カルデア探偵事務所   作:廓然大公

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前編

「朝はやっぱりひきたてのキリマンジャロに限るな」

 

 東の空はまだ暗く、時計を見れば五時を少し回ってた頃。彼は手にしていたコーヒーを片手に事務所の窓からまだ人の少ない街並みを見下ろしていた。県道から一本入った通りではあるものの日中になればそれなりの交通量となる道ではあるもののまだ通勤中のサラリーマンもそして 信号待ちのセダンも見かけることは無い。時折視界の端に写るのは定年で暇を持て余しているのだろうか、犬を連れた初老の男性や、部活動の朝練に行くのだろう大きなカバンを抱えた自転車をこぐ坊主頭の少年たちの姿だった。まだ人気の少ない目覚め前の町、ゆっくりと暖められていく街を見下ろしていた。

 そんな中でコーヒーを啜る。苦くもそしてどこか酸味のあるいつもの味、体へと染み渡るその香りを血管の中に染み込ませていく。覚醒と、そして 少しの酩酊。ミルクも、砂糖も入れていないブラックコーヒーはいつもより濃い目に入れられていた。少しだけいつもより苦いその風味に薄く笑い、そして、自分の中に残ってた少年のような未熟さに少しだけ恥じ入るように、そして驚いたように苦笑した。眼下では因業に止められていた一台だけの渋滞が流れていく。窓際に置かれた机と椅子、深々とその椅子へと腰かけながら茫然と呟いた。

「世界は反逆に満ち溢れているっ」

 

「馬鹿なこと言ってないで手を動かしてください」

すぱぁん、と小気味よい音とそして衝撃、丸めた書類で彼の頭を叩いたのはまだ年若い女性だった。少女とそして女性としての過渡期に至ったような無垢のようにあどけなくも、どこか蠱惑的な女性だった。童顔気味のその表情ではまだ中学生に見間違えられても不思議はないだろう。トレードマークなのだろう銀縁の眼鏡とそして日本人とも思えない薄い紫色の髪、そして異様なほど白い肌をした女性が眉を顰め恨めし気に立っていた。

「何が反逆に満ちている、ですか。スパルタクスさんじゃないんですから。今そんなことしてる時間なんてないでしょうに」

いつもならば綺麗に揃えられたその流れる様な髪には小さな寝ぐせと頬にはなにかを押しつけていたように赤い跡が残っていた。

「それに、それはただのインスタントコーヒーです。コーヒーメーカーなんて買うお金がないことなんて所長代理が一番よく知ってるんじゃないんですか、第一ブラック何て飲めないでしょうに、砂糖じゃなくてガムシロップ入れてたじゃないですか」

「雰囲気位味あわせてくれよぅ」

「そんな時間はありません、まだ今日の昼までに出さなきゃいけない書類がこんなにあるんですから」

きっぱりという彼女が叩いたのはニ十センチもあろうかという書類の束、それが三つ、そしてさらに指差した先、つまり男の机にも同じほどの書類が積まれていた。

「破壊備品の補填分の保険、壊したガードレールの修繕費、調査に使った古書の購入費決済、エトセトラ、エトセトラ、まだこんなに残ってるんですよ」

「所長もあっちでの事件の経費ならあっちで片づけてくれればいいものを、英語苦手なんだけどなぁ」

そう言って手に取った書類、英語で書かれた書類、軽く見ればどうやら事故を起こしたため車修理のための請求書であるらしい。同時に現地の警察の書状も添えられていることから適切に保険が出るのは間違いない。しかしそれも又、適切に書類が期限内に提出されればの話だった。半年前に所要ということで海外に行って以来、謎の絵葉書しか送ってこない半音信不通であった所長。そんな彼からひと月ぶりに送られてきたのは一抱えもある様な大きな段ボールであった。

「私、大学のレポート課題でも徹夜なんてしたこと無いんですけど」

恨めし気に言う彼女に平謝りするほかはないものの

「所長め」

少女共に睨むのは既に空になった段ボールの送り主、伝票には筆記体でシャーロックと書き記してあった。

「別に書類仕事は良いんだけど、こんな宿題の終わらない夏休みの小学生みたいなことするなんて」

「発送日は二週間前、国際便でも一週間あれば着く世の中ですからほとんど確信犯ですね」

「横着したかないか知らないけど、しわ寄せがこっちに来るのは本当に腹の立つというか、名探偵の雑務を必至扱いてやってるって言うのは何というか水面の下で必死にもがく白鳥の足になった気分だよ」

「それでも箱が来てから三日、放置していた先輩にも非はあると思うんですけど」

「田島のご隠居、飯干の大旦那、川上のおばさん、あと木上の青年団と老人会の助っ人。さすがに三日連続一日中タケノコ堀に駆り出されたら確認する体力も無くなるって」

そう言う彼の手や体には筋肉痛を和らげるシップが張り巡らされていた。

「状況には同情しますけど、私が見つけなかったら今頃保険でなくて破産ですよ、名探偵の事務所が破産なんて聞いたことありません」

「僕もだよ」

「そういえば田島さん猪笹王の系譜でしたよね、息子さんたちも集まれば十分人では足りたんじゃないでしょうか」

大猪の妖怪である田島源一郎の一族であれば普通の人間よりも鼻が利くことは元よりそれなりの数が集まる。元より御年130にもかかわらず180を超える身長とそれに見合っただけの大きな体格にもかかわらず狭い山道を鉄の数珠を揺らしながら達人のように分け入っていく。彼に鍛えられた一族によって毎年タケノコは一掃されていく。そのために例年人手を貸すほどではあったのだ。しかし。

「田島さんち酒蔵でしょ、今年は新しい酒仕込むからってんで手が離せなかったみたい。新しい麹がどうとかって言ってた。それでその対応に追われてたらしくてね。タケノコもすぐに伸びちゃうし、僕が駆り出されたわけさ」

「それで台所にあく抜きされたタケノコがあんなにあったんですね」

「あの量だからね、一日がかりだったよ」

「それで、さらに請求書の開封が遅れちゃったんですね」

「ぐふっ」

「結果的に言えば私たち細菌のためにこんなに追い詰められているのですか」

「まさに菌急事態ってね」

「仕事しましょうか」

「その前に朝ごはん食べない、いいタケノコがあるんだよ」

「朝ごはんぬきです」

「けち」

「一時間前に十分仮眠するって言って一時間寝た人の言葉なんて聞きません」

「マシュだって寝てたじゃない」

「それはそれこれはこれです」

そう言いながらも寝跡には見えない赤い頬が見える。そして聞こえたのはかわいらしい小さな腹の虫が鳴く音だった。

その正直さに少しだけ笑いながらも再びペンを取った。

「さっさと済ませてご飯にしようか」

 

神秘と魔術、そして妖怪の生きる街、鎌倉市、笹ノ下221のロ、世界で唯一の顧問探偵、シャーロックホームズの探偵事務所でゆっくりと炊飯器の白い湯気が立ち上っていた。

 

 

 

山のような速達便を一つ目の郵便局員に任せ、結局朝食兼昼食をあり付けたのは既に午後の一時を回った頃だった。本来の主不在の事務所でようやく炊き上がった釜飯をよそいながら所長代理である藤丸が呟いていた。

「さすがに二徹はきついなぁ」

「やっぱり昨日来てみて正解でした。少しって言ってたのに来てみれば段ボール二箱分の請求書って。サバ読み過ぎですよ。あんなの一人で片づけられるはずないじゃないですか」

取り皿を用意しながらアルバイトであるマシュが少し怒ったように藤丸をたしなめていた。

「それに今日は月曜日だし、大学はいいのかい。ちゃんと出席しなきゃダメだよ。卒業に差し障るのなら所長代理権限を持ってリストラも辞さないからね」

「大学を止めた先輩に言われたくありませんよ。それに月曜日は四限だけなんです。ベルベット先生の民俗学のゼミだけです。そうだ、先生も先輩に良い加減顔を出せって言ってましたよ」

「あの人は本当に面倒見のいいというか。近いうちに顔を出すよ。それに日曜はマシュも勤務時間外だし、バイトならばそう言うところはきっちりしないと。それに今は時間外をつけられるほどの経済的余裕は残念ながら今この事務所には無いのです。なのでどうか今日の分は此のたけのこご飯や煮つけ、チンジャオロースーなどタケノコでの現物支給ということで何卒」

「別に、私が来たくて来ているだけですから気にすることじゃありません。むしろ三日間連続でタケノコ堀のために山を登って、そして徹夜で段ボール三箱の書類を片付けてたなんて体を壊してしまいます。そっちの方が反省案件ですよ」

「そのお怒りもどうか、このタケノコと田島のご隠居様からもらったこの猪野口化粧品の乳液セットでお鎮めくださいませ」

オーバーに五体投地しながら言う藤丸に怒っていた眉を少しだけ緩め笑いながら箸を取った。

「今回だけですからね」

通算二十八回目の言葉を言いながら食卓に着いた二人が手を合わせた瞬間だった。

ピーンポーンと玄関ベルの音が鳴った。

「しまった、お客さんか。ちょっと相手してくるから。マシュは先に食べてて」

対応のために藤丸が箸をおくとそのまま事務所となっている二階へと降りて行った。

「…」

少し膨れた頬のままマシュは箸をおいていた。耳を澄まして二階の会話を聞き取ろうと薄い扉へと耳を寄せる。しかし、予想に反して聞こえてきたのは一つではない足音と、その音が近づいてきているという事だった。

「あれ、マシュ。まだ食べてなかったの」

「先輩」

果たして扉を開けた先にいたのは藤丸と、予想に反して金色の髪と紺碧の瞳をした見知った少女の姿だった。

「邪魔するよ」

小悪魔のようなその表情をした少女は勝手知ったるようにダイニングの椅子へと腰かけた。

「すいません、今遅めの朝、いや、昼ごはんを食べてまして。そうだ、まだいっぱいありますし、昼食がまだならライネスさんもいかがです」

「ほう、釜飯か。うん、日本の伝統料理と言う奴か。少し話も長くなる。いただくとしようか」

 バラの香水の匂いのする可憐な少女の名はライネス・エルメロイ・アーチゾルデと彼女の侍女を務めている水銀のトリムマウだった。藤丸やマシュの恩師であるベルベットの義妹である少女だった。

「おやマシュも来ていたのか」

「ええ、所長から海外で現地警察と一緒に随分と事件を捜査してたみたいなんですけどそれの損害賠償とか修繕費の請求書とか必要経費とかの精算を全部一気に押し付けられまして、昨日からそれの手伝いに来てくれてたんですよ」

「ほう、昨日から若い男女が一つ屋根の下での共同作業をしていたわけか」

「変な言い方をしないでくださいよ。アルバイトに手を出したら今のご時世ではセクハラって言われちゃうんですよ。それに女の子がそんな言い方をしちゃだめですよ。ベルベット先生に言いつけますよ。まったく、近頃の子供って言うのはみんなああなのか」

ぶつぶつと言いながら台所へと引っ込んでいく藤丸の姿を目で追う、しかしマシュの頬は確かにむくれたように膨らんでいた。

「悪いな、マシュ。今日来ているとは知らなかったのでな」

「構いません、本来なら時間外ですし」

「それにそろそろ手でもつないだかと思っていたのだが藤丸の奴もなかなかに堅物らしい。身持ちの堅さ、いいや鈍感さで言うならば私の義兄とどっこいどっこいだな」

「それを言うならいくら硬くてもエルメロイ先生の方が危ないのでは」

「危ないとは」

「グレイさんも最近随分と綺麗になりましたし、イヴェットさんもあの感じですし」

「義兄とて貴族の席に末端をおく身、愛人の一人や二人囲っていてしかるべきじゃないか。男の甲斐性と言う奴だよ」

「それでいいのですか」

その言葉に少女は花が綻んだように笑った。

「なに、もうすでに私のものなのだから何を心配することがあるのか分からないな」

後ろに控えるトリムマウも又少しだけ疲れたようにため息をついたように見えた。

「先輩の鈍感さはそれがいいところでもあるんです」

「これは野暮だったね、すまないすまない」

「何の話をしているんだ」

「なんでもありません」

「いやでも、今俺の名前」

「なんでもありません」

「今」

「何てもありません」

「        はい」

「それじゃあいただこうか」

笑いをこらえきれなかったライネスの言葉と共にいつもより少し姦しい昼食が始まった。

 

 

「火落ち探し、ですか」

 

あらかたの皿が空になった頃、ライネスの口から出てきたのはマイナーな菌の名前だった。ともなった名前だった。

火落ち菌という麹黴の生成するメバロン酸を好む微生物が製造途中で混入すると日本酒は白濁し、腐臭を発し、腐ってしまう。それはつまり数年かけて仕込んだ酒すべてを失う事にもなりうる大事件であった。

「猪の口酒造はしっているだろう」

「ええ、先日もご隠居にタケノコ狩りに呼ばれましたし」

「そうか、なら話は早い」

そう言ってトリムマウから差し出されたのは十枚ほどのコピー紙の束だった。

「その火落ちにあった酒樽というのはな、わが実兄であるケイネスもかかわっていたのだ」

英国の大学にて教授職を賜っているエルメロイ家の現当主、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト、彼のテーマの一つである液体金属とアルコールに関する共同研究のためウェイバー教授の紹介を通じて猪の口酒造と実験樽を設けていたらしい。

「しかし、残念ながら実験樽は火落ちによって全滅し、一年かけた研究もパァだ。それがいったいどういう結果をもたらすか分かるかい」

「生え際が後退するとか」

「先輩、真面目に」

「それならそれでいいんだけどね」

いつもならば小悪魔のように笑うライネスもどこか力ないようにも見える。

「そうですね、簡単に考えればケイネス卿激怒、研究に遅れが生じた原因である猪の口酒造とそこを紹介したベルベット教授の信用がた落ち、ベルベット教室への援助打ち切り、借金まみれ、そして最終的にはコンクリートで埋められて東京湾でスキューバダイビング、もちろんライネスさんは本国へと強制送還という事ですか」

「生徒の厄介ごとならば義兄でも手の出しようがあるのだが、今回はその彼も容疑者の一人というわけだ。容疑者が調査をするわけにもいくまい」

「なるほど、確かに自分の事となるならばあの人はとんと弱い、最前線に立つ最弱の男というのもなかなかにあの人を言い得た言葉でしょうね」

「まったく、歩き始めた赤子よりも目が離せないのは我が義兄位のものだろうな」

「でも教授ならそれでも何か手を打ちそうなものですけど」

少しだけ開き直ったようにライネスは笑った。

「ケイネス兄も決して感情で動く様な人ではないからウェイバーに何かすることは無いのだろうが。それでも養子とは言え一応家督の継承権は二位、ケイネス兄に気に入られたい連中もそしてこれを機にウェイバーを消してしまいたいと考える末端もいる。そのために今は邸宅で軟き…、保護している」

「本当ですね、今日のゼミは休講のしらせがきていました」

マシュの見せるベルベット教授からのメール。その知らせにベルベット教室生徒のラインは水の流れのように次々と書き込まれて行っている。

「ライネスさんが囲ってた方が早いんじゃないですか」

少しきょとんとしたような表情を浮かべ、そしてまた悪魔のように天使のような朗らかな微笑で笑った。

「それじゃあつまらないだろう」

「やっぱりサディストじゃないか」

「何か言ったか」

「いいえ何も」

マシュと共に明後日の方角を見ながら、そして時計を確認すると午後二時過ぎだった。

「個人的にもベルベット教授には恩も感じてますし。受けましょう、調査内容は火落ち菌の発生した原因の調査ということでよろしいでしょうか」

「構わない、本来ならば所長殿にも頼みたかったんだがね。いないものは仕方ない」

藤丸は少しだけ笑った。

「受けた依頼は何でも解決、迷宮入り時間ゼロパーセント。安くて安心ニコニコ会計、シャーロック探偵事務所、所長代理、藤丸立香、この事件お受けいたしました」

 

「お手並み拝見といこうか、名探偵の弟子君」

 

 

 

「それで何か手掛かりはあるんですか」

信号待ちのフィアットの中、助手席に座った藤丸はライネスから渡された資料に目を通していた。

「いいや、これはあくまでただの資料みたいだ。どうやらケイネスはこれまでどんな研究をしたかくらいしか書いていないみたいだ」

資料に記されているのはいずれもケイネスの専門とする有機金属化学や水銀に関する難しそうなレポート郡の様であった。

「まぁそうだろうね」

ライネスの侍女をしているトリムマウも又ケイネスの魔術を流用したものでもある。その魔術的堅牢さはほかに並ぶものも無いと所長が言っていたのを藤丸は思い出していた。

「それにその猪の口酒造との共同研究のことも書いてあるんですか」

「いいや、これに関してはもう発表した論文だけみたいだ。研究内容が漏れたらそれだけで大ごとだし。それにもとより魔術は一般人に秘匿されるもの、この鎌倉だから共同研究なんてしてるけど、他の所ならまずありえないからね」

妖怪と人間が混在し共生している灰色のこの町、其れゆえに神秘との相性も良い。

「ということは結局何も手がかりはないってことですか」

少し不安そうなマシュの言葉に藤丸は軽く笑いながら返した。

「実はそうでもないんだけどね。まぁとりあえずセオリー通りに現場百篇ってことで」

「えっ」

「ほら信号、青々」

「あ、はい」

 

再び走り始めた車がたどり着いたのは長谷寺にほど近い造り酒屋、猪の口酒造であった。

「こんにちは」

出迎えてくれたのは猪の口酒造の田島正弘だった。ライネスから調査を依頼されたことを伝えるとこわばった顔を少し綻ばせた。

「お力になれるかはわかりませんがよろしくお願いします」

そして案内されたのは件の火落ちが発生した樽であった。本体の樽の置かれている蔵とは異なり、比較的近代的な建物だった。

「木の樽なんじゃなくて普通にタンクなんですね」

「蔵の酵母とかもあるから大体はあっちなんだけど、あくまでこっちは試験場なんだ、酒粕の乳液とか化粧水とか最近よく聞くだろう。あれの研究とかもしているんだ」

「なるほど」

「そうだ、製品がようやくできてね。若い女性向けに作っててね。インスタ映えを狙ってるんだ。まだマシュちゃんにも後で試供品を上げようか。第一のテスターってことで」

「いいんですか」

「モニター兼お礼も含めてだね」

「ありがとうございます」

「そういえばここは普通に鍵かかるんですよね」

「あ、そうだねもちろん。一応企業秘密とかもあるし。精密機械だってあるからね一応入らずの結界も張ってるから影抜けとか壁抜けとかそう言うのは出来ないと思うけど」

「防犯カメラとか入退の記録とかは」

「そこまでは出来てないな。一応みんなが帰った後は責任者が施錠するようにはなってる」

「その責任者は誰です」

「私だよ」

正弘の下げているネームプレートには生産開発部主任の文字が印字されていた。

「それで、これが件の試験場」

見上げた先には数十リットル程度は優に入りそうな大きな鉄のタンクが並んでいた。漏斗を逆さまにしたような蓋も現在は開けられており、周りには温度と調節用なのだろうかいくつものパイプとそれに付随する計器が置かれ、外よりも少しだけ気温と湿度が高く設定されているように感じていた。そして案内されたのは蔵の大きな搬入口から外に出た屋根のある野外の倉庫であった。近くに大きな水道があることからここで洗浄を行ったらしい。

「それでこのタンクが問題のタンク」

「これが」

他のものより少しだけ小型なタンクだった。

「中をのぞいても」

タンクの端に備え付けられた梯子を上ると中を除く事が出来た。既に洗浄済みなのだろう。酒精の香りは無く灰にまみれた空っぽのタンクが置かれていた。

「調査してもらっても悪いんだけどやっぱりもう一度外に出して洗浄してしまったからね残ってるのは無いとは思うんだけど、というかむしろ残ってたら大問題だからね。だから殺菌効果のある灰をまだ残してるんだ」

「確かにただのタンクみたいですね」

内側はホーローの光沢を反射しておりそのほかに異常ともいえる箇所は見られない。樽に残ればそのすべての酒を腐蔵させる火落ち菌。木桶ならば残ったかもしれないがホーローのタンクならば丁寧に洗浄すれば今後その発生が起きることも無い。木の香りを重きにして現在でも檜の樽を使っている猪の口酒造ならばぞっとしない話ではあるものの、どうやら最悪の事態は防げたらしい。

「それじゃあ、事件のあらましを説明してもらえませんか」

タンクの検分の後、神妙な顔となった田島はゆっくりと口を開いた。

 

 事の発端は一年前、ベルベット教授の紹介でケイネス卿を紹介されたことだった。

「守秘義務もあるから一応詳しいことは言えないんだけど、ケイネス卿の月霊髄液の拡張のための実験をしていたんだ」

「酒とかかわりがあるのですか」

「詳しいところを僕は知らないんだ。これは元々姉の雅美が主にやっていたことでね。研究についての詳しいことは聞かされてない。ただ管理を任されていたに過ぎなくてね」

「背も酒に水銀なんていれたら駄目でしょう飲めなくなりますよ」

「そこはまぁこっち側ってことだ」

妖怪の住む町、そしてここは鎌倉の時代から妖怪の営む酒造。それはつまり魔術世界の案件でもあるという事。

「なるほど、野暮なことを聞いてケイネス卿の恨みをかかっても仕方ありませんか」

「そうしてくれると助かるかな」

何はともあれ昨年から始まったのは月霊髄液との親和を行えるアルコールの醸造であったらしい。小さな月霊髄液を漬け込んだ新たなアルコールの生成。無数の失敗と、少しだけの成功を積み重ね、そしてその集大成として醸造されていたのがネクタルと名付けられたその酒であったらしい。

しかし、四日前の午後、突然コンピュータに異常数値が現れ、確認してみると、既に酒は白濁し死蔵していた。

「データは常にコンピュータに送られていたし、毎日目視での確認もしていた、適切に火も入れていたから火落ちが発生するはずは無いんだ」

「しかし、その酒が腐蔵してしまった」

その言葉に田島は肩をすくめうなだれていた。

「ならば部外者によって混入されたという事でしょうか」

「でもそうとも言えないんだ」

マシュはその言葉に少し不思議そうに尋ねた。

「発生するはずが無いのならば悪意ある誰かによって入れられたという事ではないのでしょうか」

「今はあの蓋も空いているけれど、実際に発生したときには蓋はしまっていたし、実験中は誰の手でも開けられない様になっているんだ。誰の手にも入れられないし一応換気口というか発酵物だから外から空気が入っては来れるけど、底から火落ちの入った培養液とかを入れるのは物理的に不可能だし」

田島の指差しした先に葉確かに吸気口と思しき穴は開いている先は歪曲しているらしく中に届くことは無く、同時に手を撒き着込まない様にと金網が被せられていた。

「水鉄砲とかで入りませんかね」

下を向いている吸気口から水鉄砲で培養液を入れるとでもしなければ届きそうはない。

「でもまずこのまま直接樽に入るわけじゃなくて奥にもいくつかフィルターがあるんだ、それに管の中に残っていたとしても火入れが起きれば火落ち菌は死滅するし」

「存在するはずのない火落ち菌が何故か存在していた。先輩、つまりこれは密室ですっ、密室殺人ですよっ」

「殺人ではないんだけど」

興奮したマシュを田島が苦笑いでたしなめていた。藤丸は残された樽を見ながらその話を聞いている。

「田島さん、タンクはどのように洗浄したので」

「出来るだけ中身をまき散らさない様にタンクからそのまま貯水車に移して、中身を出した後に灰と殺菌剤を入れてから洗ったかな。火落ち菌をまき散らしたくはないからね」

「ふたにも少しだけ掃除の痕が残ってますけど、ふたにつくくらいまで多く作ったんですか」

タンクの三分の一ほどの高さのところから上と蓋には水に含まれていたミネラルの水垢のような跡が少しだけ残っていた。

「実験品だしタンクの半分も作ってないんだけどな。掃除係がさぼったかな」

「衛生的には大丈夫なのでしょうか」

「ちゃんと掃除してあるし、こういうのは使って行けばどうしても溜まってしまうからね。衛生的には問題なくても気持ちのいいものでもないしこれは後で叱らなくちゃ」

「それで一応聞きますけど、事故が起こった日の皆さんの居所などを教えていただければ」

マシュは手帳を手に意気込んでいた。アリバイ調査というものに張り切っているのが分かりやすくもある。

「欠勤の人とかもいなかったかな、社長は出張でその前の日から水戸の方に行ってたみたいだけどそのくらいかな」

「それではここに入れたのは誰かいますか」

「製品開発部の部員は入れたし、他の社員もいろいろと用事で入ってくることはあるけど、特にあのたるに近づいて行った人もいなかったなぁ」

「つまり事件を起こした人は見られないと」

「正直言ってそうだね、だから分からないんだ。自己なのか事件なのか、酒造にとって腐蔵はいうなれば死活問題さ。今回の一件も共同研究中の秘匿事項だったから他に流れずに九死に一生を得たようなものだけど、これが猪の口の樽にまで行ったらおしまいだよ。ただでさえ今は避けの消費も減って化粧品とか作って多角経営も軌道に乗り始めたんだ。ここでまた原因不明の火落ち騒ぎ何て出してしまったら今度こそ終わりなんだ、それにまだエルメロイ家から損失分の借金を迫られたら首をくくるしかない。だから頼む」

「顔を上げてください、正弘さん、お約束します、必ずその犯人を突き止めて見せますから、ね、先輩」

深々と頭を下げ、地面にすら頭をつけようとしてくる田島にマシュはあわてて藤丸へと同意を求めた。

「あ、はいはい、私がこの一件を解決して見せましょうとも」

藤丸は少し苦く、しかし確かに笑った。

 

「あそこが姉さんの席」

タンクの調査から戻り、通されたのは事務所の中の一室、経理と書かれている部屋。その扉を開けると途端に無音の空間が広がっていた。いいや正確には無音ではなく、確かにパソコンの駆動音や、キーボードの発する小さな音、電灯の弾ける小さな電子音はするものの居ようにも人の呼吸音や気連れといった生活音が小さいのだ。それはまるで大きな獣に睨まれた小動物のように震えているような印象を受ける。ならば、見回せば簡単にその肉食獣は見つかった。部屋の最奥、他の社員たちよりも大きな机に齧りつくのは三十代手前といった女であった。身だしなみには気を付けているのかすっきりとまとめられているものの作業着にはいくつかの皺が寄り、そして目には些かのくまが浮かんでいる。ここ数日は眠れていないようなそんな印象を受ける女だった。どうやら彼女から漏れ出でるその気配がこの部屋に充満しているようだった。

「雅美姉さん」

正弘の声に過剰に驚いたように震えあがり、そしてその声の主を見つけると少しだけ安堵したように視線を向けてきた。

「藤丸君が調査員なんてね」

「お久しぶりです」

「悪いわね迷惑かけて」

その言葉に併せる様に電話が鳴った。その音にはた目から分かるほどの恐怖に震えているようだった。アーチボルト家への実質的な窓口となっている雅美、いうなれば今回の事件の最もの責任者ともいえる。元々気の強い人では無いもののその姿はやはり哀れにも見えた。

「これに成功すればエルメロイ家からの援助も得られるし礼装の供給源にもなる。これで経営も安定すると思ってたんだけどなぁ」

「その今回の実験についてお聞きしたいんですけど」

「こっちよ」

部屋に通された先、お茶と酒粕饅頭を手に雅美は話し始めた。

「私もすべてを知っているわけじゃないの。月霊髄液はエルメロイ家の至宝、あくまで私たちが作ろうとしていたのはそれの拡張用のための新たな血液」

「酒を血液にするんですか」

大きく頷いた雅美は少しだけお茶で口を潤した。

「ケイネス卿は使い魔を作ろうとしていたみたい。キリスト教ではパンが偉大なる種の肉を、そして葡萄酒がその血を表す。だから葡萄酒ではなく青冴えと形容される微かに青みがかった日本の酒を使うことで高貴なるブルーブラッドとしての血液を作り、その血を用いることで月霊髄液に意識を当て、自分のバックアップを作ろうとしていたの」

「人の複製なんて魔法の領域ではないですか」

大きく答えたマシュに雅美は首を振る。

「そんなに高度なことではないの。あくまで記憶と思考力の拡張、いいや補填といった方がただしいかしら。あくまで消えていく記憶の整理と補完そして自己の対話をより完璧なものにするためだけのものよ。いうなれば外付けハードディスクみたいなもの。それがあの鉄平のスライムに着いたらさらに便利でしょ」

「確かに経験値はおいしそうですね」

「でも、あくまでもバックアップに過ぎないからあの天才からしたらつまらないもの。あくまで緊急用のためにもの。必要不可欠というわけではないのよ。だから失敗すればいつでも切る仕手られる程度のもの」

「姉さん」

「ごめんなさい、あなたたちに言う事では無かったわね」

少しだけ自虐したような彼女の言葉を正弘はたしなめた。

「でも、試験片まで紛失した何てどう説明すれば」

「えっ」

「ほう、試験片とはネクタルにつけていた月霊髄液の事ですか」

「ええ、清掃の時に流されていたとは考えにくいけどタンクを開けた時にはもう中にはどこにもなくて」

「なるほど、それで正弘さんの反応がやっとわかりました」

実験ならば複数の失敗など日常茶飯事と言える。現に既に数えきれないほどの失敗を経てネクタルの製法を編み出したのならば一度の腐蔵程度にしては幾分過剰な反応にも思えたのだ。

「魔術師の秘奥を流出されてしまったりしたらどれだけの負債を抱え込んでしまうことになるか。会社を売りにだしても到底…」

さらに俯く彼女にマシュは欠ける言葉も持たなかった。

「藤丸の坊主が来ているというのはここかぁ」

消え入るような雅美の声を消し去るように響いてきたのは轟く様な男の声だった。足音まで聞こえる様なその声の主は破る様にドアを開けるとその巨体を揺らしながら応接室まで入って来た

「先日のタケノコがりと言い何やらまた迷惑をかけてしまっているようだな」

「構いませんよ、仕事ですから」

大きな手で藤丸とマシュの頭を子供の様に撫でるのは身長二メートル五、体重九十二キロという格闘家と言わんばかりの巨体を持った猪の口酒造の副社長、田島健太郎だった。

「何、もし分からずとも賠償を背負ったとしても昔からのように酒を造り売ればよいだけのことだ、だからいい加減お前もそんな顔をするな。雅美よ」

そうたしなめるもやはり彼女の表情はすぐれなかった。

「まぁいい、とりあえず私はまた出かけてこなければならんのでな、ゆっくりしていくといい」

そして雅美の酒粕饅頭を一つ口に放り込むと健太郎はそのまま嵐のように出て行ってしまった。

「やはり剛毅というか、猪突猛進というか。すごい人ですね」

「まぁね、経営的にも精神的にも今の状態が保たれているのも兄さんの影響は大きいからね。ちょっとたまに心配にはなるけど」

その苦笑には確かに健太郎への信頼が溢れているように見えた。

 

大吟醸猪の口をお土産に持たされ、フィアットに乗り込んだのは既に午後四時半を過ぎていた。西の空に傾いた太陽がオレンジ色に染まって車内に入り込み白いはずの資料にも黒と橙色の斑が浮かび上がる。

「結局、犯行は不可能ということだけが証明されてしまいましたね」

「元よりそんなことだろうとは思っていたけどね」

藤丸は手にしていたペンで雑記帳に覚書を綴っていく。

 

ありえるはずのない火落ち

自然に発生するはずはなく

誰かに入れることも出来ない

 

熟成中のネクタルとその中に入れられた月霊髄液

 

神の血液と高貴なるブルーブラッド

 

葡萄酒と日本酒

 

腐敗と人工的な頭脳の補完

 

般若湯

 

火落ち

 

残された痕跡

 

汚れた蓋

 

知らない情報

 

有り得ない試供品

 

変わった性質

 

そして無垢なるの香り

 

違和感が揃ってしまえばあとはただ点と点を繋ぐだけ

それはつまり

 

謎は全て解けた。

 

 

「なるほど、しかし」

藤丸は手にしていた雑記帳とペンを放り投げると、そのまま座席を目いっぱい倒し、寝転がるように仰向けになった。

「面倒くさいなぁ」

「何か分かったんですか」

「分かったというか、分かりたくないというか、分かりたくなかったというか」

「ホームズさんみたいな言い方しないでくださいよ」

「一応、師匠でもあるからそこを否定されたら僕としてもどうしようもないんだけどね」

「それで何が分かったんです」

「そうだね、それじゃあ一度やってみたかったことがあるんだけど言ってみて良いかい」

「じゃあいいですよ」

「怒らない」

「怒りません」

「いい知らせと悪い知らせがある。どっちから先に聞きたい」

「アメリカの映画でも見たんですか、それでじゃあいい知らせから」

「謎が解けた」

「悪い知らせは」

「あと五秒以内にハンドルを切らないと死ぬ」

「えっ」

その声を消し去るように聞こえたのはフロントガラスが割れる甲高い音だった。

「何っ」

「いやぁ、なるほど、それにしても直接的な手段に出すぎてるんじゃないのかな」

「直接的な手段って、何が起きてるんですか、誰に狙われてるんですかっ」

割れたバックガラスの先から見えるのは黒い車と、そしてその屋根から突き出たライフルの柄だった。

「黒づくめで見えないけれど、多分エルメロイ派の魔術師だろうね。僕たちが紛失した月霊髄液の試験片を持っていると思われたんじゃないかな」

「そんな、ライネスさんに調査依頼をされたんですよっ、なんでエルメロイ派が」

「エルメロイ派も一枚岩じゃないってことだろうね、まぁ今回はどうか分かんないけど」

「そんなことって」

銃弾の飛び交う音が聞こえ、時折車体に穴をあける嫌な音が響てくる。修理費でどれだけの予算が飛ぶだろうか。雀の涙ほどの貯蓄が飛んでいく音がした。

「今度ゲーム機買う予定だったのになぁ」

「ゲーム機より、命の方を優先してくださいっ」

エンジンの咳き込む音を聞きながらブレーキの焼ける匂いを嗅ぐ。安物の中古車とは言え元デミサーヴァントにかかれば多少の無茶は効くらしい。

「さすが騎乗A+だっけ」

「持ってませんよっ、茶化さないでください、集中してるんですからっ」

球を寸でのところで避けていく。依然としてその雨が止むことは無く、その攻防が途切れることは無い。

しかし、唐突に音が止んだ。振り向けばライフルの代わりに出てきたのは遠目にも分かる細長い円筒状の武器

「ロケラン何て出してんじゃないよっ」

耳を劈く轟音、其れに聞こえることも無い程のエンジンは住んでのところで車体をスリップさせた。一時的、急激に下がったスピード、あまりにも発射点と近づきすぎたその砲撃は車の前方五メートルのところで炸裂し、その黒煙の中へと突っ込んでいった。

「先輩っ生きてますか」

「何とかね」

頬を煤で黒く染めながらも突き抜けたその先、しかしミラーにはまたしても新しい球が装てんされようとしていた。

「もう、弾代だって馬鹿にならないのに」

藤丸はそう言って左脇のホルスターから取り出したのはコルトパイソンだった。

 

「頼むぜ、キッド。我は魔を穿つ銀の弾丸、全知無能の代行者なり。

 

ねぇ今の宝具っぽくなかった。この前考えたんだ」

「分かりましたからっ、早く打ってっ」

「はいはーい」

少し不貞腐れながら目指す先は、黒塗りの高級車のタイヤ。

引き絞られた引き金、

撃鉄が叩く

44口径のマグナムのマズルフラッシュが一瞬にして辺りを白く染め上げ、

既に日の落ちた辺りを照らした。

空気を裂く銀の弾丸、

摩擦を起こし大気を焼くその一線は確かにその黒いタイヤへと吸い込まれていった。

次の瞬間、衝撃音と共に聞こえたのは後続の車両がスリップしたような甲高い音と何かが割れたようなそんな音だった。

「何とかなったのでしょうか」

少し荒れた息を整えながらバックミラーを確認するマシュは安堵したように一つ深呼吸をしていた。

「なってない、全然なってない。今回の報酬で足りるかな、修理代」

しかし、隣には涙で濡れる男が一人。

「ライネスさんにもうちょっと上乗せしてくれるように私も頼んであげますから、ね」

「そうしようか、ベルベット先生の無実の証明なんだから先生にも慰謝料を吹っ掛けよう。マシュの分も合わせて二人で豪遊だっ」

「貧困とはこうも人を変えるのですね」

「冗談だよ、ちょっと悲しくなるからしみじみ言わないでよ」

ようやくパイソンを胸元に仕舞いながら再び正面を向いた。

「それにその請求も、やることやってからかな、それじゃちょっとここに行ってもらえるかな」

その言葉にマシュは少しだけ高揚したように頬を赤く染め大きく返事をした。

「解決編ですねっ、マスターっ」

「そう直接言われると恥ずかしいからやめてよ」

夜の闇の中に一台のフィアットが消えていった。

 




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