空が家に帰ってきたのは、すっかり日が暮れた夜のことだった。空のお母さんは一人娘がサマーキャンプで遭難したことや無事に保護されたことが連絡されても、すぐに帰ってくることが出来るような立場ではない。
3日間家を開けることが分かっている武之内家の冷蔵庫や棚の中は、食料や飲料水が一切ない、すっからかんの状態である。
誰も帰っていないなら、どのみちご飯の用意をするなら買い物をしなければならないのだ。家庭の事情でかぎっ子でもある空はキャッシュカードを預かっている。
ちかくのATMでお金をおろした空は、そのままピョコモンと一緒に近くのスーパーで買い物を済ませたのである。
電灯が突然ちかちかと点滅したり、冷房が誤作動を起こしたり、レジが突然バーコードを認証しなくなったせいでパートさんが手打ちで清算したり、ちょっとしたトラブルが頻発した結果、思った以上に時間を食ってしまったのだ。
荷物とレジ袋を抱えた空は、ようやくたどり着いた家に息を吐いた。
回したドアノブが引っかかった。鍵がかかっているのだ。家に誰もいないことを察した空は小さくため息をついて、いつもの場所に隠してある武之内家の鍵を引っ張り出すと鍵穴に差し込んで回した。がっかりはしないけど、ちょっと期待してたから残念に思ったのは事実だ。
もしかして、とこっそり思ってたからなおさら。がちゃりと今度こそ開かれたドアの向こうは、あたりまえだが誰もいない薄暗い空間が広がっている。誰もいない家はカーテンが閉め切ってあるせいで、前が見えないほど真っ暗だった。
ぱちん、と玄関先のスイッチを入れると、ぱっとあたりが明るくなった。でも廊下の先にはリビングに続く真っ暗な部屋が続いている。空の歩いてきたあとには明るくなった部屋が残った。
荷物を自分の部屋において、ずっと隠れていたピョコモンを抱いてリビングに戻る。ソファに降ろされたピョコモンは、生まれて初めて見る人間の部屋を興味津々で見渡していた。
レジ袋から食材を取り出して、空はキッチンにある冷蔵庫にそれぞれ入れ始める。ねえねえ、空、とリビングから声がする。なあに?と返事だけ返すと、これなーに?という質問がとんでくる。
レジ袋を結んで紙袋に放り込んだ空は、これ?といいながら立ち上がった。ピョコモンが見ているのは、飾り棚に並べられている写真だ。
それはリビングから見える風景だった。今年の3月にオープンしたばかりの遊園地である。友達が遊びに来た時に、一緒に取った写真だった。
ピースサインをしている小学生の女の子たちの向こう側で、巨大な観覧車が夕焼け色にきらきらと輝いていた。おもちゃの町を思い出したピョコモンがすっごーい!と声を上げる。
デジタルワールドよりずっとずっと大きいわ、と興奮した様子で笑った。空はつられて笑ってしまう。そりゃそうよ、私たちの世界で一番大きな観覧車なんだから、と教えてあげた。へええ、とピョコモンは瞬きする。
パレットタウンは、やがてお台場の代名詞となる遊園地だ。そこにある大観覧車は、羽田空港や西新宿の超高層ビル群など東京を一望できる。
直径100メートル、高さは115メートル、ゴンドラの数は64台もあり、定員数は6名。もちろん空が詳しいのは友達と何度か遊びに行ったことがあるからだ。いいなあ、いいなあ、わたしも行きたい、とピョコモンはねだるが、もちろん空は却下である。
デジタルワールドから帰還した理由が理由だからだ、遊んでいる時間は無いだろう。むー、とくちをとがらせたピョコモンは、10人目を捜すんなら高い所の方がいいんじゃないの?と反論する。さすがに空は苦笑いした。
あのねえ、デジタルワールドじゃないんだから、高い所から見ればすぐに見つかるなら苦労しないわよ。日本で一番人口が多いこの街に、小学校2年生の男の子なんて何人いると思ってるの。
ふうん、とピョコモンは瞬きして、辺りを見渡す。がらんとした空の家に、ピョコモンは不満げに空を見上げた。
「空のお母さんに会えるの楽しみにしてたのに」
「無茶いわないでよ、ピョコモン。でも鉢合わせしなくてよかったじゃない」
「そお?空のほうが、残念そうな顔してるけど」
「それはいわないで。ちょっと期待しちゃっただけだから」
ふう、とため息をついた空は、夕食の準備をしようとキッチンに向かった。そして、コードレスの固定電話が点滅していることに気が付いた。あら、と歩みを止めたスリッパが、足早にそちらに向かう。
そら?とピョコモンは不思議そうに空を見上げる。ちょっとごめんね、待ってて、と空はピョコモンを近くの棚に降ろした。
幼年期であっても実体化するために周囲の電気を消費し続けているピョコモンは、電子機器にどうしても異常をきたしてしまうのだ。
受話器を取った空はボタンを押した。留守番電話が入ってるわ、と空は言った。受話器を当てていた空は、録音されている言葉を聞いて、何度か瞬きしたのち、ちょっと嬉しそうな顔をして口元をほころばせた。
どーしたの?と花を揺らしながら聞いてくる幼年期に、空は笑った。
「お母さん、今日はお稽古に行ってて遅くなるって言ってたのよ」
「お稽古って?」
「華道よ、華道のお稽古。お花を綺麗に飾るのよ。お母さんは、華道の先生をやってるの」
「そういえばそんなこと言ってたわね」
「夜の10時ごろには帰って来るって言ってたけど、今日はなるべく早めに切り上げるんですって。帰ってきたら連絡してって。今までそんなこと一度もなかったのに」
「そうなの?よかったわね、空」
「ええ」
ちょっと静かにしててねって言われたら、はあい、とお行儀よく返事をするしかないピョコモンである。ぴ、ぽ、ぱ、と慣れた様子で、すっかり暗記しているボタンを押す空はちょっと緊張しているようだった。
空のお母さんの仕事の拠点は、銀座8丁目にある華道・武之内流の事務所だ。それほど規模は持たないが、その起源は遡るといつかの代で枝分かれした伝統ある流派に辿り着く。その家元であるお母さんは、お父さんと結婚するときに苗字が変わらなかった。
むしろそのときまだ大学助教授だったお父さんが婿養子でもないのに苗字が変わった。だから空も母方の苗字を名乗っているのだ。今から空が電話するのは、秋の展示会に必要な書類に追われているお母さんとたくさんのお弟子さんたちがいる事務所である。
民俗学のフィールドワークで全国を回る京都の大学教授のお父さんに電話するのとは勝手が違ってくるのだ。受話器に耳を押し当てている空はそわそわとしている。こっちにも静かに聞こえてくるコールの音は、数回でとまった。どうやら受付の人がでたようだ。
「もしもし、武之内空と申します。恐れ入りますが武之内流家元の淑子さんはいらっしゃいますでしょうか」
なんどかやり取りしたあと、取次ぎがあって、お母さんが電話に出たらしい。ほっとした様子で空は小さくため息をついた。
「もしもし、お母さん?わたしよ、空。今、サマーキャンプから帰ってきたの。留守番電話に連絡してってメッセージ入ってたから電話したんだけど」
『そ……で…話?。あり…と…、…ら。そ…だと元……うね、よ……わ。本……はすぐに………いんだ……、ごめ……い…』
「どうしたの、お母さん。よく聞こえないわ」
『あの…え、そ…はあな……りして……ら……ごめ……さ…、そん…とが…たいんじゃな……の。本…さ……お電…は、本当にど……うかと……た。豪……堂で……3時……められて……。本当に……事でよか……わ。すぐ……も声が……ったの』
「お母さん?」
『ええ、なる…く片……わ……。……でも、帰れ……ら。ちょ……配になっ・・・・・・・て来たわ』
「え?どうしたの?」
『なにかあっ……なの……。さっ……TVも……ノイズ……て使い……物ならないし、電話も……りにく……みたいでね』
お母さんの声が遠くなる。そのかわりに事務所の外では、パトカーのサイレンが切れることなく、延々と続いているのが聞こえた。時折それに混じって、爆発音のようなものや巨大な怪獣の鳴き声のようなものが聞こえる。
数メートル先も見えないような霧が発生していて、先が見えない、のはお母さんの断片的なつぶやきから辛うじて聞き取れた。演出的な意味でスモッグを焚いているんじゃないか、映画の撮影とか?
ばかいえ、ここまで酷いとヤバいだろ、マジで火事じゃないか?110番した方がいいんじゃ?火事にしては消防車のサイレンが聞こえないぞ。パトカーのサイレンばかりだ。そんなお弟子さんたちの声がとぎれとぎれのノイズの先に聞こえる。窓から外の様子を見ているお弟子さんが何人かお母さんに叫んでいるようだ。
さわがしい音が聞こえる。大きな隕石が通り過ぎるような音がした。しばらくして、大きな爆発音が響き渡る。お母さん、お母さんと何度も空が叫んでみるのだが、受話器は置き去りにされているようで、全く届かない。
もしもし、お母さん、と受話器を握り締めながら空が叫ぶ。さすがにただならない気配を感じたピョコモンは心配そうに空を見上げた。とうとう切れてしまった電話である。たまらずダイアルを回してみるが、今度はなかなか事務所の人が電話に出てくれない。
はやく、はやく、と急いている気持ちに反してコールがどんどん長くなっていく。切ってはかけ直して、切ってはかけ直して、を繰り返した空は、とうとう受話器を置いてしまったのだった。
ぴんぽん、とチャイムがなった。誰かしら、こんな時間に、とお母さんとお父さんは顔を見合わせる。リビングに設置されているインターフォンを見ようと立ち上がろうとしたお母さんは、ぱたぱたぱた、と忙しなく子供部屋から出てきた光子郎がリビングに顔を出したのを見た。
「僕が出ます」
「あら、お友達なの?光子郎さん」
「はい、大輔君です。さっき携帯に連絡があったんです。キャンプで忘れ物してたから、貸してたものがあるんですけど、返してもらうの忘れてたんですよ。明日、遊ぶ約束してたので、その時でいいって言ったんですけど、あはは」
玄関先に消えていった光子郎を見送って、お母さんとお父さんは顔を見合わせる。大輔君、という名前は、学校の様子を聞いた時に、八神太一君と武之内空さんと並んでよく登場する男の子の名前である。
本宮大輔君はお台場小学校2年生の男の子であり、光子郎にとってはサッカー部の後輩にあたるはずだ。お台場小のサッカークラブは小学校1年生の時から入部することが出来るのだが、太一に誘われてサッカーを始めた光子郎が入部届を出したのはずいぶん遅かった。
そのため、小学校1年生の時からサッカーボールを蹴っていた大輔君は、光子郎にとっては学年で言えば後輩でも、入部した時期で言えば先輩という奇妙な立場だった。
運動部では学年が重要視されるため、大輔君が光子郎を先輩呼びするのは当たり前だったし、レギュラーになれないベンチスタートでも立場を軽んじられるほど体育会系は上下関係は優しくない。
どのみち大輔君にとっては、光子郎も八神君も武之内さんも、みんなおなじ先輩だった。八神君に誘われたから入部した光子郎である。3,4年のチームにも友達はできたけど、やっぱり一番仲がいいのは5,6年のチームで別れてしまっても八神君だった。
そのつながりで上級生にはずいぶんと名前を覚えてもらっているようで、武之内さんや大輔君とはやっぱり八神君経由で知り合った経緯がある。ほっとくとすぐにパソコンのスイッチを入れたがるインドア派な光子郎を何してんだよと連れ出してくれるのが八神君だ。
必然的に一緒に遊ぶ輪の中に入れてもらうと、たいていその中に入っている大輔君と顔を合わせる機会も増えるのだ。だから友好関係が広いとはいえない光子郎は、変わり映えしない学校生活について聞かれたとき、だいたい登場する人間は限定されてくる。
お父さんもお母さんもすっかり名前を覚えてしまうくらい、大輔君が出てくる回数は多かった。それくらい、一日のうち何かしらをしでかすような、エピソードに事欠かない男の子だという認識で一致している。
だから、大輔君がサマーキャンプで忘れ物をして、光子郎に助けを求めたというとっさの嘘は、すんなり信憑性を帯びてしまい、特に怪しまれることなく二人に受け入れられたのだった。お母さんはうふふと笑う。
「お菓子やお茶は光子郎さんのお部屋に持って行ったらいいかしら?」
「でも、返しに来てくれただけだろう?もうこんな時間だ、無理に家にあげてしまうと親御さんが心配するんじゃないか?」
「でも、せっかく来てくださったんですよ?光子郎さんがお友達を連れてきてくれるなんて、滅多にないのに」
「ううん、それもそうだな。まあ私たちがとやかく言っても仕方ないだろう、必要なら光子郎が何か言うさ。もう10歳なんだからな」
そんなお父さんとお母さんの会話なんて知る由もない光子郎は、がちゃりとドアを開けて、大輔君を招き入れていた。こんばんは、って息を切らしながら走ってきたらしい大輔君は、よっぽど大急ぎでここまできたようだ。
もしかしたら、早く返していらっしゃいっておうちの人から叩き出されたのかもしれない。大輔君はそそっかしい子のようだ。なにかと忘れ物をして貸してもらうという行為が常態化している印象である。
大輔君のお母さんが頭を悩ませていることも、先生やサッカーのコーチからお叱りを受けていることも光子郎から聞いている二人は思った。スリッパを用意して、こっちですって案内する声がする。
リビングのドアは空いているので、大輔君が光子郎の部屋に入るまでに素通りする位置にある。お菓子とお茶の準備を始めているお母さんと、ニコニコしながら大輔君に会釈したお父さんに、お邪魔しますってぺこりと大輔君はお辞儀する。
「本宮さんのおうちからここまで結構距離があるのに大変だったでしょう?麦茶でもいかがですか?」
「え、あ、いや、大丈夫っす。これくらい」
「そんなこといわないで。せっかくいらしたんだから、ゆっくりしていってね。ええと、お菓子はお好きかしら?」
「あ、じゃあ僕が持って行きますよ、チョコのクッキーありましたよね?それ、もっていってもいいですか?」
「え?ええ、もちろん。そうなの、本宮さんはチョコレートのお菓子がお好きなのね。覚えておくわ」
「え、あ、あはははは」
可愛い子袋に分けられているクッキーをお盆に乗せて、コップと麦茶が入った容器ごと抱えて光子郎は大輔君を子供部屋に連れて行ってしまったのだった。ちょっと嬉しそうなお母さんである。
いつもなら、いらない、とそのままお母さんの好意を不意にしてしまうか、あとで食べるかたおいといて、とつれない返事をするのだ。お母さんが質問する前に光子郎がこれが食べたいとリクエストしたり、チョイスするのははじめてだった。
もっていった数は大輔君だけではなく、光子郎のぶんもちゃっかり含まれている。あっさりお母さんお手製のお菓子を受け取って、持って行ってくれた。
サッカー部の後輩がいるから格好を付けたい、見栄っ張りな部分が垣間見えてお父さんは別の意味で笑みが絶えない。
ほんとは棚においてあったスナック菓子が食べたかったのになあ、と心の中でつぶやいていた大輔君のことなんて、二人は知る由もない。