由比ヶ浜にタピオカを奢ったら、みみみに※※された。   作:菓子子

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十話『予』

「ガリ勉」

 

 ありきたりで、且つ言い得て妙なニックネームで呼ぶ人は後にも先にも彼女しかいない。

 

「……由比ヶ浜」

「そそ、神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸の名称こと、あたしの苗字は由比ヶ浜」

「うん」

「……やっと憶えてくれたじゃん」

「ああ」僕は頷いた。「地理のいい勉強になったよ。本当にありがとう」

「わー……ブレないねー……」

 

 靴を履くために、玄関前の靴箱に手を掛けていると、後ろから声が掛けられて。

 振り向くと、いつも通りの和やかな笑みを湛えた由比ヶ浜が、後ろで自身の手を繋ぎながら立っていた。……今は何故かドン引かれてしまっているみたいだけれど。

 

「お見送りか?」

「うん。そだよ」

「……お、おお。そうか」

 

 そう素直に言われてしまうと、ドギマギせざるを得ない。

 ということはつまり、玄関前で待ってくれていたのか。きっとそうだろう。多分。……そうだったらいいなぁ。

 

「本当に行っちゃうんだね」

「おお。……」

 

 『寂しいか?』という直截的すぎる質問を飲み込んで。

 少しだけ考える。

 

「由比ヶ浜がちゃんと卒業できるか見届けられないから心配だ」

「いやいや、留年とかしないから」

「本当に?」

「……う、うん!」

「言い淀んじゃったし、言い詰まっちゃったし、目も逸らしちゃったよ」

 

 三拍子揃っている由比ヶ浜が可笑しく思えて来て、我慢し切れずに笑い声を零すと。

 「もー」と言いつつも、由比ヶ浜も笑ってくれた。

 よかった。こちらはシリアスになりそうにない。

 

「……あ。そういえば、ゆきのんちゃんと奉仕部に戻って来たよ」

「そっか」

「ガリ勉の言う通りだったね」

「うん」僕は頷いた。「時間が解決してくれることも、少なからずあるから。今回がたまたま、そうだったんだろう。……自分があまり友達のいない人だから、なんとも言えないけど」

「うん。……でも、本当にそれだけ、なのかな」

「……え?」

 

 適当に流そうとしていると、由比ヶ浜は笑顔をその顔に留めながらも、少しだけ、眉をひそめるようにして。

 

「本当に、ゆきのんが戻ってきてくれたのは、時間が解決してくれたからだって思ってる?」

 

 由比ヶ浜は僕に聞く。

 ……多分。

 

「……」

 

 きっと、僕を疑っている。

 僕が雪ノ下に何か根回しをした可能性を勘ぐっている。きっと、奉仕部での雪ノ下との会話で違和感に気づいたのだろう。

 僕は。

 

「あぁ、うん」

 

 素直に頷いた。

 その首肯で、『僕は何も知らない』ことが由比ヶ浜に伝わればいい。もしくは、『知っているけれど、由比ヶ浜に伝えるつもりはない』意志が伝わってもいい。

 雪ノ下と由比ヶ浜は友人だ。きっとこのまま仲良くなれば、雪ノ下本人が抱える悩み事に気づいたり、打ち明けられたりすることはあるはずだ。

 だから僕は何も言わない。言うべきじゃない。情報をフライングゲットさせるべきじゃない。そもそもこんなカミングアウトを望んでいる人なんて、世界中のどこを探してもいない。

 

「……そっか。ごめんね? 変なこと訊いて」

「ううん」

 

 そんな僕の反応をどう受け取ったのか、由比ヶ浜は僕に謝る。

 気にしてないことを伝えるために、僕は首を横に振って。

 少しの間が空いた。気を紛らわすために視線を右往左往させてはみたものの、結局彼女の顔に戻ってくる。

 茶髪の前髪が揺れる。その髪が目に入るのを嫌って、色素のやや薄い瞳を瞼の内に隠す。

 けれども数刻もしない内に、まるで予定調和みたいに戻って行く。

 いつも僕に向けてくれる笑顔。見るだけでホッとして、しかし内心ドキドキしてしまうような、そんな相反した感情にさせられる素直な表情。

 それも今日で見納めだ。

 だから今日くらい、少しだけ多めに見ても、許されるんじゃないか。

 ……と、その辺りの背伸びで折り合いをつけるはずだったのに。

 どうしても、『それをまだ見ていたい』という、どうしようもない欲望が疼いてしまうんだ。

 

「……あっ、あのさ」

「……」

「これ、タピオカ代。渡しそびれちゃってたね……って、ガリ勉? 聞いてる?」

「……っ」聞いてなかった。「あ、あぁ。なにこれ。貰えるの? 別れの餞別?」

「せんべつ? や、違うと思う……前、タピオカ代貸してくれたじゃん? 返しとかなきゃって、思って」

「なるほど」ようやく合点がいった。「別に、よかったのに」

「まーまーそう言わずに、ね?」

 

 言って由比ヶ浜は、ぶら下げていた僕の左手を腰の高さまで持ち上げて、その手のひらに小銭を乗せる。

 唐突な距離の詰められ方に思わずたじろぐ。

 たじろいたことを気取られないよう、なんとか二の足で踏ん張った。

 

「はい。これ」

「あ……」

 

 そして、由比ヶ浜の手が僕の手から離れる。

 離れてしまう。

 

「…………あの、さ、由比ヶ浜」

 

 言わないはずだったのに。

 伝えちゃダメなはずだったのに。

 口をついていた。

 

「……うん? どしたの?」

「言いたいことが、あるんだけど」

 

 僕の胸の高鳴りとは無関係に、由比ヶ浜はキョトンとしたままで。

 まだ引き返せる距離で。

 でも、寂しいと思ってしまった僕の口はもう、止められそうになくて。

 僕は。

 

「僕さ……」

「あっ、ヒッキーじゃん」

 

 すんでのところで、由比ヶ浜は明後日の方向に視線を移した。

 思わずそちらを向くと、奉仕部で見た眠たそうな同級生が、マッ缶を片手に持ちながらこちらに歩いてくるところだった。

 

「げ」

「げ、とはなんだ、げって。……もしかして部活、サボろうとしてない?」

「してねーよ。別に、明日発売のゲームをフラゲ日に買って、その日にクリアしようとかいう計画とか立ててねーよ」

「一部始終語ってるし……」

 

 ゲンナリする由比ヶ浜と、人目も憚らずにマックスコーヒーを音を立てて吸い上げる彼と、途端に会話という名の蚊帳の外に放り出される僕。

 頭の熱は既に引いていた。

 …………あっっぶねぇ、マジか。由比ヶ浜をただ困らせてしまうところだった。

 知らない世界線に入ってしまうところだった。

 でも、このやり取りで……二つだけ、知ってしまったことがある。

 

「……」

 

 一つ目は、どんなに普段冷静に努めようとしていても、いざという時には全くてんで使えない脳みそになってしまうこと。

 

「あっ…そいえばガリ勉、何だっけ?」

「ああ、いや、なんでも。……さようなら。えっと……ヒッキーも、世話になった」

「お、おぉ……誰だっけ?」

「えっ、ちょ、ちょっと待っ…………ば、ばいばい!」

 

 二つ目は、由比ヶ浜がヒッキーに対して。

 僕に向けたことのない笑顔を見せていたことだ。

 だからきっと、それだけで解としては十分で。

 議論の余地がなく、自分の言葉の続きを言うことが許されていたとしても、結末が変わっていなかったことは明白で。

 

「あぁ」

 

 僕は校門を出てから、早足で家路を急ぐ。

 

「……分かってたよ」

 

 だから悲しくない。悔しくもないし、涙も出ない。

 

「分かってたんだ……」

 

 どう努力しても今の僕じゃ振り向いてくれないこと。

 僕が主人公にはなれないこと。

 担任の先生に導いてもらえないこと。結局自分でなんとかするしかないこと。

 自分のことは自分が一番理解しているから。

 分かっているから、予想通りのことが実際に起きたところで、何の感慨も湧かないし、興ざめもいいところだし、なんなら無感情以外何もないはずで。

 

「……ふ、」

 

なのに。なのに。なのに。

 

「……ぅ、く」

 

 この胸が張り裂けそうなくらいに痛いのは……なんで?

 

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