売れない小説家は毒(怪物)を吐く。

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灰に棲むもの

私の肺には、怪物が棲んでいる。

 

ライターで煙草に火をつけ、煙を吐く。すると、私の胸の内に溜まった黒い毒が、形を現した。

ベノム。それがこの怪物の名前だ。安易な名前だがこいつにはぴったりな呼称だ。

「お次はどんなお噺を聞かせてくれるの? マリア」

柔らかな声が言う。怪物と言ったがこいつは生まれてから変わらず穏やかな物腰のままだ。毒で世界を支配しているというのに。

「もう弾切れだよベノム。私が書いた作品の話は、もうこれで終わりだ」

ベノムは私の話を聞くのが好きだった。母親から物語を読み聞かせられるのを心待ちにするこどものように。実際、こいつは幼子のようなものなのかもしれない。

「まあそんな、そんなこと言わないでマリア。あなたの脳が構築する世界は、いつだって輝いていたものだわ。それがもう終わりだなんて言わないで。わたしにとってはそれが唯一の愉しみだというのに」

ベノムは肩を落とし寂しそうに私を見上げる。煙のような不定形の彼女は、形を常に変えながらこの閉じ切られた部屋を漂っている。しかし眼差しは変わらず私を見つめたままで。

「まだ人類は半分以上も残っているのよ。わたしの毒で死ぬまで……私に吸収し切られるまで、あと数十時間はあるわ。それまでわたしは何をしてればいいというの!」

ベノムは拗ねたように浮遊している体をじたばたさせた。ベノムは、私の肺から生まれたものだが、家から漏れだした煙が周囲を徐々に覆っていき、今や世界中を毒の霧で満たしている。その毒を吸ったものは忽ちベノムの栄養分となり死に至る。私は生みの親だからか毒には多少の耐性があるようで暫くは平気だが、彼女はその気になれば私でさえ栄養分として摂り込むだろう。彼女の暇つぶしに付き合ってやったために延命できていたが、それももう尽きた。あとは約70億という人命が、私の余命だ。

「あなたを食べてしまおうかしら? ああ、でもそんなことしたら本当に何もすることが無くなるわね。ねえ、マリア、新しい物語を創るというのはどう? わたし、あなたの作品のファンなのよ」

ベノムが紙とペンをふわふわと浮遊させながら、こちらに持ってきた。

また作品を書けだと? 冗談じゃない。

「ベノム、私はもう何も書かないよ。私に何かを生み出せる力はもう残っていないし、する気もない。残念ながら……諦めてもらうしかないな」

「あら、本当にいいのかしら。今のところわたしがあなたを喰らうことはないけれど……その分他の誰かが犠牲になるのよ。その自覚はあるでしょう? あなたが生かされる代わりに誰かが死ぬ。 それに耐えられると言うの?」

「今更罪悪感の話か? ……もうとっくにそんなもの擦り切れたよ。今は、もうどうにでもなれって感じかな。ベノム、好きにしていいよ」

灰皿に吸殻が積もっていく。私のこの諦観は、ある意味私を認めなかった世界への復讐なのかもしれない。私の夢は燃えて灰になった。私を受け入れなかった、世界への報復として──

「あら、フフフフフ! 本当に意気地無しねマリア! 世界を殺していく私をどうにかする気もなく、家に閉じこもって毒を吐き続ける……つまりはわたしを生み出し続ける。それにもう何の感慨もないと。最初は蹲って震えてたくせに。ある意味、それはそれで楽なのかしらね?」

ベノムは意地悪く嘲笑する。それでいて甘ったるい声色だった。まるで憐憫に似た……小動物を見下ろして遊ぶような、無邪気さと愛おしさが入り交じった声で、私を嗤った。

私だって、最初は抵抗した。人々の心を満たすモノが作りたくて小説家を目指したのに、私が生み出したものは感動などではなく命を蝕む毒で、それは意思を持って世界を嗤う。ベノムを放置するのは私の夢に対する裏切り行為だ。だから、煙が漏れないようにドアと窓を密閉して、家から出ないようにして、煙草も止めようとして……なのに、毒は生まれ続ける。心の何処かでこう思っているからベノムは私の中からいなくならないのだ。"ざまあみろ"と──。

「あなたの物語には希望があった。絶望と悲哀の中に、夜空に小さく光るひとつの星みたいに。暗闇の中で煌めく光ほど美しいものはないわ。より一層輝きを増すもの。わたしは、それが好きだった。でも、あなたの周囲は誰もそれを尊いものだとは思わなかったようね」

「…………」

「それとも、その美しさを伝える力があなたには足りなかったのかしら。結局は、あなたの力不足でしかなかったのかしら」

……煩い。

「でも、わたしだけは、あなたが美しいと思ったものを美しいと感じるわ。だって、わたしはあなたから生まれたから。心を動かされるものを分かち合えるなら、怪物でもいいと思わない? たとえ、何を犠牲にしても」

─煩い。耳を、塞ぎたくなった。

「ねえ、マリア。あなたがわたしを生かし続ける理由、どうにもできないからじゃなくて、唯一の共感者を失いたくないから────」

 

ガシャン!

 

気づけば、私は灰皿を壁に打ち付けていた。投げられた灰皿はベノムの煙の体をすり抜けて、虚しく床に落下する。……どうして、ベノムはこんなことを言い続けるのだろう。これも、彼女の暇つぶしなのだろうか。

当のベノムは、にやにやと目の前で浮かび続けている。─そうだ。私は、結局、承認欲求のために他者の命を食いつぶしている、こいつと同類(怪物)なのだ。

「…………ベノム」

「あら、怒った? 図星よね、かわいそうに、わたしのマリア。ひとりぼっちで世界から消えていくくらいなら、世界を道連れにしたいわよね。ええ、わたしは」

 

「──そのために生まれてきたのだから」

 

ゴミのように堆く積もった夢の残骸の上で、私は立ち尽くしていた。足元にはぐしゃぐしゃになった原稿用紙たち。かわいそうに。私にもっと力があれば……これらは灰にならずに済んだ。

 

「ベノム」

静かに愛しき共感者の名を呟く。

「物語は、もう終わりだ」

ライターを点火する。そのまま、足元の残骸たちにライターを放った。

なんともまあ、おざなりな結末。私は、結局何者にもなれなかった。

 

でも、最期には、ほんの少しは物語の主人公のようになれただろうか。怪物を、殺すことで。

 

──嗚呼、でも、最後ぐらいは言えば良かった。

 

私の作品を、面白いと言ってくれてありがとう、と。



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