とあるサキュバスの日記   作:とやる

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17ページ目『take1.私の気持ち』

 ゆっくり息を吐いて、ベッドに座った。

 充電していたスマホを手にとってさっと操作。

 数秒後には、プルルルル、と無機質な着信音が流れる。

 そして、四回ほど繰り返したコール音が途切れ──。

 

『もしもし美上さんー? どうし──』

 

「助けて弓森さん!!!」

 

『うわびっくりした』

 

 着信相手の弓森さんは驚いているようだったが、それを気にかける余裕は私にはなかった。

 

「ヤバいの! ヤバいのよ弓森さん!!」

 

『どうどうだよー。どうしたの? 来週のジャンプをフラゲしたネタバレなら電話を切るよー』

 

「違うの、そうじゃないの! もう、私、どうしたらいいか分かんなくて……!」

 

『情緒を破壊されたときは美味しいものを食べてよく眠るのが効くよ』

 

「だから違うってば! 確かに来週のジャンプは読者を打ちのめしに来てたけど──」

 

『おやすみー』

 

「待って! 待って弓森さん! ネタバレはしないから!!」

 

『お願いだよ美上さん。私の地域だとまだ売ってないんだから。……で、どうしたの? お話聞くよ』

 

 弓森さんの柔らかい声音がすぅっと体に染み入り、心を落ち着けてくれる。

 そうよ、相談と言うならば正確に伝えないと何も始まらない。

 幾分か冷静さを取り戻した私は、ゴクリと唾を飲み深刻な面持ちで声を絞り出した。

 

「実はね、明日ね、あいつの家に行くことになったの」

 

『あいつ……? ああ、ユキカゼくんだね。うん、美上さんの分の衣装、ユキカゼくんとユキカゼくんのお姉さんが持って帰って作ってくれるって事だったからお願いしたもんね。美上さんは採寸の関係で行くんだったよね』

 

「ええ、なんか大きくなってて……ってそれはどうでも良くて、それでね、私、どうすれば良いか分からなくて……」

 

『……え? お家に行けばいいんじゃないかな?』

 

「違うの! それは分かってるの! でもね、制服で行ったらいやらしい女だって御家族に思われたりしないかしら!?」

 

『はい?』

 

 困惑の声が聞こえた。

 うまく伝わってない……? 

 

「だってそうでしょう!? 制服ってえっちな衣装だもの!」

 

『は?』

 

「サキュバスが制服着て男の家に行ってやることなんて一つでしょう!? そんなはしたない女だと思われたくないわ!」

 

『……じゃあ着替えてから行けば?』

 

「着替えを用意してたら完全に"ヤる気"満々じゃないっ! 『着替えあるからかけてもいいよ♡』ってやつじゃないの! それに私服だって何を着ていけばいいか……! 夏ならともかく、冬場って着込んでるのが逆にえっちだってお母さんが言ってたわ!」

 

『美上さん疲れてるの? 一回寝てスッキリした方がいいと思うよ』

 

「一度寝てスッキリさせる!? そ、そんなこと出来るわけないじゃない! 何言ってるのよ! も、モブ男の家でそんなことっ、御家族だっているのに……! お姉ちゃんじゃあるまいし! た、確かにお姉ちゃんはバレそうな方が燃えるって言ってたけど……」

 

『完全にはしたない女の考え方なんだよね』

 

「ちょっと、私を他のサキュバスと一緒にしないで。私は良識ある唯一のサキュバスなんだから。いつもの弓森さんならこんな事言わないのに……どうしたの? 今日は疲れてるのかしら。嫌なことがあったのなら力になるから、なんでも言っていいから」

 

『強いて言えばこの電話かなー』

 

 はぁー、とため息の音が聞こえる。

 やっぱり疲れていたようね。弓森さんには悪いことしちゃったな……。

 

『なんというか、ねー。いつもの美上さんなら「どこの家に行こうが私ぐらいの美少女になると相手の方が緊張するものよ。モテなされる側がどうして緊張する必要があるの?」ぐらい言いそうだけどー』

 

 む。

 言われてみれば、それもそうだ。

 ぶっちゃけ私は初対面で悪印象を持たれることがあんまりない。顔がいいというのは最強のコミニュケーションツールだから。

 それもあって、普段の私が緊張することはそうそうない、のに。

 

『美上さんはさー、ユキカゼくんの家族に悪い印象を持たれるのが嫌なんだよね』

 

「そういうわけじゃないわよ。ただ単純に私は一般常識として……」

 

『ああうん、女子高生みんなふしだらな女になっちゃうからそれはもういいから。うーん、分かんないかな。じゃあ質問を変えるよ。美上さんは、自分の服装を気にしたことがある?』

 

「当然でしょう……? だって私は他のサキュバスとは違うし、服でマウントを取られるのもムカつくからファッションだってそれなりに気を使って……」

 

『んー、そうじゃなくてさ。その服を着た自分がどう見られるか、だよ。多分、いつもの美上さんならこう言うんじゃないかな。「美少女なんだから何着ても美少女なのは変わらないわ。服はおまけよ、おまけ」って』

 

「……言うわね」

 

『あはは、うん、だよね。だからさ、ここで考えるべきなのはねー。当日に何を着ればいいのか、じゃなくてさ。どうして美上さんは着る服を悩んでいるのか、だよ』

 

「それ、は……私は、えっと、サキュバスだから……えっと、サキュバスに付随するイメージを私に持って欲しくなくて……」

 

『それもあるだろうね。ふふふ、まあ、言っちゃうけどさ。美上さんはユキカゼくんの家族に良く思われたいんだと思うよ』

 

「──ぁ」

 

 つっかえていた何かがストンと落ちるような感覚があった。

 

『サキュバスとしての自分としてはともかく。美上サキとしての自分にはあんなに自信満々だった美上さんがさ、こんなに一生懸命"私"がどう見られるかで悩んでるんだもん』

 

 それは、今までの私にはなかった心の動きで。

 

『ユキカゼくんの家族に悪く思われたくない。それがどんな感情から生まれる理由か、なんて。きっともう、美上さんも分かってるはずだよ。だって私たち、漫画友達でもあるもんねー』

 

 それは、漫画の中の女の子たちがみんな持っていた、甘酸っぱくて切ない、心の動きで。

 

『私からすればやっと自覚したかーって感じだけどさー。美上さん気付いてなかっただろうけど、ずっと前からユキカゼくんは美上さんの中で特別扱いだったの、周囲にはバレバレだったよ』

 

 あいつを魅了してやりたい、なんて。

 そこに至るまでの理由が変わってることなんて。

 ずっと前に、本当は気付いていた。

 

『頑張ってきなよ。なーに、もし、万が一、億が一だめだったら、ケーキバイキングにでもネタバレトークにでも何にでも付き合うよー』

 

「……太るわよ」

 

『それは困るから、成功を信じてるよ。──行ってこい、親友!』

 

「ええ。……ありがとう、親友」

 

『……えへへ、実は私、これちょっとやってみたかったんだ』

 

「……ふふ、実は私もよ」

 

 想いは形に。

 決意は願いに。

 

 認めたくなくても。悔しくても。それすらも、バカになった頭が甘いときめきに誤認してしまうのだから、もうしょうがない。

 ああ、もう無理だ。もう誤魔化せない。一度気付いてしまったこの疼きは、知らんぷりも出来そうにない。

 

『あ、最後に一ついいかな。いつから?』

 

「……さあ、分かんないわね。多分、気付いたときからよ」

 

 スマホの通話を切る。

 ぽすん、と倒れ込んだベットに髪が広がった。

 通話の切れたスマホには連作先一覧が表示されていて、その一つに目が止まる。

 

 モブ男。

 

 その表示を見て、明日のことを想像して、息が出来ないほどに胸が高鳴った。

 

「──はぁ」

 

 腕で目を隠す。

 顔が熱い。

 だけど、閉ざされた視界にはあいつの顔が浮かんで、体温が上がった。

 ゆっくり開けた目には白い天井と、白い蛍光灯が鈍く光っていた。

 

「……私がオトされてどうするのよ」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 12月・日

 

 

 ばーか。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 自分の気持ちを自覚したらしたで、余計に緊張した。

 普段は大してやらないメイクをやってみたり。

 いつもより早く起きて時間をかけて身嗜みを整えてみたり。

 休み時間になるたびに何度も鏡で確認してみたり。

 授業中でも、お昼休みでも、あいつの背中をずっと目で追ってしまったり。

 

 よく恋をすれば世界が変わると言うけれど。

 それが、好きな人をずっと目で追ってしまうから、今まで気付かなかったことに気付くことなんだって知った。

 

 どうにかオトしてやろうと観察していたときには見えなかった、気付かなかったことを知っていく。

 オトすのには必要ないからと知ろうともしなかったどうでも良いことをひとつ知るたびに、無性に嬉しくなる。

 自分の中にこんなにも大きな感情が眠っていたなんて思いもしなかった。

 

「ふー! ふー!」

 

「……どうした? 親友?」

 

「いや……! なんか今日……! 最近はかなり慣れてきてたのにやばいこれ頭飛びそう! ふん!!」

 

「躊躇いなく足の指折ったな……見てる方が痛いんだが」

 

「数日で完治するなら実質突き指かなって。いやでもこのレベルの痛みがないと耐えられない……なんで急にこんな……触れられてもないのに……今まで手加減してたのか……?」

 

「怪我直すのもノーリスクってわけじゃないんだからスナック感覚でやってるの絶対良くないぞ親友。にしても妙だな、俺はいつものあの強烈に惹かれる感覚はないけど……」

 

 近くにいたかった。

 誘惑するため……も、あるけど。私のことを好きになって欲しいから、そのためでもあるけど。

 ただ、なんでもいいから側にいたい気持ちがあった。

 思えば、以前の私が何かと理由を付けてモブ男に触れようとしていたのは、そういう理由もあったのかもしれない。

 

「……あの、美上さん?」

 

「何よ」

 

「その、近くないですか?」

 

「……いいでしょ、別に。あんたおっきいんだから、風除けになりなさい」

 

「それはいいんだけどさ……横に並んでたら意味ないような……?」

 

 近くにいると胸が弾む。

 声を聞くと体がぽかぽかする。

 その顔を見ると、きゅうって苦しくなる。

 でも、もっと触れ合いたくて、もっと声が聞きたくて、私の中の欲張りな部分が、もっと、もっとってモブ男を求めて仕方なくて。

 

「けしかけたの私だけど想像以上だった……美上さんが限度を知らない可能性を失念していたよ……!」

 

「うわあ……親友すごい顔してるな……思わせぶりな美上さんの態度がいつもと違って裏が無いから困惑してるけどそれが嬉しくて、そこにキツいチャームに抗ってるのが混ざってる顔だ」

 

「な……なん……ですか、あれ……? 誰……?」

 

「お、水澄」

 

 冬の自転車はとても寒そうだったけど、寒くはなかった。

 腰に回した両手から心地よい熱が伝わってきたし、何より私の心臓がとても煩くて、熱かった。

 何度か経験して慣れたはずの二人乗りがとても恥ずかしくて、こそばゆくて、なんの理由もなく抱きつけることに喜んだ。

 

 満たされている感覚があった。

 幸せな感情で溢れていく感覚があった。

 夢見心地で、ふわふわしていて、何でも出来てしまいそうな高揚感があって。

 

「着いたよ、ここが僕の家」

 

「──こふっ」

 

「美上さん!?」

 

 その高揚感は一瞬で終わった。

 

「だい……だい、じょぶ……」

 

「全然大丈夫そうに見えないんだけど……三ラウンド目のボクサーぐらい足震えてるよ……?」

 

 正直に言えば、古い木造建築の家を想像していた。

 モブ男の言動の端々からあまり裕福でない事は知っていたし、家族が多いことも何となく察している。

 だから、こう、こじんまりとした年季の入ったものを想像していたんだけど……。

 

「広くない……? 私の家が六つぐらい入りそうなんだけど……え? 何人家族?」

 

「今は全部合わせて十六かな」

 

 思考がバグった。

 

「……り、立派な武家屋敷ね?」

 

「ちょっと古いけどね。といっても、建物はおじいちゃんが建てたやつだし、土地も貰い物みたいなもんなんだ」

 

「庭に池がある……」

 

「うん。小さいけど。今は生き物はいないかな」

 

「あの、立派な離れは……?」

 

「あれは結婚したくろ姉の家。といっても、今義兄さんが単身赴任中だからだいたいこっちにいるけど」

 

「今日は何人の御家族が家にいるの……?」

 

「え? えーっと、お母さんとかげ兄とぬい姉とくろ姉……はどうだっけな、やっちゃんとうい姉は大学で一人暮らし中だし、後は部活で遅い弟妹たちはいないだろうから……五人?」

 

「そう……」

 

 お腹痛くなってきた……。

 

 でも、泣き言ばかりも言ってられない。

 今日の目的は了承こそ貰っているとはいえ、手伝ってもらうのだから私から直接モブ男のお姉さんにお願いとお礼を言うこと。

 そして、これからも良き付き合いをしていくためにモブ男の家族相手に好印象で私を覚えてもらうこと──! 

 

 そうよ、そう考えれば家族が揃っている場は好都合だわ。

 頑張るのよ私。

 先にオトされたとはいえ、いずれモブ男は絶対に私がオトすし他の誰にも渡さない。

 なら、今後の将来を見据えてここでの失敗は許されない──! 

 

 そうして、気合を入れて、意気込んで、私は敷居を跨いだ。

 ……だけれど。

 

「よく来たねえ、ユキカゼから話は聞いてるよ。美上サキさん、大したおもてなしも出来ないが、どうかゆっくりしていっておくれ」

 

「い、いえ、お構いなく……」

 

「お茶請けをどうぞ。羊羹は食べられるか?」

 

「あ、はい、大丈夫です」

 

「む。カゲロウ! もっといい羊羹があっただろう。それを持ってきな!」

 

「知らねえよ俺……おーいシラヌイー、母さんがもっといい羊羹持って来いって言ってるんだけど知ってるかー?」

 

「はぁ? 私が知ってるわけないだろ。カゲ、あんたニートなんだから家のことは誰よりも把握してるだろ?」

 

「てめぇ……お客さんの前で言ってくれやがったなこの野郎……!!」

 

「いえっ! あの! 本当にお構いなく!!」

 

「あ、その羊羹私知ってるよ。確かこの辺に……あった。ノイちゃん達が楽しみにしてたんだけど……明日買って来ますか」

 

「お、サンキューなクロシオ。さすが私の妹だ」

 

「あ、じゃあこの羊羹はあたしが貰うね。いーかなサキちゃん? ありがと! あーん、んぐんぐ」

 

「……なんでうい姉ここにいるの?」

 

「大学は今週から冬休みなのだよユキカゼくん」

 

「綺麗なおねーちゃん! 私のこと覚えてる!?」

 

「ええ、覚えてるわよ。マイカゼちゃんよね?」

 

「うん! ねーねーサキちゃん! サキちゃんって呼んでいーい!?」

 

「え、いいわよ……?」

 

「わーい! ありがとーサキちゃん! ぎゅー!」

 

「ひゃぁ!?」

 

「こらこらマイカゼお客様を困らせたらダメだろう」

 

「むぅー。タニちゃんのいじわゆ」

 

「すまないね、美上さん。妹が迷惑を……」

 

「いえいえ……お構いなく……」

 

「ウイカゼ──! ユキの彼女来てるってまじ!?」

 

「ちょっと違うよー。ほらあれだよやっちゃん、例の美上さんだよ」

 

「おお、そうだったのね。それはそれは……お母さん! ぬい姉! これは浅海家総出でおもてなしするべき案件だよ!」

 

「もうやってるよ。お前声でかいんだからもうちょっと考えて喋らないと美上さんに迷惑だろう」

 

「ニートが視界に映るよりはマシでしょ」

 

「お前もかオヤシオ……!! 表出ろや……!」

 

「っと、君が美上さんか。ユキカゼから話は聞いてると思うが、あたしがシラヌイだ。これでも服飾の仕事に就いている。微力ながら力になろう」

 

「あっ、挨拶が遅くなってすみません。美上サキです、本日はどうかよろしくお願いします!」

 

「ふっ、楽にしてくれていいぞ。君はお客様だからな。いや……」

 

「そうだよ、美上サキさん。私たち浅海の家の者は、貴方が此処に来てくれる事をずっと待っていたんだ。どうぞ楽にしておくれ」

 

 なんか、私の心配がバカみたいに騒がしくて、私の不安が嘘みたいに歓迎された。

 

「騒がしくてごめんね……」

 

 私の隣で、モブ男が両手で顔を覆っていた。

 

 まあ……正直圧倒されてるけど……。

 緊張するとかそういう次元じゃなくて……なんというか、テレビでよく見る祖父母のところに遊びにいった孫みたいな歓迎のされ方して思考追いついてないけど……。

 

「楽しそうでいいんじゃない……?」

 

 純粋に、そう思った。

 

「そういえば、美上さん敬語使えたんだね」

 

「私をなんだと思ってるのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。

 用がある、という事でモブ男のお母さんとクロシオさんが出かけていき、兄弟姉妹たちも皆自分たちのやる事に戻っていった。

 どうも私が来るのを待っていてくれたらしい。

 ……なんか、初対面のはずなのに謎の好感度の高さがあるわね。私が美少女だからかしら……。

 

 シラヌイさんも仕事から帰って来たばかりだったようで、準備が終わるまで待っていてくれと。

 なので、私は今モブ男の部屋で正座をしている。

 やばいドキドキする。

 

「よっと」

 

 とりあえずベッドの下を覗いた。

 

「何もないから……」

 

「五分待ってって急いで片付けてたみたいだからてっきり」

 

 ぐるりと部屋を見渡してまず目につくのは本棚。そしてベッドと机。

 というか、それ以外がない。引越し初期の殺風景な部屋が、そのまま再現されているようだった。

 この部屋で辛うじてモブ男の個性を表すものが、本棚の本しかない。

 言いようのない違和感を覚えた。

 これ、本当に片付ける必要があったのかしら? 散らかるものがそもそもないような気がする。

 

「女の子が自分の部屋に入るの初めてだから、なんかね」

 

「え? 水妖精はここ来たことないの?」

 

「水澄さん? ないけど」

 

「……ふ、ふーん。ふ──ん。そうなんだ……」

 

 私が初めてなんだ……。

 へ、へえー。

 なんだか途端に気恥ずかしくなって、誤魔化すようにお茶を飲んだ。

 

「それにしても……あんたも漫画読んだりするのね。知らないやつしかないけど」

 

「あー、此処にあるの殆ど2000年前の作品だから。かげ兄が好きなんだ、古典漫画。布教された結果がこの本棚かな。殆どかげ兄が置いて行ったやつだけど……あっ、でもこれは知ってるんじゃんない? チェンソーマン」

 

「道徳の授業でやったわね」

 

「そうそう、人の心について。……何か気になるのがあるのなら、好きに持っていっていいよ」

 

「ん……あんたのお勧めはないの?」

 

「僕の? そうだな……HUNTER×HUNTERとか面白かったけど、これ完結してないしなぁ……」

 

「あ、これも知ってるわよ。ジョジョの奇妙な冒険。私が知ってるのは93部からだけど」

 

「そうなんだ。僕の部屋の本棚には6部までしかないけど、かげ兄は全部持ってるよ。借りてく?」

 

「んー、いいわ、私の好みのジャンルじゃないし。そういえば、シラヌイさんは服飾の仕事って言ってたけれど、お兄さんは何をやってる人なの?」

 

「……コンビニ戦士、かな」

 

「……アルバイト?」

 

「いや……立ち読み……」

 

 そういえばニートって言われてた……。

 完全な藪蛇だった。どうするのよこの空気。なんとかしないと、せっかく部屋に二人きりなのに。

 えっと、えっと、あれ? 私普段こいつとどんなこと喋ってたっけ!? 

 助けてお姉ちゃん! はっ、そうだ!! 

 

「蕎麦を啜る音ってフェラ音に似てるらしいわよ!」

 

「なんて???」

 

 だめだ頭が回らない……! 

 

「と、とりあえずぬい姉の準備が終わるまで衣装作り進めよっか!」

 

 テンパっていると、モブ男も居心地が悪かったのか助け舟を出してくれた。

 重くなった空気を入れ替えるようにそう提案したモブ男が立ち上がろうとして、

 

「あっ」

 

 くらりと、その体がよろけた。

 踏ん張りが効かなかったような体制の崩し方だった。

 しまった、と表情を変えたのは一瞬。直ぐに受け身を取ろうとして、倒れ込む方向に私がいる事に気付いたモブ男が目を見開く。

 私の直ぐ近くには、沢山の本が詰まった本棚があった。

 

 断続的な落下音。

 転がったコップからお茶が溢れて畳を濡らしていた。

 けれど、もう、私には、そんな事に気を遣える余裕もなくて。

 

「っつつ……ごめん美上さん、大丈夫だっ……、た……」

 

 ばさりと、最後の本が滑り落ちる。

 それはモブ男の背中に当たって、私の直ぐそばに落ちた。

 モブ男の両腕の中に私の体があった。

 私の上にモブ男がいた。

 目と鼻の先に、その顔があった。

 押し倒されていた。

 

「ぁ」

 

 熱が集まるのが分かった。

 心臓がバカみたいに騒ぐから呼吸すらもまともにできない。

 モブ男の瞳の中に、茹で蛸のようになった私がいた。

 モブ男は、魅入られるように私を見つめていた。

 

「(今……)」

 

 思い浮かんだのは、終業式の日。

 あの日も、こんなに近い距離で見つめ合った。

 その時に感じたのは羞恥心。

 初めて感じた男の子の体が、触れられた箇所が熱くて、恥ずかしくて、私は直ぐに逃げてしまった。

 

 でも、今私が感じているのは羞恥心じゃなくて。

 恥ずかしさもあるけど、あるけど、それよりも強い感情が私の中で荒れ狂っている。

 もっと、もっと、その先を感じたい。その先に触れてみたい。

 この熱を、その存在を、もっと近くで、もっと深くで感じたい。

 体の芯が熱くなって、頭が溶けていくような気がして、気が付けば私はモブ男の首に両腕を回していた。

 

 止まれない。止められない。もう、自分が何をしているのかさえ分からない。

 散々相手に言わせようとした事を自分の口から言うことさえ、躊躇わなかった。

 ただ、もっと、もっと、深く繋がりたかった。

 

「……貴方が好き」

 

 サキュバスとしての私が告げている。

 女の子としての私が言っている。

 ああ、この人(私)は、今。

 目の前の雌(雄)に、欲情していると。

 

「(目を閉じたら、どうなるんだろう)」

 

 浮かれるような熱に導かれるまま。

 私は、目を閉じた。

 

 

 

 

 

「怪我がないなら良かった。ホントごめんね、気をつけるよ」

 

 

 

 

 

 身動ぐ気配。

 直ぐ近くにあった熱が遠ざかっていく。

 

「──ぇ」

 

 目を開ける。

 いつもと変わらない苦笑を浮かべたモブ男が、そこに居た。

 

「あー、だいぶ落ちちゃったな……これは後が大変だ。わ、お茶も溢してる! って当然か。コップ破れてないだけラッキーだったな。雑巾持ってこないと……」

 

 一瞬、夢を見たのかと思った。

 

「濡れた本もあるな……あ、気にしないでね美上さん、これ殆どコピー本だから。新しいのいくらでも作れるんだ」

 

 何が起こったか分からなかった。

 

「濡れた本を避けて、と。じゃあ、ちょっと雑巾取ってくるね。何もしなくていいから、ゆっくりしてて」

 

「ま、待って……、待って、よ……」

 

 何事もなく行こうとするモブ男の腕を咄嗟に掴んで引き留めた。

 モブ男は振り返らなかった。

 

「どう、して……?」

 

 それだけしか言えなかった。

 

 私はモブ男の事が好きだ。

 モブ男だって、私のことが好きなはずだ。

 今までだってそうだ。私はモブ男が私に気があることを確信していた。サキュバスとしての私が断言していた。だからこそ、チャームにかからない事が許せなかったし、私の感覚がおかしくなったのかと迷ったときもあった。

 でも、今日は違う。仮に今日までを私が間違えていたのだとしても、今日だけは絶対に違う。

 

 重なったはずだ。私とモブ男の気持ちは重なり合ったはずだ。

 私は想いを口にした。その先を期待した。

 モブ男だってそうだったはずだ。

 だって、モブ男はあんなにも私を意識していた。

 

 性に関する事なら男はサキュバスを絶対に欺けない。

 モブ男は私を女の子として意識して、雌を求めていた。

 

 なのに、どうして? 

 どうして、そんなにいつも通りなの? 

 貴方は私が好きなんじゃないの? 

 私と同じ気持ちじゃないの? 

 なのに、どうしてなのよ。

 どうして、私を見てくれないの……? 

 

「……」

 

 長い長い沈黙。

 ずっと背中を向けていたモブ男は、浅く息を吸って、

 

「美上さんが何を言ってるか、分からない」

 

 突き放すように、そう言った。

 

「じゃあ、僕は雑巾を取ってくるから」

 

「……そ、そんなはずない! あんたは私を……っ! サキュバスだから、私っ、分かってるのよ!?」

 

「……だったら、命令すればいい。美上さんが言うことが本当なら、僕はチャームされているはずだよ。違うかな」

 

 普通なら、そうだ。

 あの至近距離なのだ。私を好きだというのなら、私に女を求めたのなら、その時点で私にチャームされる。

 でも、でも! 

 

「それは屁理屈よ。だってあんたは違うでしょう!? 理由は知らないけど、あんたはチャームが効かないから……!」

 

「……体育祭のときに確認したよね。僕はチャームが効かないわけじゃない」

 

「それ、は……!」

 

 じゃあ。

 じゃあ、そうだっていうの? 

 ……いいえ、そんなはずない。あるわけない。だって私は美少女で、サキュバスで! 私に惚れない男なんてこの世にいるわけないんだから! 

 今までそうだったんだから……!! 

 

「っ!」

 

 その背中に飛び込む。

 力一杯密着して、抱きしめた。全力全開の、本気のチャームの行使。

 惚れろ。惚れろ惚れろ惚れろっ!! 

 お願いだから。

 伝わって。伝わってよ。

 私、こんなにどきどきしてるのに。

 こんなにも貴方のことが好きなのに。

 貴方が私のこと好きなのもわかってるはずなのに! 

 なのに、どうして。

 どうして……。

 

「どうして……」

 

 お腹に回していた手が緩む。

 ぷらんと力なく垂れた腕。

 俯いた視界が不意にぼやけた。

 目頭と鼻の奥に、さっきまでとは違う熱が込み上がってくる。

 

「……美上さんの事が嫌いなわけじゃ、ないんだ」

 

 モブ男の声音は、ゾッとするぐらいいつも通りだった。

 

「……うん、嫌いじゃない。むしろ、とても大切な人だ。美上さんに覚えはないだろうけど、あの日から僕は美上さんを凄く特別に想ってる。……僕も男だからね。美上さんとそういう関係になれたらなあって、考えた事、あるよ。夢にだってみた」

 

「……なら、どうしてなのよ……」

 

「……うん、そうだね。そうだなあ。うーん……」

 

 言うかどうか迷う、そんな逡巡だった。

 そして、

 

「美上さんはさ、僕たちが初めて会ったときのこと、覚えてる?」

 

 溢れそうだった涙を拭って顔を上げた。

 忘れるわけがない。

 だって、それは私に取って始まりの日だったのだから。

 絶対にこいつをオトしてやると躍起になって、その気持ちを忘れまいと日記をつけ始めて、何度も何度も思い返した日なのだから。

 

「6月19日……あんたが、私に声をかけた来た日よ」

 

「……うん、そうだよね。そうだよな。そっか……はは、だよなあ……」

 

 自嘲する気配。

 深呼吸をするように息を吐いたモブ男が、振り返る。

 もう何度も見た人差し指で頰をかくクセ。そして、目に焼き付いた困ったような笑顔で、聞いたことのない悲しい声で、言った。

 

「美上さんはさ、僕が"チャーム出来ない人間"じゃなかったら、こうやって今の関係になれたと思う?」

 

 このとき、私は初めてモブ男の最も深い部分に指を触れた気がした。

 

 何も言えなかった。

 私は、何も答える事ができなかった。

 私自身のことだから、分かってしまったから。

 

 私は、チャームが出来る人間の男に恋をすることは、絶対になかった。

 

「……ま、そういうことだよ。さてと、うわ、お茶蒸発し始めてる! 畳をひっぺがさないと不味いかなこれ……悪いんだけど美上さん、僕雑巾取ってくるから本を避けておいてくれると嬉しい!」

 

 それが分かっていたか、モブ男は空気を変えようと努めて明るい声を出して言った。

 今あったことはお互い忘れようと言外に言っていた。

 それが気遣いなのだと分かった。

 だけれど、その気遣いが、とても、痛かった。

 

 最後まで、私は何も、言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モブ男の姿が消えてから、私は放心していた。

 受け止め切れる感情の量はとっくに超えていて、そのままずっと棒立ちしていてもおかしくはなかった。

 

「……あ、本、片付けないと……」

 

 条件反射に近い動きだった。

 さっきのことがぐるぐると頭を回り続けて、何をすればいいのか、何を言えばいいのか、これからどうすればいいのかも分からなくなって、ショートした頭が直前に頼まれたことを実行させただけに過ぎない。

 

 一冊、一冊、本を手に取っては本棚に戻していく。

 その動きはとても緩慢で、とても作業と呼べるようなものではなかった。

 

 

『美上さんはさ、僕が"チャーム出来ない人間"じゃなかったら、こうやって今の関係になれたと思う?』

 

 

 その言葉が頭から離れない。

 6月からの半年間。今までの人生で一番忙しくて、一番感情が乱されて、そして一番楽しい時間だった。

 その時間で私はモブ男を知って、恋をした。

 だけど、それはモブ男はチャーム出来ないという前提に成り立つもので。

 それが、すべての起点だったから。

 その前提がなければ、私の人生の中でもっともキラキラしている半年は、最初からなかっただろう。

 

「私、は……」

 

 なら、この気持ちは? 

 それなら、この気持ちはどうなるの? 

 焦がれるように熱くて、締め付けられるように痛くて、射抜かれるように甘く疼くこの気持ちは、一体どうなるの? 

 私はモブ男が好きだと自覚した。でも、本当は。

 

 "チャームが出来ない人間を好きになった"だけで、"モブ男という男の子を好きになったわけじゃない"っていうの? 

 

 モブ男じゃなくても良かったなんて思わない。私が好きなのは間違いなくモブ男なのだから。

 でも、モブ男じゃなきゃいけなかったとは、言えなかった。

 

 もう、分からない。

 

 私はどうすればいいの。

 どうすることが正解だったの? 

 一人でいれば良かった? 興味を持たなければ良かった? 初めて私に逆らってきた男をオトしてやるなんて思わなければ良かったの? 

 こんなに苦しいのなら。

 出会ったことが、この半年間が、全部全部、間違いだったの……? 

 

 サキュバスが恋をしたことがいけなかったの? 

 

「分かんないよ……おねーちゃん……」

 

 心が潰れそうだった。

 

「あっ……」

 

 うず高く詰まった本を持ち上げた瞬間、繊細なバランスで積まれていたのか本の山が崩れる。

 集中していれば気付けただろうに、笑えてくる。そんな事にも気付かないほど、今の私は──。

 

「──ぇ。こ、れ、は……?」

 

 ──それは、一冊のノートだった。

 

 崩れた山から飛び出して、私の目の前まで滑ってきたそれは、その拍子に開いた状態になっていて。

 

 見慣れた余白。

 見慣れたページ。

 見慣れた荘重。

 そして、見慣れない文字。

 

「私の、日記帳……?」

 

 違う。私の日記帳は自分の部屋にある。昨日の夜書いて、そのままにしてあるのだから。

 だから、これは、私のではなく。

 この部屋の主の、もの。

 

 弾かれたように私はその日記を手に取った。

 開かれたページ。そこには、モブ男の字が書かれていて。

 そこには、それは、その日記は──! 

 

 

 4月10日

 

 

 この世界に奇跡と呼べるものがあるのなら、今日がそれだと僕は思う。

 美上サキさん。

 種族はサキュバス。日の光が透き通るような銀色の髪がとても綺麗なクラスメイト。

 その時の僕の気持ちはとても言葉に仕切れない。

 驚きがあった。感動があった。感謝があった。その情景がまだ僕の中に残っていることが、僕が彼女を想う全てだ。

 一言で纏めるのなら、今日、僕は彼女に恋をしたんだ。

 

 日記をつけよう。

 彼女を忘れないように。この気持ちを忘れないように。

 僕は誰かの記憶を覚えておけないから。感情を留めておくことが出来ないから。

 誰のことを忘れても。嬉しいことも楽しいことも感じることが出来なくても。

 彼女のことを、彼女に感じたこの気持ちだけは、忘れたくないから。

 

 だから、日記をつける。

 僕が忘れてしまっても、思い出せるように。

 もし、彼女のことを忘れてしまった僕が読んでいるのなら、どうか思い出してほしい。

 難しいのはわかってる。だけど、感じてほしい。この胸を打つ感情を。涙が出るぐらいに痛くて切ない、この気持ちを。

 それは死んでいた僕が唯一感じられた、生きている証だから。

 だから、お願いだ。忘れてしまったのなら、これから僕が書いていく日記を読んでほしい。この──

 

 

 ──とあるサキュバスの日記を。

 

「とあるサキュバスの日記……?」

 

 

 私の知らないモブ男の軌跡が、そこにあった。




登場人物紹介。

美上さん。
主人公。

モブ男。
ヒロイン。
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