【練習(騎馬戦)】
騎馬戦。
一般的には三人が騎馬となりひとりの騎手を乗せ、騎手のハチマキを取り合う戦い。
激しい接触にブレない騎馬の堅牢さ、軽やかに駆ける俊敏さも大事だが、騎馬戦において何よりも重要なのは騎手。
結局のところ騎手がハチマキを取れなければ意味がないからだ。それからすると、あまり運動が得意ではない私が騎手なのはあまり良い策とは言えない。
なのになんで私が騎手になっているかといえば、単純に騎馬になるのは嫌過ぎたのと、男子のみでは組めないルールがあるからだ。
性差以前に種族差。身体能力的に男女に分ける意味は薄れたといえど、何故こんなルールがあるのかといえば、校長の趣味の一言に尽きる。禿げろ。
そんなわけで恐らくどのクラスも騎馬を男子で組み女子が騎手になるパターンが多いだろう。
タフな種族の女子なら騎馬になっているかも知れないけど、少なくとも私のクラスはほぼそうなった。
「じゃ、持ち上げっぞ」
「うん」
私の下で声がする。二人の男の声だ。
上からモブ男の親友、モブ男。メジャーなのは騎馬三人騎手ひとりの四人でやる騎馬戦だが、うちの高校は騎馬二人騎手ひとりの三人の騎馬戦を採用している。ユニットの頭数を増やした方が見栄えが良いのと、あとは校長の趣味だ。結石になれ。
先頭はモブ男。手のひらを空に向けるように腰の後ろに突き出したモブ男の手と、モブ男の親友の手ががっしりと組み合った土台の上に靴を脱いだ私の足が乗っている。
体勢を安定させるためにモブ男の両肩に手をついて、中腰になれば完成だ。
普通、騎馬二人というのは安定感がない場合が多いらしいが、私に限っていえばそれとは無縁だった。全くブレない。なんか、岩かなんかに跨っているような気分。
「親友……!!」
「はいはい……」
不思議げに肩周りをぺたぺたしていると、唐突に切羽詰まった声を出すモブ男。
直後、ドゴッ、という鈍い音が響き一瞬騎馬がグラつく。
「きゃっ。ちょっと、どうしたのよ」
「あはは、ごめん、ちょっとね。小石に足ひっかけそうになった」
「……絶対に躓かないでよ?」
「うん、もちろん」
騎馬のモブ男が転ければ、当然騎手の私も地面へ投げ出される。
冗談ではない、普段よりだいぶ視点が高いのだ。そんなところから身を投げ出された場合を想像してひっ、と小さく喉がなった。
大丈夫よね……? 本当に大丈夫よね……!?
「なあ、流石に俺の心が痛いんだが」
「ごめん。でも口内出血してたら出場できなくなるかもだし……!」
「いやでもよぉ……それにそんな必至になんなくても今美上さん抑えてるみたいだから頭が軽〜くふわふわするだけだぞ?」
「僕は絶対にチャームされる訳にはいかない」
「つってもなあ……人目のある本番だと蹴るのは厳しいし……そもそもなんで騎馬組んだだけで限界きてるんだよ」
「僕にはいつもと変わらないチャームが来てるからだよ……!!」
私が不安と戦っている間、騎馬の二人は何やら首を曲げてコソコソ話していた。私の太ももの横で話すな。
それにしても……副産物であり想定していなかったとはいえこの状況は都合が良い。
チャームは身体的接触が増えれば増えるほど強力に作用する。それはその方が性的に興奮しやすいという理由もあるが、水は火にかけるとお湯になる、と同じレベルで原理的なものでもある。
今、モブ男は私の足を握り、私の両手を肩に置き。でも、完全には密着しない言わば焦れるような距離感。だが、確かに触れ合っている。
しかも今の私は半袖だ。下は流石に長ズボンだけど。
体操服の半袖の布は薄い。それに加えて燦々と太陽が照るこの気温、どうしたって汗はかく。
ふふふ……甘くていい匂いでしょう? 触れ合っているところ、柔らかくて気持ちいいわよね? もっと欲しく……なっちゃうわよね?
チャームの出力自体は抑えているが、その分チャームの指向性を全てモブ男に向けている。直接触れているから出来る事だけど、恐らくモブ男には普段と変わらない強さのチャームがかかっているはず。
「ふふ、ねえ、気分はどう?」
「……? いや、気分悪くとかはなってないよ、今日は暑いけどね。心配ありがとう。美上さんは?」
「……大丈夫よ」
「そっか、良かった」
違うそうじゃない。
普段と違うシチュ+薄着でそこそこ密着+フェロモン全力でなんでこの反応なの……? やっぱり不能なの……??
「……はっ。っと、俺たちも行くぜ」
「おーけー」
チャームにかかったモブ男の親友を解除しつつ、実践練習をしているクラスメイトに加わる。
この日はハチマキは取れなかったが、取られることもなかった。
なんで騎馬組んでる状態であんなに早く動けるのかしら……?
【練習(借り物競争)】
授業では一度か二度、個人戦に分類される種目の練習もある。
その目的は選手側には入退場に集約されているが、体育祭を運営する側にとってはコーンの配置換えや種目に応じた物の用意とか、意味のある練習なのだろう。
借り物競争とは読んで字のごとく物を借りて走る競技だ。
走った先にあるくじを引き、それに書かれていた物を借りて走る。
選手だけでなく観客の力も必要な、一体型とでも呼べばいいのだろうか。何はともあれ盛り上がる部類の競技である。
チラリと待機列からコースを覗く。正確に呼称するなら障害物競走の方が正しそうな塩梅。
メインの借りる物を決定するくじは後半で、前半には行く手を阻む障害物が並べられている。
この時点で私は一位を諦めた。もともとなる気もなかったけどね。
パン、と軽快な破裂音。空砲を合図に一斉にスタートした最前列が最初の障害物であるネットを潜って進んでいく。……いやだなあ、あれ。ツノとか尻尾とか引っかからないかしら?
本番では放送部の実況? がつくらしいが、練習だとなんともまあ静かなことだ。観客もいないし、当然といえば当然かしらね。
だからか、選手側の士気も低い。入場のときから三分の一ぐらいは絶望したような顔をしている。空を見つめて鳥はいいよな……自由で。みたいな呟きも聞こえた。いや絶望しすぎじゃないかしら。
幾ら何でも様子がおかし過ぎる。
どうしたわけかと隣にいた女子に聞けば、『本番になったら分かるよ……』と力なく笑うだけだった。
物凄く嫌な予感がした。
私の危機管理センサーが全力で警告を発していた。
ただまあ、練習で走った際はネットにツノも尻尾も引っかからなかったし、くじも『教員』と当たり障りのないものだったので、私はそれを気のせいと片付けた。
後日、全力で後悔した。仮病を使うべきだったと。
【親子水入らず口入る】
浴槽に張ったお湯からはもくもくと浴室を白く染め上げる勢いで湯気が立ち上る。
常なら透明なお湯は乳白色に色づいている。温泉の素ってほんとに便利。お風呂洗うのめんどくさくなるけど。
髪も身体も洗ってお湯に浸かる。身体から疲労がお湯に溶け出していくようで、思わずくぽぇー、なんて声が漏れた。
「疲れた身体に染み渡る……」
ぐぅ〜っと身体を伸ばす。凝り固まった筋肉が解れていき、温かい熱に包まれる。言葉にし難い幸福感。
この瞬間のために頑張った……なんて思っちゃいそうなほどに、私はこのひとときが好きだった。
「あとはサウナがあればなあ……」
ポツリと願望を漏らしたその時。
「さっきからおっさん臭いわよ」
ガラッと開かれる引戸。
堂々たる振る舞いでどかっと洗面椅子に腰を下ろす全裸のお母さん。
ちょっと待て。
「ちょっと、なんで入って来てるのよ」
「あらサキ、そんなに食い入るように見つめて……えっちね」
「死ぬほど興味ないしなんで入って来たのかって聞いてるんだけど」
「晩御飯作ってたらかなり汗かいちゃって。この時期に油はだめね」
言いつつ、器用に尻尾でシャワーのノズルを捻ったお母さんは髪を濡らす。
いやいやいやいや。高校生にもなって母親と一緒にお風呂って。
「……浴槽には私が出てから入ってよね」
「えー? 二人で入れるぐらい広いんだからいいじゃない。親子の心温まる裸のコミニュケーションをしましょう」
「それをやって温まるのは娘の嫌悪感よ」
「ふふ、大丈夫よ。ちゃぁんと身体の方もあっためてあげるから」
「ひゃあぁぁぁあっ!? お、お母さんっ!! 何するのよ!?」
「お、おお……まさかちょっと胸触っただけでそんな反応するとは思わなかったわ……あ、そういえば最近は夜直ぐ寝てたわね。なるほど」
「今すぐそのムカつく顔をやめろぉ!!」
片腕で胸を守るように自分を抱きしめながら、にんまりと口元を歪めたお母さんに叩きつける勢いで手酌で掬ったお湯をぶつける。
浴槽に鼻先まで体を沈めてお母さんを睨みつける私。けらけらと笑ったお母さんは「ごめんってば」と微塵も誠意を感じさせない軽い口調で謝罪を口にして、鼻歌交じりに頭を洗い始めた。
濡れて身体に張り付いた私やお姉ちゃんと同じ銀色の髪。水分を含むことで濡れ羽根のように、光を吸収しているかのような鮮烈な印象を受ける。
手のひらに程よくシャンプーを乗せ、すりすりと濡れた両手を使って擦り合わせて薄める。泡立ったそれをぽん、ぽんと髪に乗せて馴染ませ、小刻みにしゃかしゃかと、指の腹を頭皮に押しつけてマッサージするように上から下へ流れるように手が動く。
その間、私は猛る内心のままお母さんを睨んでいた。
この万年発情期アラフォー未亡人め……!!
自分の母親に対してこの言い草はどうかと思わないでもないけど、それも仕方ない。
普通いきなり娘の胸の、それも敏感なところ触る!?
しかも異様に上手かったのが腹立つ……!! なんであんな一瞬で、こんな……も〜〜ッ!!
「気持ちよかったでしょ♡」
「うるさいッ!!!」
私の目線が下を向いた瞬間、隠しきれない笑みを溢したお母さんの声。
可憐な笑顔とかそんな綺麗なものでは断じてない。例えるならニヤァ……って効果音が付きそうな、そんないやらしい笑みだ。
それでいて、悪戯に成功した子どものような無邪気さもあるのだから頭が痛い。
それに、私が下を向いた瞬間を捉えられたということは、頭を洗いながらこっちに注意を払っていたということだ。
つまり、私の行動を予測していたという事……っ!
「……もうしないわよ。しないからそんな犯罪者を警戒するような目でお母さんを見ないで。お母さん反省」
「犯罪者はみんなそう言うのよ……!」
「母と娘、女と女、サキュバスとサキュバス。一般的なコミュニケーションじゃない」
「唐突に胸を触る一般的なコミュニケーションがあったらたまらないわよ!!」
「はっ。確かにそうね。サキュバスはこねくり回すぐらいはしてるわ」
「そういう意味じゃないわよっ!!!」
なんでサキュバスってこう……! こう……っ!!
それから、特に会話はなかった。私がそっぽを向いたからだ。
トリートメントを終えたお母さんが身体を洗い始めたのを見て浴槽から立ち上がる。
もう十分温まったし、頭を洗ってるときと違って口が自由になったお母さんは何かと私に構うだろうし。
「あ、ご飯はお風呂から出たらすぐだから待っててね」
「分かった」
「さっきのじゃ物足りないからってひとりでシちゃだめよ? ご飯冷めちゃうから」
イラっときた。
なので、間髪入れず私は行動で内心を表明することにした。
「ふんっ!」
「おっと。母親においたする尻尾はこうしてあげましょう」
「ひゃんっ!? ……ぅ、あ〜〜っ!!」
お母さんのおでこめがけて飛んだ尻尾がむんずっと直前で掴まれる。
同時に、泡でぬるっとしたお母さんの細い指が尻尾に絡まって……っ!
「何するのよ!!」
「サキ、尻尾弱かったのに何ともないの? ほら、ほら」
「……っ、普段から外に出してるものに……ぁ、特別意味があるわけじゃない。……ふ、ぅ、サキュバスの尻尾が性感帯なんて……はっ、は、浅ましい男の妄想の中だけよ。ぅ、だからその無駄に艶めかしく動かしている手を今すぐ止めなさい……っ」
「震えちゃって、我慢してるだけなの丸分かりよ。まあ、それもそうよね、だってサキが小さい頃にお母さんが開発したもの」
「お前のせいかァッ!!!」
尻尾にだって神経があって触覚だってある。
全身性感帯とまでは行かないが、それに近い身体のポテンシャルがあるのがサキュバスだ。
ある日の夜、トイレに起きたときにお姉ちゃんの部屋から聞こえる苦しげな声に心配をして部屋を覗き見てしまった私は、後日好奇心と身体の欲求に負けて……。
道理で自分でした記憶もないのに……!! 初めてしたときの私の困惑と絶望が分かる!?
怨敵はここに居た……!! これは中学生の私の怒りと悲しみと崩れ去った純情の恨みよっ!!!
「お母さんにお前だなんて、そんな悪い子にはこうしちゃう。はむっ」
「あふんっ」
怒りに任せて詰め寄った私はそのまま流れるように膝から崩れ落ちた。
泡でぬめった、どころではない。何か恐ろしいほどに柔らかく、熱いものが尻尾の先端、ハートと錨が混ざったような形状の部分に絡みついてる。
シャワーが浴室の床を叩く音に紛れて、隠微な水音が混ざる。
半ば確信しつつも息も絶え絶えになんとか顔を上げれば。
「ん、ふ、ちゅぱっ。……自分でしておいてあれだけど……これは流石に……」
「んっ、ぁっ、やだ、だめっ……ぁん、やめ、やめて……っ、ふぁっ、ぁ、はぁ……はぁ……んっ!」
「サキュバスは与えられる刺激にはかなり強いはずなんだけど……私の唾液の催淫ありきとはいえ……サキ、大丈夫? そんなに溜まってたの?」
「しんぱっ、ぁ、はぁ、するなら……んっ! ぁ、……そのっ、動かしてるぅ! ん、やぁ……っ、んっ、手を……はぁ……っ、はぁ……っ、止めて……っ」
「あらやだ、つい癖で」
私の尻尾からぱっと手を離すお母さん。
荒い呼吸。両肘両膝を床につけ、お母さんに顔だけは見せまいと、実際には重力で垂れた胸で見えないが足の方を覗き込むように首を曲げている私。
シャワーの音と、乱れる呼吸を何とか落ち着けようとする私の声だけが浴室に響く。
その甲斐もあってか、徐々に心も身体の方も落ち着いて……いくわけがないっ!!!
「お母さん」
「えっ怖い。え? サキ? 声がガチトーンなんだけど……」
微動だにせず。そのままの体勢で。
傍目から見れば何かの特殊なプレイだと思われるような状況かもしれなかったけど、そんな事はどうでもよかった。
二週間だ。
体育祭の練習が始まってから約二週間だ。
その間、朝練や放課後の練習、お肌や体操服などの手入れと私はこの二週間疲労と準備でいっぱいいっぱいだった。
朝早く起き、学校に行って、放課後まで練習をして、遅くても二十一時には寝る。
その生活を私は約二週間も頑張った。サキュバスがだ。普通なら波のある性欲の増減が年中ストップ高のサキュバスがだ。
辛くなかったといえば嘘になる。美少女でも溜まるものは溜まる。忙しくてそんな暇がないとその感覚自体が遠のくというが、じっと座って落ち着くことの出来る授業中は眠気とムラムラの戦いだったし、何よりサキュバスがそれを感じなくなるなどあり得ない。
ようするに。私はめちゃくちゃ頑張ったのだ。なのに……!!
火照る身体。お湯に浸かってたから……だけではないのは、自分が一番よく分かっている。
お腹の奥がじくじくと甘く疼いている。ずっとお預けをされていた身体が。乾ききったスポンジが一滴の水では足りないと悲鳴をあげるように、もっと、もっと、と切なさを訴えている。
今すぐにでも耽ってしまいそうな程の欲求を強固な自我とプライドでギリギリ押さえつけている状態だ。
いや、いつもの私ならもう負けていたかもしれない。今、私が私を保っていられるのは。
「お母さん」
「……ごめんね? お母さんやり過ぎちゃたかも……なんて」
純粋な憤怒とでもいうべき混じりっけのない本物の激情が私の中で荒れ狂っているからだ。
怒髪天を突く。当たり前だ。私は怒ったぞ、お母さん──!!
「え、やだ、急にお母さんの尻尾握っても……お母さんはサキみたいにはならな痛い痛い痛いっ!?」
「ふんっ!!!!!!」
「え、まってまって、やだこれもしかして固結び!? お母さんの尻尾とシャワーの管をあの一瞬で……!? って痛い痛い痛いっ! これすごく痛いのだけど!?」
「しばらくそこで反省してなさいっ!! ばぁ──ーかっ!!」
「ちょっと待って、待ってサキ! お願いだから待っていったぁ!」
結んだ尻尾に引っ張られて、私を引き止めようとしたお母さんが足をずるんっと滑らせ、そのままびたーんと顔から転ける。
いい音がしたので一応振り返ったが、元気そうだったので無視した。
騒ぐお母さんを完全にスルーして髪を手早く乾かし、ショーツに手を伸ばし──。
………………。
走り出した車は簡単には止まれない。同じように、一度目覚めさせられた身体も直ぐには収まらない。
どれほどの時間をそうしていただろうか。
ショーツを摘んだまま固まっていた私は、しかし、そのままショーツを穿いた。
キャミソールを着て髪をタオルでまとめて。まるで凱旋門を通るような気持ちで自分の部屋へ。
ベッドに腰を下ろした。ぶるぶると震える身体。
勝利の余韻だ。私は勝ったのだ。悪辣なるどすけべ変態お母さんからも、内なる私の悪魔の囁きからも……!!
梅雨明けの青空のような清々しさだった。
お腹の奥の方は相変わらずじくじくと甘く疼いているが、私の意思の強さは並大抵ではない。諸悪の根源たるお母さんは浴室に拘束してきたのだから、私の平穏を脅かす存在は今この場にいないのだから。
そこまで考えて、ふと思った。
……お母さんはしばらく動けないのよね……。
かなりキツく結んだので、そう簡単には解けないだろう。なんとか解けたとしても、浴室から出てくるのはそれから身体を洗ったりなんなりを済ませた後。時間にすれば一時間は堅い。
一時間、お母さんはお風呂から出てこない。
「…………」
ぽふっと気の抜けるような音。僅かに軋んだスプリングス。
倒した身体をベッドが優しく受け止めた。
そして、私の手は──。
「いたたた……痛覚が薄い場所とはいえああもガッチリやられると流石に堪えたわね……あら、サキ? ごめんなさいね、お母さんちょっと調子に乗りすぎて……って、またお風呂はいるの?」
「……うん」
「……朝起こしてあげるわね」
「……ありがとう。お願い」
「……限界振り切って弾けちゃう前に何とかしてあげようって思ってたけど……もう少しやり方があったわね……お母さん反省」
【サキュバスは見ていた】
放課後の練習は十八時までだと決められている。
完全下校時刻は十九時半だけど、暗くなる前に帰れという学校側の配慮だろう。
普段なら練習が終わった瞬間家に帰っていたけど、この日私は十九時前だというのに学校にいた。
「あった……良かった……」
誰もいない教室。差し込む夕陽に茜色に染まるその中で、ロッカーに忘れた体操服を見つけた私はほっと安堵した。
朝練用と放課後の練習用。体育がある日は、体育の授業用。
勢いの衰えない猛暑の中身体を動かすので汗だけはどうやっても対策できない。
私の汗はフェロモンの関係で匂いの良し悪しを超えて神経に直接左右する。けれど、だから私が汗の匂いを気にしないかといえばまた話は別。女子に「美上って臭いらしいよー(笑)」とか言われたらムカつくし。
着替えるときにきちんと汗は拭いているが、体操服やインナーが吸ってしまったものはどうしようもない。
しかも谷間や胸の下に汗が溜まるのよね……ボディクリームを塗ったりブラと胸の間に汗吸収シートを入れたりして対策はしてるんだけど、サキュバスって汗かきやすい種族なのよね……。汗をかきやすいというよりはいろんな液体の分泌が多いの方が正しいけど。
なのでこの教室に忘れた体操服入れには、体操服と一緒に下着も入ってたりする。
自分がどう見られているか、ということを把握している私は最悪紛失している可能性も考慮していたけど、ぱっと確認した感じ特に何かをされた形跡もなく。
普段はこんなミスはしないし下着の方は体操服入れには入れないんだけど、うっかりしていた。疲れてたのかしら。
体操服を回収して教室を出る。
完全下校時刻三十分前の学校は日中の騒がしさが嘘のように閑散としていた。
グラウンドから運動部の声は聞こえるが、それだけ。吹奏楽部もこの時間だともう楽器を片付けているのか、それとも帰ったのか、楽器の音色は聞こえてこなかった。
普段何処を向いても誰かの声が聞こえるような空間がこうも静けさを保っていると、まるで世界でひとりぼっちになったかのような気さえしてくる。
中学までの私は望んでそうなっていたのに、何故か今の私はそれを少し寂しいと感じた。
自分の中に芽生えた小さな変化に戸惑いつつ、校舎と校舎を繋ぐそこそこ長い渡り廊下を歩いていたとき。
「まだやるのか?」
「もちろん……!」
ふわりと一陣の風が明け放れていた窓から舞い込んだ。聞き覚えのある声が風に乗って運ばれる。反射的に屈んで身を隠した。
窓の淵に指をかけ、恐る恐る顔を出す。
想像通り、そこに居たのはモブ男だった。
四十メートルほどの距離を全力で走る。一回走るごとに、それをスマホで撮っていたモブ男の親友から調整が入り、また走る。
ときにはモブ男の親友がお手本を見せるように走って、またモブ男が走って、その繰り返し。
休む事なく、ただ愚直に、直向きにモブ男は駆けていた。
「体育祭は明々後日。今身体壊したらシャレにならねえぞ」
「僕の身体は頑丈だから大丈夫。カッコ悪いところは見せられないからね」
「その身体をそんな使い方してるって知ったら、水澄はどう思うだろうな」
「……水澄さんには申し訳ないと思ってる。でも、僕は……」
「……悪りぃ。意地悪な言葉だったな。推薦したのは俺だし。つっても、もう下校時刻だから……いつもの河川敷か?」
「うん。毎日ありがとう、親友」
「おう。いいってことよ、親友」
距離があるため殆ど聞き取れなかったけど、断片的に聞こえた内容と、未だにモブ男が学校に残っていて、しかも着ている体操服がひと目見て分かるほど汗を吸っているとなれば。
「あいつ毎日こんな時間まで練習してたの……?」
しかも、学校が終わったらまた場所を移して。
今モブ男がしていたのはリレーの方の練習だろう。
種目決めの日に一度だけ、モブ男が全力で走っているところを見た。踏み込みは重く力強く、なのにその身体はあっという間に目の前を駆け抜けていって。
想像を凌駕する結果に歓声をあげるクラスメイトの外で、私も、驚いていた。
海のとき。お祭りのとき。それから、これまでの時間で。
モブ男が男だって事は分かってたけど、でも、あんなにも真剣に何かに臨む男の子の顔を見たのは、その時が初めてだった。
リレーの練習は騎馬戦の練習場所とは離れてるから、それ以降私はモブ男が走っているところを見たことがないけど。
リレーの練習が終わった後に騎馬戦の練習に参加して。でも、いつもいつも余裕そうに笑っていた。
騎手の私でも連日の練習で疲労困憊なのに。騎馬のモブ男は私以上の運動量で、しかも、こうやってみんなが帰った後も残って練習をしていて。
モブ男の事を、私は体力お化けだなんて言ったけど。
確かに私よりはずっとずっと体力があるのだろう。でも、それは疲労がたまらない訳ではないはずだ。だって、モブ男は正真正銘人間なのだから。
太陽が姿を隠しつつある。薄暗くなり始めた。
その場からモブ男が立ち去った事を確認した私は、ゆっくりと立ち上がった。
頑張るためには理由がいる。
私が団体種目の練習を頑張っているのは、負けたくない理由があるからだ。あの水妖精に負けたくない気持ちが、私の原動力になっているからだ。
なら。
モブ男がこんなにも真剣に取り組んでいるのにも理由があるはずだ。
六時前に家を出てまで朝練に参加して、十九時半まで学校に残って練習をして、更に場所を変えてまた練習をする。
モブ男がここまで頑張れる、その理由が必ずあるはずだ。
どうして、モブ男はそこまで──。
「さては、私と一緒で喧嘩でもしたのかしら」
性格は温厚だけど曲げないところは曲げないものね。六月、初めて私がモブ男を認識した日のように。
聖人君子という訳ではないのは知っているが、良くない行いを見過ごせない性格なのも知っている。あれでは誰かと衝突する事もあるだろう。
なんて不器用な生き方かしら。もっと器用に生きればいいのに。
モブ男たちとは反対側の校門へ歩く。なんとなく鉢合わせになるのは気まずかった。
日中と違って夜は冷えた風が肌を撫でるのに、不思議と気にならない。
きっと、いっぱい歩いたから体温が上がったのだろう。
絶対そうだ。一生懸命頑張るところを見たらちょっときゅんときたとか、そんな理由では断じてない。断じて。
☆☆☆
9月⊿日
明日は体育祭だ。
やっと……というべきかしら。それとも、もう体育祭……なのかしら。
矛盾してるけど、今まで一番長くて短い体育祭までの毎日だった。
思えば、ここまで真剣に頑張ったのは初めてかもしれない。
勝負はほぼ私の勝ちで決まっているとはいえ、水妖精に舐められたままなのはムカつくからと意地で続けた練習……。頑張ったのだから、普通に騎馬戦やりたい気持ちすら出てきた。ハチマキも取れるようになったし。
……別に、私は団体戦以外の勝ち負けはどうでもいいのだけれど。どうでもいいのだけれど、モブ男も、あんなにいっぱいいっぱい頑張ってたから。一回だけ気になって何かと理由をつけて河川敷の側をお母さんの車で通ったけど、本当に一生懸命だったから。頑張る事の大変さも、しんどさも、今の私は分かる。遺憾なことに知らない仲でもないし。……リレーも、まあ、負けるよりは、一番になってほしいって思わないでもない。ほんの少しだけね。あくまで団体戦のついでにね!!
……まあ、頑張ろ。ちょっとだけ、体育祭が楽しみだ。
読まなくてもいい登場人物紹介
美上さん
主人公。強固な意志(笑)
何にとは言わないが負けた。はぁ……はぁ……敗北者……?
オカズを用意して、十分体の準備が整って、さあおっぱじめるぞ! って状態が一日中続いてるのを想像して頂ければだいたい近い。
サキュバスが尻尾を隠すと「私は尻尾がクソザコです」という宣言になるので、それはプライドが許さなかった模様。
モブ男
ヒロイン。練習量……ですかね。
体育祭編のモブ男の一日は以下の通り。
3:50 起床。バイトへ。
5:40 登校。
6:50 到着。朝練へ参加。
18:00 団体戦の放課後練習終了。
19:30 完全下校時刻。リレーの練習終了。
22:00 河川敷での個人練習終了。
23:00 帰宅。
0:00 就寝。
家族の協力がなければ死んでいた。
お母さん
サキュバス界でも有名なゴッドハンド。人の倫理観はおいおい……でもサキュバスの倫理観なら当たり前の親子の触れ合いだからセーフ。
美上型なるアレのやり方が存在し数多の男が絞り尽くされたとの噂。お姉ちゃんに受け継がれている。
親友
上のスケジュール、午後はこいつも付き合ってるんだなこれが。
体育祭前半終了。次回から後半戦です。
これは投稿しても大丈夫なのかと小一時間悩みました。本作は健全な恋愛作品です。
体育祭編は一種のお祭り回なので今まで名前だけだったり存在だけしていたクラスメイトや教師、先輩たちが出てきますが、メインは美上さんの誘惑大作戦だから(震え声)