初の夜間遠征実施の次の週には、既に鎮守府の中で観音崎灯台の名を全ての艦娘が知っていた。
しかし、彼女たちの中の殆どが行ってみたいと思うことはあれどそれを実行に移す者は一人としていない。
そうであるのも無理はない。
今まで人がいるところに出れば返ってくるのは、優しい言葉や微笑みではなくて石であった。
さらに、艦娘の殆どが世間に顔を知られているためどうすることもできない。
その理由については、誰かがマスコミにリークしただとか、自衛隊が広報のために広めただとか言われているが、ただの噂にすぎない。
とにかく、その様な理由で基本的に鎮守府に軟禁状態である艦娘達にとって観音崎の話は食いつかずには居られない話である。
ただ彼女たちは内輪でやっていた時間が長すぎた、その状態から殻を破り外に出ていくのは至難の技だ。
そんな中でも真っ先に動き出しそうな奴は、おそらくコイツだと思う。
眼下には青い海が広がっている。
東京湾の対岸、房総半島はその奥に横たわる。
玄関の前で駆逐艦娘、長波は乱れた息を整えている。
駅から出ている次のバスが三時間後であった為ここまで歩いてきたのだ。
行動力があり気分屋である性質が仇となった結果だ。
何度か深呼吸をするとよし、と呟き呼び鈴に手を伸ばす。
キンコーンとピンポーンの間の様な音が鳴り。
中から今行きまぁーすとやる気のない声が聞こえてくる。
「はいはい、どなたでこざいやしょうか。仕事なら五月病にかかったんで休むって言ったでしょう。」
「あー、一応突っ込んどくが五月病は仕事を休む理由にはならねぇぞ。」
ドアノブに手をかけたままであった青年は、眉をひそめるとそのまま扉をバタンと閉めた。
「おい、ちょっと待て。開けろよ、開けろって!おい!」
「それで長波とやら。お前はここに何しに来たんだ?」
「んだよ、理由なく来ても良いんだろ?」
「はぁ?そんなこと誰が言ってたんだ?」
「吹雪がそう言ってたぜ。だいたい、もう横須賀鎮守府にここの名を知らない艦娘はいないと思うぜ。」
「…そうか。」
そう言うと青年はソファーに深く座り直した。少し俯き考える様な仕草を見せる。
「嫌ならそもそも来て良いとか言うなよ。殆どの奴が行く気になってるぜ。」
「ああ、うん。」
返ってくるのは気の無い生返事だけである。
「はぁ…、何なら長波様が言っといてやるぜ。ここには来るなって。」
「いや来るの自体は別に良いんだ、良いんだけど…。」
そうだ、人が来るのは大歓迎だ。
向こうが喜んで来るならそれで良いし、こちらだって退屈しないのは心底有難い。
別に人間強度が下がるとまでは言うつもりはない。
しかし、“絆”という字の古語である“ほだて”には束縛という意味合いもある様だ。人は昔から人間関係という物は、その自由を奪うということに気づいていたのだ。
「なぁーんか、ろくな事考えてなさそうなツラしてんな。」
青年が顔を上げ、目が合うのを確認してから長波は続ける。
「何を考えてるのかは知らねぇけど、人間傷つく事を恐れてちゃ何もできないぜ、おっさん。」
半目のまま長波を見つめていた青年が根負けしたかの様に言い出す。
「はぁ…、いいよ長波様、わかったよ。そのクサイ名言に乗ってやる。好きにしろ。」
「お、いいねぇおっさん。好感度アップだぜ。」
「そいつはどうも。あと、おっさんは無いだろう。」
「はぁ?何でだよ。」
「いや、まだそんな歳じゃ無いだろ俺。」
「仕方ないだろ、まだおっさんの名前しらねぇんだし。おっさんじゃなかったらなんて呼べばいいんだよ。」
「だから、おっさん言うなって。…はぁ、わかったよ。」
青年は呆れた様な間をおいて続ける。
「
「は?」
「
「そっか。これからよろしくな、おっさん。」
「治さねぇのかよ。」
寅之助の呆れた様なツッコミが綺麗にツボに入った様だ。長波はその場で爆笑し始める。
何が面白いのか全く分からない。
そこまで笑う要素が何処かにあっただろうか。いや、おそらく違う。この遠慮という言葉を知らなそうな少女はきっと楽しいのだ。
鎮守府という箱庭から出てきて、出てこれて。
「なぁ、おっさん。」
そんな事を考えていると長波が思い出した様に話し出す。
「だから…、もういいや。それで、何だよ?」
「あたしと吹雪の他に知り合いの艦娘っていないのか。」
「知り合いねぇ。向こうが覚えていればだが鳳翔さんとは会ったことがあるぞ。」
「鳳翔さん?何でだ?」
「一応、灯台守は妖精さんの力を借りて動いてるから鎮守府に研修に行く機会があったんだ。一日だけな。」
寅之助は手元の麦茶を口に含む。
「へぇー、初耳だな。」
「そうか。その日に夕飯を出してもらったのが鳳翔さんなんだよ。美味かったなあの鯛茶漬け」
「ほーん、そうか。」
自分から聞いたくせに嫌がらせの様に興味の無さげな返事が返ってくる。勝手に何かを納得する長波を見つめていると、ニヤニヤしながら見返してきた。
「どうした?そんなにこの長波様を見つめて。まさか惚れたか?寅之助。」
コイツ、わざわざおっさん呼びを辞めて煽ってきたな。
長波の意図を読み取った寅之助は嘲笑いながら返す。
「いや、まぁ実はその髪がずっと気になっていたんだ。」
「ん、これか?いいだろ、長波様の自慢だ。」
「そう、それだ。その髪って、一本一本の髪の毛が外は黒色、内はピンク色になってるのか?それとも、髪全体の外側が黒髪で内側がピンク色になってるのか?」
「さあ、どっちなんだろうな?自分でもしっかり見た事ないからわからねぇな。何で急にそんなこと聞くんだ?」
「ああ…、もし、プッ 、前者だったら、プフッ、坊主にした時面白そうだと思ってな、ククク。」
笑いを必死で堪えて寅之助が言い切ると、長波の顔は青色リトマス紙の変色の様に紅くなる。
「な…なぁぁ…。」
「クッ、ククク。ダメだ。ヤベェ面白そう。」
「お、おぅ、おっ、おっさん。お前仮にも女の子に向かってなんて事を。」
「あ、あはは。ダメだ、ダメだって。ツボった、お前の坊主姿想像しただけでもう……、腹筋が腹筋がぁ。」
「クソ、クソォ。おっさんのバカ、ヴァーカ。死ね、絶対死ね。」
顔を怒りと羞恥で真っ赤に染め上げた長波は、渾身の捨て台詞を吐き小屋からドタドタと出て行く。
その耳には“仮にも女の子がクソとか言うもんじゃないぞぉ。”との寅之助の呟きは届いていなかったであろう。
「クソ、なんだよ何なんだよ。おっさんのくせに。いつか絶対仕返ししてやる。」
坂道を早歩きで下っていく長波はそう硬く誓った。
その一方で寅之助は乱れた呼吸をようやく取り戻していた。
「いやぁ、久し振りに笑ったなぁ。楽しかった楽しかった。」
こんだけ楽しいのであれば足枷でも悪くない。
その晩、鎮守府の風呂場にて。
「なぁ、夕雲。」
「何ですか、長波さん?」
「あたしの髪ってどんな感じになってる?」
「へ?」
夕雲の本当に不意打ちを食らった様な声は久しぶりに聞いた気がした。
一人称がわかんねぇ
3人目が思いつかない
誰にしましょうか