ようやく瓦礫の後片付けが終わり、へとへとになって帰ってきたタケルたちが門をくぐるころには、すっかり夕日も沈み、夜の帳が下りていた。デジモンミュージアムの敷地内から施設までをガス灯の明りが案内してくれている。空とタケルの影がゆっくりとそちらに向かって歩みを進めている。
もうちょっとよ、頑張って、と今日の立役者である小さな男の子を励ましながら空が手を引く。言葉少なになりながらも、うん、という返事だけはしっかりとしている。足取りは重いがしっかり歩いている。
もちろん疲れているのはタケルだけではなく、空も、パートナーデジモン達も同じだから、僕だけ特別扱いしなくても大丈夫だよって笑う男の子は、まだ小さいんだから遠慮しないの、と笑ったお姉さんに、遠慮気味に、じゃあ手を繋いでもいいですかって聞いたのだ。
最初は面食らった空だったが、2カ月もの間、唯一の家族であるヤマトとガブモンたちと離れて、パタモンとずっと待ち続けていたタケルは、まだ小学校2年生の男の子だ。
さすがにヤマトにお兄ちゃんと甘えるように、空に対してすることができるほど無邪気にこの子は振る舞えない。
タケルがタケルなりに精いっぱい考えたが故の寂しさからの逃避方法であり、安心したいという心からの願いの集約なのだろう。いいわよって笑った時のほっとした顔を見たとき、ああやっぱりタケル君も寂しかったんだなあ、怖かったんだなあ、と改めて空は思ったのである。
タケルは殊の外、自分の負の感情に関してコントロールする方法に長けすぎていて、相手に対してマイナス方面の率直な気持ちを表現するのがかなり苦手なようだ。
メカノリモンの正体が拉致された挙句、無理やりデジコアをエネルギーに改造され、無理やり消費して死んでしまったこの遊園地エリアに住んでいた住人たち。
複雑な感情が入り混じっているデビモンの末路が暗黒の力による吸収であり、ダークエリアに行くことすら許されず、もちろんのこと転生することすら不可能な状況だった。他ならぬエンジェモンから聞かされたタケルである。
きっと小さな心は色んなことがありすぎて、ぐるぐる思考回路を巡らせているに違いない。さっきからビックリするほど言葉が少ないのだ。その代わりに伝わってくる手の温もりは間違いなく誰かを求めていて、空とつないだ手に力が入っていることをタケルは気付いていないようである。
ワイズモンたちによってふたたびデジモンミュージアムに持ち去られそうになったものが運び込まれていく。ダイノ古代境という光子郎とミミがいったことがある遺跡エリアから出土した碑文や古代デジタルワールド期と関係がありそうなデータの残骸、そしてレプリカ。
メカノリモン達の棟梁を名乗ったDブリガードという組織についてはワイズモンも初めて聞いた勢力らしく、どこかに史料が残っていないか、仲間たちと共に捜すために研究室に先に行ってしまっている。
何か有力な手掛かりが発見でき次第知らせるから、今日はゆっくり休むといいとこの美術館の館主は空たちに言ってくれた。
だから、空は今のところ、メカノリモン達の目的とか、利用方法とか、
どうしてこのエリアの住人達は実験体にされてしまったのだとか、暗黒の力はその実験を通して何をしようとしているのだろう、とか。
どうしても考えてしまいそうになる頭を叱責しては、どうやってタケルたちの気を逸らしてあげようかと考えている。長きにわたる漂流生活において、しっかりと衣食住が保障されていることなど指折り数える機会しかなかったのだ。
いつだってそういう時に思いっきり羽を伸ばさないと必ずどこかでほころびが出てきてしまう。緊張感はある程度持っておく必要が出てきたことは承知の上だが、気を張り詰めすぎてもいけない。ましてやまだこのことを知っているのは空とタケルたちだけなのである。
このことを早くみんなに知らせないといけない。個人でできることはどうしても限界がある。そこで、空は悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、タケルに訊いたのである。
「ねえ、タケル君」
「なに?空さん」
「今日、一緒に寝る?」
一瞬、タケルの表情が凍りついた。
「………え?」
「そらー、今日はタケルとパタモンと一緒に寝るの?」
「うん、今日はそうしましょうか?だってタケル君、そういう顔してるもの」
「そうなの?タケル」
「え、え、あ、う、えっ、えええええっ!?そ、そんな顔してないもん!大丈夫だよ、空さん!僕、パタモンと一緒に寝られるもん!大丈夫だよっ!!って何するんだよ、パタモン!僕そんな顔してないから、わざわざこっち見ないでよ!もー!」
空さん!とからかいの標的になってしまったと勘付いたタケルは、すっかり拗ねてしまい、空とつないでいた手を解こうとするが、タケルが無意識のうちに空の手を握り締めていたと本人が気づく前に、上から力任せに握り込んでしまう。さりげなく親指を探ってタケルの親指を上から押さえつけるのだ。
「1、2、3、4、5」
「えっ!?あ、ずるいよ、空さん!指相撲は人差し指反則だよーっ!」
「678910!はい、私の勝ちね」
「数えるのも早いよっ!ずるいーっ!」
「ふふ、やってみる?」
「人差し指使うのなし!数えるのが途中から早くなるのなしだよ!」
「ええ、いいわ。じゃ、やりましょっか」
くすくす笑いながら、空はタケルを引っ張る形でようやくついた扉を潜り抜けるのだ。言うまでもないことだが、小学校5年生のスポーツ少女と小学校2年生の男の子の指の長さはそもそも全く違うので、タケルは一度も空に勝つことができなかったのだった。
「よう」
「あ、パンダモン」
「なんだよ、僕たちに何か用?」
客人ルームに通された空たちを待っていたのは、赤いスカーフがトレードマークのパンダモンだった。無下にされた記憶がまだ新しいパタモン。
今にも背中とお腹がくっつきそうなほどの空腹も相まって急降下した機嫌を思わずタケルが頭の上からたしなめたくなるほど露骨にしながら、ぶしつけに要件を問いただす。
素直で無邪気な性質のパタモンがここまで最悪の気分を現すのが珍しくて、こっそりタケルに事情を聞いてきた空とピョコモンに、タケルは幼年期のデジモンを連れているということ。
タケルが小学校2年生の子供だったので、選ばれし子供という伝説を神聖視しすぎているんじゃないかと敵意にも似た悪意を向けてきたのだと説明した。
ああ、なるほど。パタモンにとっては役に立たない無力な自分と己を不当に過小評価されることに関しては、人一倍過敏になるところがある。反発するのも無理はない。どうしてもかつての自分を思い出してしまうのでやりきれないのだろう。
かつて自分を自分を過小評価して、言い訳の材料を常に探しながら、自分の気持ちも力もすべてを胸の奥底に秘めていた辛さは誰よりも知っているパタモンである。
初対面でいきなりぶしつけな視線を向けてきた挙句に、暴言罵声に匹敵する言葉を投げつけてくるような失礼な奴にまで愛想よくすることができるほどパタモンは大人ではない。
すると、バツ悪そうに頭を掻いたパンダモンは、あー、その、と歯切れの悪さを溢しつつ、まっすぐにタケルとパタモンを見たのである。
「タケルとパタモンだっけ?あの時はひでえこと言って悪かったな。さすがは選ばれし子供だぜ。そんなにちっこいのに、カプリモンを守ってくれて、メカノリモン達をやっつけてくれてありがとな。お前らつえーじゃねえか、見直したぜ。
もちろん、ピョコモンとそこの姉ちゃんもだ。太陽と風の守り神って呼ばれてるデジモンに進化できるなんて大した奴だ。だから、その、あー、詫びといっちゃなんだが、今日の晩飯は俺達がつくったぜ。いっぱい食べてくれよな!」
ほら、こっちだ、とリビングまで案内してくれるパンダモンを見て、タケルとパタモン、空。
そして初めての完全体への進化を経験した上、ベジーモンレストランがある山からテンプ湖のほとりまで、ほぼ休みなしで飛翔し続けていた疲労が一気に出たらしく、ピョコモンになってしまった空の相棒。
ぐったりとした様子で彼女の腕の中にすっぽりと埋まっていたものの、その言葉を聞いて満足げに胸を張る。
「えへへ、凄いでしょ!」
「ああ、選ばれし子供ってのはすげえんだな、驚いたぜ。俺はてっきりトコモンのまま戦うのかと思っちまったじゃねえか。一瞬のうちに成熟期や完全体に進化しちまうんだもんな。すっげえ頑張って今の姿にまで進化することができた俺の立場がねえじゃねえか」
「でも、すぐ戻っちゃうんだよ。完全体になると幼年期まで小っちゃくなっちゃうし、すっごく疲れるし、おなかすくんだよ」
「へえ、そりゃ大変だ。でもちょうどいいぜ、張り切りすぎて作りすぎちまったからよ。もうぬいぐるみハウスやロボットハウスの連中も先に食べ始めちまってるとはいえ、なくなる気がしねえからな」
おー、とパタモンとタケルは目を輝かせるのだ。木の実と魚はさすがに飽きる。なんだろう、と空とピョコモンも期待の眼差しで扉の向こうに通された。
「遊園地エリア名物おでんだ!たくさん食えよ!」
湯気で一瞬あたりが真っ白になるが、ぐつぐつと煮えているおいしそうな冬の名物のにおいが漂ってくる。タケルと空の目が点になった。
「……なんでおでんなの?」
「………遊園地全然関係ないじゃない」
ねえ、と空とタケルはこっそりため息をついたのである。
それはタケルが月一でかかってくるヤマトからの電話でサマーキャンプのことを聞いた日。8月1日から3日にかけて行われる一大イベントに、お兄ちゃんが行くなら僕も行く!と
二つ返事でうなづいた7月の下旬、夏休みに突入し、毎日のようにプールに出掛けていたある日のことだった。
8月3日というタケルの8歳の誕生日のお祝いが出来ないということが確定した日のことだ。お父さんとお母さん、ヤマトお兄ちゃん、家族水入らずで祝ってもらいたいというささやかな願いなど、諦めて今年で3年目になる。
プールから返ってきたタケルは、お風呂に入って、服を着替えて、夏休みの宿題を片づけるべくプリントを持って母親の書斎のドアを開けたのだ。
どうしたの?とくるくる回る手すり付きの椅子を回して立ち上がった母親にタケルはプリントを渡した。ああ、なるほどね、と奈津子は笑ってパソコンでの作業を中止して、リビングで休憩を入れながら、夏休みの宿題を手伝ってあげよう、と申し出てくれた。
筆箱と下敷きを携えて、タケルはリビングに向かった。母親が家にいる間は、自分の部屋である一人部屋よりも母親の存在が感じられるリビングでの勉強の方がはるかにはかどるタケルである。
何時ものように椅子によじ登ったタケルは、インタビュアーにでもなったつもりで言ったのだ。お母さんって何をする人?という単純明快にして、小学校2年生の男の子の難解な質問。
高石奈津子という理系ルポライターにして、シングルマザーであるという有名人の息子であるという事実から逃れようもないものである。いつだったか、タケルは母親のしているルポライターという仕事について質問したことがある。
その時には、本を書くためにいろんなところに取材をする人、と教えてもらった。でも、そんな漠然としたものじゃなくて、しっかりとしたものじゃないといけないのだ。
ルポライター、ジャーナリスト、というカタカナのなんだかかっこいい職業だということは知っているけれど、そもそもそれってなんなんだろう?という純粋な疑問は、母親の職業くらい知っているだろうという暗黙の了解といつかタケルに向けられるのだ。
このさい、しっかりと教えてあげた方がいいだろう、と奈津子は思ったらしかった。お母さんはテレビに出てる有名人なんだってことくらいタケルは知っている。コメンテーターとして下の方にテロップとして出現する言葉が肩書きの女の人だ。
その先を求めてきた下の子に、高石奈津子は、努めて冷静に自分の職業について教えた。そう言えばヤマトもそういう学校の課題があるのだろうか、とちょっと考えてしまい、きっとあの人に訊いて、私にはきっと訊きに来ないんでしょうね、と一抹の寂しさをにじませる。
奈津子はコーヒーメーカーに落ちてくるしずくを眺めつつ、鉛筆片手に真剣なまなざしの息子に教えるのだ。
ルポライターは、ある出来事が起こったという事実に対する現状やどういう意味があるか、これからのことをみんなに知らせるために、取材をして、本を書いて、みんなに読んでもらう人のこと。
誰よりも詳しい人でないといけない人で、みんなにわかりやすく知らせる人のこと。奈津子は算数やタケルが高学年になったら習うであろう理科の問題が得意で、シングルマザーという女の人だから、その立場での考え方、行動、言葉で、記事や本を書くことが主な仕事である。
だから、テレビに出ることもあるし、タケルの母親が得意とする分野について、意見を聞かれたり、逆に取材されることもある。テレビで好き勝手言うから、逆に好き勝手言われたり、評価されたり、注目されたりする。
高石奈津子は高石タケルの世界でたった一人の母親だけども、ルポライターである以上、世間にさらされざるを得ない宿命があり、どういう考え方をしているのかにいたるまで観察ならびに研究対象とされる。
「だから、ごめんね、タケル」
頭を撫でられた時、どうして母親が今にも泣きそうな顔をしていたのか、その時頭を撫でられたことが嬉しくて、うん、とうなづいたことは覚えているのだが、そのあと母親に対してなんと答えたのか、実はあんまりよく覚えていない。
有名なルポライターの元で師事したり、大手出版社に所属して経験を積んだというタケルの母親は、タケルが物心つくころには、既にフリーランスと呼ばれているジャーナリストとして知名度を得ていた。
ジャーナリストと言えば、新聞社やテレビ局など報道機関に所属して取材活動を行う者もいれば、母親のように特定の報道機関に所属しないでフリーランスとして取材活動を行う者もいるのだが、タケルにとってジャーナリストと言えば、高石奈津子という世界でたった一人の母親である。
毎朝、学校に出掛ける時に、原稿の期限を気にしながら必死でキーボードを叩いたり、ファイルにとじられたおびただしい数の切り抜きやコピー用紙とにらめっこしながら、コーヒーを口にしているイメージがすぐに浮かんでくる。
タケルが長期休暇に突入したことで、最近はただいま、と言えば、おかえり、と返してくれることも多い母親は、家にいる時間が多い時期といない時期の落差が激しい存在と言えた。
それでも、あくまでもそれはタケルの母親が自分の活動拠点を自宅に構えているからこそ可能であり、基本的に仕事で忙しい時には書斎に置かれているパソコンのキーボード音は消えることは無く、ちょっとした休憩すらはさむことがない修羅場が近いこともある。
そういう時には、靴があったとしても、ただいま、と言っても返事が返ってくることはまずない。ジャーナリストやルポライターという職業は一般的な職業からすれば、いわゆる不定業にあたるだろう。
どこかの報道機関やメディアに所属しているなら、一定の資質や能力が推定されるのだが、日本においては「ジャーナリスト」や「ルポライター」と自称する際の特別な基準は存在しないため、実績を伴わない者や自称するに値しない者であっても、「ジャーナリスト」と自称しても法的には問題はない。
また、ジャーナリストとなるために必要な国家資格も存在しない。より専門的な分野を得意としていることを示すために、タケルの母親は理系ルポライターと自称している。
弁護士や医師などのような国家資格は存在していないため、文章作成を初めとする能力、資質、倫理観などが欠如している者が強制的に排除されるシステムは存在しない。何時だって厳しい世間体との戦いと激動する情報化社会に生き残っていくために、四苦八苦である。
時には、突然かかってきた電話であわただしく1か月の予定を変更したり、数週間取材に行くための段取りを決めるために、母親曰く仕事上のお付き合いだという同業者の人と打ち合わせをしたりする。
時折留守番電話や電話を代わる時があるので、圧倒的に男性が多いことが、実はささやかなタケルの気がかりだ。新しいお父さんの話は今のところ一度もしたことがないので、今のところタケルは安心している。
情報を交換したり、仕事上の付き合いで食事に行ったり、どこかに出掛けることも多々あることをタケルは知っている。
お土産はなにがいい?と旅行パンフレットを差し出してくる母親のあげるサンプルはたいていはずれはないので、タケルは思い悩む必要はないのだが、母親が時折家族水入らずの時間を持つためにどこかへ連れて行ってくれる時には、何時だってお仕事で来たことがある場所である。
そして、事細かなことをいろいろと聞いて、宿題を終えることが出来たタケルは、ありがとう、お母さん、と笑って宿題を片づけてくるために椅子から降りたのだ。タケルも飲む?
コーヒーを指差され、うん、とうなづいたタケルは、奈津子が冷蔵庫から牛乳パックを探すのを確認してから、自分の部屋にいったん片づけに戻ったのである。
ぷるるるるるる、ぷるるるるる、と玄関のすぐ横にある固定電話が鳴ったのは、タケルがリビングに向かう途中のことだった。
そう言えば、今日は朝からお母さんそわそわしていたな、と思ったタケルは、電話を取ることはせずに、スリッパを響かせながらぱたぱたと走ってきた奈津子とすれ違いでリビングに入ったのだ。
電話の相手はきっと仕事上のお付き合いがある人だろう。多分、男の人だろう。お母さんの態度や声のトーンからなんとなくではあるけれども、分かってしまう悲しさである。
ちょっと気になるのは事実だが、さすがに誰?とずうずうしく問いただす気にもなれず、タケルは母親が用意してくれたコーヒー牛乳を飲むために、再び椅子によじ登る。通信販売で定期的に送られてくるコーヒーブランドのパック詰めはいつも所定の位置に常備されている。
すりガラスの向こう側の奈津子の態度からして、どうやら急な用事の依頼らしく、少々面食らった様子で問い返している声が聞こえてくる。迷い、戸惑い、動揺。
本当ですか、と奈津子が迷いのニュアンスをにじませていることに物珍しさを感じつつ、タケルは奈津子が持ってきていたファイルから新聞記事の切り抜きがたくさん入った透明な袋が出ていることに気付いて顔を上げた。
なんだろう、というちょっとした興味である。奈津子がお仕事とは明らかに別件でいろいろと取材をして回っていることはタケルだって知っているのだ。
奈津子の得意分野や専門分野を把握しているわけではないけれども、
新聞の切り抜きをたくさん集めてフォルダに仕舞い込んだり、滅多に縁のない一般の人のところに取材に行くのを見かければ、なんとなくではあるものの、なにかあるのではないかとタケルが勘付くのも無理はなかった。
個人的な調べ物はいつだってタケルの人目を避けて行われている。小学生には刺激が強すぎる話題なのかもしれないが、タケルだってまだ子供だ。お母さんがこっそりインターネットのホームページでいろんなことを調べていることくらい知っている。
さすがにまだパソコンの使い方がいまいちよく分からないタケルはこっそり調べる勇気はないのだが、その時は珍しく母親に怒られるかもしれない、という防衛本能よりも好奇心が勝った一瞬だった。
一般的に新聞記事は小学校6年生までに習う常用漢字で、内容の8割は理解できるとされているため、さすがにまだ小学校2年生のタケルは読むことは出来ないのだが、その大見出しに移っている強烈な写真が目を引いた。
日付までは確認できないが、劣化した紙質からして数年は経過していることが読み取れた。タケルのすんでいる世田谷区三軒茶屋の住宅街でもなければ、ヤマトお兄ちゃんが住んでいるお台場のマンション街でもない。
でも、どこか懐かしい、そんな気がしたことをタケルは覚えている。まるで春休みに見に行った怪獣映画の一部のようだ、となんだかよく分からないのだが、その時のタケルは思ったのだ。白黒で画像も荒くて、映りも悪くてさっぱりである。
ただ強烈に印象に残っているのは、大きな大きな穴が開いた建物と大炎上している公園。これは、ええと、と記事の大見出しを読み上げようとタケルは身を乗り出したのだ。新聞記事の切り抜きが向きも方向もバラバラで、どっちが表でどっちが裏なんだか分からない。
この漢字は習ったぞ、とタケルは知っている字を見つけて必死で読もうとしたのだ。ひ、ひかり、け、えーっと、この字は僕の名前の岳によく似てるから覚えてる。なんだっけ、えっと、えっと、僕の名前はガクとも読めるから、これもガクって読むはずで。
「なにやってるの、タケル!!」
ばたばたばた、と忙しないスリッパの音、そして引っ手繰られるファイル。あまりにも強引に取り上げられてしまったせいで、透明なファイルの中がばさばさばさと広がってしまう。
記憶のはるか彼方に封印されたはずの奈津子の感情が豪快に暴発した金切り声に、防衛反応が働いて過剰なまでの恐怖心がタケルに襲い掛かる。びくっとかわいそうな位震えた小さな体は、そのまま凍りついてしまった。
ああもう、といらだったように奈津子は舌打ちをして、書類や新聞記事をあわてて拾い上げると、すべて締まった。手伝おうとしたのだが、動かないで、と言われてしまってはどうしようもなかったのである。
顔を上げたタケルは、いつになく真剣なまなざしで、こら、と軽く小突く母親と視線がかち合ってしまう。
ビンタが飛んでこないだけましである。彼女は感情のコントロールの仕方を知っているから、よっぽどのことがない限り、直接的な暴力に打って出ることは滅多にないのである。
ごめんなさい、と手をひっこめたタケルに、奈津子は明らかに怒っていた。
「ねえ、タケル。怒らないから、教えてちょうだい?見たわね?」
怒らないから、という常套句は必ず怒られることの前触れだと知っている。タケルはごめんなさいと素直に謝った。
「これはお母さんの大切な仕事道具なの。触っちゃだめでしょう?」
仕事道具ではない。お母さんが個人的に調べていることをタケルは知っている。ヤマトお兄ちゃんと一緒に遊ぶことが出来た幸せな記憶の中では、お母さんは仕事そっちのけで没頭するようなものを持っていなかったはずだから、きっとお父さんとお母さんの仲が悪くなってからだろう、とタケルは思っている。
だが、思うだけだ。言えるわけがない。ヤマトお兄ちゃんにさえ、お母さんは、どうしてお父さんと仲が悪くなったのか、どうして一緒に住むことが出来なくなったのか、打ち明けてすらくれないのだ。まだ7歳のタケルに教えてくれるわけがない。
いろんな思いを抱えながら、ごめんなさい、お母さん、と素直に謝ったタケルに、奈津子はいつもならばここで許してくれるはずの態度を改めない。
「どれを見たの?」
「え、えっと、それ」
戸惑いながら指差した三面記事の切り抜きをみた奈津子は、はあ、と小さくため息をついた。そして、ぽつりとつぶやいたのである。
「ねえ、タケル」
「なに?」
「この写真ね、何だと思う?」
「え?わかんないよ、お母さん」
「そうよね、わかんないわよね」
「うん」
どうして奈津子が顔をそむけてしまうのかわからないタケルは、ただ傷つけてしまったという事実が怖くてたまらなくなって謝るのだ。
「ごめんなさい、お母さん」
うん、という声色がいつもの母親のトーンに戻ってくれたので、タケルはほっとして顔を上げた。
「まあ、こんなところに置いといた私も悪かったわ。ごめんなさいね」
「うん」
「いつか整理しなくっちゃって思うんだけど、いつも、いつも忘れちゃうのよねえ」
そして、問題のファイルは奈津子の書斎のカギ付き引き出しの中に仕舞われてしまった。ほっとしたタケルは温くなってしまったコーヒー牛乳を飲みながら時計を見る。まだお母さんと一緒にサマーキャンプに着ていく洋服とか、お菓子とか、買に行くには時間がある。
帰ってきた奈津子は、うーん、と思案顔でリビングにあるカレンダーとにらめっこしている。その先にあるのは、タケルの誕生日と赤いマーカーで大きく丸が付けられている日だ。
嫌な予感が脳裏を過る。授業参観、運動会、遠足、いつだってタケルを見に来てくれる人は最後にやってくる。お母さんからごめんねと申し訳なさそうなまなざしを向けられるのが嫌で、自分から先に切り出すのはいつからだろう。
タケルは、すっかり癖になってしまっている笑顔のままで言ったのだ。
「大丈夫だよ、お母さん」
訊き分けがよすぎる小学校2年生の男の子に、奈津子はますますいたたまれなくなってしまうのだ。
「さっきの電話、お仕事の電話でしょ?」
奈津子の反応がにぶい。あ、違うな。これは個人的に調べていることに関してのことかな?直感的に悟ってしまう男の子は、いつまでも自分に何も教えてくれない母親に何も言えないまま顔を上げた。
タケルの母親はその事柄になるとことさら反応に違和感が出てきて、どうしても過敏に反応してしまう。
「ほんとに、いいの?」
「うん」
「ごめんなさいね、タケル。また今度、絶対にヤマトと一緒に食べに行きましょうね」
「うん、約束ね」
おいしいフランス料理の古民家レストランは当分お預けだ。豪徳寺近くにある住宅街の一角に、ひっそりと軒を連ねている隠れた名店があるのだ。予約した日に奈津子が言っていたことを思い出したタケルはうなづいた。
「うん。仕方ないよ、お母さん、最近ずっと忙しそうだし。サマーキャンプが終わったら、お兄ちゃんと一緒にどこか食べに行くから」
ありがとう、と奈津子はスケジュールを書き込む四角い箱の中に、昼からのまちあわせと時間帯を書き込んだ。その急に入った電話の相手が、なんとか川という人だとカレンダーに書かれた名前から、タケルは知る。
まだもう一つの漢字は習っていないので読めなかった。でもそれだけだ。もうその頃には、これから向かう銀座のお買いものでタケルは頭がいっぱいになっていたから。
「ケル、タケル」
本当に何も思わなかったのだ。たとえ奈津子がタケルと行くはずだったフランス料理のお店の予約を取り消す電話を一度もしなかったことで、
必然的にお母さんはタケルの知らない、お父さんではない誰かと一緒に食事に行く予定が入り、それによって家族だんらんの数少ない機会が潰されてしまったのだという事実をタケルが気付いてしまったとしても。
「タケル、起きてよ、ねえってば」
それがタケルの知るお母さんのいつものことだから。期待するだけ無駄なのだ。もう慣れている。
「タケルーっ!!」
耳元で叫ばれる言葉が自分の名前だと理解した瞬間、タケルはあまりの大音量に思わずうるさーいって耳元を押さえながら起きてしまった。
当然ぱしんってはたかれてしまったパタモンはベッドから突き落されて、ころころと冷たい床に這いつくばるはめになる。いたあい、酷いよ、タケル、と豪快に顔面直撃の憂き目に遭ってしまったパタモンは涙目だ。
なんだよう、うるさいなあ、と寝起きの関係でちょっとだけ言葉が荒いうタケルに、パタモンが安心した様子で笑うのだ。差し出されたのはタケルがいつも使っているハンカチである。
「大丈夫?」
「え?なにが?」
「タケル、怖い夢でも見たの?泣いてたよ」
「え?うそ、ほんと?」
目じりをぬぐってみれば、じんわりと熱い滴が零れ落ちた。タケルはパタモンに渡されたハンカチで乱暴に目じりをぬぐうと、はあ、とため息をついた。
「今日はいろいろあったもん。疲れちゃったんだよ、タケル。ねえ、どうする?やっぱり空とピョコモンに寝てもらう?一緒に」
パタモンの視線の先には布団をかぶって寝息を立てている空の背中が映っている。おそらくあの腕の中でぐっすりピョコモンが寝ているのだろう。心配そうに見上げてくるパタモンに、タケルはしばし沈黙した後、小さく首を振った。え、でも、というパタモンの言葉をさえぎって、タケルは言うのだ。
「僕、また同じ夢見ちゃいそうで怖いよ、パタモン。だから、もう、寝たくないよ」
「やっぱり怖い夢だったの?」
「………よくわかんない。でも、お母さんが取られちゃう気がして、やだ。やだよう」
「話してくれないの?タケル」
「………一緒に起きててくれるなら、話してあげる」
「いいよ」
「ここだと空さんたち、起きちゃうから、別の部屋、いこ。パタモン。今は何にも考えたくないよ」
「じゃあ、リビングの行こうよ、タケル。ワイズモン達、きっとまだ研究してるからなにか持って行ってあげよう」
「うん、そうする」
そろり、そろり、とベッドから降りたタケルはパタモンに差し出された靴を履く。そして、足音を差し足、忍び足、なるべく音をたてないようにしながら空のベッドを通り過ぎる。
ちらりと空が起きていないか確認したが、どうやらぐっすりと眠っているらしく規則正しい寝息が聞こえる。タケル君、と呼ばれるんじゃないかとひやひやしたのだが、さいわい実は起きていたというドッキリは無しで終わった。
「デジヴァイスと紋章は持ってこう、パタモン。大事なモノだから持ってなくちゃダメだってお兄ちゃん言ってたよね」
「リュックはどうするの?」
「また戻ってくるかもしれないから、置いとくよ。そうだ、メモしとこう。ワイズモンのところにいってます、っと。これで空さんも心配しないよね」
「えっと、デジヴァイスは?」
「ここだよ、リュックの下」
「紋章は?」
「デジヴァイスの近くにない?」
「暗くてよく分かんない」
えーっと、とタケルはデジヴァイスを拾い上げ、近くにおいてあるはずの紋章のタグとひもを手探りで捜す。あれ?
パタモンとタケルは顔を見合わせた。あれあれ?もう一度、今度はよく目を凝らしながら探してみる。あれあれあれっ!?
床に落ちていないかとカーペットを覗き込んでみるが、薄暗くてよく見えない。はい、タケルってパタモンがテーブルの中に入っていた非常用の懐中電灯を差し出してくれる。ありがと、と受け取ったタケルは、テーブルの下を再び覗き込んだ。
いきなり暗闇を照らすライトがまぶしくて、ぱちぱち、と瞬きするタケルは、きらりと光るタケルと空の紋章を見た。宙に浮かんでいる違和感を自覚しながら手を伸ばそうとしたら、どういうわけか紋章が奥へ奥へと引っ込んでしまう。
空を切った手を何かが踏んづけていったのか、一瞬痛みがタケルを襲う。痛い、と反射的に手を引込めたタケルは、その足の持ち主が向こう側に抜けていくのを見た。
「タケルっ、大変だよ!なんかよく分かんないけど、黒い塊が扉の向こうに消えちゃった!」
「紋章はっ!?」
「そいつがもってっちゃったよーっ!!」
「ええええっ!?」
「ど、ど、泥棒だあああっ!!」
「まてえええっ!!」
頭が真っ白になったタケルとパタモンは、大慌てで扉を開け、外に出て行ってしまう。タケルたちの大声で目が覚めた空が見たのは、もぬけの殻になったベッドとタケルの残したメモ書きである。
肩を落とした空はワイズモン達のところに行こうとピョコモンに呼びかけた。
「あら?ピョコモン?」
パートナーデジモンまでいないことに気付くのは、数秒後のことである。