ」
何を言っているのか分からなかった。
分かりたくなかった。
この瞬間まで、僕は先生を信じていた。
今まではたまたま先生が知らないところで起きていただけで、僕がいじめられていると知ったら助けてくれると、愚かしくも信じ込んでいた。
信じていたんだ。
その日の帰り、病院によると、胸骨が折れていると言われた。
次の日、そのことを先生に伝えた。
そうしたら先生は、すごく嫌そうな顔をした。
そのあと、あきれたような目を僕に向けてきて、
「だから何?」
大人は助けてなんてくれない。
僕はこの時ようやく、こんな当たり前のことを知った。
そんな日々だったから、多分僕は追い詰められていたんだと思う。
普通なら考えないような、考えてもやるはずもないようなことを、僕はやってしまった。
あの時の快感は、きっと一生忘れられないと思う。
刃を滑らせてから一拍置いて手首ではじける熱。
傷口が燃えているんじゃないかと思うくらいに熱かった。
その熱の奥から滲みだしてくる赤い液体。
どんどん出てくる量が増えてきて、手を伝って足元にピチョンピチョンと落ちていく。
それを見て、感じて、僕は例えようのない解放感を味わった。
赤い液体、血が、生きるために必要なものだなんてこと、あの頃の僕も知っていた。
それが体の外に流れて行ってしまうのがどれほど危ないことなのかも、当然。
だけど僕は、それなのに。
命が流れ出ていくその感覚を、気持ちいいと感じていた。
ずっと感じていた暗い思いが血と一緒に流れ出て行っているような気がして。
なんとも、清々しい気分だった。
それから僕は、嫌なことがある度にリストカットをするようになった。
まあつまり、ほとんど毎日リストカットをしていた。
初めのうちはそれこそ本当に、表面に薄く傷をつけるくらいでしかなかったけど。
何回もやっているうちに、刻む傷もどんどん大きくなっていった。
リストカットをするようになってからどのくらい経ったのだろう。
いじめは悪化の一途をたどって、毎日傷だらけになって家に帰るようになった。
誰も刃物なんて使わないから、できる傷はあざやたんこぶばかり。
切り傷と違ってぶたれてできた傷は、ただじんじんと痛むだけで解放感なんて全くなかった。
そんな時だったと思う。
「傷は長い間水につけてはいけません。
水につけている間は血が止まらないからです」
そんな話を聞いたのは。
確か保健の授業だったと思う。
けがをした時の対処の仕方についての授業で、保健の先生が話していた……ような気がする。
はっきり言って、どこで聞いたかなんてどうでもよかった。
思ったのはただ一つ。
――気持ちよさそうだな。
ただそれだけ。
それ以外のことなんて、その時の僕には何の意味もなかった。
家に帰って、すぐにお風呂を沸かした。
水じゃなくてお湯にしたのは、特に理由なんてなかった気がする。
せいぜいが、水だと寒そうだったから、みたいなことだっただろう。
お父さんもお母さんも、その日は仕事が忙しくて帰りが遅くなると知っていた。
遅くまで帰ってこないのだから、邪魔はされないだろうと、そう思った。
思ったよりも、お風呂が沸くまで時間がかかった。
その時間がよりいっそう、僕のやる気を引き出していた。
こんなに時間をかけてやるんだから、きっとすごく気持ちいいんだろうな、なんて。
お風呂が沸いてすぐ、僕は手首を切った。
いつもより少し深かったけど、別にいつもほど気持ちよくはなかった。
切ってすぐ、僕は手をお湯に入れた。
お湯が傷を刺激して、いつもなんかよりずっと熱かった。
いつもなんかより血がいっぱい出てきて、お風呂がどんどん赤くなっていった。
いつもなんかよりずうっとはやく命が抜けて、とんでもなく気持ちよかった。
この時だけは、僕は何もかもを忘れていられた。
何もかもを忘れていたから、やめ時も見失っていた。
気がついたら、目の前が暗くなってきていた。
電気はつけておいたから暗くなるなんてあるはずないのに。
それに、なんだかすごく眠かった。
眠くて眠くてたまらなくて、もうこのまま寝てしまおうと思った。
そう思ったら、どんどん目の前が暗くなっていった。
遠くで、誰かの声が聞こえた気がした。
目を覚ました時、僕は病院のベッドの上にいた。
すぐ横にはお父さんとお母さんもいて、目を覚ました僕を見て涙目になっていた。
僕は、心の病気だと診断された。
薬をいっぱい出されて、しばらくの間通院することになった。
薬を飲んで、学校に行って、薬を飲んで、病院に行って。
そんな毎日を繰り返すことになった。
特に代わり映えのしない毎日。
唯一変わったことがあるとすれば、リストカットができなくなってしまったことくらいか。
その唯一が、僕にとっては何よりも耐え難いものだったけど。
ただ一つの楽しみがなくなってしまった日常は、今まで以上に色あせて見えた。
病院に行っても特に面白いことなんてなかった。
いつも同じ先生が前にいて、何の面白みもない質問ばかりを繰り返してくる。
それを僕はいつも聞き流して、てきとうに相槌をうつばかり。
ただやることが増えただけ。
そんな日々を送っているだけなのに、お父さんもお母さんも、最近まったく笑わなくなった。
いつも下ばかり向いていて、なんだかかわいそうになってくる。
ある日、お母さんが一冊の本を渡してきた。
本の表紙には"Bible"と書かれていた。
まだ全然英語なんて分からなかったけど、いつもお母さんが読んでいたからなんの本なのかは知っていた。
確かセイショ、だったかな。
キリストって人の教えが書いてあるんだよって、前にお母さんは言っていた。
特にやることもなかったから、さっそく読んでみることにした。
表紙は英語で書いてあったから不安だったけど、中は普通に日本語で書かれていた。
教えが書いてあるってお母さんは言っていたけど、書いてあったのは物語だった。
カミサマが七日間で世界をおつくりになって、アダムとイヴという二人の人間を楽園に住まわせたこと。
アダムとイヴが、絶対に食べてはいけないと言われていた赤い果実を食べて、楽園から追い出されてしまったこと。
そんなアダムとイヴの二人が、僕たちの遠い祖先なんだということ。
読んでいて、なんだかすごく胸が熱くなった。
別に、カミサマの教えに胸をうたれたわけじゃない。
僕は、楽園から追い出されたアダムとイヴの姿に、強く心打たれたのだ。
二人にとって、楽園から追い出されるというのは死ぬことに等しかっただろう。
楽園の中しか知らない二人にとって、外の世界というのは恐怖の対象でしかなかったと思う。
でも、二人は過ちを冒した。
食べればカミサマの怒りを買うと知っていて、楽園から追い出されてしまうと知っていて、それでも二人は果実を食べた。
それは、僕がリストカットしたことと何ら変わらないと思うのだ。
死はとても怖い。
どんなに遠ざけようとしても、気がついたら忍び寄ってきている。
どこまで逃げても追ってきて、最後には必ず僕たちの命を持っていく。
でも、僕は知っている。
自覚した今ならよく分かる。
死に追われるのは怖いけど、死に自分から近づいていくのはとても気持ちがいいことなんだ。
間違っているからこそ、壊れているからこそ、他の何よりも優しい救いがそこにあるんだ。
その日から、僕はリンゴが好きになった。
楽園の二人が思わず手を伸ばしてしまった、死に近づく赤い果実。
駄目だと分かっていても食べてしまった禁断の果実。
気がつくと、僕は手首を切らなくなっていた。
別に切りたいという思いがなくなったわけじゃない。
でも、実際に行動に移そうとすることはかなり少なくなっていた。
それからは、世界が色鮮やかに見えた。
道端に転がる石ころでさえ、まるで宝石のように輝いていた。
僕は、地元から離れた国立の中学に通うことにした。
地元の中学に通っていたら、変わらない日々を送っていたら。
また罪の味を求めてしまいそうだったから。
一生懸命勉強して、寝る間も惜しんで机に向かって。
家に合格通知が届いた時は、飛び上がって喜んだ覚えがある。
そうして入った中学でオカルトが大好きな人と友達になって。
その子と話しているうちに、いつの間にやら神話にやたら詳しくなっていた。
ねえ知ってる?
ギリシア神話でペルセフォネが冥界で食べてしまった果実、ザクロなんだよ。
日本神話でイザナミノミコトが口にしたヨモツヘグイって、エビカズラって果物がモチーフなんだよ。
ザクロもエビカズラも、どっちも赤い果物だ。
どっちも赤くて酸っぱくて、何より甘い罪の味がする。
僕にとっての赤い果物は、たまたま体の中にあったんだ。
僕にとっての禁断の果実は、たまたま液体だったんだ。
なんてことはない。
罪の果実に魅入られた。
ただそれだけのことだった。
時が経ち、僕は大学生になった。
今はもう罪の味に溺れることなんてない。
自傷癖は残ってしまったけれど、これはもう仕方ない。ゆっくりと、一生かけて付き合っていくべき問題だ。
滲みだす赤が好きだった。
鋭い熱さが好きだった。
喪失の快感が好きだった。
僕は、リストカットが好きだった。
いや、もしかしたら今もまだ好きなままなのかもしれない。
六年。
まだ二十歳にもなっていない僕にとって、その年月は遠い過去のよう。
それなのに、今もずっと覚えている。
あの時の快感は、きっと一生忘れられない。
一度味わった罪の味は、記憶の奥深いところにしみついて二度と離れることはない。
でも、それでいいのだと僕は思う。
忘れられないものを無理に忘れる必要なんてない。
忘れられないならそれなりに、折り合いをつけていけばいいだけなんだ。
今でもふとした瞬間に、手首に刃物を向けそうになることはある。
それどころか、切る一歩手前まで行ったことだって何回あったか分からない。
それでも、だからこそ僕の人生なんだ。
罪の味に魅入られているからこそ、赤い果実の虜になっているからこそ。
他の誰でもない、僕自身の人生なんだと胸を張って思える。
最後に、この言葉で終わろうと思う。
僕は、赤い果実が大好きだ。
お目汚し失礼いたしました。