第1話
彼には6つ上の姉がいる。
6つという歳の差は、若いうちは意外と大きいものだ。彼が生まれたとき姉はすでに小学生。彼が小学校に入学したとき、既に姉は小学校を卒業し中学生である。おそらく彼が小学校高学年になる頃には、姉は中学校を卒業し高校に進学するだろう。
それは彼がまだ知らない世界を少しだけ早く、その自慢気な口ぶりから情報として知ることができることを意味していた。いずれ自分が知ることができる世界に想いを馳せる楽しみがある。1歳でも歳の差が縮まれば小学校の時だけは、1年間だけでも同じ通学路を歩き、おそらく日常茶飯事のケンカをしながら通うことがあったかもしれない。しかし、1歳の差がそれを不可能にした。
つまり、姉は常に彼にとって一歩だけ早い人生を歩んでいるのだ、いつだって。姉と同じ学校は彼にとってあたりまえだった。公立の小学校だったから。きっと中学校も高校も同じだろうとぼんやり考えていた。彼は、彼女が通ってきた道を歩むことになるのだと。
それがいやとか、いやじゃないとか彼は小学校に進学するまで具体的に思い描いたコトはなかった。ただなんとなく、姉のことを知っている人がいるから、顔と名前を覚えてもらえるのは早いだろうなという漠然とした予感だけはしていた。
実際に、その予感は見事的中した。
どうやらほんの少しだけ珍しい苗字。天然パーマがかったくせっ毛、そして色合いは、姉を連想させるらしい。弟かと何回も顔も見たことがない上級生や先生、通学路沿いの近所の人達に聞かれた。
別に隠すことでもないので肯定したし、しばらくすれば面倒になったので自己紹介するときには必ず姉の名前を先に付けるようになった。ああ、あの、と大抵初対面よりも親しげに、時には姉が在学していたときの思い出話も交えながら話しかけてくれた。顔と名前だけは確実に覚えてもらえるのは便利だった。
しかし、とある一点において、そのある意味お約束のようなやりとりが次第に苦痛になってきたのはいつの頃だったか、彼ははっきりとは覚えていない。
姉が所構わず自分をネタにして笑っていると知ったとき、少なからず彼はショックを受けた。そりゃあ、6つも下の弟なんて姉からすれば全てが未熟だ。欠点だらけでプラスになるようなところなんてひとつも無いかもしれない。何か失敗したり姉と比較して劣るところがあったとき、いつも両親から姉を見習えと耳にたこができるほど聞かされてきたのは事実である。
彼も彼なりに姉のことはある程度見本とすべきところはあったし、姉として認めていたつもりである。だが、上級生や先生から聞かされる思い出話の中で、姉は彼の欠点をあげては笑っていたらしい。こんな弟嫌いだと、いらないと軽口程度に話していたと、まるで濁流のように聞かされ続けた。
彼自身の日常的な振る舞いが、これくらいなら冗談として流してくれるだろう、という楽観的な雰囲気を生んでいたが故の悪循環である。小学校に入学する前姉をどのように見ていたのか、彼はまるで思い出せなくなっていた。そんな彼に、上級生は、実際にそういう人間なのかと面と向かって聞かれた。
「ちがいますよぉっ!」
いつも大げさに否定するたび、そっかそっかごめんと頭をなでられた。泣くなよ、冗談だって!もちろん彼なりの全否定だった。誤解を解くため全力を注いだ。そういう事が1年間続いた彼は、姉の言葉を使うとすればすっかりすれてしまった。疲れてしまったともいう。
姉の愛情表現だと人は言う。自分の弟について話すとき、無条件で褒めちぎるのはブラコンだけだと。普通はどうしても照れが入ってしまい、あることないこと口に出してごまかしてしまうだけだから気にするな、と励まされる。
でも、とまだ幼い彼は思うのだ。
本当に嫌いじゃなかったら、隠れて自分の弟のことをわざわざ悪く言うなんてことしないんじゃないかと。そうこぼすと決まって、本当にお前は姉のことが大好きだなと満面の笑み付きでからかわれてしまう。
ちがう、そうじゃない、と反論したところでお門違いの揶揄は止まらない。気づけば彼のまわりではすっかりシスコン扱いとなってしまっていた。不快である。そういうわけで、すっかり彼は姉に習って、自分から姉のことは嫌いであると公言するようになってからずいぶんな月日が流れていた。
幸か不幸か彼は直球かつ単純な少年だった。
喜怒哀楽の表現が実に分かりやすく、端から見ているととても微笑ましい言動や行動が多々ある。故に人によってはそれをからかったり、怒らせたりして楽しんでいる。そういう意味でも非常に周囲から好かれる人間だった。彼自身、どう振る舞えばかまってもらえるか、無意識に学んでいる。模倣する。そうすればうまくいくからだ。
でも、あくまで直感的な感性である。基本は勢いだ。勢いに任せて行動する。土壇場になればそれなりに根性を発揮して人を引っ張れる。うまいこといけばムードメーカーとして機能する彼の性質は、姉との仲に関してだけはどうも歯車が噛み合わない。全てが悪循環の渦中にある。
姉に嫌われているのではないか、という目先の疑惑に対して考えながら行動する。どうしてもその向こう側にある背景や人の考えを読み取るのは無理だった。まだ小学校2年生の彼にはあまりにもハードルが高すぎた。
目には目を、歯には歯をというハンムラビ法典のような単純明快な態度は、返って姉を楽しませているのかもしれないという予感を常に抱えるはめになっている。なにはともあれ、彼、本宮大輔と本宮ジュンの関係は今日も元気に険悪である。
「勝手に入ってくんなよ、姉貴」
お姉ちゃんから姉ちゃんに変わり、姉貴になる頃には大輔はすっかり反抗期に突入していた。小学二年生が口にする言葉にしてはやや乱暴であるが、内弁慶のきらいがある彼はとりわけ姉に対しては顕著だった。サッカー部の上級生に可愛がられている大輔は、姉貴って言葉も、乱暴な言葉もだいたい彼らから学んでいる。
いつもならお母さんがたしなめるが、ここは大輔の部屋である。勝手知ったるなんとやら、とばかりにノックも無しに堂々と入ってくるのは、姉の特権だろうか。自分はノックしないと怒るくせに棚にあげる失礼極まりないジュンは、いつものように大袈裟に溜め息をつくのだった。
「あいも変わらず可愛くないわねえ、アンタは」
ふん、と鼻を鳴らし、素で見下し状態のジュンが仁王立ちで腕を組む。姉という立場に君臨しながら、大輔と自分の関係を女王様と下僕の関係から認識を改めたことは一度もない。それが大輔の反発をさらに強めているのは言うまでもない。ずかずかと入ってきた色気も糞もない部屋着のジュンは、呆れた様子で大輔の部屋を見渡した。
「ちゃんと掃除しなさいよ?手伝わされんのアタシなんだから」
「うっせーなあ」
「足の踏み場もないなんて信じらんない。アンタねえ、明日からキャンプだってのに少しは片付けたりしないわけ?ほら、またサッカーのユニホーム脱ぎっぱなしにしてる。ほら、さっさと脱衣所持ってきなさいよ、きったないわねー」
勝手にベッドの上を占領され、まるで汚物をみるがごとくぞんざいに摘まれた哀れなユニホームが、大輔の顔面に直撃する。
何すんだよ!とさすがに怒る大輔だが、次から次と衣類を放り込まれれば白旗だ。たまらずそれをもって部屋から一時退却せざるを得なかった。結局最期はしぶしぶ言う事を聞くのは、ジュンに逆らえないからである。それに大輔の部屋は汚部屋というが相応しい惨状だった。まさに弁解の余地無しであり、ジュンの言うことに寸分の横暴もないことは事実だからだ、悲しいことに。
男兄弟の頂点に立つのに必要なのは、暴力や恐怖ではなく、完膚なきまでに叩きのめせる正論の嵐と圧倒的な話術である。わっとまくし立てられてはさすがに対処の仕様がないのが悲しいところだ。大好きなサッカー選手のポスターが泣いている。
しばらくして帰ってきた大輔はあわてて駆け寄る。折角リュックの中に準備していた荷物。明日持っていくキャンプ用の荷物を、ポケットというポケットから全部ひっくり返されている。
「何すんだよ、姉貴!勝手に触るなよ!」
「あーあー、ほら、適当に詰めてるからチャック壊れるんじゃないの。お父さんから借りてるやつなんだから、ほら、もっかいちゃんと入れなきゃ駄目じゃない」
「わかったわかったから、返せってば!」
「つべこべ言わずにさっさと着替えこっちに渡しなさいよ。ほら、おねえちゃん畳んであげるから」
「なんだよもー」
図星ながら、口だけは減らず口。売り言葉に買い言葉の応酬が続く。まるで幼児のごとく一から十まで世話を焼かれるのがこれまた微妙な羞恥心を伴うから勘弁して欲しい。出版関連の仕事についている父から借りた大きめの旅行カバンは、はちきれる寸前だった。
投げつけるように渡した衣類を手慣れた様子でたたみ、くるくると丸めてビニル袋に入れる姉の手際の良さにより、あっという間に収納スペースが増えていく。ん、と差し出された手に、はあ?と返した大輔に待っていたのは、さっさとプリント出しなさいよという冷たい姉の声だった。
仕方なく勉強机の上からそれをひっぱり出してきた大輔。渡されたプリントにざっと目を通したジュンは、そのまま一つ一つ確認するとばかりに持ってくるものを呼称する。ぼけっとすんな馬鹿と一睨みされ、しぶしぶ一つずつ姉に見せていく。
大輔は明日のカレーに使う米と集金袋を両親に伝え忘れていたことに気付き、慌ててキッチンで肉じゃがを作っている母のもとに飛んでいった。ほらいわんこっちゃない、と勝ち誇った笑みの大輔が帰ってくる頃には、まだまだ余裕のある旅行かばんが用意されていた。
しかし傍らに座っている姉の様子がおかしい。
「大輔、これなによ」
げ、と大輔は思わず後退した。差し出されたのは新品のカメラだった。
「なに勝手にお父さんのカメラ入れてんの」
「いーじゃん、別に」
「よくない。いくらすると思ってんのよ、馬鹿じゃない?」
「んだよ、ケチ。姉貴の修学旅行は持ってってた癖に」
「ダメに決まってんでしょ、アンタそそっかしいからすぐもの壊すし、無くすし、危ないじゃない。アタシが前使ってた使い捨てカメラ、まだフィルム余ってるから持ってきなさい」
「ちぇ」
油断もすきもありゃしない、と大袈裟に溜め息をついた姉は立ち上がった。さっきキッチンで会った母の反応からして、恐らくこの一連のお節介すぎるちょっかいは母の差し金で間違いなさそうだった。
相変わらず仲がいいわねえとサラリと流してしまう母には、姉よりも頭があがらない大輔である。残りのスペースに、ありったけお菓子やゲームを入れれば入る。ありがとうの一言がどうしても言えず、ちらちらと視線を向けながらも、ごそごそとリュックを漁り始めた大輔に溜め息が降ってくる。
「ったく、手伝ってあげたんだからお礼の一つや二ついったらどう?」
「頼んでねーじゃんか、俺、ひとこ、いででででっ?!」
「生意気なこと言う口はこの口かしら?」
「ごめんごめん、いういういうって!ジュンお姉ちゃんどうもありがとうございましたあああっ!」
「そうそう、宜しい。素直が1番よ、素直がね。あーもう、素直におねーちゃんおねーちゃん言ってくれてたアンタはいったいどこに行っちゃったのやら」
「………姉貴のせいだろ」
「え?なんかいった?」
「なんでもねーよ!さっさとどっかいけってば」
「はーいはい」
すっかり赤くなってしまったであろう頬をさすりながら、涙目で睨む大輔などどこ吹く風。まだまだアタシより身長低いくせになに言ってんのかしらねえ、このちびっ子は。優越心全開で笑うジュンに、再びイラッとくる大輔だった。そうそう、と去り際に思い出したように振り返る姉に、今度は何だと身構える。
「大輔」
「んだよ」
「ほら、手え出して」
「は?」
しぶしぶ顔を上げれば、ぽん、と投げられた何かが落下する。
反射的にキャッチした大輔の手元から輪っかのひもが垂れ下がった。
「ほら、それ持ってきなさいよ、大輔」
思いの外重量があって驚いてみてみれば。中学進学と同時にジュンが両親にお小遣い一年分と引換にして買ってもらったPHSではないか。そしてそこには、ひもが通してある。
「キャンプ場すっごく広いみたいだし、アンタ友達と遊んでるうちに迷子になりそうだから、それ首から下げときなさい。なんかあったら、お母さんに連絡しなさいよ。使い方は聞けばわかるでしょ」
「え、あ、っと」
「壊さないでよ、何かあったら罰金ね」
思わぬ奇襲にしどろもどろになる大輔、してやったり顔で笑うジュンは出て行く寸前だった。
「ありがとう、ねーちゃん!」
「ホント、ソレくらい素直な方がいいわよ、絶対」
「うっせえ」
バタンと扉を閉じられた。大輔はPHSをリュックの上に置き、はあ、と溜息をつく。結局今日も自分のことが嫌いかどうか問いただすことができなかった。自分から行くなんてできないから、こういう機会でもないとなかなか話す機会なんて無いのに。ずりいよ、ばーか、とこぼした言葉は、少しだけ泣きそうだった。
少年はまだしらなかった。ひと夏の思い出が、大きく彼を成長させていくことを。そして、母と共に出かけたサマーキャンプが誰も知らない世界への冒険の始まりになることを……。干ばつ。洪水。真夏に降る雪……。世界中がおかしかったその夏。
日本からは見えるはずのないオーロラを目撃した少年たちは、オーロラの裂け目から飛来した謎の光に異世界へと連れ去られてしまう。すべてが未知のその世界で彼らは出会い、そして学んでいく。
今、新たな冒険の幕が開く。