由比ヶ浜にタピオカを奢ったら、みみみに※※された。 作:菓子子
「ガリ勉」
ありきたりで、且つ言い得て妙なニックネームで呼ぶ人は後にも先にも彼女しかいない。
「……由比ヶ浜」
「そそ、神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸の名称こと、あたしの苗字は由比ヶ浜」
「うん」
「……やっと憶えてくれたじゃん」
「ああ」僕は頷いた。「地理のいい勉強になったよ。本当にありがとう」
「わー……ブレないねー……」
靴を履くために、玄関前の靴箱に手を掛けていると、後ろから声が掛けられて。
振り向くと、いつも通りの和やかな笑みを湛えた由比ヶ浜が、後ろで自身の手を繋ぎながら立っていた。……今は何故かドン引かれてしまっているみたいだけれど。
「お見送りか?」
「うん。そだよ」
「……お、おお。そうか」
そう素直に言われてしまうと、ドギマギせざるを得ない。
ということはつまり、玄関前で待ってくれていたのか。きっとそうだろう。多分。……そうだったらいいなぁ。
「本当に行っちゃうんだね」
「おお。……」
『寂しいか?』という直截的すぎる質問を飲み込んで。
少しだけ考える。
「由比ヶ浜がちゃんと卒業できるか見届けられないから心配だ」
「いやいや、留年とかしないから」
「本当に?」
「……う、うん!」
「言い淀んじゃったし、言い詰まっちゃったし、目も逸らしちゃったよ」
三拍子揃っている由比ヶ浜が可笑しく思えて来て、我慢し切れずに笑い声を零すと。
「もー」と言いつつも、由比ヶ浜も笑ってくれた。
よかった。こちらはシリアスになりそうにない。
「……あ。そういえば、ゆきのんちゃんと奉仕部に戻って来たよ」
「そっか」
「ガリ勉の言う通りだったね」
「うん」僕は頷いた。「時間が解決してくれることも、少なからずあるから。今回がたまたま、そうだったんだろう。……自分があまり友達のいない人だから、なんとも言えないけど」
「うん。……でも、本当にそれだけ、なのかな」
「……え?」
適当に流そうとしていると、由比ヶ浜は笑顔をその顔に留めながらも、少しだけ、眉をひそめるようにして。
「本当に、ゆきのんが戻ってきてくれたのは、時間が解決してくれたからだって思ってる?」
由比ヶ浜は僕に聞く。
……多分。
「……」
きっと、僕を疑っている。
僕が雪ノ下に何か根回しをした可能性を勘ぐっている。きっと、奉仕部での雪ノ下との会話で違和感に気づいたのだろう。
僕は。
「あぁ、うん」
素直に頷いた。
その首肯で、『僕は何も知らない』ことが由比ヶ浜に伝わればいい。もしくは、『知っているけれど、由比ヶ浜に伝えるつもりはない』意志が伝わってもいい。
雪ノ下と由比ヶ浜は友人だ。きっとこのまま仲良くなれば、雪ノ下本人が抱える悩み事に気づいたり、打ち明けられたりすることはあるはずだ。
だから僕は何も言わない。言うべきじゃない。情報をフライングゲットさせるべきじゃない。そもそもこんなカミングアウトを望んでいる人なんて、世界中のどこを探してもいない。
「……そっか。ごめんね? 変なこと訊いて」
「ううん」
そんな僕の反応をどう受け取ったのか、由比ヶ浜は僕に謝る。
気にしてないことを伝えるために、僕は首を横に振って。
少しの間が空いた。気を紛らわすために視線を右往左往させてはみたものの、結局彼女の顔に戻ってくる。
茶髪の前髪が揺れる。その髪が目に入るのを嫌って、色素のやや薄い瞳を瞼の内に隠す。
けれども数刻もしない内に、まるで予定調和みたいに戻って行く。
いつも僕に向けてくれる笑顔。見るだけでホッとして、しかし内心ドキドキしてしまうような、そんな相反した感情にさせられる素直な表情。
それも今日で見納めだ。
だから今日くらい、少しだけ多めに見ても、許されるんじゃないか。
……と、その辺りの背伸びで折り合いをつけるはずだったのに。
どうしても、『それをまだ見ていたい』という、どうしようもない欲望が疼いてしまうんだ。
「……あっ、あのさ」
「……」
「これ、タピオカ代。渡しそびれちゃってたね……って、ガリ勉? 聞いてる?」
「……っ」聞いてなかった。「あ、あぁ。なにこれ。貰えるの? 別れの餞別?」
「せんべつ? や、違うと思う……前、タピオカ代貸してくれたじゃん? 返しとかなきゃって、思って」
「なるほど」ようやく合点がいった。「別に、よかったのに」
「まーまーそう言わずに、ね?」
言って由比ヶ浜は、ぶら下げていた僕の左手を腰の高さまで持ち上げて、その手のひらに小銭を乗せる。
唐突な距離の詰められ方に思わずたじろぐ。
たじろいたことを気取られないよう、なんとか二の足で踏ん張った。
「はい。これ」
「あ……」
そして、由比ヶ浜の手が僕の手から離れる。
離れてしまう。
「…………あの、さ、由比ヶ浜」
言わないはずだったのに。
伝えちゃダメなはずだったのに。
口をついていた。
「……うん? どしたの?」
「言いたいことが、あるんだけど」
僕の胸の高鳴りとは無関係に、由比ヶ浜はキョトンとしたままで。
まだ引き返せる距離で。
でも、寂しいと思ってしまった僕の口はもう、止められそうになくて。
僕は。
「僕さ……」
「あっ、ヒッキーじゃん」
すんでのところで、由比ヶ浜は明後日の方向に視線を移した。
思わずそちらを向くと、奉仕部で見た眠たそうな同級生が、マッ缶を片手に持ちながらこちらに歩いてくるところだった。
「げ」
「げ、とはなんだ、げって。……もしかして部活、サボろうとしてない?」
「してねーよ。別に、明日発売のゲームをフラゲ日に買って、その日にクリアしようとかいう計画とか立ててねーよ」
「一部始終語ってるし……」
ゲンナリする由比ヶ浜と、人目も憚らずにマックスコーヒーを音を立てて吸い上げる彼と、途端に会話という名の蚊帳の外に放り出される僕。
頭の熱は既に引いていた。
…………あっっぶねぇ、マジか。由比ヶ浜をただ困らせてしまうところだった。
知らない世界線に入ってしまうところだった。
でも、このやり取りで……二つだけ、知ってしまったことがある。
「……」
一つ目は、どんなに普段冷静に努めようとしていても、いざという時には全くてんで使えない脳みそになってしまうこと。
「あっ…そいえばガリ勉、何だっけ?」
「ああ、いや、なんでも。……さようなら。えっと……ヒッキーも、世話になった」
「お、おぉ……誰だっけ?」
「えっ、ちょ、ちょっと待っ…………ば、ばいばい!」
二つ目は、由比ヶ浜がヒッキーに対して。
僕に向けたことのない笑顔を見せていたことだ。
だからきっと、それだけで解としては十分で。
議論の余地がなく、自分の言葉の続きを言うことが許されていたとしても、結末が変わっていなかったことは明白で。
「あぁ」
僕は校門を出てから、早足で家路を急ぐ。
「……分かってたよ」
だから悲しくない。悔しくもないし、涙も出ない。
「分かってたんだ……」
どう努力しても今の僕じゃ振り向いてくれないこと。
僕が主人公にはなれないこと。
担任の先生に導いてもらえないこと。結局自分でなんとかするしかないこと。
自分のことは自分が一番理解しているから。
分かっているから、予想通りのことが実際に起きたところで、何の感慨も湧かないし、興ざめもいいところだし、なんなら無感情以外何もないはずで。
「……ふ、」
なのに。なのに。なのに。
「……ぅ、く」
この胸が張り裂けそうなくらいに痛いのは……なんで?