わたしが「一色いろは」をやめる日   作:赤狐

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0.5─あなたとだから

「なんで、わたしなんですか」

 

『……』

 

あぁ、言った、言ってしまった。

 

顔は見えないけれど、画面の向こうで空気が変わったことが痛いほどにわかる。

 

血の気が引いて、暑いのか寒いのかもわからない身体はそれでも震えていた。

 

これ以上は先輩に迷惑をかけたくない、知られたくない、聞いて欲しくない。

 

何より───先輩に嫌われたくない。

 

勝手に自分の醜い部分をさらけ出して、泣いて、傷ついて、そして最後には嫌われたくない、なんて子供の駄々なんかよりも酷くて、虫が良いにも程がある。

 

そんな思いで弱々しく力のこもらない掌でスマホを掴む。

 

小刻みに震える指は、しかし意志が追いついた為に、先程が嘘のように、電話を終わらせることが出来そうだった。

何か言われることが怖い、何も言われないのも怖い、失望されることが怖い、だから、逃げたい。

 

けれど、指の動きは赤い色のアイコンに触れる前に停止することになる。

 

『……一色』

 

「……」

 

何を言われるのか想像するのも怖かった、 それでも電話を切らなかったのは、先輩の声に、包み込んでくれるような優しさがあるように思ってしまったから。

 

『本当なら、気の利いた言葉をかけるのが正解なんだろうが、すまん、上手い言葉が見つからなかった。ただ……』

 

先輩が、言葉を切った。

 

その後にこちらにさえも聞こえてくる、大きな深呼吸。

 

いつの間にか、わたしの鼓動の間隔短くなっていた。

 

一種の叫び声にも似たそれは、意識すればするほど加速していき、体の外に飛び出てしまう錯覚さえ覚えさせる。

 

『……ただ、俺はお前になら殺されてもいい』

 

「────」

 

一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 

いや、数秒たっても理解できない。

 

そんなわたしの困惑した様子と空いてしまった時間に焦ったのか、慌てたようにどこかズレた言葉をマシンガンのように連ねる。

 

『いや、変な意味じゃなくてだな、その、あれだ、俺は常々不条理な人の世を恨んでいて、悪行を重ねていても突拍子もなく病気や通り魔に刺されて死んだら怨霊になって全てを呪ってやるが、一色に殺されるなら、俺に全責任があって辛い思いをさせてしまったんだなって思えるって意味であって、そう決して変な意味じゃ───』

 

「ふふっ」

 

突然のわたしが漏らした笑い声に困惑している様子が伝わってくる。

 

「意味がわかりませんよ」

 

矢継ぎ早に並べられた語句に込められた意味ははっきり言って半分も理解できなかった。

 

「先輩は優しいんですね」

 

先輩は優しい。

 

だからわたしを慰めてくれていると思っていた。

 

しかし、それは画面の向こうで小さく吐かれた息の後否定される。

 

『何か勘違いしているようだから言っておくが、別に俺はお前を慰めている訳じゃ無い』

 

落ち着いた声音、それが冷たいものに思えてしまったわたしがいた。

 

実際はそんなことはないのだろうが、お前のためでは無い、お前を気遣ったものでは無い、そんな風に聞こえてしまい、突如として温もりが奪われる。

 

目の前が塗りつぶされたように真っ暗になる錯覚に陥り、先程かけてくれた言葉も全て嘘のように思えてしまった。

 

これ以上は聞きたくない、と思わず耳を塞ぎそうになる。

 

けれど、続けられた言葉をわたしは生涯、二度と、忘れることは無い。

 

『一色、俺は、お前じゃないとダメなんだ。お前以外の誰かじゃなくてお前だけなんだ』

 

呼吸が、止まる。

 

『この先、困難も喜びも全部が待ち構えていると思う。それを一緒に歩んでいける、歩んでいきたいと思った相手は一色、お前なんだ。その気持ちは嘘偽りなんかじゃない、「本物」なんだと俺は確信を持って言える』

 

再び熱い雫が頬を濡らしながら伝っていく。

 

顎から掌に滴り落ちたそれは、けれど、今までのものとは異なる温もりで、わたしの冷え切った心を優しく温めてくれた。

 

気づくとわたしは嗚咽を漏らしていた。

 

不規則に揺れる肩、スパンの短い荒い呼吸、口から漏れでる声、うるさく存在を主張する心臓、そして、今までにないほど熱い目頭。

 

不思議とそれらは愛おしく、涙を流すことと泣くことは違うのだと、ようやく自分が泣くことを自分が許したのだと思った。

 

「……先輩」

 

『……ん』

 

深く息を吸い込んでゆっくりと時間をかけて吐くと入りすぎた力が緩やかに抜けていき、心も落ち着いていく。

 

その間も先輩は沈黙を保ち、わたしを待ってくれていた。

 

今まで口に出すことが出来ずに、胸の内に積み重なっていた言葉と思いがとどまることを知らずに溢れ出てしまった。

 

けれど、それは確かに必要なことだった。

 

わたしたちの間に自らをも偽る嘘も、心の内を隠す笑みも、不必要なものだった。

 

わたしたちは互いの弱さを晒し、本音を語り、支えあって歩んでいく。

 

だからわたしは先輩を選び、先輩はわたしを選んだ。

 

そんなことも忘れていたのかと軽い自己嫌悪に陥る。

 

けれど、それ以上にこんなにもすぐ側に心強いパートナーがいるという事実が堪らなくうれしかった。

 

だから、言葉にして伝える。

 

「先輩、ありがとうございます」

 

『……おう』

 

主語も目的語もない、短い言葉。

 

けれど、それで全て伝わる。

 

わたしたちにはそれで充分だった。

 

「ていうか、先輩、わたしのこと『一色』って、これからどうするんですか?もう呼べなくなっちゃいますよ」

 

『うっ……忘れてた……。てか、お前だって俺の事「先輩」って呼んでるじゃねぇか』

 

「わたしはいいんですー。だって先輩はずっとわたしだけの『先輩』ですから」

 

『……っ!そういうとこがあざといんだよ、お前』

 

「えっ、今の素なんですけど。まぁいいです、ほら、ぷりーずこーるみーいろは」

 

『……い、いろは………………す』

 

「なんですかそれ、わたしは水じゃないです!それになんで照れるんですか、わたしの恥ずかしい部分いっぱい見てる癖に今更すぎますよ」

 

『ぶっ……!お前、本当に花も恥じらう乙女……って年齢でもなかったわ、うん』

 

「ちょっ!それは女性に対してあまりに失礼です!撤回、撤回を要求します!若しくは、愛してるの一言で許します」

 

『意味がわからん……。それに、そういう言葉は電話越しじゃない方がいいだろ……』

 

「わたし思うんですけど、先輩って女性より乙女してますよね」

 

『うっせ、ほっとけ』

 

───満ち足りている。

 

今のわたしをそう言うのだろう。

 

表面上は今までとなにも変わっていないのかもしれない。

 

けれど、確かに変わったのだ。

 

わたしは、一人じゃない。

 

「なんだか眠くなってきました」

 

『そうだな、そろそろ寝るか。無理にでも寝てないと倒れそうだしな』

 

心が満たされて安心したのか、鳴りをひそめていた睡魔が緩やかにわたしを眠りへと誘う。

 

「それでは先輩、また明日」

 

『おう、また明日』

 

通話を切るために再びスマホを手元に手繰り寄せるが、漠然とした不安も恐怖も今はもうない。

 

凍えて震えていた体もいつの間にか温もりに包まれていた。

 

「おやすみなさい」

 

『おやすみ』

 

画面に軽く触れるとタイマーのカウントがストップし、少なくとも深夜に話すのには相応しくない数が並べられていて思わず苦笑いをうかべる。

 

スマホを充電器に繋いで画面を閉じると途端に透明だった夜の帳が深い闇の色を帯びて下りる。

 

ゴロリとベッドに転がって大の字になるとこの部屋の多くが視界に入る。

 

中学校を卒業する時、多くは親戚の子供に送られたがこれだけはとずっと取っておいた、窓台に飾ってあるぬいぐるみ。

 

高校三年生の時、先輩のいる大学までなんとか行こうとして家の中での大半を過ごし、寝落ちしたことも数え切れないほどある机。

 

学校の日も休日も、出かける前に自分の姿を映して変なところがないかを細部まで何度も確認した大きな鏡。

 

この部屋には数えきれないほどの思い出がたくさん詰まっている。

 

初めてこの部屋に入った時、わたしだけの広々としたお城のように思えたことを今でも覚えている。

 

はたしてそれは、身長が伸びて行くに連れて、ものが増えるに連れて薄らいでいったけれど。

 

それでも、わたしがわたしでいられる、わたしだけのお城であることには違いなかった。

 

なんびとたりとも侵入することは許さないこの居城を、わたしは明日去ることになる。

 

けれど、それは決して今までと決別する訳では無い、むしろ今に至るまでわたしが今の自分を形成してこれたのはこの部屋のおかげであることは否定しようがない。

 

ただ、わたしは新たな居場所を見つけることが出来た。

 

わたしがわたしであれる場所、わたしの大切な人がいる場所。

 

鳥かごはたしかに役目を果たし、鳥が大きな翼を広げて飛び立つ時期がやってきたのだ。

 

 

すっかり熱を失ってしまった薄い掛け布団を再び被る。

 

変な汗も未だに思い出すことの出来ない悪夢のこともどこかに引っ込んでしまった。

 

今手元にあるのは確かな温もりとささやかな幸福感。

 

それらを手放さないように身体をぎゅっと丸める。

 

重くなってきた瞼を、逆らう理由もないので閉じると当たり前だが何も見えなくなり、カチカチと鳴る時計の音だけが残った。

 

そこには一片の恐怖も不安も憂いもない。

 

急速に膨れ上がった睡魔にその身を委ねてわたしは重力に引っ張られるように眠りの世界へと落ちていく。

 

指先の方から徐々に弛緩していく身体を、こちらもまた靄のかかり始めた鈍い脳で感じ取る。

 

身体は動くことを忘れた重りのようになり、不鮮明になっていく思考の中、突如として口先から「ありがとう」という言葉がこぼれ落ちた。

 

何に対してなのか、何を思ってなのかそれすら霞がかった頭では考えることが出来なかったが、同時にそれはとても自然なものにも思えた。

 

時計の音が遠ざかる最中、どこにあるか分からない、けれどたしかにある心がじんわりと温かいことを感じ、安堵して意識の手綱を手放した。

 

 




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