「誰かの失敗は五人で乗り越えること。誰かの幸せは五人で分かち合うこと。喜びも、悲しみも、怒りも、慈しみも、全員で五等分」
最近、死別した母親の言葉を不意に脳裏で反芻することがある。そして、その言葉はあくまで理想論に他ならなくて、叶い続けることのない希望であると社会人になって…………いや、高校を無事に卒業した時に否が応でも実感させられた。
全てを五等分なんて出来っこないのだ。全員が全員、それぞれに抱く夢がある。それを叶えるための進路は必然的に三者三様ならぬ五者五様となる。
各々別の道を歩む中で、高校を卒業した私が選んだ道は大学への進学。母と同じ教育関係について学ぶためにその選択を取った。元々の学力が焼け野原に生えた雑草の如く弱々しかった私がこういう選択を出来たのは間違いなく記憶の彼のおかげだが、それでも出来て平均以下。私を拾ってくれた大学はあまり多かったわけではなく、結果としては家を借りて一人暮らしをしなければならないような地へと向かうこととなった。
新しい地、見知らぬ土地。期待と不安が入り混じりながら大学生活が幕を開けた…………のだが、正直拍子抜けと言わざるを得なかった。
ここまで苦労して入ることを許された新天地。きっとそこに集うのは私と同じくらい、それ以上に将来への希望に満ちている人たちで溢れかえっていると思ったのに。蓋を開けてみれば、そんな人達はほんの僅かで、極力オブラートに包んだ表現で纏めると大学生活を謳歌してる人が大半だった。
私はそういう部類の人間にはなるまいとひたすらに勉学に励んでいた。降り掛かるコンパとかの誘いも、今をときめく女優と似ている顔だとかその他の邪な感情からくるものだろうと判断して全て蹴り飛ばしていた。というか、そんなことに気を取られている暇がなかったのが実状。
やっぱり勉強に着いていくので必死だった。おかげさまで授業は休まず全部出て、席だって先頭を陣取る始末。未だに要領の悪さは残っていたものの、高校時代に比べてば圧倒的にマシになっていたからか、相当危なかったとはいえ留年はせずにストレートに学年という階段を登っていた。
そして、卒業まであと1年といった年。私は夢へ向けての明確な一歩を刻むべく、教員採用試験を受けたのだが…………惨敗だった。結果を受けて悔しいと思いこそすれど、そこには何処か清々しさを感じていた。
ここまで努力しても、なお届かない領域。そんな場所で母は身を粉にして頑張っていたのだと思うと寧ろ誇らしさすら覚える。
───今の私では、まだあなたに届かないんですね。
自分の中で気持ちの整理が付いた私は、気付かないうちに張っていた心の線が切れたのだろう。残りの大学生活を今までと打って変わって、ぼーっと過ごしていた。気付いたら輝かしいキャンパスライフは終わっていた。と言っても、就職先だけは何とかして見つけていた。
塾講師。少しだけでも母親と同じような環境に身を置ければと選んだ教育現場の一つ。そういえば、昔に相談に乗ってくれた下田さんも塾講師をしていると言っていたか。
高校を卒業するための努力の過程で姉たちに得意教科を教えることはあったから勝手に勝手が分かると思い込んでいたが、姉たち以上に個性の強い生徒が多く、最初の頃は混乱気味に我武者羅に頑張っていた記憶がある。如何に姉たちが幼い頃から一緒にいたから勝手のわかる存在だったのかを痛感した瞬間だった。
そして、塾講師を始めて早三年。毎日毎日仕事に明け暮れていた。来る日も来る日も仕事、仕事、仕事。朝起きて、身支度を済ませ、出勤したら事務作業をしながら今日入っている授業の準備や課題の用意。そして、授業をこなして、家に帰れば時計は天辺を指していて、泥のように眠り、また朝へと廻る。
そこまで忙しいと仕方ないとは思えるが娯楽に耽る時間なんてなかった。日に日に私の中から欲望は薄れていき、毎日何のために働いているのかわからなくなる。むしろ、完全に心が壊れてしまえば、何も考えずに楽だとさえ思えた。
数年前こそ食べたいものを食べたいだけ食べて浸っていた幸福感だって、裏を返せばそれだけ食べないと活力が満足に得れない燃費の悪さの証明に他ならず、今となっては枷としか思えなくなっていた。空き時間にコンビニの弁当や閉店前のスーパーで安売りしている惣菜などをひたすらお腹に詰める作業。食事じゃない、作業。それを繰り返していたら、年を重ねたのもあるのか若干お腹周りに重りを抱えているかのような感覚を覚えた。服の上からならまだ意識するほどでもないが、脱いだら……自分でもちょっとコメントに困る。まぁ、喜ぶべきか忌むべきなのか、身体を見せる相手がいないから今のところはあんまり気にしていないのだが。
そんなあまりにも人間らしくない……立派な社会の歯車となって仕事をしている時、出張の報せが舞い込んできた。何やら地方の方で人手の足りないところがあるらしい。そこへ行ってくれないかと言われ、首を縦に振るしかなかった。どうせ受けても断っても大して変わらない。ならば、受けるだけ受けて、変に漣を立てないようにした方が良いと思って。
大学入学に加えて、二度目の新天地。未成年としてではなく大人として、学生ではなく社会人として訪れた新天地に対する考え方は幾分か変貌を見せていた。泊まる場所と職場までの距離がどれくらいか、その道中でコンビニやスーパーは何軒あるかという圧倒的な効率厨の思考回路。むしろ他に気にする点なんてなかった。どうせ働き詰め、羽根を伸ばす機会なんてこっちにいる間に一度もないのだから。
そして、悪い方の予感は良い方の予感に比べて格段と当たりやすいからか、それは現実になった。土地が変わっただけで何もやることが変わらない仕事。馬車馬の如く働き詰める毎日。そんな日々に彩はない。灰色の毎日を嫌気が差す程の青空の下で過ごす中、私は運命に出会った。…………いや、“運命”なんてそんな綺麗なものではない。もっと残酷で、過酷で、目も逸らしたくなるような────
「まさか…………」
仕事の合間の昼休み、ご飯を見繕ったコンビニから職場にとんぼ返りしている道中。そこにいたのは私とそっくりの顔立ちでありながらも、明らかに私とは一線を画して異なる存在。日輪に照らされ、風に揺れる桃色の髪はキラキラと輝いていた。
「────一花、なのですか…………?」
―――*―――*―――
「いやぁ、驚いたなぁ。まさか五月ちゃんとこんな場所で会うなんて思ってなかったよー」
成り行きで一花と世間話をすることになり、喫茶店に入った私。こんなことをしていたら午後の仕事に支障が出そうだが、そんなこともう見て見ぬ振りをすることにした。別に夜に入ってる授業の準備には問題ないし、一応ここへは出張で来てる。今まで頑張ってきたし、少しくらい勝手に休みを貰っても問題はないだろう。
「…………私もこんなところで知人と出会うなんて思ってませんでしたよ」
「そうだよねー、そこに関しては私も同感」
大人になって、私たち五つ子がそれぞれの道を歩み始めたことを鑑みれば、実家から縁遠い地でこうもばったり会うのは奇跡に等しい確率。この確率を引けるのなら、今すぐにでも宝くじを買ってお仕事とおさらばしたいが多分そんな上手い話はない。…………いや、違う。そういう話じゃないのだ。
往々にして当たってほしくない予感ばかり当たる。正直な話、今の私が姉たちの中で一番会いたくなかったのは一花かもしれない。見たくもない現実を見せられ、思い出したくないようなことを思い出させられるから。心の中の辛酸を注文したブラックコーヒーを煽って無理矢理押し込める。口に含むブラックコーヒーは心なしか今までで一番苦く感じた。
「そういえば五月ちゃんがコーヒーって珍しいね。なんか私としては印象ないなって」
「社会人としては飲めた方が色々と都合が良いので。気付けば常飲してます」
「社会人として、かぁ…………五月は今も塾講師やってるの?」
「ええ、今も相変わらず。ここに来たのも塾の仕事関係の出張ですし」
「へぇ…………」
ただの世間話。何も緊張する必要はないのに余計なまでに緊張が身体を襲う。口から一言一句、気を払いながら、地雷を踏み抜かないように。現実を見ないようにするので必死だった。
いつも通り…………そうだ、昔通りで良い。高校生の時みたいな感じで気兼ね無く話すような感覚を思い出すんだ。心はそう思っても身体は言うことをきかない。
「一花こそこんなところで何してるんですか? 今をときめく人気女優がこんな街中でブラついてるなんて不用心過ぎますよ」
「結構真面目に変装したつもりだったんだけどなぁ…………」
そう言って一花は自身の姿を見直していた。
変装と言われれば変装なのだろう。帽子も目深に被り、サングラスも掛けてたし。更にスラっとした身体を隠すために色々詰め込んでいるから、確かに努力の跡は伺える。
「私や他の姉……特に二乃なんか相手だとすぐにバレますよ、あの程度。一般人に対してどうかは知りませんが」
「でも、あんまりバレてないし、変装としては成功してるんだよね」
「あんまりと付けるところ、バレたことあるんですね」
「分かる人には分かるっぽくて…………」
困った風に笑ってみせる一花を私は直視出来なかった。一度でも直視してしまえば、それは今の私に対して毒牙となって襲い掛かってくるのは容易に知れているから。
「それで今何してるか、だっけ。私ね、しばらく女優業休ませてもらってるんだ」
「えっ────」
「驚かれるのはちょっと意外かなぁ……これでも相当メディアに取り扱ってもらった話だったから、てっきり五月ちゃんも知ってるかなって思ってたよ」
「最近はニュースを見てる暇すら無くて……すみません」
「それで塾講師大丈夫なの? 五月ちゃんのことだから教えてるのは理科だろうから時事問題とか関係ないから良いけど、生徒と話すネタとしては色々知ってた方が良いよ?」
「女優が休業したとか時事問題にすらなりませんよ。あと、別に世間話をしたいが為に授業をしてるわけではないので。…………で、どうして休んだんですか?」
…………後になって思う。ここで理由について問い質さなければ、そもそもコンビニでご飯を見繕いなんてしなければ、私はまだ幸せでいれたかもしれない、と。
一花はニヤニヤしながら、変装を解いていく。何笑ってるんだろうと訝しむ私だったが、そこである異変に気付いた。
確かにお腹に詰め物をしていた。が、それを抜いて余りある丸く張ったお腹。私の不健康な食生活から来るお腹とは決定的に違うそれは紡がれる言葉以上に真実を語っていた。そんなお腹をさすりながら、一花は嬉しそうに語り掛ける。
「実はね…………私、妊娠したんだ」
―――*―――*―――
私たちは五つ子。幼い頃はみんな瓜二つ……いや、瓜五つとも言えるのか。とりあえずみんな同じような人間だったのに、中学へ入った頃…………母との死別を遂げてからか。それぞれに色んな方向に成長を遂げた。好き嫌いもバラバラ、性格も今まで以上に個性を増し、そして結果としてそれぞれの夢を得た。
そうして変わっていきながらも、私たちが一緒にいれたのは互いが互いを思う気持ちがあったのと同時に、心の底である共通項を───ある人への恋慕の気持ちを抱えていたから。
彼との出会いは高校生の時…………四葉が落第して転校してきた初日の出来事。姉たちは姉たちで他の方法で初対面だっただろうが、私の場合は新しい学校を見て回った後の食堂での相席が初めてだった。
今でも思い出す、焼肉定食の焼肉抜き。彼はそれに対して「この食堂で1番安いのはライス単品だが、この注文だったら同額で味噌汁が付いてくる」と豪語していたのは今でも覚えている。その時に彼は私に対して、食べ過ぎだの太るなどと悪態を吐いてきて、初対面の印象としては最悪だった。
でも、その彼は父が雇った私たち五つ子のための家庭教師だった。それを知った時の私は勿論驚かざるにはいられなかったし、当時は断固拒否の姿勢でいた。「私は自分で勉強出来る、わざわざあなたの手を借りるまでもない」と。態度こそ違えど、同級生に教えてもらうことに私たち五人は抵抗感を覚え、教えることを拒否していた。…………いや、四葉だけは最初から教えを乞うていたか。
しかし、殆ど排斥に等しい扱いを受け続けても彼は私たちに教えることを辞めることはなかった。本人は仕事だからと口では言っていたものの、今ならその根底には彼なりの思いやりと優しさがあったのだろうと思える。
…………だから、なのだろう。私たち五つ子は時間を重ねる度にそんな彼に惹かれていった。そのきっかけ、自覚のタイミングはバラバラだったとしても最終的に全員が彼に想いを馳せるようになっていた。
五人の女の子が、一人の彼を好きになる。すると、どうなるか。…………考えるまでもない。彼の隣というたった一つの玉座を賭けて死に物狂いの戦争が始まる。早い者勝ち、先に関係性を明らかにして座ってしまえば勝てる椅子取りゲーム。なのに…………五人の中で一番、自身の気持ちに自覚が遅れたのは私、だった。
有り体に言ってしまえば、もう手遅れだった。自覚した頃にはもう盤面はひっくり返らないくらいに決定的な一撃が打ち込まれていて、私がどうこう出来ることなんて残されていなかった。
結果は長女の一花の一人天下。二乃の壊れた恋の暴走列車が如く勢いも、三玖の一番長く愚直に積み重ね続けた努力も、四葉の彼が凄いぞと知ってもらおうと後ろを顧みずに頑張る姿も、全てを利用して、蹴落として、その玉座に着いた。鮮やかとさえ言えるくらいに完膚無きまでに掌握し切っての勝利。
もっと自覚が早ければ───何度も考えたIfの世界線。仮定に仮定を重ねた世界線でもなお、勝てた保証はない。ただ戦えていたなら、ここまで虚しくなることはなかったと思う。
私は戦ったんじゃない。その戦場にあがる前に戦いは終わっていたのだから。例えるなら、出兵したのにいきなり勝利宣言を告げられたようなもの。こちらで何か出来る話ではなかった。
そして、明らかにはっきりした関係性の勝敗は一度も、一瞬たりとも覆ることなく、一花は彼と結婚式をあげた。その式には家族であり……そして、敗北者でもある私を含めた四人の姉妹も参列した。二乃も、三玖も、四葉も式では清々しい笑顔で、「おめでとう」と言っていた。己の最愛を奪われたはずなのに、そこには一切負の感情が垣間見えなかった。きっとそれは彼女たちが納得がいく負け方をしたから、納得が出来るくらい正面でぶつかることが出来たからだ。
対して、私はどうだ? 確かに式で他の三人と同じように笑えていたかもしれない。話せていたかもしれない。ただ、その日の明確な記憶はとうの昔に忌むべき記憶として心の箱の内に仕舞い込んで、忘却の海へと流してしまったから本当はどうだったか分からない。
でも、これだけは自信を持って言える。あの日、あの時、あの場所で、唯一「おめでとう」と言えなかったのは私だけだ。一花が勝手に勝っていたから、彼が一花を選んだから、そして…………それを惨めにも認めたくないと思った醜い自分がいたから。その言葉は偽りで塗り固めても、喉は発声することすら許さなかった。
それから私はみんなと距離を置くようになったと同時に仕事へ没頭するようになった。息つく暇もないほどに忙しい仕事は確かに大変だけども、言い換えればこの無自覚の惨敗を思い出さないように出来る良いきっかけでもあったのだ。
故に他のみんながどこで何をしているのかなんて知らなかったし、何なら知りたくもなかった。知ってしまえば思い出すから。そして、現に一花と出会って思い出してしまった。更に────
「────誰、の子なんですか……?」
「ヤだなぁ…………勿論、彼のに決まってるじゃん」
きっとこれは罰だ。自分勝手な想いで祝福出来なかった私への神様から報復。でなければ、出張先で都合良く一花と出会うなんて最悪の奇跡は起きない。加えて、彼と一花の愛の結晶が形取られつつあるなんていう絶望の福音もセットでやってくるわけがない。
「そう、ですか…………」
上手く言葉が出てこない。捻り出す声は掠れている。血の気が引いていく。心臓は嫌なくらいに煩く鼓動する。目紛しく起こる身体の変調に意識が遠のいていく。
しかし、意識を手放すことは神様が許してくれない。目を背けるな、真っ直ぐ現実と向き合え。それを含めての“罰”だと言っているかのようだった。
子を成している事実に笑顔な一花に、私は今どんな顔をしているのだろう。ちゃんと笑えているのだろうか。自然に、嬉しそうに、悟られないように。
でも、一花が嬉しそうに語る様子からどうやら不自然な様子は見せていないのは察しが付いた。社会人として、塾講師として世渡りしていく過程で身につけた営業スマイルはまるでこの時のために会得した技術のようにさえ思える。
「その……名前、は…………決めたんですか?」
「それはまだなんだよねー。彼は「そこら辺は一花が決めてくれ。ただよっぽど変なのをつけるんなら俺がつける」って言っててさー」
やめてくれ、これ以上彼の話をしないで。今すぐにでも耳を塞いで、逃げ出したくなる。でも、断固として動かない脚。自分の中で自分が壊れていく。ガラガラ、ガラガラと音を立てて私の心は崩壊していく。
その後、私は一花の話を聞いてはいたものの内容なんて少しも理解していなかった。聞いてはいるが、聴いていない状態。理解なんてしたくもなく、ただひたすらに相槌を打つ他なかった。
―――*―――*―――
夜分遅く、帰宅した私は「ただいま……」と呟く。その声に応える声はなく、虚しく反響するだけ。それは現在におけるいつも通りなのに、今日に限っては辛さを助長させる要因に他ならない。それに耐えかねた私は自室に直行してすぐさまベッドに倒れこむ。着ていたスーツが皺だらけになろうがどうでも良かった。
「………………」
無言で枕に顔を埋める。倒れ込んだ衝撃でベッドの骨組みがギシリと嫌な音を立てたが気にしない。
結局、一花と別れた後、私は生気を奪われ絶望を抱えながら職場に戻ってこっ酷く叱られた。当然だ、断りもなくサボったのだから。しかも、その上で早退届けまで出してしまった。授業が入っていたのにも関わらず。
こんな調子で生徒にどんな顔をすれば良いのか分からなかった。やる気なんてこれっぽっちも湧かない、そんな屍のような講師に何を教えられても生徒が吸収なんてするはずない。
「屍、か…………」
屍。意味は死人の身体、亡骸。なんと滑稽なことだろう。今の私にお似合いの言葉じゃないか。
全てをあの時代に置いてきた。一番私が私として輝いていた時代。五つ子の末っ子で五番目で、彼の生徒の中での真面目馬鹿と言われていた高校生時代。生きていた軌跡も、これから生きる意味も、全部恋心に引っ括めて、掴み損ねたから今がある。
「──────ッ!」
それが辛い、辛くて堪らない。その事実と相対する現実が辛くして仕方ない。この家で一人暮らし。幸い、惨めに泣き散らそうが誰にも見られないのは確かに利点かもしれない。でも、今の私にとってそれは地獄に他ならなかった。誰にもこの気持ちが分かってもらえないから。
「なんで……なんで、一花なんですかっ!? なんで…………っ、なんで私じゃ…………っ」
理由なんて分かってる。戦いに遅れたから、一花が勝利していたから。それ以上でもそれ以下でもない────そんな理屈めいた話はとっくの昔に分かっている。そんな次元の話じゃない。もっと理不尽で、我儘な文句。きっと幼児の駄々の方がまだ救い様のあるに違いない。
歯を食い縛り、目には涙を浮かべながら私は怒りや哀しみ、全てを乗せてベッドを殴り付ける。その度に軋むベッドの骨組み。だが、気にしない。それよりも今は心に溜まった毒を吐き出す方が優先だった。
「何が、五等分ですかっっ!!! こんな残酷で、惨めで、救われない想いさえ五等分しろって言うんですかっっ!?」
近所から苦情を受けること兼ね合いで吼える。どうせ出張の間の仮住まい、すぐにでも出て行ってやるのだからもう気にした話ではない。
捻り出した声は悲痛に満ち溢れていて、まさに棘だらけの薔薇のよう。真紅の花弁を華々しく咲かせていれば良いものの、その花弁は朽ち枯れていた。咲き誇るだけの栄養が欲しかった、絶対の愛が欲しかったッ!
ガツンと勢い余って壁に頭を打ち付ける。涙と共にポタポタ、ポタポタと流れる血。強制的に頭から抜けてく血に意識も引っ張られるが、そんなこと意に介さず、私は立ち上がり、家の中を彷徨く。その姿が死に場所を求めている敗北者そのもの。
この世の全てが許せない。勝利宣言をした一花も、そんな一花を選んだ彼も、そして…………醜く引き摺り続けるこんな私も。全てが邪魔で、消えてなくなれば良いのに。今日この時ほど世界が滅ぶことを願ったことなんてなかった。
気付けば私は台所にいた。小さな小さな台所だが、最低限調理出来るものは揃っている。そんな中、調理器具を漁り取り出したのは包丁。結局、一度も使わずにいて、埃の被ったものだ。
照明が反射し、包丁の身に映った自分の顔は疲れからか酷く窶れていた。
「(そういえば…………)」
こういう形とはいえ、久々にマジマジと見た自分の顔に異変に気付く。昔はずっと付けていた星型のヘヤピン。彼はあれを「センスの欠片もないヘヤピン」と言ったっけ。今の私にはもうそんなもの付いていなかった。
「(あの気持ちと一緒に置いてきたのかもしれませんね)」
いつでも、空が晴れている限り、星は煌めき続ける。それを見て、彼は私を思い出してくれるだろうか。分からない、確認する手段がないから。でも、それでいい。分からない方が幸せなこともある。私の恋心の行方の様に。
そう思いながら、私は自分の手首を包丁で斬りつける。痛みでこの記憶を塗り潰したいから、二度と思い出したくないから、これが一花と彼、そして私のためであると信じているから。
しかし、人体がどれだけ脆いのか分かっていなかったのだろう。想像以上に深く斬りつけてしまった腕からは先の頭から流れた以上の鮮血が溢れていた。際限無く流れ続けるそれに心臓は今日一番の鼓動を感じさせた。ドクン、ドクンと心臓が跳ねるたびに溢れる血。手で押さえても止まらない、現状の深刻さは流石の私でも気付いた。流れ続ける血に遠退く意識。立つことすら叶わず、ペタリと座り込んだ私は台所に背を預け、想いに耽り始める。自室に置いてきたスマホで救急車を呼ぼうにも、そこまで辿り着ける気がしなかった。
今日は散々と私が自分の気持ちに素直になれなかったツケを払わされた日だと思う。一花と出会い、妊娠報告を受ける。それだけでも十分に私の心を乱し、壊したのに神様はまだ足りなかったらしい。最後は命を以って償えと、そういうことなのだろう。
神様、なんて非科学的な存在。理科を得意としていた私が信じるなんてらしくないが、不思議と今ならいると思えてしまう。だから……だから、最後に一つだけ。あなたが下す全てを───死さえも私は受け入れると誓うから、最後の私の願いを聞いてほしい。
「わた、しは……上杉、くんが…………好き、でした…………その気持ちに、もっと早く…………素直に、なって…………そう……昔の、私に…………伝えてくれ、ませんか…………?」