壮麗な館がデビモンによる幻想だったと知らされた。太一がわかることは少ない。夢は終わったという言葉。静寂の中に邪悪さが感じられる闇からの宣告。屋敷の屋根や壁、床が粒子となって砕け散り、大きな月の照らしだす森にひっそりとたたずむ何百年も前に主を失ってからすっかり朽ちてしまった館の残骸に姿を変えた。
太一が立っていた回廊の残骸は、危ういバランスで手すりが残っているだけ。耳元でささやいているようにも、遠くから聞こえるようにも感じられる声の正体は、その今にも崩れ落ちそうなほど軋む壁に掛けられている大きな額に飾られた天使の絵。
ただしくは青白い光の中に浮かんでいたはずの、何かに祈りをささげる天使の絵。タケルとパタモンがきれいな絵があった場所。そこが真っ黒に塗り潰されていた。穴が開いたように真っ黒だった。
そこから姿を現したデビモンによってファイル島はエリアごとに分断され、流された。オーガモンに追い詰められた太一とアグモンを助けてくれたのは、デビモンによって洗脳されていたもののデジヴァイスの光によって解放されたレオモンだ。
みんなが捕まるベッドと共に浮遊していた3台の使用者のいないベットは落下して崩壊。太一が使っていたベットがこちらへ向かってきて、それにレオモンは太一たちを首根っこ掴んで放り投げた。縁があったらまた会おうという言葉を残して。
デビモンに単身勝負を挑む後姿を最後に、太一はアグモンと今にも朽ちそうなベットで一夜を明かしたのである。まさかの氷山との衝突によってフリーズランドと呼ばれているエリアの一部に落下した太一が最初に目にしたのは、見覚えのある絵画だった。豪快に崩落した氷の天井は、ステンドグラスのように色がついていて、薄かったのが幸いである。
本来あるべき芸術品がぼろぼろになってしまい、放射線状に砕かれた天井からの光によって太一とアグモンが落下した薄暗い建物の中をぼんやりと映し出してくれる。まっさきに太一とアグモンが感じたのは、寒い!という一言だったが、アグモンの得意技が炎属性だったこともあって、問題には成らなかった。
氷の煉瓦によって造られた建物の壁には、等間隔で置かれていたランプがあり、火をともすことで煌々とあたりを照らす暖をとるあかりに早変わりしてくれたのだ。白い息が幻想的な氷作りの空間に解けていく。寒い国では氷でできたホテルを経営しているとニュースで見たことがある。
もしかして、ここも似たような感じで、すべての部屋が氷でできているのだろうか、と思っていた太一だったのだが、ぐるりとまわりを見渡すとどうやら違うらしい。ステンドグラスを模した色のついた氷の絵画は天井を埋め尽くしている。
文字を読めない人間に宗教の寓話を説明するために造られたステンドグラスよろしく、なにかの物語をモチーフにした連作が並んでいるが、太一にもアグモンにもわからない。ただきれいだなあとしか思えない。
すっかり壊れてしまった真上のステンドグラスの残骸が散乱する周りには、いくつもの氷でできた長椅子が並べられていて、まるで教室のように向かい合う机がある。その真正面には、何かに祈りをささげている天使の絵が飾られていた。
「なんでここにあの絵があるんだ?」
「もしかしてここもデビモンの罠なんじゃないかな、太一」
「えー、さすがにそれは無いだろ。オレ達がここに落っこちたのは偶然だよ」
「そうかなあ。じゃあここは多分フリーズエリアのどっかだと思うよ」
「ふりーずえりあ?」
「うん。僕、寒いの嫌いだから行ったことないんだけど、ファイル島の北の方にあるエリアに、こういうところがあるって聞いたことあるよ。寒いのが好きなデジモンがたくさん住んでるんだって」
「へえ、イッカクモンみたいなやつらが?」
「うん、たぶん」
「そっか。じゃあとりあえず大丈夫そうだな。飯にしようぜ、アグモン。オレもう腹ペコで死にそうなんだ」
「いいけど、なんで?」
「なんでって決まってるだろ。氷は炎に弱いってオレたちの世界では、相場が決まってんだ」
にって自信ありげに笑う太一につられて、そっかあ、って感心するアグモンである。それがたとえゲームや漫画から得た知識であろうとも、不安を打ち消すにはちょうどいい。
あの屋敷であった出来事はすべて幻想だったということは、ふかふかのベットも、温かくておいしかった料理も、シャワーや大浴場もすべて幻だったと言うことになるのだから、アグモンも太一も空腹だ。
しかたない。ここはとりあえずなにか詰め込んでおかないと。すっかり埃だらけになっているリュックをたぐりよせ、太一はすっかりしなびてしまった果物に手を伸ばしたのだった。
デジリンゴはすっかり酸化してタネの部分が茶色く変色している。うへえと思いつつ、酸っぱくておいしくないそれを食べてしまうと、匂いを嗅ぎつけて襲われたらたまらないとゴミ袋にそれを突っ込んで立ち上がった。
「とりあえずみんなと早く合流しないと。ここから出ようぜ、アグモン」
「そうだね。いそごう、太一。大輔たちのことも心配だ」
「……そう、そうだよな。はやくみんなと集まらないと」
太一の荷物を乗せたベットがわざわざ突撃してきたところを見る限り、落下していったベットのうちのひとつは大輔が使うことが前提だったはずである。ということは?のこり2つのベットの存在理由は?
なんとなくうすら寒いものを覚えた太一は、今は考えないようにしようって決めた。大事なのは大輔たちが使う前提のベットが用意されていたことだ。大輔とブイモンが行方不明になったのはデビモンの仕業ではない可能性もある。
でも、絵画から壁抜けをして見せたデビモンを目撃している太一にとっては、玩具の街で大輔たちが訴えてきた謎の手によって壁に引きずり込まれそうになったという出来事はどうかんがえてもデビモンの仕業にしか思えない。
どうしてあの時大輔たちの話をもっとまともに聞いてやれなかったんだろう。どうしてが頭をぐるぐる廻るがどうしようもないことは太一が一番よく分かっている。悩むのは後でいい。いまはとりあえずここから脱出してはやく誰かと合流しなければ。
立ち上がった太一たちは、ひんやりとする氷の扉を潜り抜けた。
「すっげえ」
「きれいだね」
幾何学模様のデザインが施された床が一面に広がっている。ガラスのように透明な壁はどこまでも広がっていて、薄い緑色の厚みを帯びて輝いている。はあ、という白い息がとけていった。誰もいないのだろうか。
野生のデジモンがいないのであればラッキーに越したことはない。狭い通路である。鉢合わせでもしたら最悪だ。グレイモンが戦うにはあまりにも狭い。余計な消耗はさけたいのである。太一の荷物はあまり食べ物をストックできない。
そんな太一たちの心配をよそに、歩き始めた太一たちの足音がクリアに響く。誰もいない回廊をひたすら歩いていった太一たちは、斜めになった四角い四面体を発見した。一本道の通路だから迷いようがない道である。でも行き止まり。軽く叩いたが、グレイモンでも溶かせるか怪しいほどの強度を誇る壁と床である。おかしいな、と太一たちは首をかしげた。
「なんだろうなあ、これ」
オブジェと思って触れてみた太一は、真っ白な世界に包まれた。おわあってあわてて手を放したが、光は太一を包んでいく。アグモンはあわてて太一をこっちに連れてこようとして手を掴んだ。エレベータに乗った直後のような浮遊感が襲う。耳の奥になにかが入り込んだように、音が少しだけ遅くなる。
気が付いたら太一とアグモンの目の前には、真っ白な煉瓦の身体を持つデジモンと真っ青な体を持っている気持ちの悪いデジタルモンスターがこんにちは。どうやら強制ワープゾーンだったらしい。うわあああっていう絶叫が氷の教会に響き渡った。確認する限りでは黒い歯車の面影はない。どうやらこのエリアに住み着いているデジモンのようだ。
「そんなのありかよ、くっそお!アグモンいけるか?」
「大丈夫だよ、太一。ここは僕に任せて、さがって!」
「よっしゃ、頼むぜグレイモン!」
「ああ!」
デジヴァイスの力を借りて進化したグレイモンの豪快な炎が辺りを燃やし尽くし、怯んだすきを狙って強靭な爪が突然の奇襲に強烈なカウンターパンチを叩き込む。成長期から成熟期に突然変身したデジモンはやはり異様なものとして写るらしく、あきらかな動揺が敵たちの表情に浮かんでいる。
成長期を想定した接近距離が災いして、グレイモンの射程範囲に飛び込んでしまった敵たちは、グレイモンの猛攻に耐えられず後退しはじめる者もいる。そんなものに構っていられるほどグレイモンは優しくない。デジリンゴ数個で維持できるエネルギーなどたかが知れているのだ。
敵を蹴散らし、少しでも太一の安全を確保することだけに全てが費やされる。うおお、というグレイモンの咆哮が完全に相手の戦意を喪失させたらしく、最後まで残っていた敵はとうとうその場から逃げ出したのだった。その数分後にはエネルギーを一気に費やしてしまったグレイモンがアグモンに退化する。
やっぱりデジリンゴだけだとこれが限界のようだった。なんか食べ物でもあればいいんだけどなあって太一は困り顔である。アグモンはそれでもリュックからデジリンゴを放ってくれる太一に笑った。
「なんかへんなところに出ちゃったなあ」
「どこだろ?」
「また教会かよ」
「でも天使の絵は無いよ?」
「じゃあ別の階なのか?うーん、わっかんないなあ」
太一は困ったように頭を掻いた。
「でもこんな銅像、さっきの教会にあったっけ?」
「どうぞう?あ、ホントだ」
天使の絵が飾ってあった場所には、なにかに祈りをささげている天使の銅像が立っている。そこにはレリーフが刻まれていた。
「なんかへんな文字が書いてあるなあ。なんだこれ」
「え?太一読めないの?これはデジ文字っていうんだよ」
「でじもじい?なんだそりゃ」
「この世界の言葉だよ」
「へー、なんてかいてあるんだ?」
興味津々で見つめる太一に、アグモンは教えてくれた。
【我知るは天の理。地の導きに従いて我が魂をささげん】
【我が名は???此処を守護する者なり】
「なんか難しいことがかいてあるねえ。太一わかる?」
「わかんねえよ。でも、ここを守ってるデジモンがいるんだってさ」
「だれもいないよ?」
「だれもいないよなあ。メラモンとかもんざえモンとかみたいなデジモンがいるならこっちも助かるのによー。むしろ野生のデジモンが棲み付いちゃってるよなあ。どっかいっちまったのか?」
「寒いもんねえ、僕だったらこんなとこに住みたくないよ」
「オレもオレも。どうせ住むならおもちゃのまちがいいなあ。楽しそうだしさ」
あははって笑った太一たちは先を急ぐことにした。抉られたようにかき消された守護デジモンの名前である。まさかそのデジモンによってこの島が崩壊の危機に立たされていることなど、太一たちは知るはずもなかった。
遥か彼方に見えるムゲンマウンテンに夕日が落ちる。ぱち、と顔を上げたブイモンは、無数のまっすぐに伸びる茎から直接花を付けている特徴的な花に気づく。上半身を起こしてみれば、その花は8つほどの小さな花が集合体となっており、葉っぱや枝分かれなどがない、ずいぶんと変わった花だと気づく。赤、桃、朱、紅、白、と様々な混合種が存在しているらしく、密集した形で咲き誇っている。まるで燃えているようだ。
ネリネは南アフリカ原産の球根植物だが、もし大輔が目覚めたならば、ちょっと背筋が寒くなるかも知れない。ネリネはヒガンバナ科の植物であり、花はもとより植物の全体像までがそっくりである。お彼岸といえば田舎の墓参りと相場がきまっている。
そんな事知らないブイモンは、すぐ隣でぐっすりと眠っているパートナーの姿が目に入って、ほっとひと安心した。その腕の中にはしっかりとデジタマが抱かれていたので、すっかり疲れて眠ってしまったのだと思いだしたブイモンは、体を起こす。
うーん、と思いっきり伸びをして、ふあーっと大あくびをして、涙を拭う。ちょっと目元の辺りに涙の跡が残っていたので、ゴシゴシと拭った。
ブイモンの瞳はもともと真っ赤だから充血なんてしていてもバレないが、もしかしたら顔がちょっとむくんでいるかもしれない。試しに腕やら体やらを動かしてみると、やっぱり一晩大地に寝っ転がっていたせいか、体の節々が微妙な違和感とダルさを訴えていた。
思いっきり泣いた名残なのか、気分はすっきりしているのだが、どこか疲労感が残ってしまっている。それに声も枯れている。初めての進化にも関わらず、長期に渡る飛行をほとんど根性でこなしていたせいではないだろう。現に電撃を食らった箇所はもうすっかり回復しているし、痛みもない。
さすがに無茶をしたアザや打撲痕は残っているが名誉の負傷だ、元気だから大丈夫。
きょろきょろと辺りを見渡したブイモンは、大輔が起きないうちにお目当てのものを探してネリネの海を泳ぐ。踏んづけないように飛び越えながら先を進んだ。あった!と自然と顔がほころんだブイモンがつかんだのは、失われた洋館のベッドルームに置き去りにしていた大輔のリュックとPHSである。
よかった、もしPHSがなくなったら大変だ、と2度に渡ってパートナーデジモンとして頼りにされた誇らしい経験が行動させる。よいしょっと軽々と二つを持ち上げたブイモンは、元きた道を帰り始める。どうやら大輔はまだネリネの絨毯で眠っている。
「大輔もう夕方だよ、起っきろーう」
すっかり寝過ごしてしまったブイモンは、全力で自分のことは棚上げすることにした。昨日はいろいろありすぎたのだ。仕方ない。うん、仕方ない。オレ、悪くないもんね。
大声を出してみるが、身じろぎはするものの起きる気配はない。リュックとPHSを傍らにおいたブイモンはそっと大輔に近づいた。出会った頃から気付いていたが、大輔は朝に極端に弱い。そのうえ寝相が悪いし、寝起きはたいてい最悪だ。
本人曰く、目覚まし時計をセットしても止めたまま二度寝してしまう筋金入りのねぼすけだ。小学校に通うことになってから、今まで一度足りとも目覚まし時計よりも早く起きたことがない。
遅刻ギリギリまで眠ってしまい、母親に叩き起されて慌ただしい朝の準備と朝食を済ませるハメになるのはもはや習慣らしい。何時まで経っても起きないパートナーを起こすのが仕事となりつつあるブイモンは、いつものように勢いつけて大輔に飛び乗った。
カエルの潰れたような声がしたきがするが気のせいである。ぴょんぴょん飛び跳ねながら、だっいすっけ、おっきろーっと叫ぶ。ゆうがただぞー、ゆうがったー!と迷惑極まりない目覚まし時計に、たまらず大輔は一発で起きる寸法である。たいてい大輔は文句を言いながら、時には怒気をはらみながら恨めし気にブイモンをにらみつつ、あくびを噛み殺して起きてくれる。
それでもブイモンは気にしない。伝授してくれたのが他ならない大輔だからである。もちろん本人は話しのアヤで言ったに過ぎないが、後悔しきりだ。たまに帰ってくる休暇はごろごろしたいのだと午後まで布団をかぶっている父親をたたき起こし、公園でサッカーをねだる大輔の常套手段が行われていた。
「おそよう、大輔」
「んあーっ……ふあああああ、おはよう、ブイモン」
まだ寝ぼけ眼らしい大輔は生返事のまま起き上がる。やっぱり大輔はひどい顔をしているので、ブイモンはあははと笑った。
もともと跳ねっけのある短髪は、毎回のことだが寝ぐせが凄いことになっている。手ぐしではどうにもならないので既に本人はあきらめ気味だ。目も充血しているし、いつもより顔が大きいし、疲れた顔をしている。
元気印の大輔にしてはビックリするほど珍しい光景だ。一夜に2度も大泣きしたのである。当然であると言えた。はやく近くにある小川で顔くらい洗わないといけないだろう。
「はい大輔、リュックだよ」
「おう、さんきゅー。やべえ、なんか体がだりい」
「オレもだよ、大輔。顔洗いに行こ」
もうここまで来れば頭も冴えてくるのか、このだらだらとした居心地のいい雰囲気に飲まれて変な会話をしていたと気付いたらしい。まるで母親のような言葉に大輔はばつ悪そうに返事をした後、リュックを背負い込んでPHSを首にかける。
ブイモンがデジタマを持ってくれるので、そのまま足早に進んでしまう。待ってよっと慌ててブイモンは追いかけた。冷たい小川で顔を洗った大輔は、なんとか寝癖をまともな形にしようと水鏡を覗き込んで、必死に手ぐしをかけている。ぶるぶると豪快にしぶきを飛ばしたブイモンは、ふう、と一息ついて、大輔を見た。そしてジーパンを引く。
「大輔、ちょっといい?」
「んー?どうした、ブイモン」
「ちょっとだけ、大事な話」