-3500─思い出の中で
夢を見た。
たぶん、悪い夢。
内容は覚えてはいないけれど、体にまとわりつく汗と自分から発せられる荒い呼吸がそれを物語っている。
だるい体で重い布団を押し退けるといつもと異なる部屋にいることがわかった。
「知らない天井だ……」
なんちゃって。
ここはわたしが高校生まで使っていたわたしの部屋。
わたしが一人暮らしを始めて家から出た後も、両親はそのままにしてくれていた。
もちろん、掃除というアフターサービス付きで。
起きた第一声があれなんてかなり毒されているのかもしれない。
カチカチと乾いた音を鳴らす時計に煩しさを覚えながら見ると、午前一時ちょっと前を指していた。
なんということだ、三時間とちょっとで目を覚ましてしまったではないか。
悪夢に叩き起されて中途半端に覚醒した意識はもう一度ベッドに潜るのを嫌がる。
ほんとは二度寝をキメて、シャキッと朝起きたいんだけどなぁ。
明日……いや、もう今日になったのか。
昨晩、今日に備えて早く寝た意味が無くなってしまった。
今日はわたしが世界で一番幸せになれる日。
世界が祝福してくれるわたしには今や敵無しだ。
でも、なんでだろう。
今日のことを思えば思うほど、体の芯が氷になったかのように冷たくなって震え出す。
「寒いなぁ……」
いつの間にか汗は引き、小刻みに震える体を暖めるように両腕でぎゅっと抱きしめる。
六月に寒いなんて馬鹿みたいだ。
昨日の夜だってわたしはおかしかった。
母親が作ってくれた温かい料理を口に運んだ途端、涙が急に溢れてきた。
突然流れ出した涙に両親は慌てふためいてたし、なによりわたしが一番焦った。
美味しすぎた、と無理矢理に笑って薄っぺらい言い訳をしてみて、親もわたしに乗ってくれて冗談を口にしてくれた。
けれど、たぶん両親は嘘なのだと分かっていたことが表情の端々から伝わってきた。
涙を流しながら笑う姿なんて、強がり以外なんでもないのに。
涙こそすぐ止まったものの、わたしの両目が赤くなったことは変わらず、たまに出てくる美味しいの一言のみのお通夜状態での食事だった。
名実ともに最後の晩餐だった。
お風呂でもそうだった。
体を隅々まで洗い、自分の仕事に満足して浴槽に浸かった次の瞬間、熱いものが頬を伝うのだから勘弁して欲しい。
やはり直ぐに止まったけれど、明らかにお湯とは違った温度だった。
どうして、なんで。
急に現れてはわたしを襲い、熱くて悲しい涙を流させるものは何?
不安?恐怖?憂い?
まさか、そんなことはありえない。
わたしは幸せになる、そのはずなのに。
なんで、なんで。
「寒いなぁ……」
もう一度ぽつりと呟く。
誰にも伝わらない、か細い声は暗い部屋に吸い込まれて消えた。
泣いたり、笑ったり、甘かったり、苦かったり。
様々な思い出が詰まったこの部屋は普段はカラフルに、鮮やかに彩られている。
けれど、陽の光の当たっていない今は暗くて冷たい、灰色の鳥かごのようだ。
鳥かごは翼を持つ鳥を内側に閉じ込めておくためのもの。
けれど、鳥を外から守るためのようにも今では捉えることができた。
どちらが正解なのか、わたしには分からない。
「私、弱いなぁ……」
そんなの今更じゃないか、と自分に悪態をつく。
弱いわたしは誰かの力を借りなければ生きてはいけない。
変なプライドが邪魔をして、さもわたしが誰かを利用しているなんて思い込んでたけど、それこそ事実の証でしかなかった。
✕ ✕ ✕
それを信じて疑わなかった頃、周りはわたしの思いどおりに大抵は動いた。
自分の思い通りにならないことがたまにあって悔しかったりしたけど、そんなに悔しかったかと聞かれれば首を
ふる。
だって、本気じゃなかったから。
また代わりの「人形」を見つけ、甘美な言葉を囁いて自由を奪う。
その間に魅惑という名の糸をくくりつけたらわたしのために働く忠実なマリオネットの完成だ。
「傀儡師」に扮した私の劇場には幾つもの人形がわたしの意思に従って動いていた。
それでプライドが、「私」が保たれていた。
人形は、わたしの価値そのものだったから。
けれど、いつだってその劇場でわたしは一人ぼっちだった。
多くの人に「好かれ」て、多くの人に嫌われるこの方法が必ずしも褒められるものでは無いと痛いくらいに分かっていた。
表面上は仲良しのように振舞っていたって、それは互いの利害関係がある一点に尽きたから。
そうやって、人を欺いて、騙して、誑かして……自分さえも偽ってきた。
嘘という名の厚化粧を自らに施して。
人を欺くために偽りの「私」を見せる、思い通りに動かすために「私」を演技続ける、新しい人形を作るために「私」を保つ、この繰り返し。
ピエロですら嘲笑うような、自分自身に糸をまきつけたマリオネットがわたし。
操っていたと錯覚していた人形たちは消え、舞台にはただ一人。
無様に、滑稽にただ踊り続ける。
他の処世術なんて他に幾らでもあっただろうに、なんて今でも思う。
でも、それこそたまたま、偶然としか言いようがないのだろう。
たまたまわたしが人より容姿が優れていて、たまたまわたしが人より甘え上手だったから。
一人という弱さに気付いたって気付かないふりを続けていた。
認めてしまった時が「私」の壊れる日だとどこかで確信していたから。
✕ ✕ ✕
なんでこんなことを思い出してしまったのだろう、憂鬱でしかない。
寒くて、無意識に右手が温もりを求めて虚空に伸ばされるが、案の定何も掴むことは出来ない代わりに違和感を抱いた。
空を切った所在なさげな右手をそのままおろすと硬いものに当たった。
それを手に取りボタンを押すと暗闇を切り裂いて周囲を明るく照らした。
あまりの眩しさに目を細めると、壁にかかった時計より無機質に思えるデジタル時計が一時を過ぎたことを示していた。
次の日が休日の時だとしても寝始めている時間なのに、と裏腹に冴えてしまった頭で思案を巡らせる。
いつもは眠くなり始めてるのにまだ寝たくないと、つい誰にでも見破れる嘘をついてしまう。
頬を膨らましたり力の入っていないパンチだったりと形骸化した抵抗も虚しく、毎度のお約束通りそのままベッドに連行される。
そして明かりを消して同じ布団を被り、わたしの右手と彼の左手が……あぁ、そうか。
嫌なことを思い出した理由が分かった。
✕ ✕ ✕
あの生き方しか知らないまま私は高校生になった。
環境と人が変わったってわたしのやることは変わらなかった。
貼り付けた愛想笑いとトーン高めの甘い声、計算して作り出した可愛さをもって人形を集めた。
もちろん、多くの反感も買ったけど。
結局一定多数の獲物を獲得出来てしまって、変わらないか、と誰に向けたものなのか分からない感想を抱いた。
そんな時、私は葉山先輩を知った。
成績優秀、運動神経抜群、高身長で眉目秀麗、厚い人望と優れた統率力の持ち主。
「天は二物を与えず」なんて言葉が裸足で逃げ出してしまいそうな程の完璧人間。
誰もが憧れ、学校生活の自分専用のパートナーにしたがる。
あの人を手に入れたい、そう思ったわたしがあの人がキャプテンを務めるサッカー部のマネージャーになるのは必然だった。
いつものようにアプローチを仕掛けてみるが、わたしになびくことは全くと言っていいほど無かった。
そこで少しだけ悔しくなったので少しだけ本気を出して、休憩時間に真っ先に葉山先輩のもとに駆けつけて温度調節がしっかりされたドリンク、綺麗にたたまれた真っ白のタオル、可愛い後輩の労いの言葉プラス笑顔のコンボを何回も叩き込んでみた。
しかし、結果は誰に対しても向けられる爽やかすぎる笑顔と感謝の言葉に毎回敗北を喫した。
並の男性ならばオチているところを葉山先輩は違和感が生まれないように流して、単に場慣れしてるだけではないことを知らしめた。
あの人さえ手に入ればわたしの価値は今までの中で最高のものになる、そう信じて疑わなかったからこそ諦めるわけにはいかなかった。
だから「好き」になった。
「好き」になったら本気になれるはずだから。
そして、なんの進展も無いまま秋の終わりに転機は訪れた。
やはりというか、知ってはいたが、私は多くの女子生徒に嫌われていた。
それもそうだろう、人形として価値の高い人間を片っ端から釣っていたのだから。
彼女らの目には多くの人に媚びを売る尻軽女だと思われていただろう。
そのことは分かってはいたが、それらの恨みつらみが本人の知らないところで生徒会長立候補者という形を伴ってやってくるとはよもや思いもしなかった。
初めは生徒会長という役職がわたしの価値をさらに引き上げるのでは、と密かに期待していたが当然の如くそれは裏切られる。
わたし以外、誰も生徒会長に立候補していなかったのだから。
こうなってくると話は別になってくる。
恐らくそのまま行くと対抗馬のいない信任投票になっただろう。
でも、それじゃいけなかった。
もし信任投票で負けると、言わずもがなわたしの価値は暴落である。
しかし、例え当選したとしても周りからの評価はそう変わるわけでもない上に、その後の行動によって冷ややかな視線を浴びるリスクも孕むことになる。
もちろん、辞退なんてもってのほかだ。
要するに、わたしは生徒会長という肩書きに魅力は感じなかったからやりたくはないけれど、無様な真似だけはしたくないという何処までも打算的な考えの持ち主だった。
子供だったから、と過去は言い訳できるが残念ながら今でも打算で行動するのは十八番なので今は言い訳できない。
ともかく、わたし一人の手には余る事態だったので生徒会に訪れ城廻先輩に相談し、更に平塚先生のもとにも赴き、最後に平塚先生が案内したあの部屋に向かった。
変な名前。
奉仕部という組織に抱いた初めの印象はそれだった。
そもそも存在すら知らなかったので不審がっていたが、平塚先生の「あいつらなら大丈夫だ」という無根拠なのに少しカッコイイ言葉と表情に頷くしかなかった。
先生の開け放った扉から二歩進んでその部屋を見渡すと、見覚えのある人が二人いた。
一人は結衣先輩。
ウェーブのかかった明るめの茶髪や身につけているアクセサリー、なにより誰が見ても可愛く感じる顔立ちはその人がスクールカーストの上位に位置していることを代弁する。
性格も明るく、空気を読めてコミュニケーション能力も高い結衣先輩は実際葉山先輩が属するトップカーストの一員で大きな存在だ。
ちょっと言葉を交わしただけでも分かってしまえる彼女の優しさ、明るさ、真面目さ、どこか抜けている部分も私と違って作っているものでは無いのだろう。
もう一人は雪ノ下先輩。
流れるような黒髪に、整いすぎている容貌は引き締まった表情も相まってお人形さんのように思える。
学年首席を誇る成績の持ち主で、噂によると大抵の事はなんでもこなせるらしい。
冷静沈着という言葉がぴったりな彼女も結衣先輩とは違う強さを持っているのだろう。
それぞれが強烈で、本当の魅力を持つ二人。
仲も良さそうでお互いの距離も近い。
少しだけ羨ましく思えてしまう。
けれど、その教室はどこか空気が張り詰められているようで二人の表情も重く沈んでいた。
気にはしたけれど、依頼の件があるので簡潔に挨拶をしたり、話を合わせていたりすると自分に向けられた視線を感じた。
誰だろうと視線の主の方を見てみると変な男がいた。
背格好や制服から判断するに一つ上の学年、葉山先輩達と同学年であることは分かったが今までその存在に気が付かなかった。
恐らく二人と一緒の奉仕部のメンバーであることは分かったがそれ以外の情報は淀んだ目と特徴的なアホ毛しかない。
なんでこんな人が二人と一緒にいるのだろうか、どう考えても釣り合うようには思えなかった。
取り敢えず間延びした声と貼り付けた笑顔を向けてみたが、その人は怪訝そうにこちらを見ながら嫌悪感を隠す素振りもしないで表していた。
初めてだった。
大抵の場合、驚きの後ぎこちない笑顔や、照れた表情、何かしらの言葉を返されるのだが全くの逆。
こんなことはあってはならない、とあるようでないようなプライドを傷つけられて怒りを覚えたが、今は選挙の方が優先度は高いため感情を抑えて話をした。
依頼を話すと少し驚かれたが、事情を話すとすぐに話し合いが始まり議題についての前提と補足説明がされた。
いわゆる抜け道と言った手段の模索をしていたが良い案はなかなか出てこない。
しかし、あの男の発言により事態は動いた。
私が信任投票で負ける理由を誰かによる応援演説にすり替えればいい、という恐らく誰もが思いつかない提案によりその空間が凍った。
沈黙が意味するのは戸惑いと拒絶。
あまりの居心地の悪さに城廻先輩も視線を辺りに散らし、私も思わず身をよじってしまう。
そして、結衣先輩は俯き、雪ノ下先輩は明確に、痛烈に、早い口調でその方法を、彼を否定した。
初めてこの空間に私でも、彼らの関係が現状あまりいいものでないことは痛いほどわかった。
そのままお通夜状態で相談は有耶無耶に、結論が出ぬまま終わった。
部屋を出る時に、机の上にある湯気の立たない冷めた紅茶や数も場所もバラバラのお菓子が寂しそうに見えた。
後日、一度呼ばれて選挙の方針を説明された。
要約すると、わたし以外の候補者──わたしが負けても、当たり前だと周りから見られるような人──を立てて、体裁はわたしが頑張っていたことにする、ということだった。
わたしにとってもそれが一番ダメージが少ないので有難い提案であったが、雪ノ下先輩の言うことをそのままやる傀儡になることになった。
わたしを指した言葉ではなかった上に、それ自体は別に構わないのだが私が、擬似的、瞬間ではあるが誰かの人形になることに自嘲的な笑いがこみ上げてくる。
それを、やはり薄っぺらい笑顔と頭を使わないでも出てくる言葉で偽る。
このことは別にどうでもいい人にはバレてもいいし、そうやっていたから反感を買っている訳だが。
わたしがあれこれ考えていたうちにこの空間の空気は前回よりも冷たく、凍てついたものになっていた。
それは、前回の時はあった紅茶とお菓子がないからなのか、日に日に迫ってくる冬が原因なのか。
前回は分からなかったけれど、彼らがとても強い何かで結ばれていることは分かった。
けれど、それらは絆とかそんな言葉で言い表せるものではなく、そして今はバラバラになっているということ。
どこが自分と、ほかの人たちと違うんだろう。
不思議で仕方なかった。
だからだろうか、先輩が先に部屋から出てしまった時に後を追いかけてしまったのは。
あの不思議な関係の中で一番おかしな存在。
改めて見たっていい所なんて一つも見当たらないどころか、目つきの悪い所が非常に目立っていた。
ちなみに、先輩があの部室に入ってきた時に誰か分からないフリをしたのだが、特に反応がなかったので若干悔しかったのは内緒だ。
そのあと、パルコで女子連れの先輩と葉山先輩にあったり、雪ノ下先輩が生徒会長に立候補したり、更には結衣先輩までもが立候補した。
二人とも条件をすべて満たしている上に、とても素敵な
二人だと思う。
だから二人のどちらかに負けても周りは当たり前だと思うだろうし、そちらの方が生徒会的にもいいに決まっている。
けれど、そのどちらが勝ってしまってもあの部活が終わってしまうことが、あの部屋を知ってから日の浅いわたしでも分かった。
それはもちろん罪悪感めいたものでもあるし、単純にわたしにないものを持っている彼らを失ってしまう悲しさでもあった。
……本当は、本当はこの二人に勝ってわたしが生徒会長になるかも、なんて思ったりもしていた。
もちろん可能性は絶望的どころかゼロに等しいけれど、願望だった。
理由はわたしの価値を押し上げることもあるが、何よりわたしを陥れた人たちを見返してやりたいという気持ちが大きかった。
そんな醜い本心をいつもの調子で隠して誰にも分からないようにしてきた。
選挙も近くなった昼休みに比較的仲の良いクラスメートから、二年生の先輩が呼んでるんだけど……と言われた時は面倒だなと思ったが、彼女の混乱と恐怖の交じった顔色を見て内心笑ってしまった。
腐った目が与える印象は人をこんな風にするのか、という気持ちとその持ち主が先輩ということに笑いを禁じ得ない。
連れられてきた図書館で突然渡された紙束を見た時は思わず嫌な顔をしてしまったけれど。
そしてシャーペンが紙の上を走る音が聞こえるほど静かな図書館での退屈な誰かの推薦人の転記作業中の会話中にそれは起こった。
“そういうの、腹立つよな”
ドキリとした。
心臓を鷲掴みにされた気さえした。
動揺はシャーペンの芯が折れる音に代わり、表情は固まる。
誰にも知られたくない考えを、この人に見透かされていた。
“あの二人に勝ってみたくないか?”
勝ちたい。その思いは即座にわたしを前に向かせたが、出てきた言葉は反対の言葉だった。
先輩を、そして自分を納得させて逃げ道を作ろうとしたけれど、直ぐにそれは先輩によって塞がれる。
今まで書いていた文字の集合は私の推薦者という意味を持ち、400という三年生を除いた半分以上の数字に紙がずっしりと重みを増した錯覚さえ覚えた。
形だけの抵抗も、どこかズレているが説得力のある言葉とおかしな、いや、控えめに言って気持ちの悪いわたしのモノマネに封殺された。
あぁ、なんて人なんだ。
自分の目的の為にわたしを利用して、わたしの依頼がなかったことにしようとしているんだ。
目つきも笑えるほど悪いし、この人は甘い言葉でわたしを唆す悪魔に違いない。
けれど、この悪魔はあの二人が大切だから、傷つけたくないからきっとわたしと「契約」を結びに来たのだろう。
契約の内容だって先輩はもちろん、わたしにも十分なメリットが提示されている。
そうでもないと話に応じないと思ったのかもしれないが、利用することを相手に伝えているのと同義な行為にふっ、となんとも言えない、自分でもよく分からない笑みを漏らす。
乗せられてみようではないか。
本人は否定するだろうが、誰よりもわたしを理解してしまった
、悪魔の皮を被った優しい先輩に。
これが悪魔のやる所業ならば、私は小悪魔がいい所だろう。
だから、小悪魔らしくとびきり意地悪な笑みを浮かべてみせた。
こうしてわたしたちの間に契約は結ばれた。
あとから友人に聞いた話だが、Twitterにある人達が生徒会長になるのを応援するアカウントというのが複数あったらしい。
ここまでは噂で何となく聞いたことがあったのだが、その後の話に驚きを隠せなかった。
その複数の応援アカウントが一夜にして全てわたしの応援アカウントとなり、その後削除されたという。
話を聞いてしばらくは唖然としていたが次第に笑いが込み上げてきた。
まんまとしてやられたわけだ。
若干の悔しさとそれを大幅に上回る清々しさをもって、生徒会長選挙は幕を閉じた。
✕ ✕ ✕
懐かしい出来事を思い出していた。
数年前の思い出は寒がりなわたしを温めてくれ……いや、ちょっと待って、恥ずかしすぎて顔から火がでそうなくらい暑い暑い暑い暑い。
「あ゛ぁ゛ぁ゛……」
声にならない声が口から零れ落ち、頭を枕に押し込んでじたばた足を動かす。
何が6月に寒い、だ、初夏だって夏だと身をもって知らされることになった。
恥ずかしいことや嫌なことを思い出すとうめき声が勝手に出てしまうのはわたしだけだろうか。
未だに熱が残っている顔を上げると、時計は長針を真下に移動させていた。
……思い出にふけっていたせいなのか、あの人の声が聞きたい。
常識的に考えて誰もが寝静まった夜に、ましてや今日を控えている彼が起きているわけがない。
そんなことは分かっている、分かっているけれど。
頭では理解していても体は言う事を聞かないで再びスマホに手を伸ばす。
いつになく明るい人工的な光に目を細めながら電話帳を開く。
勢いよくスクロールしていた指は、あの人の場所に近づくにつれて動きが細かくなり、ついに止まった。
「あった……」
そこにあるのはただの文字列。
けれど、今この瞬間において一番意味を持つ文字列だ。
そのまま電話をかけようとした寸前に指が止まる。
迷惑ではないだろうか、そもそも寝ているはずだという今更すぎる心配や疑念がふつふつと湧き上がってきた。
秒針が時を刻む音だけが静かに響く中、体を硬直させているとスマホの画面がスリープに入って暗くなった。
慌てて、条件反射と言っていいほどスマホをタップするとコール音が暗い部屋の中に大きく響き始める。
しまった、と後悔する反面、偶然の産物を幸運だと思ってしまう。
電話を切るわけでもなく、そのまま端末から等間隔で発せられるコール音を聞きながらじっと画面を見つめる。
時間としては十数秒、けれど体感的には一分以上に思えたコール音が鳴り止む気配はなかった。
当たり前だと思っていても残念に思ってしまう自分が憎い。
ふぅ、とそんな感情を吐き出すように短く息を吐く。
そして、電話を切ろうとした瞬間不自然にコール音が途切れた。
心臓がドクンと飛び跳ね、呼吸が一瞬止まる。
遅れて冷や汗が出てくるのを感じ取りながら、留守番電話でないことを確認した。
一秒ごとに数字がカウントされて行くのを見て、息を深く吸う。
誰の声もしない一見静かな部屋の中は、秒針がやけに大きく聞こえて、それよりも私の心臓の鼓動音がうるさかった。
空気は謎の緊張感を帯び、私に何を話すのかと語りかけてくる。
何を話せばいいのだろう、全く考えていなかった。
そもそも、なぜ彼はこんな時間に起きているのだろうか。
後悔と疑問と緊張と、多くのものが全て混ざった私の脳がかつてないほど働き始めたのは電話が繋がってから十秒経ってからだった。
電話をかけた本人が話しかけないのもおかしいので、ついに乾ききった喉を震わせようとした瞬間、
『……モーニングコールにしては些か早すぎるんじゃないか、一色』
と、向こうも向こうで緊張しているのだとすぐに分かってしまう声色でジョークを言う先輩の声が聞こえた。
初めまして、赤狐と申します。
本作をお読みいただきありがとうございます。
拙作が皆様の暇つぶしになれば幸いです。
評価、感想お待ちしております。