由比ヶ浜にタピオカを奢ったら、みみみに※※された。   作:菓子子

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八話『影』

 六月らしい、時折温かくて優しい風が指の間を通り抜けていく。

 時刻的には間違いなく夕方なのに、空は澄んだ青を主張していた。それが特段不思議に思わないのは、陽が日没時刻を毎日少しずつ遅くしているから。ゆっくりと変化しているものは、往々にして人々の目からは認知することができないから。

 

「こんなところに呼び出して……なんのつもりかしら」

「聞きたいことがあったから。直ぐに済むよ」

 

 そんな陽とはかけ離れた印象が変わらない、雪ノ下雪乃は底冷えしそうな眼で僕を睨みつけていた。

 案の定、僕はまだ嫌われているようだ。いや、それが雪ノ下雪乃にとっての平常運転なのか……あるいは。

 

「それで...何かしら?」

「ここの国語のテストって難しいと思わない?」

「...は?」

「だから、この学校の国語のテストだよ...平塚先生の作った」僕は呆気にとられている雪ノ下に説明する。「大問が3つある構成になってるよね? 一つ目の大問は、授業でやった内容から出てくる。これが50点。そして二つ目は、学校から配布された補助教材で指定された問題のいずれかがでる。これは25点。そして残りの3つ目は......完全にランダムなんだ。どこかの教授の哲学的で難しい小論文から引っ張り出してきたものかもしれないし、名前だけは聞いたことのある文豪の小説かもしれない」

 

 要するに、範囲が広すぎて対策のしようがないんだ。理論的は75点まではきっちり勉強をすれば保証されているものの、残りの25点は一発勝負で稼ぐしかない。

 だから今回も国語に関しては、八割を取るので精一杯だった。

 確か、その三つ目の問題に出てきた小説の題名は......『砂の.....』なんだっけ。

 

「砂の女よ。......阿部公房が書いた、砂の女」

「よ、よく知ってるね」

「ええ...読んだことがあったから」

「ええ?」

 

 国語で出題された問題を、以前読んだことがあっただって?

 そんなことがあるのか。

 

「マジか.....すごいな」

「日本人なら読んでて当然の文学作品よ」雪ノ下は、こめかみを押さえながらハァとため息をつく。「貴方も、外国育ちの黄色人種と間違われたくなかったら、読んでおくことね」

「...はい」

 

 言われてしまった。

 遠回しに、文学小説を触ったことのない日本人だと揶揄されてしまった。

 気を取り直さないと。

 

「まさか、そんな愚痴を聞かせるために私を読んだ訳じゃないのよね」

「うん......まぁ」

 

 それはそうだ。

 今のはただの前哨戦で、他愛のない会話だ。

 僕は躊躇なく本題を切り込んでいく。

 

「僕のことをずっと見ていたのって、もしかしたら雪ノ下さんなのかなって、思ったんだけど」

「はぁ……話したことも、名前も知らない人からされたものにしては、いいご挨拶ね」

 

 雪ノ下雪乃は余裕を崩さずに言う。

 僕から屋上へ呼び出しを受けてから、ここに来るまでの時間で準備した言葉なんだろう。

 あるいはやっぱり、僕の勘違いか。

 後者はあまり想定したくないけれど。

 

「雪ノ下さんは、定期テストの順位のトップを、他の誰かに明け渡すことはなかったって、平塚先生から聞いてる」

「……ええ、そうね。それがどうかしたのかしら」

「でも、その牙城は一人の転校生によって崩された。何も知らなかった彼は、君の城にずけずけと土足で上がりこんで、学年一位という名のオタカラを盗んでいった」

「どうも何かのゲームに影響されたような口ぶりね」

「うむ」僕は頷いた。「それは否定しない」

 

 面白いから仕方ないね。

 ……話題を戻そう。

 

「だから、一位を取られた雪ノ下さんは……僕に対抗心を燃やした。勉強量を増やした。だから、放課後に奉仕部に行くことも減った……勉強時間を捻出するために」

「……」

 

 僕は手札を切り続ける。

 出し惜しみはしちゃダメだ。

 切り札以外は。

 

「僕の勉強法も盗もうとした。敵を知るにはまず己の勉強法から。だから、勉強中に決まって視線を感じることが多かったんだ」

 

 僕は雪ノ下の目を見る。

 彼女の瞳から目を逸らさない。逸らせない。自分に自信がないことを、気取られない為にも。

 

「ずっと見ていたから、由比ヶ浜が教室の前でただ立っていた時も、『誰を見てたの?』って言えた。もしかしたら、誰かを待っていただけかもしれないのに。ただ教室に入りづらかった理由があったかもしれないのに、まるで由比ヶ浜が誰かを見ていたことが前提であるかのように、君は由比ヶ浜に話し掛けた」

 

 そしてテスト準備期間を迎えたその後、土日を挟んだ五日間に及ぶ本番が始まった。

 僕はとうとう手を抜く理由が見つけられなかったから、手を抜かずに毎日、せかせかと計画を立てつつ勉強に臨んだ。気の乗らない日にモンスターエナジーを飲んで誤魔化しつつ、特に疲れた日にはキレートレモンを飲んでクエン酸を摂取した。

 何も考えたくない日は英語と古文と国語の単語帳を行ったり来たりして、その都度予定を修正しつつ、きっちりと理系科目の時間を確保して。特に数学は問題の解説を読んで分かった気になることが多いから、間違えた問題はちゃんと翌日に実践してみて、案の定間違えたら萎えてその日もモンスターの効能にあやかったりして。

 中学の時から地道に培ってきた、自分なりの要領のいい勉強法を携えて、僕は雪ノ下と勝負をした。

 そして僕が雪ノ下に勝てば、彼女を屋上へ呼び出そうと決めていた。

 そして、僕は、その勝負に。

 だから僕は彼女に伝えなければならない。

 

「はぁ……貴方は、そんな妄想を伝えるために私を呼び出したの? 聞くに値しないわ。一応、貴方が勉強がお得意であることは把握していたけれど……興醒めね」

「認めないのか?」

「認めるも何も、そんな荒唐無稽な話を誰が信じると思ったの?」

「質問を質問で返さないでよ」

「それでも……答えは変わらないわ」

 

 そうか。

 認めてくれれば、スムーズに話が進むはずだったのに。

 

「……そうか。僕の勘違いだったみたいだ。疑ってごめん」

「ええ、そうね。……だったら、早くここから失せなさい」

 

 僕は彼女に従って、雪ノ下の脇を通って、屋上の扉を目指す。

 一つ会話を終えて、油断させたかったんだ。

 切り札を悟られないように。

 

「……あのさ、」

 

 ここから僕が言う事は、賭けにすらならない言葉だ。

 でも、僕の一言で彼女の将来のどこかで波が立ってほしい。きっと、あまり実入りのない運命に、分岐点が生じて欲しい。その岐路に彼女を立たせる原因……とまで言うのは烏滸がましいけれど、一つの切っ掛けになって欲しい。

 そのうすら寒くて仕方のない自己満足は、けれども確かに僕の希望だった。

 僕は言う。

 

「姉の影を追うのは、やめた方がいいと思うよ」

「……っ!」

 

 そして雪ノ下は。

 ようやく僕を僕として見てくれた……んだと思う。

 目を見開き、両肩を怒りで震わせて、その感情を勢いに任せて言葉にしようとして、ギリギリで飲み込んでいる。

 彼女の勉強に対するモチベーションに気づいたキッカケは、先生の一言だった。

 雪ノ下雪乃の姉である雪ノ下陽乃は、ずっと学力で他を寄せ付けない実力をここ総武高校で誇っていた。

 だから、姉には負けられない。

 もし雪ノ下雪乃が負けず嫌いの性質を持っていると仮定するならば、そんな暗くて純粋な闘志を燃やすことは不思議じゃない。

 

「君は君で、雪ノ下陽乃は雪ノ下陽乃だ。だから……だから君は、姉の人生を模倣するんじゃなくて、君の人生を誠実に生きればいいと思う。賢くなるのも、生徒会長になることも好きにすればいいことだし、褒められて然るべきことだ。でも……何かもっと他に、ないのかな。例えばやっぱり奉仕部に顔を出してみたりとかさ、」

「貴方に関係のない話を、よくも……ズケズケと、恥ずかしがらずに言えるわね」

「……そうだね」

 

 それを言われると、肯定する以外にできることはない。

 僕に関係が一切ない話。

 よくできた姉に対して劣等感を抱く妹が、何かその姉に勝るものを掴み取ろうと躍起になったとしたって、それは誰も責められる訳がないし、無論、当の姉にもその責任はない。いくら由比ヶ浜がヒッキーが、雪ノ下が奉仕部に顔を出すのを待ち望んでいたとしても、それとこれとは話が別だ。君の人生は君の人生だと言ってみたところで、それは、彼女の人生に以前も今後も一切関わることがないだろう赤の他人による戯言に変わりはない。そもそもそんな言葉を発している僕にしたって、僕の人生を誰にも影響されずに、真っ当な自分らしい人生を歩んでいるかと言われればそんなもの、頷くことはできないんだ。

 ああ、嫌だな。

 これじゃあ自己満足じゃなくて、ただの自己嫌悪じゃないか。

 自己嫌悪に浸っている自分すらも好きになれそうにない。当分は。

 

「……でも……」

「学力なんて表層的な部分でマウントを取って、勝ち逃げして……今、どんな気分かしら?」

「……ああ」

 

 最高の気分だよ。

 しかし、その皮肉が、ちゃんとしたそれとして雪ノ下に届いているのかどうか。

 そんなこと、明日の僕には関係ない。そう自分に言い聞かせるしかない。

 今度こそ僕は扉を開けて、階段を下る。扉を閉める時に最後に、屋上を振り返ることはとうとうできなかった。

 多分、きっと雪ノ下は自分なりに姉と自分との折り合いをつけるのだろう。

 でも、それは間違いなく今日じゃなくて。

 差し伸べた手を受け取ってくれるのも、間違いなく僕じゃない。

 それはきっと、彼か彼女か。

 それを見届けることなく、僕は舞台を降りたんだ。

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