この物語も不定期ですが、再始動していきます。
【班目鎮守府には関わるな】
いつの頃からか、士官学校の湿った廊下や、艦娘育成学校の放課後の教室で、誰に教えられるともなく囁かれ始めた禁忌の言葉がある。
班目(まだらめ)鎮守府。その存在は公式記録にこそ記されているが、実態は深い霧の向こう側にある。艦隊規模、資材の備蓄状況、そして活動実績――あらゆる情報がブラックボックス化されており、他鎮守府との交流は一切ない。
あまりにも実体が見えないため、若手の間では「大本営が不都合な情報を隠すために作り上げた架空の組織ではないか」という都市伝説すら流れていた。
だが、その名は実在する。そして、その名が歴史の表舞台に刻まれる時は決まって、血生臭い「伝説」がセットになっていた。
ある時、甲(仮名とする)鎮守府の提督が、乙(仮名とする)海域に突如発生した鬼級を筆頭とする深海棲艦の大群に直面した。
圧倒的な物量差を前に、彼は近隣に位置する班目鎮守府に対し、藁をも縋る思いで合同討伐を要請した。
要請からわずか二日後、作戦は成功を収めた。深海棲艦の大群は文字通り「消滅」し、海域の安全は確保された。
しかし、代償はあまりにも大きかった。甲鎮守府からは数名の艦娘が犠牲となり、海は残骸で埋め尽くされた。
不可解なのは、その翌日だった。
作戦に参加し、生き残ったはずの甲鎮守府の艦娘たちは、一人の例外もなく退職届を叩きつけた。
彼女たちは戦場での武勲を誇ることもなく、ただ震える手で荷物をまとめ、逃げるように、泣き叫ぶようにして鎮守府を去っていった。
作戦を指揮していた提督はさらに悲惨だった。彼は作戦終了の瞬間から完全に正気を失い、現在も軍付属病院の隔離病棟で治療を受けている。
彼が虚空を見つめ、ガタガタと歯を鳴らしながら呟いていた言葉を、搬送に当たった看護師は今も忘れられないという。
「……見ろ、海が笑っている。あんな、怪物が闊歩する海には……もう一歩も近づきたくない……あいつは、あいつは人間ですらないんだ……」
――そして現在、狭間鎮守府。穏やかな昼下がりを切り裂くように、その惨劇は幕を開けた。
「……な、なにが起こっているのですか……?」
大和型一番艦、大和――甘神ここあは、膝の震えを止めることができなかった。
つい数分前まで、そこは心地よい潮風が吹き抜ける平和な演習場だった。だが、突如として噴き上がった巨大な水柱が、その平穏を暴力的に粉砕した。
高さ数十メートルに達する白濁した水の壁。その向こう側から現れたのは、優に二メートルを超える大男だった。
岩を削り出したかのような筋肉の塊。左の頬を大きく裂く醜悪な傷跡。そして何より異常なのは、彼が艦娘のような艤装を一切纏わず、ただその巨躯のみを海面に浮かべて直立していることだった。
「ガハハハハハ! なんだあ、シケた面してんなぁテメエら!」
男の咆哮一閃。それだけで衝撃波が発生し、海面が激しく波打つ。
「みんなっ!! 大丈夫か!!?」
その場の全員が蛇に睨まれた蛙のように硬直する中、結城提督だけが叫んだ。
彼は迷うことなく軍服のまま海へと飛び込んだ。普段の不遜な態度は微塵もなく、ただ一心に、衝撃の余波で吹き飛ばされた艦娘たちの元へ必死に泳いでいく。
結城は、最も近い場所に浮かんでいた重雷装巡洋艦、大井の元へ辿り着いた。彼女の身体を確保し、その青白い顔に手を当てる。
「……よかった……気絶しているだけだ」
脈が正常に打っていることを確認し、結城は安堵の溜息を漏らした。
「結城提督! 水柱の衝撃で艤装の一部が破損していますが、幸いにも皆、気絶しているだけのようです!」
すぐ近くまで駆けつけたのは、笛有艦隊の旗艦、長門だった。彼女もまた、戦艦としての冷静さを保ちつつ、その瞳には仲間を案じる色が濃く浮かんでいる。
「そうですか……。長門さん、すみませんが、無事な艦娘たちと共に気絶した者の救助をお願いします。大井さんを頼みます!」
「了解しました! 各員、救助を優先せよ。警戒を怠るな!」
結城の指示を受け、長門は即座に動き出した。海面に浮いた金剛や赤城、翔鶴たちを、動ける艦娘たちが手際よく回収していく。
結城自身も、意識のない大井を抱えながら力強く水を掻き、港の岸壁へと向かった。
「北上さん、大井さんをお願いします! 医務室へ運んでください!」
岸に辿り着いた結城は、駆け寄ってきた北上に大井を託した。北上は「あ、ありがと……大井っち、死ぬんじゃないよ……」と珍しく狼狽えた様子で相棒を抱きかかえる。
結城は濡れた前髪を無造作に掻き上げ、滴る海水も気にせず再び海へと視線を向けた。
そこには、依然として不敵に佇む「怪物」がいた。
「斑目(まだらめ)……豪(ごう)。なぜお前がここにいる。お前の管轄は、ここから遥か北の僻地のはずだろうが」
結城の声は低く、鋭利な刃物のような殺気を帯びていた。
「お前が動くということは、そこに『破壊』しか残らないことを意味している。この演習を潰すつもりか?」
「あぁん? 潰すだぁ? そんなケチなこと言わねえよ照美。俺はただ、面白いモンがここにあるって聞いてよぉ……『餌』を喰いに来ただけだ!」
斑目が歪な笑みを浮かべると、彼の背後から、透き通るような、しかし背筋を凍らせるほど冷ややかな声が響いた。
「それはねぇ……僕が教えたんだよ、結城提督」
巨漢の背中からヌルリと這い出すように現れたのは、一人の艦娘だった。
彼女は、サイズの合わない大きな提督の軍服を羽織り、頭には斜めに提督帽を被っている。
その姿は白露型二番艦、時雨のそれであったが、纏っている空気はあまりにも異質だった。
「久しぶりだね、結城提督。古傷の調子はどうだい? 雨の日はまだ痛むのかな」
時雨は斑目の逞しい肩の上に、まるで小鳥のように軽々と腰掛けた。その唇には、妖艶ともいえる残酷な微笑が浮かんでいる。
結城は彼女を射殺さんばかりに睨みつけるが、彼女はどこ吹く風で、観戦席で震えている大和たちの方へと視線を流した。
「初めまして、期待の新人さんたち。驚かせてごめんね。自己紹介が遅れたかな。本当はもっと『優しく』挨拶したかったんだけど」
彼女は提督帽の鍔を指先で少し持ち上げ、底なし沼のように濁った瞳を細めた。
「僕は白露型二番艦の時雨であり、斑目鎮守府提督代理の碓氷(うすい)キリノだよ。よろしくね、バンホーテンちゃん」
その名を聞いた瞬間、大和の心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
「(なんで……! なんでこの人が、愛宕さんしか知らないはずのあのあだ名を知っているの……!?)」
「なんで……艦娘の時雨が提督の格好を……? それに、提督代理って、どういうことですか……」
観戦席で京子――川内が困惑と恐怖の入り混じった声を上げる。そんな彼女の震えを遮るように、背後に立っていた緋剣可憐提督が重々しく口を開いた。
「……斑目鎮守府は、特殊なんだよ。いや、異常と言った方が正しいな」
緋剣の言葉には、隠しきれない嫌悪感が混じっていた。
「彼女……キリノが鎮守府の運営、資材管理、戦略立案のすべてを一手に引き受け、あの斑目豪が戦闘の一切を行う。斑目鎮守府における頭脳と手足。それが彼らだ」
緋剣は軍刀の柄を、指が白くなるほど強く握りしめた。
「軍部の上層部は、斑目豪の圧倒的な……人知を超えた武力を手放したくないがために、その歪な形態を黙認している。彼が素手で引き裂いた深海棲艦の上位個体は、既に三桁を超えているという噂だ。文字通り、歩く最終兵器……いや、海に放たれた『人食いザメ』だよ」
その説明を肯定するように、キリノは斑目豪の耳元に、艶めかしく熱い吐息を吹きかけた。
彼女の細く白い指が、斑目の太い首筋を愛おしそうになぞる。その光景は、猛獣を飼い慣らす調教師というよりは、怪物を愛でる魔女のようだった。
「ねぇ、豪……❤︎ 豪に喜んでもらいたくて、僕が裏で手を回して、この合同演習をセッティングしたんだよ。狭間に笛有、それに大数。これだけ美味しそうな、骨のある獲物が揃っていれば、豪も退屈しないでしょ?」
キリノは斑目の頬に自分の顔を寄せ、蕩けるような声で囁き続ける。その瞳には、自分の肩に乗せている男以外のすべてが塵芥であるかのような光が宿っていた。
「豪のためなら、僕はなんだってするからさ。法律も、大本営の命令も、倫理も……全部豪への貢物にしてあげる。だから豪……僕のこと、いっぱい褒めて❤︎」
その狂気に満ちた献身を受けながら、斑目豪はピクリとも動じない。ただ、そのギラついた黄金の瞳は、目の前に並ぶ「強者」たちの姿を、喰いがいのある獲物として捉えていた。
「……カカッ、よくやった。キリノ。テメエの用意するステージは、いつも血の匂いがして最高だぜ」
斑目はニィと口を歪ませ、獰猛な肉食獣のように笑った。
その瞬間、海域全体の温度が急激に下がったかのような錯覚に、大和は身震いした。彼から放たれる「威圧感」が、物理的な圧力となって大和の胸を圧迫する。
「テメエら、準備はいいか? 演習なんてヌルいごっこ遊びはここまでだ。今からここは、ただの『屠殺場』になるぜ。生き残ったヤツだけ、俺様が直々に名前を覚えてやるよ!」
斑目豪が拳をゆっくりと握りしめると、周囲の海面が彼の闘気に押されるように同心円状に盛り上がり、激しい渦を巻き始めた。
よろしければこの小説を見た感想をお願いします
-
とても面白かった
-
面白かった
-
普通
-
つまらない
-
とてもつまらない