バレンタイン番外編です。
誰かを好きになるなんて考えたこともなかった。
恋ってこんなに胸が苦しいものだなんて知りたくなかった。
でも。
この気持ちに気づけた事は、きっと幸せだったのだろう。
☆☆☆
二月十三日。
日が沈みすっかり夜も更けた頃、水澄イズミはキッチンで唸っていた。
台の上には固まった小ぶりのチョコが並んでいる。それを一つ摘んで口の中に放り込んで、やっぱり唸り顔。
「美味しいには美味しいんですが今ひとつパッとしないんですよね……」
作ったのはボンボン・ショコラと呼ばれるチョコ菓子だ。
一般的にはチョコレートボンボンと呼ばれ、中に詰め物をしたチョコレートである。洋酒が最もポピュラーであり、キッチンの棚には水澄が使ったであろう洋酒の瓶が四本ほど並んでいた。
チョコレートボンボンは普段からお菓子作りをしていないと少々難易度の高いチョイスになる。
テンパリングと呼ばれるチョコレートに含まれるカカオバターを分解し、安定した細かい粒子に結晶させて融点を同じにするための温度調整が難しく、見た目はガタガタ口当たりもまろやかから程遠い出来上がりになり易い。
水澄の作ったチョコレートボンボンは細かくジッと見れば多少のガタツキはあるものの、中の洋酒が出てくる事もなく見た目も整っている。
普段から料理をしているから……というわけではなく、これは一重に明日のために彼女が積んできた努力の成果だった。
明日は二月十四日。
愛しい人にチョコと共に想いを渡す一年で一回の日。
作ったものの難易度、かけた時間がそのまま気待ちを推し量る物差しになるわけではない。
それでも、水澄は一手間加えたものを渡したくなったから。想像したのは、喜んでチョコを食べる好きな人の顔。
する必要のない手間を惜しまず注ぐその行為を、人は愛と呼ぶ。
「でも、だからといって完成しなかったら意味がないんですよね」
チョコを渡すという行為自体に意味が生まれる日だ。
当然、チョコを渡すという行程を踏まなければ意味がないと水澄は考える。
水澄は正々堂々という言葉が好きだ。もし誰かと勝負をするのなら、真正面から行って真っ正面に叩き潰すほどには。
バレンタインという日に想いを渡すのなら、チョコがあってこそなのだ。
そのため、前日になっても納得のいくチョコが完成しないことに、水澄は少し焦っていた。
「あれ、イズミ? まだ作ってたの」
「お母さん」
ガチャリとリビングのドアが開き、灰色の髪の女性が入ってくる。
彼女は水澄の母親であり、高校生の娘がいるとは思えないほどの若々しさを感じさせる……はずの顔には、刻まれたような深いシワがあり、それが彼女の見た目の年齢を少し引き上げていた。
「だいぶ上手に出来てるね。食べてみてもいい?」
「いいですよ。また作りますから」
「じゃあ、一つ頂くね」
母親がチョコを一つ摘み、上品に口元に手を持っていく。
小さく咀嚼して飲み込むのを待って、水澄が訪ねる。
「どうですか? 美味しく作れてるとは思うんですけど……」
「うん、十分美味しいよ」
「お母さんも美味しいと思うなら味は大丈夫みたいですね」
水澄はほっと息をついた。
お菓子作りという慣れない事で、他者から美味しいという成功の言葉を貰うのは自信につながる。
水澄が重ねてきた努力の方向は正しく、着実な成果となって表れていた。
味は問題ない。
じゃあ、何が問題なのかといえば。
「地味なんですよね……」
「イズミは派手なチョコレートにしたいの?」
「派手にしたい、というわけではなくてですね。チョコを渡して、開けたときにも喜んでくれると嬉しいじゃないですか」
そのためには、一見普通の丸っこいこのチョコだと力不足かな、と水澄は考えていた。
相手の喜ぶことを考えて頭を悩ませる。
そんな娘の姿を見た母親の口角が柔らかく上がり、眼差しが暖かさを持つ。
「……イズミは健気だねえ。よしよし」
「わぷっ。もう、やめてくださいお母さん。私ももう高校生なんですから」
「私にとっては、いつまで経っても可愛い大切な娘だよ」
口ではそんな事を言いつつも、水澄は母親のなすがままにその胸に頭を預け撫でられる。
母親の愛情が心地よかったという理由が大きくて、母親が自分の水色の髪の毛を撫でる手が特別優しい意味を知っているという小さい理由があった。
娘の頭を愛おしそうに優しくして抱きしめたまま、母親は語りかける。
「ユキカゼくんは良い子だから、どんなチョコでも大喜びすると思うよ」
「知ってます。私の方がお母さんよりユキカゼ君のこと知ってるんですから」
「そうだった。もう、イズミの方が知ってるんだったね。懐かしいな……まさか、あの子と自分の娘がこんな関係になるだなんて考えてすらなかったよ」
母親の目が過去を見つめるようにふっと細まる。
その脳裏に蘇るのは、病室のベッドに座り一日中窓の外を見続ける少年の姿だ。
精神的なショックと不慮の事故が重なり、ほぼ全ての感情機能が死に絶え、追い討ちのように『人を覚えられなくなった』少年が入院していた時のことは今でもよく覚えている。
『悲しい』という感情だけを感じ取れる少年が、周りを悲しませないために笑顔の仕方を聞きに来た事を覚えている。
十四歳の少年が入院して初めて自発的に行った事がそれだったことも。
しかし。
当時の感傷も、感じた心の痛みも、今となっては過去のことだ。
現在は現在。過去は過去。
だから、未来の話をしよう。
「お母さんはどういうチョコをお父さんに渡してたんですか?」
例えば、娘のいじましい恋の話とか。
「そうだね……おっきいハートのチョコとか作ってたよ」
「お、おっきいハートのチョコですか!? そ、それは、なんというか、は、恥ずかしくなかったですか……?」
頬を赤くして声が尻すぼみになっていくのが可愛くて、母親はついぎゅうっと娘を抱きしめた。
「うん、恥ずかしかったよ。でも、お父さんは凄く喜んでくれてね。恥ずかしいより、嬉しいが大きくなったんだ。それに……」
「それに?」
「私の気持ちは、おっきいハートのチョコで表しても表しきれないぐらい大きかったから。私の気持ち、ちょっとでもいっぱい届いて欲しかったから。だから、恥ずかしかったけどそうしたんだよ。……お父さんにも、喜んで欲しかったからね。ふふ、私もイズミと一緒だね」
「……両親の惚気を聞いた私が間違いでした! 他人のコイバナはノーセンキューです!」
「イズミは可愛いねえ」
「わぷっ」
恥ずかしくなったのか、ばっと離れて背を向けた水澄をくるっと回してまた抱きしめる母親。
当たり前の子を想う親の愛がそこにあった。
『あまり夜更かししたらだめだよ』と母親として当たり前のことを言って、『油断してたら直ぐに赤ちゃん出来るから気をつけるんだよ』とサキュバスみたいな事も言って母親は寝室に向かった。
その際に娘が『何言ってるんですかお母さんっ!!』と真っ赤になって否定したのは言うまでもない。
「もう、お母さんは……サキのお母様の影響ですよねやっぱり。むー……」
自分の母親が若干染まってきていることに友達の母親に対して軽く恨み言を漏らしつつ、水澄はチョコ作りを再開する。
その手には、ハートの型取りがあった。
「……ハート型のチョコ、なんて。恥ずかしいですけど……」
チョコを渡すのと、そのチョコの形がハート、つまりはLOVEの形なのと。
水澄の中ではこの二つは別種のものとしてカウントされている。
例えるなら、直接告白するのが前者で、ラブレターを書くのが後者だろうか。
想いを明確な形にすることに対する羞恥心というものは、誰にでも少なからず存在する。
でも、だからこそ、それを形にして伝えられる愛おしさ、伝える愛がある。
「喜んでくれるかな……」
小さなハート。
「喜んでくれると、いいな……」
それが何個も、何個も。
母のような大きいハートはまだちょっと恥ずかしくて。
でも、小さなハートじゃ収まり切らないとばかりに何個も、何個もハートを作っていく。
これが自分の気持ちだよと。このハートの数が自分の気持ちだよって言いたくて。
「……よし」
翌朝、水色のリボンで可愛くラッピングしたそれに直接自分の気持ちを込めるようにぎゅうっと抱きしめてから、水澄は家を出た。
家を出て数分走ればいつもの待ち合わせ場所。
一緒に登校しようって約束してからずっと続いている、二人の約束の場所。
そこには、いつものように一人の男の子が白い息を吐きながら空を見つめていた。
自然と、進む足が速くなる。
「ユキカゼ君っ!」
そして、そのまま水澄はユキカゼに後ろから抱き着いた。
「わっ。イズミさん? おはよう」
「うん。おはようです」
「えっと……どうしたの?」
「準備中です」
「準備中?」
「直前になって凄くドキドキしてきたので落ち着くまで待ってください」
「……落ち着いてきた?」
「……余計ドキドキしてきました」
でも、ぎゅうっと、回した腕に力を込める。
「僕もドキドキしてきたから、おあいこじゃダメかな」
「なんでユキカゼくんまでドキドキしてるんですか?」
「……いや、だって、好きな子に抱きつかれてそんなこと言われたら、僕もドキドキしちゃうよ」
水澄のドキドキがより強くなる。
かあああっと、頬が朱に染まる。
「……ユキカゼ君のせいでしばらく離れられないです。無理です」
「僕のせいなのかなこれ。イズミさんが可愛いのが悪いと思う」
「ユキカゼ君のせいですっ」
一度深呼吸。
ばっくんばっくんとうるさい心臓をなんとか鎮めようとして、出来なくて、この心臓の音が伝わってるんじゃないかと思って、自分のものじゃない心臓の音を聞いた。
チラリと見てみれば、ユキカゼの耳が赤く染まっている。二月の寒さのせいではないだろう。
それがなんだかおかしくて、嬉しくて、水澄はついくすくすと笑みを溢した。
「さーてとっ!」
ドキドキは収まらず、体の芯から滲み出てくるような熱もそのまま。
これは緊張感なのだろうか。
それとも、羞恥心なのだろうか。
わからないけれど、一つだけ言えることは、嫌な熱ではないということだ。
ユキカゼからパッと離れた水澄はたん、たんっと踊るように二歩後ろにステップ。
自由になったことで振り向いたユキカゼが振り向いて、すっと視線を逸らす。
その頬は夕焼けに照らされたようになっていた。
「私に抱きつかれて何考えてたんですか? ユキカゼ君のえっち」
「え、なっ!? へ、変なこと考えてたわけじゃないよっ!」
「怪しいですね〜。ユキカゼ君、意外とむっつりなところありますから」
「!? 僕はむっつりでは……!」
「遊園地」
「……」
「プール」
「……」
「文化祭」
「……」
「まだありますけど?」
「すみません許してください」
「よろしい」
「敵わないなあ……」
ははは、と力なく人差し指で頬をかくユキカゼ。
それが、赤い頬を隠すためだということを水澄は知っている。
分かってますよ、という瞳で見つめれば、ユキカゼはぷいっと視線を逸らした。
それが子どもっぽくて、ユキカゼの素が一番出ているようで、水澄はそういうところも好きだった。
(ああ、幸せです。夢見たい)
掛け値なしにそう思う。
(こんな日がずっと続けばいいな)
心の底からそう思う。
(私は今、世界の誰よりも幸せだ)
だって、好きな人に想いを告げて、こうして一緒に居られるのだから。
バツの悪そうにしているユキカゼに、水澄は微笑む。
「ふふ、ごめんなさいです。お母さんの事をあまり強く言えませんね。私もサキの影響を受けてるのかもしれません」
そして。
「──サキって、誰のこと?」
「──」
水澄は、ここが夢の世界だと気付いた。
「……そっか。そう、ですよね。そうだった……」
ジェットコースターのようだった。
ついさっきまで幸せの頂にいたはずなのに、それが嘘みたいにぼろぼろと剥がれて落ちていく。
不思議そうに首を傾けていたユキカゼが心配気に水澄の肩に手を置く。
水澄を気遣った、水澄のための優しい手だった。
それを、水澄は振り払った。
「イズミ、さん……?」
「……ごめんなさい。でも、もう、いいです。もう、大丈夫です。こんな夢がなくても、私は大丈夫なんです」
俯いたまま譫言のように紡がれるその言葉は、ユキカゼにとっては要領を得ない意味のわからない言葉の羅列だ。
困惑を表情に出すユキカゼに気付きもせず、水澄は自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。
「ありがとう。幸せでした。私は間違いなく幸せでした。本当に、ここにずっと浸っていたいと思えるほどに幸せでした。ユキカゼ君が私の恋人で、私とユキカゼ君はずっと一緒で……きっとこの先もそう」
それは、かつて水澄が望んだ幸せな未来予想図。
「でも、サキの事を忘れたユキカゼ君は……そんなユキカゼ君は、ユキカゼ君じゃない。あの人は、きっと何があっても、どんなことがあっても、サキの事だけは忘れない。だから……サキを忘れた貴方は違う人。私が作った幻なんです」
そして、水澄が望んで願わなかったあったかもしれない未来。
「幸せだったなら……ずっとここに居ようよ」
ユキカゼが手を差し伸べる。
その目には一貫して水澄を想う優しさがある。
水澄だけを想う気持ちがある。
でも、それは水澄が本当に欲しかったものじゃなくて。
だから、水澄は──。
「──ありがとう。恋は辛くて、苦しくて、痛いことの方が多かったですけど……。それでも、あの日、ユキカゼ君を好きなって本当に良かった」
その手を、拒絶した。
「……行くんだね」
ユキカゼの目が痛ましげに歪む。
「ええ。もうとっくに自分の中で結論は出てますから」
「……ごめんね」
「謝らないでください。少なくとも、私が決めたことなんですから」
それが合図だったかのように、パキン、と空がひび割れる。
そこから派生するように世界が崩れていく。
夢から醒めるのだと、水澄は直感的に理解した。
「あ、その前に」
水澄は、鞄から水色のリボンと箱で綺麗に包んだそれを取り出して。
「ハッピーバレンタイン、ユキカゼ君!」
そう言って、グッとユキカゼの胸にそれを押し付けた。
「……信じられないって言いたそうな顔ですね。今日はバレンタインデーですよ。恋人にチョコぐらい用意しますよ」
「……でも、僕は」
「一応貴方のためだけに想いを込めて作ったチョコですよ。食べてくれなきゃ頭グリグリの刑です」
「……それは、受け取らないわけにはいかないね。頭が潰れちゃいそうだし」
「そこまではしませんよ! もうっ!」
ぷんぷんと怒ったフリをする水澄に、ユキカゼは苦笑を漏らした。
お礼を言ってガラスを扱うように慎重にそれを受け取る。
世界の崩壊が加速していく。
もう、残っているのは二人の周囲のわずかな範囲のみ。
「これ、今食べてみてもいいかな」
「え、今ですか!?」
「うん。ダメかな」
「……恥ずかしいですけど、特別にいいですよ」
「やった」
しゅるっと心地良い音を立ててリボンが解ける。
ユキカゼはそれを大切にポケットにしまった。
包装を解いて箱を開けると出てくるのは小さなハートのチョコ。
喜んで欲しいと水澄が昨夜一生懸命に作った、水澄の想いのカケラ。
その願いが叶ったかどうかなんて、顔を見れば聞かなくても分かった。
水澄の胸に満ちるものがあった。
もう、空も街も道路も木もなくなって、形としてあるものは二人だけになっていた。
「……食べないんですか?」
「食べたいよ。食べたいけど……ちょっと、勿体ないって思っちゃった。だって、これ、僕は貰えない、僕だけのチョコなんだもん」
そう言って、チョコを一つ摘んだユキカゼは、それを愛おしいものを見るような目で見つめた。
ハートのチョコを見つめるその目がなんだか無性に恥ずかしくて。
「チョコなんですから、食べないと仕方ないですよ」
水澄は、急かすようにちょっとだけ催促をして。
「うん、そうだね。勿体ないけど……溶けちゃうのは、もっと勿体ない。いただきます」
ユキカゼはチョコを口に運び。
「──ここで目が覚めますか、普通」
幸せだった夢が、終わった。
☆☆☆
二月十四日。
バレンタインデーである。
水澄は、公園のベンチに隣り合って座る男女を見ていた。
「──って事があって、今お姉ちゃんが家にいるのよね」
「え、前新しい彼氏見つけたって言ってたの二週間前じゃ……」
「お姉ちゃん、自分だけを好きになってくれる人が好きだけど、自分を好きになるような人は自分より他のサキュバスを好きになるって面倒くさい事考えてるから長続きしないのよね。私が言うのもアレだけど本当に面倒くさい」
「本当にサキさんが言うのもだね……」
「うるさい。その面倒くさいサキュバスを好きになった物好きが何言ってんのよ」
「それを言われると弱いかな……」
「ま、そんなあんたにオトされた私が一番の物好きなんだけどね……」
「サキさんは可愛いなあ」
「っ!? ここは聞き逃すところでしょ! 小声で言ったのになんでバッチリ聞いてるのよ!」
「これだけ近いと流石にね」
「……離れてると寒いでしょ」
「うん。だから仕方ない」
「そうね。仕方ないわね」
こてん、と女の頭が男に預けられる。
その手は、男のポケットの中で繋がれていた。
「イチャイチャしてくれますね……」
二人を見ていて何も思わない、と言う事はない。
今も胸をちくりと刺す痛みはずっとあるし、黒い感情や後悔がないと言えば嘘になる。
でも、割り切りが出来ていないわけではない。
もう、水澄の中で区切りはついてる。
でも、割り切れない数字があるように、割っても割り切れない想いはある。
だから、まあ、仕方ないのだ。
ちょっと妬んでしまうのも。
ちょっとちょっかいを出してしまうのも。
例えばほら、体育祭のときのように、恨み言のような事を言ってしまうのも。
「ごめんなさい。でも、それぐらいは許してくださいよね、サキ」
だって、彼女の恋は、始まった瞬間に終わっていた恋だったのだから。
終わらせてしまった恋だったのだから。
視線の先では、男女が熱っぽい瞳で見つめあっていた。
「……今日がなんの日か、知ってるかしら」
「……うん。バレンタイン。正直、朝からずっとソワソワしてた」
「……ずーっと気にしてるあんた、少しおかしかったわよ。そんなに私からチョコ欲しかったの?」
「欲しいよ、そりゃ。だって、サキさんからのチョコなんだから。めちゃくちゃ欲しい」
「……へえ。へぇー。そうなんだ。そんなに欲しいんだ……まあ、私美少女だから、そりゃ欲しいわよね」
「違うよ。サキさんは美少女だけど、美少女だから欲しいわけじゃない。サキさんだから欲しいんだ」
「ふ、ふーん……。ふーん……。へぇ……。ふーん……。なら、しょうがないわね……しょうがないから、この私がわざわざ用意してあげたわよ。……だから、その、あれよ。……ハッピーバレンタイン……ユキカゼ」
「……どうしよう、サキさん、僕、死にそうなぐらい嬉しい」
「……死んだら許さないからね。……でも、あんまり自信はないの。私、料理とか全然だから……だからね、その、目、つぶって欲しい」
「もっとちゃんとサキさんのチョコ見たい」
「見なくていいの! ……私が食べさせてあげるから。だから、目、閉じて……ほら、早く……ふふ、そう……ほら、口開けて……あーん」
女が唇でチョコを挟んで男の頬に手を添える。
そのチョコはボコボコで、いかにも料理に慣れてない子が頑張って作りました! 感満載のものだった。
確実に味は市販品のものよりも落ちるだろう。
でも、きっとあの男の子にとっては世界で一番美味しいチョコに違いない。
だって、それは世界で一番好きな女の子が自分のためだけに作ってくれたチョコなのだから。
愛とは、魔法の隠し味なのだ。
水澄が食べても分からない、そのチョコの味は。
きっと、どんなものよりも。
チョコを介した、とても甘い、甘いキス。
濡れた瞳で見つめ合う男女の距離がゼロになって、今度は長めのキス。
女がまたチョコを加えて、男が目を閉じた。
水妖精の優れた視力でばっちりそれを見ていた水澄は、水妖精の優れた脚力で一気に走り出した。
そして──。
「──はい、あーんですユキカゼくん! ハッピーバレンタイン!」
「もごぁ!?」
「なっ!? イズミ!? なんでここに居るのよ!」
さっきコンビニで買った板チョコを男の口の中に突っ込んで、水澄は小さく舌を出す。
「白昼堂々……今は夕方ですけど。不純異性交遊の気配を察知したので現れたんですよ! 私生徒会ですからね!」
「成り立てほやほやで何言ってるのよ! 得意げに腕章突き出すな! そもそも私たちにしか言ってないしあんたの独断ルールでしょうがそれぇ!!」
「そのうち校則にします〜目の前でいちゃつかれると殺意湧くので何がなんでも校則にします〜」
「もおおおおおおっ! ほんっとに変わんないわねこの脳筋水妖精は……!」
「……貴方は変わりましたね、淫乱淫魔。ほら、さっきのキス顔撮ってますよ。待ち受けにしよっと」
「いつの間に撮ったの!? ちょっ、消しなさいそれ! イズミ!」
「待ってくれ水澄さん、それ僕も欲しい」
「あんたも何言ってんのよぉ!!」
夕焼けの空に三人の声が吸い込まれていく。
胸を刺す痛みはあるけれど、これも時が経つにつれ小さくなっていくのだろう。
だから、それまでは。
こうしてくだらない事をしてしまうのを許してくださいね、と。
水澄は、三人と笑い合いながら、一人心の中で謝っていた。
バレンタイン番外編。
時系列としては美上さんルートエンド後のアフター。本編とは少し違う結末を迎えた二人の話。
本編完結してないのに何やってんだ?はいその通りです。
しかし!仮にも恋愛ジャンルを名乗る以上筆を取らないわけにも……!
美上さんの一人称しかないので、本編で色々隠れてる部分は多いです。例えば、お姉ちゃんが何を考えてるのかとか。
水澄さんが何考えてたか有る程度書けて満足でした。
それでは皆さんも良きバレンタインを!
ハッピーバレンタイン!