朝、本日も晴天なり。
「フレンチキスとフルチンキスって語感が似てるわよね。どちらも激しく求め合う。あれ? でもフルチンキスって男同士でやるのかしら? フルチンだし。気になってお母さん洗い物に集中できないわ、サキ、どうしよう」
「一生喋らなければいいと思う」
そもそもないわよフルチンキスなんて言葉。何その造語どっから持ってきた。
そんなこんなで体育祭が終わっていつもの日常が帰ってきた。
☆☆☆
9月×日
筋肉痛がああああああ。
9月♩日
昨日一日中ゴロゴロして何とか動けるようになった。
はあ……。はあ……。
ため息をわざわざ書き込むのバカらしいけどそれだけ憂鬱だなあ……。
体育祭の振替休日も終わって明日から学校行かなきゃ……朝早起きしなくてもいいのは嬉しいけどそれ以上に水妖精に会うのが嫌すぎるわね……。
何で私あんな事を……迂闊だった……。どうにかして有耶無耶にしないと何されるか分からない……!
嫌だなあ、憂鬱だなあ……。
9月ヾ日
おのれモブ男……! あんたは私の味方しなさいよ……!
なーにが「二人の約束だったなら仕方ないよ」よっ!! 仕方なくないわよ! だって私負ける事考えてなかったもの!!
モブ男の親友……確か白狼だっけ……? も何も言わないし! いや言ってたけど水妖精に押し負けるし!
悔しい……! はらわたが煮え繰り返るってこういう事を言うのね……!
よりにもよって……よって……!
私に水妖精のメイドになれですってぇ……!?
☆☆☆
ざわざわと騒がしい昼休みの教室。
ただ騒がしいだけならいつもの事で、特に気にするような事でもない。
だが、その騒がしさが自分に起因していて、しかもその教室が他のクラスであるなら話は別よ。
「紅茶のおかわりを頂けますか?」
「……はい、ただいま」
わざわざ今日のためだけに持参したらしいティーカップを手に取り、魔法瓶に入っているお湯をティーポットに注いでいく。
出来上がった紅茶を小憎たらしいドヤ顔を浮かべる水妖精に手渡して、メイド服を着た私は優雅に一礼した。
「くたばれど貧乳」
「口が過ぎるメイドですね」
「あいたぁ!?」
なんっでコイツのデコピンこんなに痛いのよ!?
涙目でおでこを抑える私を見て、水妖精が呆れたように鼻から息を吐き出した。
「いい加減観念したらどうです? というか、その無駄な反骨心はどこから来るんですか」
「私、お前、嫌い」
「主人に対する態度じゃないですね」
バチコン!
額が弾ける。
「いったあっ!!?」
こ、こいつ……! またデコピンしたな……!?
速すぎて避けられないし凄まじく痛いのに……! この……! お母さんにもぶたれたことのないこの私を……! 顔に傷ついたらどうしてくれるのよ!
「……このやり取り朝から何度目だ親友」
「……今ので丁度十九回目だよ親友」
「……美上さんってあんなに負けず嫌いだったか?」
「いや……多分今まで傍若無人そのものだったから、真っ向から自分に向かってくる水澄さんがひたすら気に入らないだけだと思う。弓森さんとかはそんなタイプじゃないし、多分初めてなんだと思うよ、同年代の同性と喧嘩するの」
「なるほどな……道理で。何だかんだ言いつつメイド服も着たし内心楽しんでるのかもな」
「楽しんでないわよちょっと黙ってなさい!」
「………………」
「親友? おーい親友ー? ダメだチャームされてる……」
好き勝手に言ってくれるものね……!
メイド服は体育の後に服がご丁寧にすり替えられてたからだし、この状況だって私がどれだけ逃げても水妖精から逃げられないから仕方なくなのに……!
し・か・も!
モブ男のやつは教室の後ろの方で見てるだけで助けてもくれないし!
あーもうほんっと! ほんっっと!!
「あら、もうこんな時間ですか。予鈴がなってしまいました」
「ふん! じゃあ私戻るから! てか制服返しなさいよ」
「心配しなくてもしっかり返しますよ、今日が終わったら」
こ、こいつ……!
「あら? 拳を握ってワナワナ震えてとても悔しそうですね。……どうしますか? 手頃な男性を捕まえて取り返して欲しいとお願いしますか? いいんですよ、私が水妖精としてのポテンシャルを存分に発揮しているように、あなたも淫魔としての特性を利用しても。でも……あらあら? あなたは男性の庇護を必要としないサキュバスだったのでは? でもしょうがないですよね、口ではどうこう言おうとあなたはサキュバス……男性を誘惑すること以外何もできないのです。意地を張らずにいつものように私なら羞恥で絶対に言わないような言葉を聞く方が恥ずかしい甘ったるい声で言ったらどうですか? あ、グラビアアイドルかと見間違えるような性的なポーズもしていましたね(笑)」
「したことないわよほんっとにムカつくぅ!!!」
くそぉ……! 今すぐ周囲の男全員チャームしてこいつを泣かしてやりたい……!
それをやっても無意味なのとモブ男が絶対に止めるだろうからやらないけど……! やらないけど、くそぉ……!
私も何か言い返してやりたい……! 言い返してやりたいけど私こいつのこと何も知らないのよね……!
くぅ……! 弱みを……弱みを握れさえすれば……!
「では、放課後にまたお願いしますね。分かっているとは思いますけど、私からは逃れられませんよ」
「分かってるわよ! ふん! ほら、行くわよよ二人とも!」
「違いますよ淫魔。教えましたよね?」
「申し訳ございませんがしばらく離れさせていただきますお嬢様! これでいいでしょ!?」
「大変気分がいいです」
メイド服のスカートの裾を摘んで一礼すれば、機嫌よさそうに水妖精はうんうんと何度が頷く。くっそぉ……!
このメイド服も胸のところ一切露出がない代わりにぎゅうぎゅうでキツいし、その代わりとばかりに超ミニスカでパンツ見えそうなぐらいなの悪意しか感じないのよね……! くっそぉ……!
自分たちの教室に戻って午後の授業を受けている間も、私の頭の中はどうやって水妖精にこの屈辱をやり返すかで頭がいっぱいだった。
そして放課後。
「というわけでなんかあいつが嫌がる事を教えなさい」
「だから無理だってば」
詰め寄れば、モブ男はいつかの雨の日と同じように否定の言葉を放った。
「無理じゃない。私の味方をしなさい」
「教えたら美上さん嬉々としてそれを実行するじゃん……」
「……お願いっ。私の味方をして」
「うっ。いや、そんなうるうるした瞳で上目遣いで頼んできてもダメだよ。あとさり気なくチャームしようとするのやめて欲しいかな」
「ちっ」
「舌打ち隠す努力ぐらいはしよう、美少女」
「美少女に頼られたんだから喜び勇んで力になりなさいよ」
「いつも思うんだけど美上さんのその自信本当に凄いよね」
美しいものを美しいということになんの抵抗があるっていうのよ。
「ああもう本当に嫌だ……というか、白狼はどこに行ったのよ。元はと言えばあいつが原因でしょう。最後まで付き合わせるわよ。絶対に逃さない。どこ?」
「目が怖い上に責任転換も甚だしい事を言い出した! 親友は部活だよ。ほら、体育祭で部活止まってたから」
「ふーん。じゃああいつを拾ってから行くわよ。出来る限り時間をかけましょう。具体的には二時間ぐらい」
「僕の話を聞いた上でこの発想は最低すぎる……」
あいつがあの時勝負とか言い出さなければこんな事にならなかったんだから当たり前でしょう。ちょっと恨んでるわよ私は。
自業自得? 私の辞書にそんな言葉はないの。
ちらりと時計を見る。
水妖精に言われていた時間まで少しだけ余裕があった。
だから、私は前々から少し気になっていた事を聞いてみた。
「ねえ、あんた達ってなんでお互いのことを『親友』って呼んでるの? 正直ややこしい時あるわよ」
モブ男も、白狼も、『親友』という名前ではない。
だからこの『親友』も親しい友という意味での親友であることは間違いないんだけど……。
お互いのことを親友って呼び合うのが仲の良さアピールならちょっと痛いというかなんというか……。
私の方がちょっともにょっちゃうときあるのよね……。
いやだって、私が弓森さんのことを親友って呼ぶようなものでしょう?
『ねえ親友さん。さっきの授業のここが分からなかったのだけれど』
『どれどれ……うん、ここはね親友さん、こうやって解くんだよ』
『なるほど……出来た! ありがとう親友さん、助かったわ』
『いえいえ〜。あ、親友さん、先週オープンしたカラオケが半額クーポン配ってたんだ。今日の放課後とかどうかな〜』
『ん、いいわよ。行きましょうか親友さん』
……ないわね。
ちょっと想像してみたけどこれはないわね。
だからこそ、お互いを『親友』と呼び合う二人のことが少しだけ気になった。
それはきっと、私にも友達と呼べるような存在が出来たから。
この事を聞かれるのは初めてじゃないのか、モブ男は苦笑をしながら口を開いた。
「それは──」
「──俺のことを『シンユウ』って呼んだからだよな、親友」
しかし、それはモブ男の口からではなく、その後ろからあらわれた獣人によって答えられた。
「あれ? 部活は?」
「ジャージ忘れてたから取りに来た」
そう言って、白狼は自分の机の横に引っ掛けておいたナップサックを指にかけ、これだこれだ、と軽く持ち上げる。
さっきの『親友』の言葉の、その発音が違うような気がして、私は首を傾げた。
「『親友』って名前じゃないでしょう? 勘違いする要素もない」
「違うぜ美上さん。『親友』じゃなくて『シンユウ』だ。……ま、色々あってな。でも、これもいいだろう? なんか特別感があって。なっ、親友」
「……まあ、そうだね」
「いや結構割とかなりダサいと思うわよ」
「辛辣だなあ!?」
逆にイケてると思ってやってたのかしら……? ええ……?
「っといけねえ、部活もう始まっちまってるから俺はもう行くわ」
「うん。夏休み前以来の復帰だし無理しないようにね」
時計を確認した白狼は軽く手を振って教室を後にする。
当然逃すわけがない。サクッとチャームして着席させた。
よし! 気分はヘルメットを被ったネコだ。
「よし。適当に時間潰すわよ」
「いやよしじゃないよ美上さん……」
モブ男が若干引き気味の目で私を見ていた。
「もう時間だし親友のチャーム解いて行くよ」
「嫌よ。行かなかったらどうせ捕まえにくるから白狼を盾にして私は逃げるわ」
「クラスメイトを特攻させることに全く迷いがない……。水澄さんから逃げるのは無理だって」
「あんたが私に協力したら逃げられるでしょう」
「幾ら不本意でも約束をしたのは美上さんなんだから腹を括らなきゃ。今回は僕は水澄さんの味方だ」
「……今回もでしょ」
「え?」
「……ふん」
午後の授業中に、水妖精について一つ思い出した事がある。
そういえば、夏休みに図書室に行ったときにあいつはいた。
そう。水妖精はモブ男と同じ図書委員だった。
道理で何かとモブ男と接点があるはずだ。違うクラスなのに、明らかに仲が良すぎたから。
それこそ、キスしてしまいそうなぐらいの距離感になる事があるぐらいには。
……何故だか分からないけれど。
私はその時のことを思い出すとお腹の奥の方が熱くなってしまって。
水妖精の味方をするモブ男を見ると、どうして私の味方をしてくれないのと、叫んでしまいそうになる。
私を守るって言ったじゃないのよ。ふん。
嫌な沈黙が流れる。
心をジクジクと刺激するような沈黙だ。
私がそっぽを向いて黙ってしまったから。
モブ男はその理由が分からないようで、空気を払拭する言葉を探していた。
……やっぱりこいつ、あんまりコミュ力ないわね。レスポンスが遅すぎる時がある。
私が黙ったときは特に。いっそ不自然なくらいまでに言葉を探す癖がある。
そのモブ男が口を開く前に。
「さーて! わざわざご主人様が迎えに来てあげましたよ! 逃げてませんよね淫魔! 逃げてたなら百メートル四秒のペースで地の果てまで追いかけます!!」
「物理的な破壊力がある分ホラーよりタチが悪いのよこの妖怪ゴリラ女」
「ゴリラを超える握力でその胸ネジ切ってやりますよ変態スケベ女。間違えました淫乱ドスケベ女。何ですかそのメイド服、パンツ見せびらかしてるんですか? 誰もケバいパッションピンクの下着なんて見たくありませんよ。臭そうです」
「あんたが着せたんでしょうがあああああああっ!!!」
「美上さん落ち着いて! 落ち着いて!? 親友けしかけるのやめてあげて!? あと水澄さんも流石に言い過ぎだってば! 水と油かこの二人!?」
こんっっにゃろう……!!
ほんっとにムカつくわねほんっとにほんっとに!!!
でも。
陰鬱とし出した空気をぶち壊す水妖精の存在が、この時ばかりは少しだけありがたかった。
ほんの少しだけ。
一悶着終わり図書室に移動する。
モブ男の親友は解放済みだ。モブ男も、水妖精もなんだか白狼を部活に行かせたがっていたように思う。はあ、いい子ちゃんはこれだから……。私としてはあいつのせい(確定)なので絶対に逃したくなかったのだけれど。
でも、去り際に面白いことを言っていた。
『ごめんな美上さん。まあ、なんだ、水澄も悪い奴じゃないんだ。だからさ、もうちょっと……な?』
『目が腐ってるの? それとも脳味噌?』
『気持ちは分かるけど俺はいたって健康だ。もう体も大丈夫。ってそうじゃなくて……いや、無理か。……怖いからそんなに睨まないでくれあとチャームはやめてね?』
『ふん。本当に悪いと思ってるなら何か私に貢献しなさい。水妖精をどっか遠いところに連れて行くぐらいでいいわよ』
『無理だって。あいつ根っこが真面目でバカだけど身体能力は本物だからな。正面から抑えるのは鬼塚ぐらいじゃないと出来ないし心情的にやりたくない。……まあ、その代わりと言っちゃなんだが。親友はメイド服結構好きだぞ。じゃあな、心の中でエール送っとく』
……メイド服、ねえ。
今私が着ているメイド服はクラシックスタイルが一番近い。露出を限りなく減らしたメイド服といえば想像しやすいわね。
なんで近いかと言うと、お姉ちゃんが着るようなミニスカよりマシ程度までスカート部分がばっさり切られているからだ。
上は布地によって完全に肌が覆われている(でも胸はきついからギチギチしてる)のに、下は布どこ? 状態。ニーソックスが全部見えて余りある肌色だ。なんで私がこんなサービスしなきゃいけないのよ……!
そんなアンバランスさだから、メイドではなくコスプレメイド。奇異の目で見られること請け合いだし、エロい目でも見られる。
極力チャームしないように気をつけてもしてしまうぐらいにはエロい目で見られている。
そう考えれば、私が意識してチャームしようとしなければなかなかチャームされなかったモブ男の親友は相当頑張っていたと言えるだろう。
もしかしてホモなのかな。ありえる。
って、そんなことはどうでも良くて。
大事なのはそう。
「ねえ、あんたメイド服好きなの?」
「えっ、急になに?」
モブ男がメイド服を好きということである。
ほんとさー、男は好きよねメイド服。
こんなのの何がいいのか。
まあでも、少しだけ引っかかってはいたのよね。
『うっ。いや、そんなうるうるした瞳で上目遣いで頼んできてもダメだよ。あとさり気なくチャームしようとするのやめて欲しいかな』
チャームをやめて欲しい。
モブ男がこんなこと言うのは初めてだ。
モブ男はチャームが効かないのではなく出来ない。
それは先日の体育祭が証明している。
……………………。
いやっ! いやいや! 今はそれは置いておいて!
あの時のこと思い出したらなんか熱くなるから出来るだけ思い出さないようにしてたのにうっかりしてた……!
深呼吸……、深呼吸……。
「えっ? 今度はいきなり深呼吸……? え?」
困惑しているモブ男を無視して息を整える。
すぅーはぁー。よし。
「……ねえ、ご主人様って呼んであげようか?」
男はこういうの好きでしょ?
なんでチャーム出来ないのかは分からないけれど、絶対に出来ないわけじゃない。少なくとも、モブ男がなんらかの方法で抵抗さえしなければ出来る。
なら、私がしてやるのはモブ男を私の魅力で堕としてチャームを受け入れさせてやることだ。
原初の想いは褪せない。やる事は変わらない。
私は、こいつを絶対に私のものにする。
……私のものにして、それで、私はどうしたいんだっけ。
あれ? 確か……。
まあいいか、帰って日記を読めば分かる。こういう時のために日記をつけてたんだもの。ふふん、さすが私ね。
手を握る。
口元が弧を描き、挑発的に目尻が下がる。
ねえ、あんたも言われたいでしょう?
私の口から、私の声で、あんただけを見つめて言ってあげるわ。
だから……ね?
他の女のことなんか見てないで。他の女を気にしないで。
私だけを──。
「貴方のご主人様は私なのです淫魔」
「あいったぁっ!?」
「全くこれだから淫魔は……油断も隙もない……」
うああああああ!
額が弾けるように痛いっ!
さっきまでのデコピンは一瞬痛くて後には引かない感じだったのにこれは今も猛烈に痛いわね!?
しかも胸元から嫌な音聞こえたけどこれもしかして今痛みで大きくのけ反ったせいでブラのホック壊れた!?
でも気にする余裕が……! 声を出さないように歯を食いしばることで精一杯だわ……!
「水澄さん、流石にやりすぎだ」
「……いいじゃないですか、これぐらい。だって、淫魔は……」
「水澄さん」
「……分かりましたよー」
物凄く痛くて何話してるか全く頭に入ってこない!
額を抑えて蹲って痛みに悶えていると、私と同じように膝を折った水妖精が私の額に手を伸ばす。
またデコピンか!? と身構えたけど、予想した痛みはなく、代わりに冷たい掌が優しく私の額に当てられた。
そして、水妖精の手に吸い取られるように急速に痛みが引いて行く。
「……力を入れすぎました。すみません」
「……ふん! いたぁいっ!!?」
「あたっ!? このっ、淫魔ぁ! せっかく痛みを治してあげたのに頭突きとはどういう了見ですか!?」
「マッチポンプにも程があるのよ! 私は……! 水妖精と違って……! 普通の女の子なんだから……! もっと丁重に扱いなさいよ……!」
「今言外に私を普通の女の子じゃないと言いましたね!?」
あったりまえでしょ素手で鉄を凹ませられる普通の女の子がいてたまるもんですか!
お互いの胸ぐらを掴む。ぐえっ。力強い……!
が、直ぐに水妖精が怯んだ。
「え……なに、え……この感触……え? え? 私にはこんなもの……え? え? え?」
握力が緩んだ隙に体を大きく振って何とか脱出する事が出来た。
水妖精は私の服を掴んでいた自分の手のひらを見つめてから小刻みに震え、恐る恐る自分の胸ぐらに同じ手を持って行く。
そして崩れ落ちた。
「う……うう……っ! うううぅ……っ!!」
「は?」
「淫魔……! 淫魔……!!」
理由は分からないけれど、心底悔しそうな顔が心地良かったのでそのまま勝ち誇ることにした。
「わかったかしら。これが私との差よ。文字通り天と地ほどね」
「淫魔ぁ!!!」
「美上さん! それはあまりにも残酷だ! 残酷過ぎる!」
知らないわよばーかばーか! ふん! 気分が良いわね!! (最低)
案の定ブラは壊れてたけど、メイド服がキツ過ぎるのもあって応急処置で何とかなった。
でもやっぱり多少揺れてしまうのが難点だけど……ま、そこは我慢するしかないか。
図書室で委員の仕事を手伝う傍らメイドの真似事をさせられたが、何故か水妖精が私の腰から上を見ようとしないので心情的には勝ったも同然だった。
ふん。また勝ってしまったわね。敗北が知りたいわ。
そして、やけに長かった一日が終わる。
これで私のバカみたいなメイドの真似事もお終いだ。
そして、それはあの忌々しい勝負の約束が終わったことを意味する。
どっと肩から疲れが押し寄せてきた。本当に疲れたわね。主に屈辱的な仕打ちの精神的疲労で。
「跳ねた……ぽよんって……歩くたびに……ゆさゆさって……え……? なんで……? え……? あれは何……?」
「ねえ、これどうしたの?」
「今はそっとしてあげて……」
小声でぶつぶつうわ言を呟く水妖精を見る私の疑問に、モブ男は目を閉じて首を振るだけだった。
なんなのよ。
完全下校時間が迫っている。
制服は無事に返してもらえた。
「……制服です。早く着替えてきてください。その服はあげます。要らなければ焼却炉にでも入れておいてください」
「目を合わせて言いなさいよ」
「……すみませんもうそれは着ないでください」
「目を合わせて言いなさいよ」
「おのれ淫魔……!」
「なんなのこいつ!?」
返却された本を本棚に戻して、さあ帰ろうかというところで、水妖精がある本棚の前で一冊の本を手に取って立ち止まっていた。
随分と大きい本だ。
水妖精が立ち止まった事に気が付いたモブ男がどうしたのかと近づいて行く。
そして、その本を見て懐かしげな声を漏らした。
「あれ、その本がなんで?」
「……多分、先生が新しく入荷したんだと思います。新書の管理は先輩方がやってるので、気付きませんでした」
「そっか……。懐かしいね」
「そうですね……とても、懐かしいです」
いや二人して感傷に浸ってないで。
帰るって言ってんのよ。もう私先帰るわよ。
でも本気になるわね……いやあんな思わせぶりな態度取られたら……ねえ?
タイトルぐらいは見ていこうかしら。えっと、なになに……。
「『ウンディーネの涙』……? 絵本じゃない。しかも水妖精の。なに、あんた自分の種族の絵本に興味あるの?」
水妖精が持っていたのは世間的にも有名な童話の一つを絵本にしたものだった。
話の大筋は確か……そうそう、水妖精の女の子と人間の男の子がいて、その男の子が色々あって命に関わる大怪我しちゃって、それを悲しんだ水妖精の女の子の涙で男の子の怪我が治って、二人は結ばれて幸せになりました……って感じだったはず。
でも、これ作り話なのよね。
だって水妖精の体液にそこまでの力はないし、ましてや涙なんて少量の体液で命に関わるような大怪我が治るわけない。
だからこれは創作話だって言われてる。荒唐無稽の夢のようなお話だって。
ちなみにサキュバスの絵本もあったりする。
内容は何処からかやってきたサキュバスが男をみんな虜にしてサキュバスの国を作って、サキュバスの国から愛する夫や恋人を取り戻すために力を合わせた女たちって内容だ。
最後は皆んな愛した人のところへ戻って大団円。真実の愛を見つけた男女は末長く幸せに暮らしましたとさ。
遠い昔の文献だとナチュラルにこういう扱い受けるのよねサキュバス。多分やりたい放題犯し放題だったのだろう。容易に想像できる。
「……自分の種族の童話なら、多少は気になりますよ。でもそれだけです。こんな御伽話なんて、本当はないんですから」
それだけ言って、水妖精は絵本を本棚に戻した。
その声は、夜道を照らす電灯に向かって飛んで焼け死ぬ蛾のような、そんな悲痛さを感じた。
癪だけど透き通るな透明さを持つ水妖精とは似ても似つかないそれを、私は幻視した。
心の奥の奥で粘つくように燻る感情の奔流、その切っ先に触れたような、そんな気がした。
モブ男は、何か言葉を探すように口を閉じて。
それ以降、口を開くことはなかった。
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お母さん。
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