海の導き   作:柴猫侍

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1.波の導き

 男は慈悲深かった。必要以上の殺生はせず、市民の人々の正義のヒーローとなれるよう、その腕を振るって日夜戦い続けた。

 

 いつしか男には妻が、そして子に恵まれることとなる。

 だが、その幸せはいつまでも続かなかった。

 

 ある日、男の妻と子は海賊に殺される。男に逆恨みした海賊の所業であった。

 男は悲しんだ。妻と子。大切な家族を失った悲しみは、そう易々と癒えるものではない。

 故に彼は失った家族を追い求めるのではなく、これから先の時代を生きる仲間たちをいかに死なすまいかに全力を注ぐことに決めた。

 

 彼は“黒腕のゼファー”。名だたる海兵を育て上げた男。

 

 武装色硬化の腕の色―――その黒色をもじりつけられた彼の通り名を知らぬ海兵は居らぬ。それほどまでに、ゼファーの名は海兵に知れ渡っている。

 厳しいと有名なゼファーであるが、それは海兵を想ってのこと。殉職する海兵が一人でも少なくなるようにという彼なりの優しさであった。

 

 故に海兵は彼を慕う。

 尊敬すべき、皆の先生だった。

 

 しかし、そんな彼が“父親”となる瞬間は不意に訪れる。

 

「おぉ……」

 

 感嘆するような、それでいて驚愕するような声を漏らすゼファー。

 彼が抱える籠の中には、まだ生まれて数か月も経っていないであろうあどけない姿の赤子が眠っている。

 訓練兵を引き連れた海上演習。

 巨大な演習艦にて教官として乗っていた彼の下に、その赤子は届けられた。

 

『その……海上を漂っているのを見つけまして』

 

 おどおどとした訓練兵の言葉が脳裏を過る。

 まさか、赤子が一人籠に乗せられて海の上を漂っていると考えるだろうか。

 放っておけば間違いなく死は免れなかったであろう赤子。ちょうど、ゼファー率いる演習艦が赤子を見つけたのは、『運が良い』の一言では片付けられない出来事だろう。

 まさしく“運命”。命が運ばれてきたのである。

 

「い、いかがなさいますか、教官?」

「……とにかく、この子どもは我々で保護するぞ。いいな?」

「は、はい!」

 

 ゼファーを前に緊張する訓練兵に対し、淡々と指示を述べるゼファーは、そのまま赤子を抱いて教官室へと向かっていく。

 ただでさえ偉大なる航路の海上は危険だ。

 不規則な天候は勿論、化け物のような海獣、海王類が海の中には潜んでおり、いつ襲い掛かってくるのかが分かったものではない。

 無論、元海軍大将であるゼファーにとっては海獣や海王類如きは相手にならないが、訓練兵はそうもいかない。ましてや、生まれて間もないであろう赤子もだ。

 できるだけ安全な場所へという配慮の下、赤子を教官室の机に置いたゼファーは、自然と顔を赤子へと近づけていた。

 

―――似ている。

 

 記憶の中の子どもと重なる。

 海兵としての仕事が忙しく、ロクに家族にも会えていなかったゼファー。そんな彼でも、自分の子の顔はハッキリと覚えていた。

 その記憶の中の我が子と重なる目の前の赤子に、ゼファーは得も言われぬ感覚を覚える。

 赤子など皆似たような姿形をしていると言われるかもしれない。

 だがしかし、ゼファーにとって僅かにでも我が子の面影を感じる赤子を、只の他人―――それだけに留めることはできなかった。

 

「うぅ~」

「おぉ?」

「キャッキャ!」

「あ……コラ!」

 

 マジマジと赤子を見つめていたゼファーであったが、その隙に赤子が彼のかけていた眼鏡を取り上げた。

 思わず叱るゼファーであったが、言葉を理解できぬ赤子は構わず、掴んだ眼鏡を振り回す。

 その姿もまた、死んだ我が子に似ていた。

 

「……」

 

 取り上げられた眼鏡を取り返すこともしないゼファーは、柔らかい笑顔を浮かべ、はしゃぐ赤子を抱き上げる。

 丸太のように太くゴツゴツとした筋肉質な腕で抱かれる心地は、決して良いものではないだろう。それでも赤子は、強面のゼファーへ屈託のない笑みを投げかけた。

 

 その時、彼は決意する。

 

「―――そうだ、『ジール』がいいな」

「あぅ~」

「お前は今日からジール……おれの息子だ」

「う~!」

 

 この赤子―――ジールの父親になると。

 

 

 

 ***

 

 

 

 とある軍港の町。

 そこには、小さな少女を庇うように仁王立ちする小さな少年が、彼よりも大柄な少年たちと睨み合っている。

 一触即発。そんな言葉が似合う状況ではあったが、既に決着はついていた。

 

「く、くっそー!」

「覚えてろよ!」

「今度会ったら、コテンパンにしてやるー!」

 

 捨て台詞を履いて立ち去る大柄な少年たち。

 その様子に、庇われていた少女は花のような笑みを咲かせた。

 すると、彼女の前に居た少年が得意げに笑みを浮かべ、ポーズを決める。片腕を頭上に、もう一方を腹部辺りに構えるその姿は、『Z』をあしらっているように窺える。

 

「正義は勝つ! ぼくはどんな悪党が来たって負けやしない! ぼくは正義のヒーロー……ゼーット!」

 

 高らかに名乗りを上げるその様は、まさしく正義のヒーロー。

 子供らしいと言えば子供らしい遊びだ。いつの時代も、強きを挫き弱きを助ける存在に憧れる者は一定数存在する。

 この大海賊時代にて正義のヒーロー……とまではいかないが、正義とされているのは世界政府に属している海軍だろう。

 

 この少年もまた、そんな海軍―――延いては海兵に憧れる者の一人。

 

 艶やかな空色の髪の少年は、平凡な塩顔であるものの、人を助けるその姿は輝いている。

 

「ありがとう、ジール!」

「また助けを呼んでくれたら駆けつけるよ」

 

 先程まで庇われていた少女は『ジール』と呼ばれた少年の手を借りて立ち上がり、『またね!』と元気よく別れの挨拶を述べ、駆け足で去っていく。

 少女の後姿を満足気に見届けたジールは、自分もと言わんばかり帰路につく。

 小さな歩幅。されどこれからの未来を生きていくという活気に満ち溢れた足取りで走れば、家まではすぐそこだ。

 

「ただいま」

「あら、お帰り。今日もいっぱい遊んできたのかい?」

「遊びじゃないよ。正義のヒーローとして見回りしてたんだ」

「あら、そうかい」

 

 柔和にほほ笑みかけるのは、この軍港の町でジールの世話を看てくれている初老の女性だ。

 酒場を営んでいる彼女とジールに血縁関係はない。

 そもそも、本来ジールの面倒を看るべき父親とも血は繋がっていなかった。

 

 彼は捨て子。

 海を漂っているところ、今の養父が拾ってくれて義理の息子として育てる意思を決めてくれたのだ。

 そんな養父の故郷こそ、この軍港の町であった。

 今日もまた、一隻の軍艦が訪れる予定である。

 

「そろそろ来るかな、義父さん」

「ああ、来るさ。まったく……大将から教官になったってのに忙しいことには変わりないんだから、あんたを育てるって息巻いてる癖してほとんどあんたと遊んでやれてないじゃないか」

「ううん。義父さんは海兵だから忙しいのは分かってるから、ぼくは大丈夫だよ」

「はぁ……小さいってのにしっかりしてるね。親の顔が見てみたいさね」

 

「―――誰の顔が見たいって?」

 

「義父さん!」

 

 不意に酒場に響いた重い声。

 聞き覚えのある声にジールが振り返れば、そこには筋骨隆々で、紫色の髪を短髪に切り揃えている初老の男性が立っていた。

 彼を見るや否や、今日一番の笑みを咲かせたジールは、勢いよく駆け出して男性の胸元に飛び込んだ。それを軽々と受け止めた男性もまた、その強面とは裏腹な柔らかい笑みを浮かべ、受け止めたジールを抱き上げる。

 

「久しぶりだな、ジール。また背が伸びたんじゃあないか?」

「うん。義父さん、海兵のお仕事お疲れ様」

「ああ」

 

 再会の会話を軽く済ませた二人。

 抱き上げられたジールは、そのまま男性に肩車され、目を輝かせる。

 一般的な男性と比べてかなり大柄な彼の背に乗れば、それはもう見える景色は格別であろう。

 

 そんなジールを乗せた男性は、苦笑を浮かべている酒場の店主に視線を遣った。

 

「すまない、ジールの面倒を看てくれて」

「ホントだよ。まあ、また孫ができたと思えば苦じゃないさね」

「孫……か」

「ああ、アンタもわたしももうそんな歳なんだよ、ゼファー」

 

 男性―――ゼファーは、ジールを『孫』と称する酒場の店主を前に、苦々し気な表情を浮かべる。

 ゼファーが60歳を超えている一方で、ジールは12歳だ。

 60代男性は、個人差はあれど孫が居てもおかしくはない年齢。地域によっては、すでに立派なおじいちゃんであろう。

 それでも彼が一教官として海兵を続けているのは、偏に海の平和を望むが故。

 同期の“仏のセンゴク”、“拳骨のガープ”、おつるなど、伝説的な海兵とその名を並べる彼は、まだまだ現役だ。

 

「でも、ぼくは義父さんの息子だよ」

「……ああ、そうだな」

 

 しみじみと自分が年を取ったことを考えていたゼファーであったが、頭上にてジールが言い放った言葉で我に返る。

 

「おまえはおれの大事な息子だ」

「えへへ」

 

 本当の親子のように笑い合う姿に酒場の店主である女もまた微笑む。

 ジールがゼファーに引き取られて早12年。海軍という職業上、中々家に帰ることができないゼファーであったが、それでもジールに慕われる程度には触れあっていた。

 そんなジールの夢は勿論、

 

「ねえ、義父さん」

「ん? なんだ」

「ぼく12歳になったから、そろそろ海軍に入隊してもいいよね? 雑用でも何でもするからさ」

「んんっ……」

「ぼくは義父さんみたいな立派な海兵になりたいんだ」

 

 真摯な声色にゼファーも唸る。

 確かにジールの言うことも分かる。どうやら、正義のヒーローが好きで、海を荒らす海賊が許せないという正義感から海兵を望んだゼファーによく似て育ってしまったようだ。

 しかし、海軍も一枚岩ではない。時には目を背けたくなるような惨劇を目の当たりにすることや、政府からとてもではないが良心が痛むような任務を言い渡されることもある。

そしてなにより、ゼファーは海兵であるが故に海賊に報復を受け、一度家族を失った。そのトラウマは、今尚潰えてはいない。

 元々の海兵の殉職率と、将来的に活躍した頃に作った家庭を奪われてしまう可能性を鑑みれば、ゼファーは同期のガープのように意気揚々と『海兵になれ!』とは言えないという悩みがあった。

 無論、望んで入ってきた者達に対しては厳しく教えるつもりだ。

 だが、義理の息子を自分と同じ道に歩ませたくない想いが、息子が海兵になりたいと願う事実に対し、素直に喜べない理由となっていた。

 

「本当に……海兵になりたいのか?」

「うん。ぼく、ずっと前から決めてるんだ」

 

 子供にしてはやけに落ち着いた印象であるのが、このジールだ。

 しおらしさを感じさせつつも、若き頃のゼファーのような情熱を胸に秘めている。本当に血のつながった親子の如く、ゼファーとジールは似ているのである。

 

「義父さんみたいな海兵になりたい」

「だがなぁ……お前はお前の自由に生きていいんだぞ? おれが海兵だからと、お前まで海兵になる必要は……」

「ううん。自由に生きてって義父さんが言うんなら、なおさらだよ。義父さんみたいな立派な海兵に……正義のヒーローになりたい」

「ジール……」

 

 そこには確固たる意志があった。

 

「……そこまで言うなら仕方ないな。よし、今日からでも海兵として働くか」

「えっ、ホント?!」

 

 唐突な提案に驚くジール。一方で酒場の店主は、目を大きく見開いて非難するように声を上げる。

 

「ゼファー、アンタ正気かい?! こんな小さな子を今から海兵にって……」

「なに。上の者ほど鍛える時期は早かった。ジールも海兵として職務を全うしたいなら、今から鍛えるべきだろう」

「だからってねぇ……」

「いきなり実戦になぞ出すと思うか? 最初は掃除やら食器洗いやら……空いた時間で、おれの知り合いに特訓を看てもらうだけだ」

「―――はぁ」

 

 盛大にため息。誰がどう見ても呆れていると分かる様子だった。

 ゼファーとは数十年来の付き合い。海兵になってからも続く友人関係である以上、彼の性分というものは理解しているハズだったが、12歳の義理の息子をどう扱うかまでは予想できなかった。

 

「わかったよ。持ってきな、どろぼう」

「ジールは元々おれの息子だ」

「バカ。誰が面倒を看てたと思ってるんだ」

「それは……恩に着る」

「海兵としちゃ一流なんだろうけど、父親としては三流以下だよ。覚えときな、あんた」

 

 幼馴染に吐く毒は、きついながらもどこか温かみが滲んでいる。

 ゼファーに対して毒を吐いた酒場の店主の店主は、次にジールへと目を遣った。12年間、血も繋がっていないのにも拘らず、孫のように可愛がった子だ。突然の別れに寂しくないと言えばうそになる。しかし、潮風のように湿っぽい別れは好みではなかった。

 

「ジール」

「うん?」

「あんたは将来結婚するかしないのかわからないけども、子ども持ったらこんな親父にはなるんじゃないよ」

「えぇっ……」

「あんたがイイ子だからね、今までは上手くやれてたんだ。でも、女や子どもが男に愛想尽かす時は一瞬だからね。心得ておきな」

「う、うん」

 

 やや引き気味にジールは応える。

 その間、ゼファーは耳が痛いと言わんばかりの表情で俯いていた。

 父親であるというにも拘わらず、子どもに甘えていたのかもしれない。ジールはとことんいい子だった。正義感に溢れる、どこへでも自慢のできる息子だ。だからこそ、(ゼファーにとって)少しの間目を離していても平気だとばかり思っていた節がないとは言い切れない。

 

「ダメな義父さんで済まないな、ジール」

「ううん。大丈夫だよ」

「ホントっ……いい息子拾ってきたね、あんた」

 

 遠慮もせずそう言い放った酒場の店主に、困り顔のゼファーと満面の笑みのジールは見つめ合う。

 

「さて、と……これからは少し長い船旅だ。ジール、支度するぞ」

「うん!」

 

 それから二人は、ジールの海軍入隊の準備をするべく、普段ジールが使っている部屋へ向かって行った。

 荷物は大した量にはならないであろうが、掃除も含めればそれなりの時間となろう。

 ガタゴトと音が鳴り響く間、酒場の店主はたばこを一本取り出して火をつける。

 すると、

 

「おばあちゃん」

 

 酒場の店主の孫らしき少女が、ぬいぐるみを抱いて奥の部屋からやって来た。

 

「ん? なんだい」

「ぬいぐるみ……破れちゃった」

「あらら……まあ古いからね。生地もボロボロになってきたんだよ。どうする? 新品買ってあげるかい?」

「ううん、これがいいの」

「そうかい……じゃあ、一服終わったらおばあちゃんが直してあげるからね」

「うん!」

 

 修復する旨を伝えれば、少女の陰鬱としていた顔に笑顔が咲く。

 そのまま預かったぬいぐるみをマジマジと見つめる酒場の店主は、物憂げに深く息を吐いた。

 

「この子とも、何年の付き合いになるんだろうねぇ……」

 

 ぬいぐるみを抱いて瞼を閉じれば、脳裏に若かりし頃のゼファーの姿が過る。

 どこにでもありそうなヘルメットに工作を加え、少し太めの枝をトンファーのように腕に装備し、子供なりに一生懸命考えたであろうポーズを決めるゼファーの姿が。

 

 あの頃の思い出を少しばかりジールに話せば、過去の記憶がそっくりそのまま蘇るかのように、ジールは正義のヒーロー『Z』として、港町の悪ガキたちを懲らしめる存在となった。

 

「ホント……お似合いの親子だよ」

 

 

 

 ***

 

 

 

 ―――と、懐かしめたのも昔の話。

 

「ジールゥ! お前は罰として今日のトレーニングを一からやり直しだあああああ!!!」

「ひぃー!」

 

 海兵を育てる海兵学校にて、一人広大な敷地を何周も走らされている。

 これも最近ではよく見る光景。一足早くゼファー主導の訓練を終えて自主練に励んでいた数名が、『またか』と呆れたような眼差しをジールへと送る。

 

「今度は何をしでかしたの?」

 

 艶やかな青色の髪を海から吹き渡ってくる風に遊ばせる女子が、隣に佇む長身の男子―――ビンズに問いかける。

 

「夜に隠れて酒を飲んでたらしい」

「また? はぁ……成績は良いのに玉に瑕ね」

 

 今更ジールがただでさえキツイトレーニングを罰として再度行わされることに驚きは覚えないが、女子はその瞳に落胆と若干の怒りを滲ませ、自分のトレーニングへと戻っていく。

 ジールへ憤る彼女の名はアイン。彼とは同期であり、入学以来他の才能ある入学者と首席を争う才女の一人だ。しかし、現実は入学してから一度も首席に立てたことはない。その原因は現在校庭で悲鳴を上げて走っているジールに他ならない。

 

 まだ新兵にすらなれていない身でありながら、六式と呼ばれる超人体術の内の一つ“剃”を用いて走る様はまさに圧巻の一言だ。それだけの才能がある故に、常に海兵学校の首席に君臨しているジールであるが、先ほどのように度々問題を起こしては地獄のようなトレーニングを課されてヒーヒーと呻いている。

 

 それがアインには許せなかった。首席は首席たる品格を備えていなければならないだろうというのが彼女の持論だ。

 ところがどうだ? 当のジールはアインの考える首席にはほど遠い素行の悪さである。

 人柄が悪いとか、訓練に対して真面目でないとかの問題ではない。寧ろ、誰にでも好かれるような温かさを備えつつも、訓練には誰よりも真面目に取り組んでいる。

 

 にも拘わらずだ。どこか抜けている。

 あのような人間が首席に立ち続けていれば、下に居る自分達の評価が下がってしまう。アインにはそんな予感があった。

 

(今日こそはガツンと言ってやるんだから)

 

 プリプリと怒る間にも日は沈み、アイン達が暮らしている寮の消灯時間になった。

 他の生徒から仕入れた情報から、ジールが隠れて酒を飲んでいる時間と場所は把握している。

 ほとんどの者が寝静まる寮の中、音を立てぬよう細心の注意を払って階段を上った先にあるのは屋上だ。

 

 しっとりとした夜風と海の香りが心地よい。このまま眠りにでもつけば、大層寝心地が良いだろう場所で、酒瓶を片手にジールは柵に寄りかかっていた。

 流石にこれだけ静まり返っている場所では息遣いも聞こえてしまうのか、背後へこっそりと忍び寄ろうとした瞬間、弾かれるようにジールの顔がアインの方へと向く。

 

「アインじゃないですか、どうしました? こんな時間に」

 

 物腰柔らかな口調が鼻につくのも今は仕方ない。

 はぁ、と深いため息を吐いたアインはわざと足音を立てて駆け寄っては酒瓶を取り上げた。

 あ、と情けない声を上げて酒瓶を取り上げられたジールであったが、特段取り返そうという素振りを見せることはない。素直に取り上げられるくらいならば酒を飲まねばいいのに―――アインはそう思わずにいられなかった。

 

「没収よ。またゼファー先生に怒られるわ」

「いいじゃないですか、お酒の一口や二口くらい。アインも飲みますか? シェリー酒」

「の・ま・な・い。それより、なに? シェリー酒って……」

「一番かっこいいお酒ですよ」

「……やっぱり貴方酔ってるわ」

「酔ってませんって」

 

 思ったような的を射ない返答に眉を顰めたアインが早々にシェリー酒の入った瓶を片手に立ち去ろうとするが、それをジールが引き留める。

 まるで酔っ払いに絡まれた人間のように面倒くさそうな面持ちを浮かべるアイン。実際酔っ払いに間違いはないだろうが、月光に照らされて浮かんだジールの表情が真剣そのものであったから、思わず歩みを止めてしまう。

 

 仕方ないと言わんばかりに鼻を鳴らせば、それを話の催促だと受け取ったジールが陽気に語り出す。

 

「クザン大将から教えてもらったんですよ」

「クザン大将に?」

 

 クザン―――通称“青雉”と呼ばれている海軍最高戦力の内の一人に数えられる海兵だ。

 かつてはゼファーも座していた地位に属する海兵に教えてもらったことだとあってか、ゼファーを敬愛するアインはついつい話に食いついてしまう。

 

「ええ、先生の好きな酒だって。だから先生の教え子の海兵は、昔皆で真似して飲んでいたって言いますよ。それこそ今の海軍を支える将校が。ぼくも願掛けに飲んでるんですよ。義父さんや他の将校の方々みたいな立派な海兵になれるようにって」

「……そう」

 

 話として簡潔で単純なものであったが、終わってみればアインは自分が握っている酒瓶から目を離せなくなっていた。尊敬する教官、名を轟かせる将校、そしてどうしても勝てない同期の一人が飲んでいる酒だ。

 すると、どうだろう。まったく興味のなかった液体に得も言われぬ引力を感じ始めた。空いたままの口からは強い酒気が夜風に吹かれて流れ、アインの鼻腔を擽る。

 

 ゴクリと生唾を呑み込んだ音が響く。

 同時に、『それと』と小さな呟きがアインの鼓膜を揺らした。

 

「……ああしてる時間だけは、義父さんがぼくだけを見てくれてる気がするんです」

「―――」

 

 とろんとした瞳を覆い隠すようにジールの瞼が閉じられた。

 眠りに落ちる直前の微睡のように泡沫の幸福に酔い痴れる様子。彼の口角は、楽しい夢でも見ているかのように上がっていた。

 

 そこでアインは察する。

 ジールがゼファーの養子であることは海兵学校では有名な話だ。だから成績が良いという話ではなく、理解するべきは彼がどのような幼少期を送ったかである。

 

 ゼファーは、センゴクやガープのような伝説の海兵の一人だ。一線を引いて教官に就いても、海兵である以上プライベートにかける時間は少なかった筈。

 だからこそ、ゼファーに拾われて養子になったジールは愛に飢えていた。

しかし、海兵を目指して訓練を受けている以上、義父が海兵であることを恨んでいる訳でないことは察せる。寧ろ、家族として互いを大事に思っていることはひしひしと周囲に伝わっていた。

 

 それほどに想うが故、ジールは義父(ゼファー)と二人の時間を欲したのだろう。

 規則を破っても尚―――否、規則を破るからこそ作れる時間を、だ。それが罰としてのトレーニングだったとしても、ジールにはこの上なく義父と居られる幸せな時間だった。

 ならば、積極的に時間を作ろうとするのも自然なことだと納得できる。そして結果的にトレーニングを誰よりも重ね、誰よりも秀でた身体能力を得るのも―――。

 

「……やっぱり貴方は酔ってるわ」

 

 指摘するアインの頬は綻んだ。

 最初は『先生』と呼んでいたのが、いつの間にか『義父さん』と変わっていた事実に。

 

「だからこれは没収」

「あ」

 

 瓶の中に残っていたシェリー酒を一気に煽るアインに、ジールの間の抜けた声が屋上に響く。

 普通のワインよりもアルコール度数が高いのがシェリー酒の特徴であり、一気に飲み干した後に息継ぎをするアインの吐息には、案の定芳醇な酒の香りが含まれていた。

 

 初めての酒の味。美味かと問われれば全力で首を横に振るだろうが、アインは敬愛する先達が愛した味だと己に言い聞かせて、込み上がる吐き気を堪える。

 

 そんなアインを茫然と眺めていたジール。アインから見れば、彼の大切にしていた酒を飲み干されたのだからそうなるのも致し方ない様子だが、どうにもおかしい。

 視線は酒瓶ではなくもっと後ろ。

 ようやく感じ取った威圧感に恐る恐るアインが振り向けば、不気味なほどににこやかな表情を浮かべる巨漢が立っていた。

 

「随分と旨そうな酒を飲んでるじゃないか、お前ら」

「せ、先生……よくここにぼくが居るって気が付きましたね」

「なに、見聞色の覇気があれば規則を守れん悪ガキを見つけるのは簡単だ」

「なるほど。じゃあ、ぼくにも次から先生に見つからないようにその見聞色の覇気を教えていただきたいなぁ~と……」

「安心しろ……言われなくてもお前には叩きこんでやるぞおおお、ジールううう!!!」

「わあああ!」

 

 ジールとゼファーによる鬼ごっこが始まった。

 老齢とは思えぬ速力を誇るゼファーから、鬼気迫る様子で逃げるジール。

 

「……うぷっ!?」

 

 一方、アインは胃袋の中のシェリー酒をモドモドした。

 

 

 

 ***

 

 

 

 順風満帆な日々だった。

 厳しくも優しい義父、切磋琢磨する仲間。血のつながった親の顔を知らないことを踏まえても、ジールにとっては掛け替えのない人間が大勢周りに居た。

 

 

 

 そう―――あの日までは。

 

 

 

 




※3話ほどで完結予定
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