由比ヶ浜にタピオカを奢ったら、みみみに※※された。 作:菓子子
僕がこの学校に行く最後の日。
親の転勤に伴って、住んでいた待ちからサヨナラバイバイしなくちゃならない日。
平塚先生が、僕がクラスに友人がいないことを察してくれていたのか、今日の朝のホームルームも恙なく終わって、いつもの放課後は恙なく始まった。
全然クラスで馴染めていないのに、前の担任が余計な気を遣って、『お別れ会』と評された催しが開催された日はひどかった。
露悪趣味はないから、詳細は省かせてもらうが、地獄が仮にあるとするならば、ああいった辱めを受ける地獄もあるのかもしれない……とボンヤリ思った程度には地獄だった。
「……んー……」
今日は潔く帰るか、それとも少しだけ図書室で勉強しようか少しだけ悩む。
結果前者を選んだ僕は、そこそこの量の参考書が入った指定鞄を右肩に提げて、教室を出る、と。
「佐倉」
「う、お、」
教室から見て死角になっている場所で出待ちしていたのは、
「平塚……先生」
だった。
「ようやっと私の名前を憶えてくれたようだな」
「ああ、はい」僕は頷いた。「長期記憶に刻まれているかどうかは、怪しいですけど」
「ほぅ? なら、その身に刻んでおくか?」
「はい……? って先生、その構えは何ですかもしかしてその身に刻むって、そういうことですか」
確かにその方法なら、この身にも記憶にも、長い年月平塚先生の名前は刻まれてしまうだろう。
最後の日に徒手空拳を僕に披露した、暴力教師として。
「冗談ですよ。多分、ずっと憶えてます……平塚先生のことは。僕、担任の先生の名前を憶えたのって初めてなんです」
「それは光栄だな。……一応、理由を聞かせてくれるか?」
そういう優しいところですよ、と僕は言いたかった。
でも、きっとそれだけじゃ伝わらないだろう。国語の問題だとヒントの少ない悪問だ。
だから僕は、いつもよりほんの少しだけ言葉を選びながら、平塚先生に伝える。
「僕の家族は転勤族なんです。だからどの高校にいる期間も、半年も持たないことが多くて……もちろん、この総武高校も。だから、クラスメイトにも先生にも相手にされない。初めは興味本位で近づいてくる人もいるにはいる……でも、人畜無害で面白みのない人だと分かれば、すぐに離れて行ってしまう」
誰が悪いという話じゃなくて。
強いて悪者を挙げるとするならば、紛れもなく自分自身になってしまうけれど。
とにかく、そんなクラスメイトや先生の反応は当たり前だと言いたかった。僕が逆の立場だったら、きっとそうしている。
「コイツと仲良くなっても、コイツに勉強を教えても、ほぼ百パーセントの確率で自分の将来からは消えていなくなっている。そんな予想は誰にでもできる。だから僕と関わりを持つことに価値を見出す人なんて一人もいない。……はずなの、に、」
「……」
「平塚先生は、こんな僕の話に黙って耳を傾けてくれている。僕が金を払ってカウンセラーを頼んでいる訳でもないのに、僕の自分語りのために貴重な時間を費やしてくれている。そんな物好きな先生は、人より少しだけ多いと自負している歴代担任の先生の中を探しても、どこにもいないんです。……だから僕は憶えているって言えます。……高校の名前は忘れちゃったけど、変な先生がいたなって」
「変な先生って言うなよ」
ほら、そうやって。
全然本筋とは関係のない部分を突っ込んで、僕を叱らないでくれている。
だから平塚先生にこの話ができたんだと思う。
「……あの、」
『どうして僕に構ってくれるんですか?』
不意に、意味がなくて、しかし興味のあることを訊きたい衝動に駆られる。
でもきっとそれは、また先生の時間を浪費してしまうだけになるだろう。
先生は先生なりの信念を持っていて、その信念によって突き動かされて、僕に話しかけているのか。
それとも、過去に僕とよく似た生徒がいて、その彼と自分とを重ねているだけなのか。
ただの僕の勘違いなのか。
きっとその三つのどちらかなのだろう、と僕は勝手に納得して。
「……いえ、なんでも」
優しい顔を浮かべてる平塚先生から、視線を逸らした。
廊下の隅で相対している僕達を、不思議に見つめながら一人の女子生徒が通り過ぎる。
澄んだ空を窓が切り取っている。木々が騒めいているのを見て、浜風の強さを改めて感じる。
「佐倉。……関係のないことを訊いてもいいか?」
「……はい」
「常々思っていたことなんだが」
「ええ」
「お前は、『自分は主人公になれない』なんて思っているな?」
「本当に全然関係なさそうな話じゃないですか!」
思わず突っ込んじゃったよ!
僕の述懐が、冗長な前置きとして雑に使われちゃったよ!
「だがな、佐倉。確かにジャンプの主人公は確固たる意志と揺らぎのない価値観を持っていて他の人たちを導く立場にあることが多いが、」
「ちょ、ちょちょちょっと待ってください。全然話が入ってこないです勘弁してください」
「なんだよ」
「えっと……『自分は主人公になれない』って、僕が思っているかどうかについての質問ですか?」
「ああ」
先生は簡単に首肯して、簡単に主張権を移譲してくれる。
それに僕はありがたく甘えることにして、少しだけ考える時間を置いてから、先生に向き直った。
「……当たり前でしょ。いや、流石に高2で、自分が主人公だなんだの言ってるのはキツイですって。皆もう、オリアイとか、ミノタケとか、その辺りの言葉の意味が実感として分かってくる時期なんですよ」
『姉の影を追うのは、やめた方がいいと思うよ』
「……っ、だから、くだらないです」
「そうか。なら、質問を変えよう。……君は主人公になりたいか?」
「あ……」
言葉が止まる。
言葉が止まってから、図星だったことを理解する。
……でも。
『……だったら、早くここから失せなさい』
でも。
「なりたかったです」
僕は笑った。
自然と笑みが零れた。
絶対、誰にも向けたことのないような笑みで、多分、今までしたことのない笑みだった。
僕は身の程を知ってしまった。星のように、どうあがいでも、どうもがいても届かないものは届かないモノを知ってしまった。
これ以上、頑張ろうという気には、どうしたってなれなった。
平塚先生は。
「…………そうか。なら、」
笑わなかった。
そして先生は、本当に本当に、残念そうな表情を浮かべて。
「私が教えられるのは、ここまでだ」
そして、ようやく僕は気づく。
平塚先生は、僕に手を差し伸べようとしていたことに。
差し伸ばされていた手を、僕は無意識に振りほどいてしまっていたことに。
今、この瞬間の僕の選択が、まちがっていたかもしれないという可能性に。
「さようなら、先生」
「ああ、またな」
踵を返した先生の背に向って、僕は言う。
すると先生は、振り返らずに右手を挙げた。