ロード・エルメロイⅡ世との事件簿 ―Case Files with Lord El-Melloi II― 作:ニコ・トスカーニ
蒼崎橙子は我々魔術師の間でも伝説的な存在だ。
時計塔において「魔術基板の衰退したルーンを再構築」「衰退した人体模造の魔術概念の再構築」という一代で至るにはあまりにも大きすぎる業績を上げ、時計塔の頂点である「冠位」となった。
しかしその高すぎる技術が仇になった。
協会から封印指定を受け出奔。
1990年代に日本の某都市に結界を張って隠遁していた。
私が彼女と出会ったのはその頃だ。(※エピソード"Tokyo revisited"をどうぞ)
彼女は出会った頃と全く変わらない容姿だった。
エルメロイⅡ世の推測によれば年齢を「固定している」らしい。
私にとって彼女は旧友でもあるが、しばらく音信が途絶えていた。
音信が途絶えていた間もどこかで見ていたのだろう、一時を境に時折姿を現すようになった。
橙子は当然のように部屋に上がり込み、テーブルの前に陣取った。
「ここに現れたということは、ソレが目的か?」
彼女はニヤリと笑って答えた。
「お前は本当に面白いことにばかり巡り合うな。おかげでつい姿を現してしまった」
ライネスと橙子は面識があるようだ。
当然ながら橙子の術師としての能力は嫌というほどわかっている筈だ。
部屋に上げるかどうかは多少迷っただろうが、危険よりも益の方が大きいと判断したのだろう。
「
彼女はミニチュアを検めると唐突に言った。
「何だって?」
「コイツを作ったのはアーティストだ。――さあ、早速入ってみるとしよう」
彼女の思考には全くついていけない。
「入る?どう意味だ?」
「私の見立てではこれは極小の固有結界だ。面白いことになるぞ。お前も手伝え。万が一があったら私も困るからな」
私とライネスはしばし密談し、結局橙子の言うとおりにすることにした。
橙子ほど信頼に値しない人物はそう居ないが、かと言って事態を収拾できる者もそうは居ない。
サマセット・クロウリーならば容易に解決しそうだがあの男がこの事態に興味を持つか微妙だし、時計塔の法政科に連絡したらどう扱われるかわからない。
両儀式の魔眼なら一振りで破壊できるだろうが彼女は遠い海の向こうだ。
橙子の要望通り私が彼女と一緒に「入る」ことにし、バックアップとしてひとまずライネスは状況を見守ることになった。
魔術師の取引は基本的に等価交換だ。
ライネスは危険物の解析にに対する見返りを聞いた。
橙子は「このミニチュアをくれ」と要求し、ライネスは逡巡の後それを呑んだ。
虚空を仰ぐトリムマウを横目に奇怪なミニチュア状の代物の前に立つ。
奇怪な代物は妖気とでも形容したくなる異様なオーラを放っていた。
「では行くか。シートベルトを閉めろよドロシー。カンザスにはバイバイだ」
腹立たしいほど気の利いた橙子の合図で我々はその奇怪なモノに「入った」
〇
真っ暗な闇が広がっている。
前後も左右も上下も全くの闇だ。
私はその暗闇の中で全身に浮遊感を感じていた。
スカイダイビングの時の感覚に似ている。
落下しているのかもしれない。
だがスカイダイビングとは違う穏やかな落下だ。
体は浮遊感とも落下感ともつかない不思議な感覚を味わい続け、急にそれは途切れた。
どこかに体が落ち着いたようだ。
光が見える。
私はとにかく闇から逃れたかった。
妥当な本能的判断に従い、私は光の方へ歩みを進めた。
光はドアの形をしていた。
ドアの形をした光をくぐるとその先は映画館のロビーだった。
ロビーはガラガラで人の気配がなかった。
ロビーでは懐かしいレトロな音楽が流れている。
確かこれは『シェルブールの雨傘』のテーマだ。
父方の祖父は映画好きで、とりわけ古いヨーロッパ映画を好んでいた。
映画の内容はさっぱり思い出せないが私の脳はこの音楽を記憶していた。
聴覚的な記憶は視覚的な記憶よりも保存性が高いのかもしれない。
私はそのガラガラのロビーをそぞろ歩きした。
ロビーには灰皿があり誰かの吸いさしのタバコが煙を燻らせている。
現代の劇場では見られなくなった光景だ。
壁には『メトロポリス』から『ロード・オブ・ザ・リング』まで様々な年代の作品のポスターが貼られている。
ここが現実世界でないことがよくわかる。
私はポスターを一枚一枚検めながらロビーをそぞろ歩きした。
そぞろ歩きしていると一人の老紳士に出くわした。
老紳士は古風なスーツを着て古風なカイゼル髭を生やしていた。
どこかで見たことがあるような気がする顔だ。
だが、誰だか思い出せない。
私がひとまず挨拶をしようとすると老人は言った。
「そろそろ始まるぞ。お若い人」
古風な響きのフランス語だった。
そして劇場への入り口と思われるドアを指差した。
ドアを開け、劇場に入る。
中はかなり広かった、
客席は二百席はあるのではないだろうか。現実世界で見たミニチュアと同じぐらいだ。
客席はガランとしていたが、たった一人客がいた。
トリムマウだった。
私は声をかけようとし、別の声に遮られた。
「面白い。まるで現実の映画館にいるようだな」
いつの間にか隣に橙子が立っていた。
「エルメロイの姫君は『夢』と表現していたが確かにこれは夢に近いな。より正確には夢を見ているときにそれが夢と気付いていない時のような感覚だ」
たしかにその空間には異常なまでの実在感があった。
明晰夢は別として、人は夢を見ているときそれを現実と感じている。
この感覚は覚醒する寸前に見ている夢に近い。
開演のブザーが鳴った。
「面白い。この空間は徹頭徹尾映画館らしい。お前も座れ。目にものを見せてもらおうじゃないか」
橙子は悠然と座り、私にも座るように促した。
劇場が暗くなり、スクリーンに何かが映し出された。
それは映画だった。
二十四フレームで構成された連続した絵の連なり。
複数のカットがシーンを構成し、複数のシーンがシークエンスを構成し、複数のシークエンスが一つの作品を構成する。
十九世紀にリュミエール兄弟が発明したそれは当時の人々を驚愕させ、現代の人間にとっては当たり前の娯楽であり芸術として受け入れられている。
目の前で流れる映画は異常なまでに魅力的だった。
魔的と言ってもいい。
抗う気すら起きないほどに私はスクリーンの世界に没入していた。
私はふと頬に冷たい感触を感じた。
頬に手を触れると指先が湿った。
悲しくて泣いたのでも嬉しくて泣いたのでもない。
恐怖して涙したのでもない。
私はただ感動していた。
まるで脳にダイレクトにイメージを送り込まれているような異常なまでの感情の高ぶりだった。
そんな時間がどれほど続いたか。
結界内での時間に意味などない。
それは一週間だったかもしれないし、五秒だったのかもしれない。
ただ体感的にはそれが永遠であるように感じた。
それが不意に遮られた。
「もういいだろう」
隣の橙子が平然と言った。
「素晴らしい作品と言えなくもないが、この映画には致命的な欠点がある。いつまで経ってもエンドロールが流れないことだ。未完の小説も未完の絵画も未完の交響曲も連載が終わらない漫画も結局どこまで行っても『未完』という欠点がつきまとう。そいつは致命的な瑕疵だ」
スクリーンでは変わらず二十四フレームの創造物が流れている。
その美しき創造物の呪縛に私は抗えなかった。
「結界の呪縛を解いたのか?トウコ」
彼女は答えた。
「この結界にそんなカラクリは無い。強制的に縛り付けているのではなく、観客は自主的に席に座っているんだ。そうでなくてはいけないからな。芸術家としては素晴らしい姿勢だ。呪縛を解く方法は一つだけ。ただ席を立てばいい」
そしてその発言の通り、彼女は難なく席を立った。
「見ての通り私は席を立った。お前も立て。出来るはずだ」
「嘘だろう」と思いつつ、私は足に力を入れた。
体はたやすく座席から離れた。
客席から離れるのが名残惜しかった。
しかし私には現実世界で仰せつかった用事がある。
「トリムマウ。行くぞ」
スクリーンを凝視しているトリムマウの肩を叩き、声をかけた。
「マクナイト様、いらしてたのですか?」
「ライネスお嬢様が呼んでいる」
礼装であるトリムマウにはこの言葉が最も強制力がある。
トリムマウはあっさりと立ち上がった。
トリムマウを連れた私は一足早く出口に向かった橙子の後ろに続き、ロビーに出た。
「何だアンドリュー。お前、泣いてるのか?」
涙は拭ったはずだったが跡が残っていたようだ。
私は悔し紛れに言った。
「君に貸した金が返ってこないのが悔しいだけだ」
〇
「このミニチュアの中の世界は集合的無意識の具現化だ。ただし、映画監督という限定されたカテゴリーのな」
私と橙子、トリムマウの意識が戻ったの確認するとライネスは「分析を聞きたい。それも含めて対価を払う」と橙子に要求した。
橙子はそれを承諾し、我々はブラックティーに口をつけながら彼女の分析を拝聴した。
「アンティークショップの店主が言うとおり、恐らく出自は二十世紀のフランスなんだろう。映画誕生の地だからな。あの地ではリュミエール兄弟が映画を生み出し、多くの映画監督たちが発展させてきた。このミニチュアを作ったのが誰かは知らんが、このミニチュア自体は巣みたいなものだ。映画監督の集合的無意識を集めて飼育するためのな」
ふとロビーでみた老紳士の事を思い出した。
「ジョルジュ・メリエスだ」
あの老紳士の顔を思い出した。
あの顔は昔、写真で見たジョルジュ・メリエスのものだ。
ジョルジュ・メリエスは映画の技法を一歩先に進めた人物だ。
映画監督の集合的無意識というカテゴリーに含まれていてもおかしくない、
「そうか?私にはジャン・ルノワールに見えたがな。まあ、誰に見えたとしても大して意味はない。それは集合的無意識の中から私たちの意識が抽出したものにすぎないからな」
ライネスは静かにブラックティー攪拌しながら咀嚼するように頷いた。
「君たちが見たものは映画監督の集合的無意識が作った映画という概念の黄金比みたいなもの、ということか」
橙子が満足げに頷いた。
「そうだ。仮にメリエスやルノワールが実際に集合無意識の中に含まれていたとしてもそれは構成要素のごく一部に過ぎない。二十世紀初頭の映画と比べると私たちが見たあの映画には余りにもテクニックがありすぎる。複雑な移動撮影もモンタージュ理論もメリエスの時代には無かったものだ。ルノワールの時代の物だってあんなに洗練されてない。確かにあの作品はメリエスなのかもしれないが同時にルノワールでもあるし、ルイ・マルでもある。ゴダールでもあるし、トリュフォーでもあるかもしれない。このロンドンに辿り着いてからデヴィッド・リーンやオリヴァー・リードも吸収しているかもしれない」
そこまで語り終えると彼女は静かにブラックティーを含んだ。
「しかし、一つ疑問が残るな」
私は言った。
それに橙子が鋭く反応した。
「何だ、言ってみろ」
「なぜ、あの映画には終わりが無いんだ?芸術家なら作品を完成させることの重要性ぐらい理解しているだろう」
彼女はニヤリと笑った、
「芸術の完成に終わりはないということだろう。ジレンマだな」
〇
私はレディ・ライネスへの貸し、橙子は世にも珍しい魔術的逸品という対価を受け取りフラットを後にした。
体感と違い外の時間は殆ど変わっていなかった。
秋の英国は日が短くなるが、まだ外は明るかった。
「その危険物、どうするつもりだ?」
当然の疑問として私は彼女に聞いた。
「そうだな。もう少し楽しんでみたいところだが、サマセット・クロウリーにでも売りつけてみるか。というか奴の事だから、もう事態は把握していそうだがな」
橙子とクロウリーは気の合う間柄だが、腹の内を探り合う仲でもある。
二人がお互いの腹を読みあう現場など可能な限り居合わせたくない。
「お前はどうする?わざわざハムステッドまで来たんだ。私とケンウッドハウスに寄り道でもするか?」
彼女は人格はともかく、魔術師としての腕は超一流で芸術家でもある。
魅力的な申し出だ。
「いいだろう。芸術の秋だからな。日本ではそう言うんだろ?」
私は申し出を受け、彼女は満足そうに頷いた。
そして私はケンウッドハウスは入場無料だったかどうか記憶を手繰った。