白銀のヘカトンケイル   作:北十五条東一丁目

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第63話

 儀式は失敗した。

 何も起こらなかった。

 

 結界の秘蹟は成らず、場は失望に包まれた。

 そうだ、儀式は失敗したのだ。アルフェやリグスの、予想通りに。

 

 では、これは無意味だったのか?

 

 いや、違う。――少なくとも、ある者たちにとってはそうだった。

 

 

「――馬鹿なッ!? なぜ何も起きないのだ! 何も!」

 

 助祭長シンゼイの両手は、哀れなほどに震えている。神聖なる教会に所属する者として、数多の禁を犯して実行した儀式が、何の成果も上げなかった。そのことが、彼の精神を狂気の寸前にまで追い込んでいた。

 

「そんなはずはない! そんなはずは!」

 

 作りかけの聖堂、その内陣の奥にある秘蹟の間において、今夜行われた儀式。それは、ささやかながらも新たな結界をこの世に誕生させ、人々に希望の光をもたらす、歴史の転換点となるべき儀式だった。

 この秘蹟を禁書庫で発見した主教が病の床に伏している今、主教に代わって史書に名を刻まれるのは、他ならぬシンゼイ自身のはずだった。

 

「何か、何かが間違っていたのか……!? もう一度――」

 

 シンゼイは、秘蹟の方法をまとめた帳面を、引っ掻くような手つきで乱暴にくくる。

 しかし、どう確かめても手順に誤りは無かった。無かったのに、祭壇に鎮座している金色の箱は、何の変化も顕わそうとしなかった。

 

 こんなはずはないと、シンゼイは何度も繰り返した。失われていた秘蹟の、これが正しい手順であると、シンゼイには確信があったのだ。そのような啓示が、シンゼイの元にあったのだ。しかし、儀式は失敗した。

 秘蹟に参加していた助祭たちは、豹変したシンゼイの様子を見て激しく動揺している。彼らは教会の掟と板挟みになりながらも、主教と助祭長の命に逆らえないまま、この場まで来ていた。

 

「じょ、助祭長、いかがしますか。クルツ様が、外でお待ちに……。結果を、知らせなければ……」

「そんな小僧は放っておけ!」

 

 たがの外れたシンゼイの怒鳴りが、狭い室内に響く。

 部屋の隅で儀式の成り行きを見守っていた神殿騎士が、その様子を見て、抑揚の無い声で言った。

 

「……失敗だったようですな。助祭長」

「――ジオ!? 貴様は黙って――、黙っていろ!」

「この罪の責任を、どう取られますか」

「うるさい! 罪というなら、貴様も同罪だ!」

「そうでしょうか」

 

 口から泡を吹くシンゼイと対照的に、神殿騎士のジオはあくまで落ち着いている。彼は淡々と言葉を続けた。

 

「教会に伝わる秘蹟を外に漏らし、帝都から無断で“遺物”を持ち出したのは、全てあなただ。私ではない」

「貴様――! 裏切るつもりか……!」

「裏切りでもない。――本当に結界の秘蹟を行えるものなら、私もそれを見てみたかった。だが、失敗した以上、あなたはただの背教者だ」

「背教者!? 私が!?」

 

 シンゼイは冠をかなぐり捨て、髪をかきむしっている。ぶちぶちとちぎれた白髪交じりの頭髪が、聖堂の床に落ちた。

 

「……もう一度言いますが、私は期待していたのです。私も見てみたかった。神の御技たる結界の秘蹟を。神の威光が、再び全土を覆う様を。……だが、あなたにそれを期待したのが、間違いだったようだ」

 

 魔物から人類を守る結界。その結界を管理する教会こそ、真の意味での人類の守護者である。そうジオは硬く信じていた。だが今の世は、その教会が俗界の権力の風下に立たされている。だからこそ、ジオはシンゼイたちに協力したのだ。

 失望したと、ジオは言った。その言葉は冷たく――、お前がやってきたことは無価値だったと、そう告げられているように、シンゼイには聞こえた。

 

「ぐっ……!」

 

 シンゼイには急に、目の前に立つ騎士が、どうしようもなく呪わしく思えた。震えたままの両手が、ゆっくりとジオに向かって差し出される。その首を、絞め殺してやりたいとでもいうように。

 

「どの道、あなたは罰せられる」

 

 ジオは直立したまま、侮蔑の視線をシンゼイに向けている。

 

「教会の秘事を外に漏らした者の末路は、一つだ」

 

 シンゼイは帝都から慎重に遺物を持ち出したはずだが、それがいつまでも発覚しない訳がない。いずれは露見し、この男の処刑のために、神殿騎士団から精鋭がさし向けられるだろう。ことの重要性を考えれば、あるいはパラディンの誰かが直接やって来るかもしれない。

 ジオは鞘からゆっくりと長剣を引き抜いた。壊れかけているこの助祭長を、事情を知る助祭たちとともに、ここで葬っておく。そう決断したからだ。そうすれば、ジオとしては言い逃れる方法も、身の振り方もある。

 

「本当に、失望しました」

 

 そう再度言い放ってから、ジオはシンゼイの首めがけて刃を振り抜こうと、右腕に力を込めた。

 

 

「――私もだ」

 

 その時、部屋の中に声が響いた。ジオでもなく、シンゼイでもない。耳にしたことのない男の声だ。

 

「――!? 何者だ!?」

 

 ジオは驚愕しながらも、即座にその声に反応した。

ここは閉ざされた空間だ。礼拝所とつながる扉には、ジオの部下の神殿騎士が何名も配置されている。彼らには、誰も通すなと厳命してあった。例えそれが、協力者の筆頭であるクルツ・エアハルトであろうともだ。

 

「本当に失望した」

 

 声はするが、部屋を見渡しても、誰もいない。いや――

 ジオは長剣の先を、シンゼイの隣に向けた。

 

「――貴様、いつからそこにいた」

 

その男は、まるで最初からそこにいたかのように、シンゼイの横に立っていた。

 シンゼイは、すぐ側にいるその男に気付いていないのか、髪を振り乱したまま、呆けたように視線の定まらない顔をしている。その容貌は、わずかの間に十年以上も老化したように見えた。

 

「たいして期待はしていなかったが……。それでもやはり、失望したよ」

 

 突然現れた不審な男は、ジオの問いかけに答えなかった。それどころか、男はジオを見てすらいない。その顔は祭壇と、その上に据えられた聖櫃に向けられている。

 そのまま、男は口を開いた。

 

「――メルヴィナ」

「……はい」

「――! お前は!? 主教様の……」

 

 メルヴィナ。しばらく前から、ウルムの大聖堂で主教の側に侍っていた女。不吉な黒い髪をした、陰気な女だ。ジオたちには素性も知らされていない女だが、主教はなぜか、絶対の信頼を寄せていた。

 主教が倒れてからは、ずっとシンゼイの後ろについていたこの女は、一昨日から姿を消していた。死霊術士だと。クルツ・エアハルト配下の傭兵たちが、そんな世迷い言を口走っていたが――

 

「どこに行っていたのだ? その男は何者だ? お前は――」

 

 何者なのか。

 異様な空気が場を支配している。シンゼイはメルヴィナの出現にも心を動かした様子が無い。相変わらず呆けたまま、立ち尽くしている。儀式の失敗が響いているとはいえ、助祭長のこのありさまは異常だった。

 

「もしや――、お前たちが助祭長に?」

 

 何かをしたと考えなければ、シンゼイの豹変に説明がつかない。

 ジオは剣を構えた。得体の知れない二人。これは、排除すべき敵なのだろうか。――分からない。分からないが、斬るべきだと、彼の本能が告げている。

 

「……どちらにしても、お前たちが見た秘蹟は、教会の外に漏らしてはならないものだ」

 

 言いながら、そうだ、とジオは思う。どのみちこの部屋の中に居る者は、自分の手で始末するつもりだった。この二人の正体など気にする必要はない。部外者が門外不出の秘蹟を目にしたというだけで、充分死に値するのだ。

 出現した男は、変わらず聖櫃を見つめている。メルヴィナの方は、杖にすがって力なくうつむいていた。どちらからも、戦闘の意志すら感じない。しかし神殿騎士として、この者たちを、生かしてここから帰すことはできない。

 そう決意したジオは、低い気合い声を上げて男に斬りかかり、そして、

 

 死んだ。

 

「成果とは、いくつもの失敗の上に成り立つものだ」

「……」

「しかしそれでも、これだけ大がかりな実験が失敗すれば、空しくもなる」

 

 男の独白が響く秘蹟の間の床を、上半身の無くなった神殿騎士の死骸から流れる液体が、赤く染めている。

 

「メルヴィナ」

「……はい」

 

 壁際にいた助祭たちも、折り重なるように倒れていた。

 

「実験は終わった。……得たものはわずかだが、収穫はあった」

「……はい。……あの“遺物”は、どうされますか?」

「そうだな……、どうするか」

 

 金色の箱を見る男の目が、細くなった。

 

「……まあ、大した力は残っていない残り滓だ。標本として持ち帰る価値も無いだろう」

「……では、すぐにここを――」

 

 男が軽く片手を上げた。それに遮られ、死霊術士は言葉を止める。

 

「そんなに急ぐことはない。もう一つくらい、実験をする暇はある。失敗の埋め合わせを、しなければならないしな」

「……」

 

 そこで初めて、男の顔がメルヴィナを向いた。取り立てて特徴のない容貌だが、襟元から、首に走る大きな傷痕が見えている。

 

「何しろ、外にはあれだけの数の触媒があるのだ」

 

 

 

 

「外の様子が変だ」

 

 はじめに気付いたのはウェッジだった。

 ドアの側に椅子を置いて座っていた彼は、ずっと腕を組んで目を閉じていた。アルフェには眠っているようにも見えたが、突然目を開くとそう言った。

 

「変?」

「……何か、あったようだ」

「儀式が終わったのでしょうか」

「それは違う。儀式が終われば、教会の者たちが知らせに来る。第一、結界に変化した様子がない」

 

 アルフェの言葉を、長椅子に身体を沈めたクルツが訂正してくる。彼はあくまで、計画の成就を疑っていない。

 クルツの後ろに控えていたグレンは、険しい顔でウェッジに確認した。

 

「……刺客か? ウェッジ」

「分かりません」

 

 怪しい物音は聞こえなかった。しかし、アルフェたちがいるのは聖堂左翼の奥まった位置である。厚い石壁が、外の音も気配も遮断していた。ウェッジはそれでも、直感で何かを感じ取ったのだろう。そういう技能は、この部屋にいる人間の中では、最も長けている男だ。

 

 ここで会話をしている四人は、聖堂の左翼にあたる部分にいる。教会関係者以外に聖堂内にいるのは、この四人と、部屋の外で見張っている傭兵が五人だけだった。

 リグスと他の傭兵は、侵入者を防ぐために、聖堂の外で巡回している。

 

 時刻は日付が変わったくらいだろうか。中央の礼拝所と秘蹟の間に続く通路は、神殿騎士によって封鎖された。同席を許されなかったクルツは、儀式の成り行きを、ここで起きて待っている。アルフェたちは、もとより不寝番の体制だ。

 メルヴィナという死霊術士とアルフェが戦ったのが一昨日のことで、今日が儀式の当夜である。リグスたちの警戒をよそに、あれからここまで、特に変わったことは起きていない。秘蹟の準備はつつがなく行われ、いよいよ今夜というところまで来た。

 

 しかし、このまま何も起こらないというのは楽観的な観測だ。襲撃者は、もう一度やって来るに違いない。あるいは、メルヴィナというあの女が、何かを仕掛けてくる。少なくともそのつもりで、傭兵団の面々は緊張を維持していた。

 

「私が見てきます。お二人は、ここでクルツ様を」

 

 アルフェが言い、グレンとウェッジはうなずいた。

 

 慎重に扉を開き、後ろ手に閉じる。静かだ。廊下にいる傭兵も、何も異常は無いと言った。しかし、この妙な胸騒ぎはなんだろう。ウェッジの言った通り、異変の匂いを感じる。

 聖堂の外の様子を確かめるべきだろうか。それとも、中央の礼拝所に向かい、儀式がどうなったのかを確かめるべきだろうか。

少し考えたが、この聖堂の構造上、今いる位置からは、どのみち礼拝所前の廊下を通らなければ、どこにも行けない。

 

 少女は慎重に、足を踏み出した。

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