由比ヶ浜にタピオカを奢ったら、みみみに※※された。 作:菓子子
顔を真っ赤にして、その顔を両手で覆っている由比ヶ浜さんのことは、ひとまず置いておくとして。
僕はそのテスト用紙を眺めてみる。
数学か……円の方程式とか、解と係数の関係とか、その他諸々。この分野は、テストを終えた感想としては、図形と方程式……なんてざっくばらんに纏められている通り、あまり込み入った話や概念はなくて、理解力や論理思考力より、単純な暗記力が物を言う範囲……だったと思う。軌跡はあまり理解していない部分もあったけれど、なんとかノリで乗り越えることはできた気がする。
でも……。
「由比ヶ浜さん」
「え、な、なに?」
「数学のテスト勉強、ちゃんとした?」
「ギクッ」
「いざ勉強始めようって時に、スマホ開いたり、机の上の整理とか始めなかった?」
「ギクギクッ」
「『テスト勉強できないー(><)』なんて文面、インスタとかツイッターに投稿しなかった?」
「ギクギクギクッ」
図星らしい。
……ていうかこの構図、勝手にテスト用紙を見た人が、勝手にその結果について説教をしているそれになってないか。
「……あ、いや……」
さながら炎上したツイッターの投稿のリプ欄のような所業に、自分が恥ずかしくなる。
「なんでもない。えっと……ごめん、勝手に結果見ちゃって」
「あ、うん別に……って、よくないし!」
うん、よくないね。
座っている由比ヶ浜の元に寄って、おずおずとその紙を返す。
閑話休題だ。
「……で、」
渡した紙を、由比ヶ浜は丁寧に鞄の中にしまいながら、僕を見た。
「……ええと、その」
由比ヶ浜さんは、何か考え込むように頭を掻きながら下を向いている。
流石に察することができたので、質問される前に名乗っておこうか。
「佐倉葉一」
「え?」
「僕の名前」
「……ああ! 佐倉くん……ね、オッケー。……でも、どっかで聞いたような……?」
「クラスメイトだからかな」
「……ハッ」
しまった、と目を見開く由比ヶ浜さん。……分かりやすい人だな。
でも確か、僕がこの学校に来て初めて教室で自己紹介した時、あんな特徴的なピンク色がかった茶髪の人は見かけなかった気がする。一番僕が印象にのこる日に、体調不良か何かで休んでいたとしたら、それはそれで仕方のないことだろう。
「でも、なんかまだ忘れてる気がするんだけど……なんだっけ」
何か気になることをボソリと呟いた由比ヶ浜さんは、そんな気になることを振り切るように、一つ首を振った。
「ま、いいや。えっと……なんでここに来たの?」
「あ、ええと」平塚先生から話は通っていないのか。「平塚先生に、ここに行けって」
「なんで?」
「なんでって……相談を聞いてもらえるって、平塚先生に聞いたから」
「そうだん……ハッ、ああ、奉仕部!」
何かを思い出したのか、由比ヶ浜さんは左の手のひらを、右の握りこぶしでポンと叩く。
奉仕部?
「あー……いや、今ちょっと、ヒッキー帰ってなくて」
ヒッキー?
「ゆきのんも最近顔出してくれないし……」
ゆきのん……?
僕が知ってる前提で話されている、謎の固有名詞が多すぎる。そんなに伏線めいた謎単語を沢山ばら撒いて大丈夫か……。
ともかく。
「由比ヶ浜さんもここの部員なんだよね?」
「そだよ。……ってか、別に由比ヶ浜でいいから」
「分かった」僕は仰々しく頷いた。「じゃあ、僕のこと佐倉で」
「うーん...」
「どうしてそこで難色を示すのかな...?」
由比ヶ浜は何故が、僕の名前を苗字で呼ぶことに納得がいっていないらしい。
しかし、他の呼び方が見つからなかったようで、しぶしぶ由比ヶ浜は口を開いてくれる。
「佐倉君は……ぇ、ええと?」
「はい?」
「佐倉くんだよね?」
「はい」
「あの?」
「どの?」
急に、僕の苗字の前に『that』が付けられた僕を他所に、由比ヶ浜は続けた。
「あの……その……なんていうかさ、えへへ……」
「……?」
「勉強、教えてくんない?」
定期テストの解答用紙を返されると、基本的にどの高校も『テスト直し』という課題を課せられる。内容はその名の通り、テストで間違った部分をノートか何かで直して来るというもの。あくまで間違った部分なので、いい点を収めた生徒にとっては十数分で終わる作業ゲーだけど、赤点を叩き出してしまった生徒にとっては地獄の無理ゲーと化す。
由比ヶ浜さ……由比ヶ浜は先に見た通り後者で、こうして部室に入って用紙と睨めっこしていたようだ。睨めっこしただけではその課題が終わるはずがないだろ……という無粋な突っ込みは、今後の由比ヶ浜さ……由比ヶ浜との円滑なコミュニケーションを育む上で大きな痛手となってしまいそうだったので、やめておいた。
「こんな媒介変数表示の時は、とりあえずこの……そう、tを消そうと思いながら式変換したらいいと思う」
「ばいかいへんすうひょうじ……」
覚えたての長い言葉をなんとか飲み込もうとする園児のように、天井を見つめながら復唱する由比ヶ浜。
……これはダメかもわからんね。
「……とにかく、この連立方程式を、tについて式変換してみて」
「今、心の中でバカ扱いされた気がする……」
「なんでそこの嗅覚は鋭いんだ……とにかく、この、t、早く消す、お前」
「は、はい」
しぶしぶながらも、なんとかtを消すことに成功した由比ヶ浜。
心なしか、さっきよりも自信に満ちている気がした。
「それで?」
「それが答えだ」
「おお……! なんか私、ちょっと賢くなったかも、えへへ」
そう。それくらい単純な方がいいんだ。一問解ける度に、それが自信になっていけばモチベーションもグングン上がっていく。
その問題を皮切りに由比ヶ浜は火がついたのか、めっきりペンを回す回数と、視線が横に逸れる回数が少なくなった。言葉数もそれに比例していって、女子生徒の近くで数学を教えるという、もっと他に生々しい書き方をすれば、かなりの非日常という部類に入りそうなシチュエーションに、知らず知らずの内に浮ついていた僕の頭も冷えてくる。
周りを見渡すと、奥の机の椅子の脇に、様々な形状の本(小説?)が積まれていた。由比ヶ浜に本を読む趣味があるかどうかは分からないけれど、積まれている本の場所からして、きっと違う部員のものだろう。
一方でその視線を翻してみれば、何も置かれていない部屋の隅ではギリギリ視認することのできる埃が薄く広がっている。妙に生活感のある場所と、逆に生活感のないスペースが存在している、ビフォーアフターの中間を見させられているような気分だ。
「……んんん……」
謎のうめき声に視線を戻すと、由比ヶ浜は……ええと、どうやら円の接線の方程式の問題に手こずっているようだ。ここで僕が下手に口を出して、自己満足に解答を教えることも吝かじゃない。
でもそれは、由比ヶ浜のためになるかと言われると、そうはいかない訳で。
手が止まっている由比ヶ浜が視界に入る。肩までの茶髪に緩くウェーブを当てた、人目見ただけでお洒落に気を遣っていることが分かるヘアスタイル。追加で項目を付け足せば、胸元に光るネックレスや、やや短めのスカートと、多分校則に間違いなく引っかかっていそうな出で立ちだ。髪の色と併せて一つをアウトとすればとっくにチェンジしている乱れっぷりである。
……し、しかし結構、胸が……中々……いやでもあまり、無意識にでもソレを視界に収めるのは不誠実ではないかという疑問が当然頭によぎるっちゃよぎるけど陳腐で使い古された先人達の言葉をあえて借りるとするならば僕も一般的な高校生な訳で……。
……。
…………。
「ぷあー!!」
「わあ!?」
唐突に奇怪な声を上げた由比ヶ浜に反応して体がのけぞる。パイプ椅子を支えている一方のパイプが床から離れる。崩れる。落ちる。
「あ、わわ、大丈夫?」
それに気づいた由比ヶ浜は、情けない姿で床にへたり込んでいる僕に手を差し伸べてくれた。僕はありがたくそれに手を伸ばすと、同年代の女性の手を握った経験があんまりなかったことも相まって、その手の感触に気を取られて、お礼の言葉を継ぐのを忘れてしまった。
「それで……何? 今の声……」
「へっ? あー……あ、そうそう!」由比ヶ浜は何かを思い出したように言った。「この問題、分かっちゃって。それでついつい嬉しくなって、その……ごめんね?」
「ああ……いや」僕は言った。「こっちこそ、ごめん」
その謝罪は二つの行為に対するものだったが、由比ヶ浜はそれに別段気にするようなこともなく、たははー、と、その場の空気を弛緩させるような笑みを投げかけた。
すると、その間を縫ったように放課後の終了を告げる予鈴が鳴った。どちらからともなく机に広げてあった教科書累々を鞄に詰めて、どちらからともなく扉へと向かう。
別れの挨拶をいつ切り出そうかと思案していると、由比ヶ浜がこちらに近づいてきた。
「今日は、その……助かっちゃった。ありがとね」
「ああ、うん」僕は頷いた。「また……これくらいなら僕、見られるから」
見られるから、なんだろう。僕は彼女に何を言おうとしたのだろう。
分からないまま、由比ヶ浜は僕の曖昧な返答に頷いてくれる。
「そっか。……あっ、もし何か佐倉くんも悩んでることとかあったら言ってね! 転校したてで、この学校の勝手とか、分からないことも多いだろうし……ここ、奉仕部っていう部活の部室でさ。困ってる人とかを手助けする部活だから、もしよかったらって感じで」
「ああ、そっか」
その言葉で、僕はようやくわざわざこの部室に来たその理由を思い出した。
でも、もう終わりの時間だ。ここで話題をまた出して、由比ヶ浜を引き留めるのも気が引けたし、賢い選択ではないだろう。今日はさっさと引き上げるか。
「じゃあ、また、機会があれば」
「うん。ばいばい」
「おう」
ばいばい、という言葉にどことなく歯がゆさを覚えながら、僕は由比ヶ浜とその部室を後にする。
「はぁ……」
今日の夢に出てきそうなレベルの手の柔らかさだったなぁ。
僕は心の中で独り言ちて、校門を目指した。