ナイン・レコード   作:オルタンシア

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はじまりのおはなし

 

 

 

 

 

何かが、足りなかった。

 

 

それは、本当に偶然であった。

その日は休みだったから、お父さんとお母さんとお姉ちゃんとお出かけして、骨董市に出くわした。

昔の人が使っていて、今もまだ使える家具とか絵とか食器とかがいっぱい並んでいた。

綺麗な白いキャンパスに、青い絵の具で葉っぱとか女の人の絵が描かれているティーカップとソーサーがずらりと並んだお店のまえで立ち止まっている女性がいる。

鈍い銀色を放ったティーポットを手に取り、眉間に皺を寄せて買おうかどうか悩んでいる初老の男性がいる。

知り合いなのか、店主と和やかに話し込んでいる上品そうなお婆さんがいる。

2人すれ違うのがやっとなほどの狭い通路に、人が密集していて非日常感がその場に溢れていて、まるでテーマパークみたいで彼もお姉ちゃんもわくわくしていた。

行こうよ、って彼はお母さんの手を引っ張って、骨董市に特攻していく。

小さいものは指輪から、大きなものは洋服箪笥まで何でも揃っている。

昔々の、彼が生まれるよりもずっとずっと昔の人が使っていたとは思えないほど、少しデザインが古いものの全く傷んでいる様子がない。

多少は欠けたり塗装が剥げたりしているものの、それすらもアンティークの一部であると捉えている人は多い。

 

 

そして、それはあった。

 

 

お姉ちゃんと手を繋いで、忙しなく辺りを見渡していた彼の視界に映ったのは、古いアクセサリーが売られているお店だった。

そこにあったのは、1つのゴーグル。

鈍い金色に縁に少々曇ったレンズ。産業革命時代のイギリスを思わせるアンティークのゴーグルだった。

 

 

「坊や、何か欲しいものでもあるのかい?」

 

 

気が付くと彼はカウンターに両手をかけて、そのゴーグルを覗き込んでいた。

熱い眼差しをゴーグルに向けている幼い彼に気づいた、皺を刻んだ優しい微笑みを浮かべる老人が声をかける。

お母さんとお父さんが駆け寄ってきて、どうしたのって声をかけるけれど、彼は何も答えない。

ただ無造作に置かれたアンティークのゴーグルに目を奪われていた。

 

 

欲しいと、思った。

 

 

自我が芽生え始めてから彼は何かが足りないと思っていた。

でもそれが何のか分からなくて、毎日モヤモヤしていた。

でもようやく見つけた。これだ、と思った。

自分が求めていたものは、これだったのだ。

彼は欲しいというおねだりをするのも忘れて、じっと見つめていた。

あまりにも食い入るように見つめるものだから、お母さんは値段を確かめてから彼に買ってくれた。

嬉しくて嬉しくて、彼は早速首にかける。

よかったね、って言ってくれたお姉ちゃんにも、お母さんは何か買ってあげるって言ってくれたので、何かいいものないかなって同じ店で探したけれど、ピンとくるものがなかったので、色んな店をはしごすることになった。

 

 

 

骨董市にはヨーロッパのアンティークだけでなく、色んな国からここアメリカに渡ってきたものも沢山ある。

ハンガリーから来た陶磁器や、アフリカの方から渡ってきた神様の彫刻、古代中国で皇帝が使っていたと言われている金のコップなど、興味を引かれるものは沢山あるが、どれも彼のゴーグルのような普段使いできるものではないので、却下。

なかなかいいものが見つからない、と1度骨董市から抜けることになった。

時間を見ればお昼丁度。目に着いたイタリアンの店に入って、お母さんはペペロンチーノ、お父さんはボロネーゼを、お姉ちゃんと彼でピザ1人前を半分こすることになった。

料理が出てくるまでの間、彼は買ってもらったばかりの、首から下げているゴーグルを手に取って、ずっと眺めている。

よほど嬉しかったんだなぁって、お母さんもお父さんもニコニコしているし、お姉ちゃんもよかったねって彼の頭を撫でてやる。

運ばれてきた料理を平らげた一行は、また骨董市に入って散策を開始した。

お姉ちゃんにも何か買ってあげるって約束してくれたから、何かいいものないかなって色んなお店をお母さんとお姉ちゃんが中心になって巡っている。

その後を、彼を抱っこしたお父さんがついていく。

まだかなぁ、って彼がちょっと退屈し始めた頃に、お姉ちゃんがあるお店の前で止まった。

商品が見やすいように、コルクボードに貼りつけられた画鋲に、商品を飾りつけられていた。

指輪やネックレス、ブレスレット。女の子が好きそうなデザインではなかったものの、何となく気になったお姉ちゃんはふらふら~っと吸い寄せられるようにそのお店に近付いていく。

別のお店を覗いていたお母さんが気づいてお姉ちゃんの後を追う。

少し遅れて彼とお父さんも歩いてくる。

ブルネットの髪をひっ詰めた、素朴な白人女性が、テントの奥で商品を整理しているのが見えた。

こういうアンティークなら普段使いできそうだ、とお姉ちゃんはコルクボードに飾られている商品を眺めて……ふと気になるものが目に映った。

枝にとまっている2羽の小鳥が施された丸い金色の蓋。

気が付くと手に取って、その蓋を開けていた。

中から現れたのは、時を刻む長短の針。

ながーい金色の鎖には、つっかけのようなものがあった。

それは、いわゆる懐中時計というものだった。大きさはお姉ちゃんの掌ぐらいはあった。

さっきの彼みたいに、それを手に持ってじーっと見ていたら、奥で作業をしていたお店のお姉さんが気づいて声をかけてくれた。

だから隣に立って見守っていたお母さんに、これがいいってお願いした。

金ぴかで、可愛い小鳥の精巧な細工が施されている、子供が持つにはちょっと不釣り合いな懐中時計。

でもお母さんもお父さんもそんなものに合わない、とかまだ早い、とか言って止めたりしなかった。

それどころか、ニコニコしながらいいよって言ってくれた。

値段も彼が買ってもらったゴーグルと変わらなかったので、晴れてその懐中時計はお姉ちゃんのものとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、とても不思議な男の子だった。

 

彼はまだ3歳だがアメリカで生まれ、アメリカで育った。

彼はハーフではなく純粋な日本人で、父親も母親も姉も、みんな日本人だ。

両親は日本で生まれ、日本で育ち、姉もまた日本で生まれた。

けれど彼は、彼だけはアメリカで生まれた。

だから国籍は日本とアメリカの両方を持っている。

日本では法律で二重国籍を認められていないから、22歳になるまでにどちらかの国籍を選んで、どちらかを捨てなければならない。

まあそれまでにまだ時間はたっぷりあるし、決めるのは彼である。

自分達は可能性を提示してやるだけだと、両親は思っている。

 

 

元々父親の仕事の関係でアメリカに引っ越してきたのだが、その際いつ帰るか分からないからと彼の家は日本語を一切使わなかった。

父親は仕事柄しょっちゅう単身赴任をして英語を強制的に使っていたし、母親はアグレッシブだから英語も習い事として勉強していた。

姉は彼が生まれる前、3歳の時にアメリカに来たから多少の日本語は分かるけれど、それでも英語の方が使う頻度が高い。

彼の家では完全に英語が飛び交っていたし、近所に住んでいる同い年の友達とも英語で会話をしていた。

現地のキンダガーデンにも通っている。

よって彼は日本語を一切知らずに育った。

単語として知っているものは幾つかあるが、それを文章として繋げることは出来ないのである。

 

 

しかし、そこまでは普通だ。

そこまでは、普通の子供と同じだった。

周りにいる、彼と同じくアメリカに住んでいる日本人の子供達と同じだった。

彼が不思議だと言われる所以は、そこではない。

 

 

例えば母親と姉と一緒に、買い物に出かけた時のことである。

大好きな姉と手を繋いで、お気に入りのお菓子の箱を片手に、機嫌よく鼻歌を歌っていた時のことだった。母親は精肉のコーナーにて、今日の夕飯は牛肉と豚肉どちらにしようかしらと悩んでいる。

ねーまぁだー?と買い物に飽きた彼は、先程から何度も母親を急かしているのだけれど、もうちょっと待ってとばっかりで、ここから動く様子がない。

アメリカにはタイムセールなんて、お財布に優しい便利な制度はない。

少しでも節約をするために、なるべく安いお肉を買いたいのだ。

早く帰ってお菓子食べたいのに、と彼がむくれていると、クスクスという笑い声がした。

振り返る。彼と同い年の女の子がいた。

緩くカールされた金髪と、空色の瞳。

ふわふわの白いワンピースを着ていて、とても可愛らしい子だった。

口元を手で隠して、むくれている彼を見て笑っている。

ムッとなった彼は笑うなよぉと言った。

女の子はびっくりした顔を見せて、慌てて背中を向け走って行く。

自分を見て笑ったくせに、何で逃げるんだ、と彼は女の子の背中を見送っていると、姉がねえと話しかけてきた。

何、と姉を見上げると、姉は怪訝な顔をして彼を見下ろしている。

 

「アンタ、今誰に話しかけてたの?」

 

変なことを聞いてきた。

彼が笑うなと言った時に姉が振り返った気配がしたから、姉も女の子を見ていたはずなのに。

何言ってるの、と彼は呆れた眼差しで走り去って行く女の子の背中を指差す。

 

「あのこ。ぼくのことみて、ずーっとわらってたんだよ」

 

酷いよね、と彼は頬を膨れさせて怒っている。

しかし………。

 

「………ふーん?」

 

姉は眉を顰める。彼が指を差した先を見据えながら。

女の子と、彼は言っていた。

しかしそこに女の子は見当たらない。

いるのは自分と同い年ほどの男の子がちらほら、もしくは自分より年上の女の子が数名いるのみだ。

彼は、年上の女の子を女の子とは呼ばない。

だから彼が言う女の子とは、必然的に彼と同い年の子を意味する。

しかし何処を見渡しても、彼と同い年の女の子は、何処にもいなかった。

それなのに。

 

「あ、こっちみてる」

 

なんだよもー、と彼は不機嫌になった。

しかし姉には、彼を見ている女の子は何処にも見えなかった。

 

 

こんなこともあった。

父は仕事に、姉は幼稚園に出かけていて、家には母親と彼しかいなかった時のことである。

時間帯はお昼頃。

アメリカ在住ではあるが、食べる物はもっぱら日本食である彼の家のその日のお昼は、うどんだった。

お湯を沸騰させて、鍋に入れるだけの、簡単な料理である。

箸を使って、鍋の中をかき混ぜるようにうどんをほぐす。

彼はまだ3歳だから、うどんは少し柔らかめに煮込む。

自分の分のはまた後で作るとして、コンロの火を止めて鍋の取っ手を持つ。

彼専用の、子供用の丼にうどんと汁を移す。

箸でうどんを軽く上げたり下げたりしながら、汁の温度を下げる。

白い湯気が薄くなり始めたのを見て、そろそろいいかと箸を置く。

2階で遊んでいる彼を呼んだ。

返事はない。遊びに夢中になって、母の呼ぶ声が聞こえていないのだろうか、と思いながら、母親はリビングを出た。

玄関のすぐ目の前にある階段を昇る。カーペットが敷かれ、更に母親はスリッパを履いているため、階段を昇る音は一切出ない。

ぽす、ぽす、ぽす、と階段を昇って、斜め向かいの部屋へと向かう。

扉は閉まり切っていた。白い扉。

白を基調とした壁には、前の住人の忘れ物か、それともオーナーの趣味か、小さな絵画が所々に飾られていた。

扉を叩こうと右手をあげた。

 

「………?」

 

叩こうとした手が止まる。中から声が聞こえた。

彼がいるのだから、声がするのは当たり前だ。

楽しそうに笑っている声。がちゃん、がちゃん、と何か軽いものをぶつける音がする。

最近父親に買ってもらった玩具で遊んでいるのだろうか。

5人組の、カラフルなスーツに身を包み地球を護る戦士達のテレビ番組は、元は故郷の日本で製作されたものを、アメリカがリメイクしたものである。

アメリカの番組にはない、敵と戦う前に自らの名を名乗るという、アメリカにはない斬新な内容がアメリカ人のハートをがっしりと掴んだらしい。

彼もその1人(彼は日本人だが)で、父にねだって5人の戦士がセットになっている玩具を買ってもらったのは、ついこの前。

特に青い戦士がお気に入りのようで、何処へ出かける時も、寝る時も、片時も離さない。

だから、母が呼んでも降りてこないのは、お気に入りの人形に夢中になっているからだと思っていたのだが……。

 

「………………」

 

眉を顰める。扉に耳を近づける。

聞こえてくる、彼と誰かの笑い声。

誰かを招いた覚えはない。母親は慌てて扉を開けた。

部屋の真ん中で、彼は座って人形を持って遊んでいた。

 

オレンジの髪で、ネグリジェ姿の女の子もいた。

 

誰、と母親が悲鳴を上げる前に、遊んでいた彼と女の子の視線が母親に向けられ、女の子は驚いたような表情を浮かべ……。

 

 

煙のように姿を消した。

 

 

あ、と彼は声を漏らす。

母親は硬直した後、悲鳴を上げて彼を抱え上げた後、彼のために作ってやったうどんも忘れて、家を飛び出して行った。

 

 

また、別の日のことである。

多忙な父が珍しく休みの日で、その日は曇天だった。

父の仕事はとっても忙しくて、なかなか休みが取れなくて、だから父が休みの日は1日中遊んでもらうのが彼の家のルールだ。

明日はお休みの日だから、沢山遊ぼうなって前の日の夜にお父さんと約束して、久しぶりにお父さんと遊べるって楽しみにしていたのに。

前日の夜は、楽しみ過ぎてなかなか寝付けなくて、お姉ちゃんのベッドに潜り込んで、背中をトントンしてもらって漸く寝付けたのが深夜1時。

起きたら10時になっていて、寝坊したって慌てて起きたら、ザーという水が大量に落ちる音がした。

閉め切っていたカーテンを開けると、外は土砂降りの雨。

父と遊べるのを楽しみにしていた彼は、そんなあって見るからにガッカリしていた。

雨なんだから仕方ないでしょ、ってお母さんが窘めるけれど、滅多に遊べない父が、せっかく休みの日なのにこんなのってない。

喜怒哀楽を素直に出す彼は、頬っぺたを限界まで膨らませて、如何にも不機嫌ですと言ったオーラを隠さなかった。

お姉ちゃんが私と一緒に遊ぼうかって誘ってくれたけれど、お父さんと遊びたかった彼はいやってそっぽを向いた。

せっかくお姉ちゃんが誘ってくれたのに、ってお母さんは彼を叱ろうとしたけれど、姉が止める。

姉も分かっていたのだ、彼の拗ねる気持ちを。

だってお姉ちゃんとはいつでも遊べる。

お姉ちゃんは来年小学生だけど、それでもお父さんなんかよりずっと早い時間に帰宅しているから、お姉ちゃんと遊ぶ時間はいっぱいある。

でも父は雑誌のお仕事がとっても忙しくて、なかなか帰って来られない。

だから今日はその分もいっぱい遊ぼうと思っていたのに……。

彼はほっぺたを膨らませたまま、ずかずかと窓に近づく。

がら、と窓を開けたので、母は慌てて何してるのって近寄ったら。

 

「かみさまのばかー!あめやませろよー!」

 

と叫んだ。

キリスト教が信仰されているこの国で、神様の悪口を大声で言うなんてと、母は顔を真っ青にして窓をピシャリと閉めた。

何てことを、と叱りつけようとしたら。

 

「………あれ?」

 

娘の、キョトンとした声。

とたとたと近寄ってきて、窓にぴったりと張り付く。

お母さん、と少し舌足らずな声で母を呼ぶ。

 

「雨、止んだ」

「え?」

 

ほら、って娘は窓の外……正確には空を指差す。

異変に気付いた、新聞を読んでいた父も新聞を畳んで何があったと近づいてきた。

皆で窓の外を見る。地面を叩きつけていた、バケツをひっくり返したような雨は、止んでいた。

ザーザーがサーサーとなり、やがてぽたぽたとなり、空を覆っていた灰色の雲が掻き分けられていくように、左右に引いていった。

光の柱が雲の隙間から幾つも零れている。

彼がまだ寝ている時に流れていたお天気のニュースでは、今日どころか明日まで土砂降りの雨だろうって言われていたのに。

母も父も、そして姉もポカーンと空を見上げている。

彼だけが、ニコニコとした顔ではしゃいでいた。

 

「やったあ!はれたよ!おとーさん、あそびにいこー!」

「え、あ、うん……」

 

はしゃぐ息子を他所に、父親は呆けた声しか出せなかった。

 

 

そんなわけで、彼は大変に不思議な男の子だった。

度々そんなことを言ったりやったりしては、家族を怖がらせていた彼だったが、彼の家族はそれ以上に寛大で、おおらかだった。

彼が変なことを言ってもやっても、母親は最初こそ驚いたもののその内慣れてしまった。

それどころか面白がって、彼から話を引き出すのである。

今日は何があったの、どんな子と遊んだの。彼を否定せずに話を聞いてくれるから、彼は全部話すのである。

父親も、仕事柄怖い話などは聞き慣れていた。最近は息子と外に出かけるよりも、彼から話を聞く方がずっと面白いらしい。

そして、彼のお姉ちゃん。彼はお姉ちゃんが大好きだ。何かあると真っ先にお姉ちゃんに報告する。

怖い幽霊に会った時、わんわん泣いてお姉ちゃんに泣きついたら、よしよし大丈夫よと沢山頭を撫でてくれた。

それを夜まで引き摺って、1人で寝るのが怖いと言ったら、朝まで一緒に寝てくれた。

彼の家族は、誰も彼を否定しなかったのである。

普通は莫迦なことを言うなとか、気のせいでしょうと言って、否定するものだ。

否定されていく中で、自分がおかしいのだと思い込んで、誰にも何も言わなくなる。

けれど彼の家族は、そう言った意味ではとてもおおらかだった。

まだ3歳の彼は、良くも悪くも感受性が強かった。

嬉しかったら笑って、腹が立ったら怒って、哀しかったら大声で泣いて。

自分の感情に素直な彼だから、誰も視ることのできないものを視たり、聴いたりできるのだろう、とは母親の見解である。

お姉ちゃんはそんなことはなかったけれど、まあ男の子だしこんなもんよね、と母親は至って呑気だった。

とにもかくにも、彼は運よく恵まれた境遇にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からん、と首にかけたホイッスルの中に入っている合成コルクの玉が鳴る。

背中に背負ったランドセルが重たい。

お母さんに手を引かれながら小学校へ向かうのは、今日が最初で最後だ。

明日からは近所の子と一緒に通う。

彼が今まで住んでいた国とは違って、この国は子どもだけで学校に通うらしい。

1人で通うもよし、近所に住んでいる仲のいい子どもと一緒に登校してもよし。

とにかく子ども達だけで、学校に向かうのである。

通学路の途中に何人か見守ってくれる大人はいてくれるものの、今までスクールバスを使って学校に通っていたお姉ちゃんは大丈夫かなってちょっとだけ不安そうだった。

お母さんに連れられて、職員室に挨拶に行く。彼の担任は優しそうな女性の先生だった。

初めまして、って彼が知っている英語で話しかけてくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。

今までずっと英語漬けの環境だったのに、いきなり知らない言語が溢れた空間に飛び込ませて大丈夫なのだろうか、と学年主任の先生が心配していたけれど、私に任せてくださいって彼の担任になる女性の先生がどんと胸を叩いて言ってくれたので、お母さんは安心して任せることにした。

お姉ちゃんの担任の先生も、男の先生だけどとっても優しそうだった。

 

 

じゃあね、って彼とお姉ちゃんはお母さんにバイバイして、それぞれの教室に向かう。

1年生のクラスに向かう道中、先生は彼が緊張してしまわないように、いっぱい話しかけてくれた。

アメリカでは何処に住んでいたの、とかお父さんは何のお仕事をしているの、とか。

その度に彼は元気よく答える。

 

「そのホイッスルは?」

 

彼の首からかけられている、ちょっと大きめのホイッスルについても、先生は聞いた。

学校に関係のないものは持ってきてはいけない決まりなのだが、ここの校則はそこそこ緩いようで、校長先生や教頭先生に挨拶をした時も、目についていたはずなのに特に何も言われなかった。

きっととっても大切なものなんだろう、って思って、先生は問いかけた。

さっきみたいに、また元気よく捲し立てるように答えてくれるのだろうって、返事を待った。

幾ら待っていても、返事は返ってこなかった。

ぴたり、と立ち止まって、首からかけたホイッスルをじっと見下ろしている。

どうしたの?って聞くと、彼は我に返って慌てて首を振った。

 

 

いつの日のことだったのだろうか、幾ら記憶を遡っても思い出せない。

気が付いた時には、このホイッスルを首からかけていた。

とっても大切なもので、大事にしなきゃいけないものだと言うことだけは分かっていたのだけれど、どうして大切なのか、大事にしなければならないのか、その理由だけが思い出せなかった。

そもそも、これはいつ手にいれたのだろう。

お母さんやお父さんに聞いてみたけれど、曖昧に微笑まれて誤魔化された。

お姉ちゃんにも聞いてみたけれど、お姉ちゃんもさあって首を傾げるだけだった。

 

それだけではない。

 

お姉ちゃんも、買ってもらった覚えのないブレスレットをしていた。

細長い牛革が2本、緩く捩じり合って小さなパワーストーンがついているブレスレットだった。

いつ買ったんだっけ、ってお姉ちゃんは訝し気な眼差しでブレスレットを見つめるお姉ちゃんだったけれど、決して外そうとはしなかった。

彼のホイッスルと同じで、とても大切で大事にしなくてはいけないものだったからだ。

何故かは、分からない。

 

教室の前に着く。先生が入ってきて、って言ったら入ってきてねって言われたから、彼は大人しく待つ。

先生が先に入って、おはようございます、って彼の知らない言葉で教室の皆に挨拶した。

今日は転校生がいます、みんな仲良くしてあげてね。

クラスがざわつく。解けていたはずの緊張が、再び戻ってきた。

入ってきて、って先生が英語で言ってくれたので、彼は勢いよくドアをスライドした。

クラスの子達の視線が、一斉に彼に向けられる。

緊張して足取りがちょっとだけ覚束ないけれど、何とか先生の下まで来られた。

黒板に彼の名前が書かれる。先生が彼を紹介する。

はーい、ってクラスのみんなはお利口さんのお返事をする。

自己紹介して、って先生に促されたから、彼はお家でお姉ちゃんとお母さんと一杯練習した日本語で、大きな声で挨拶をした。

 

 

「はじめまして!もとみやだいすけです!」

 

 

ホイッスルが、からりと鳴った。

 

 

 

 

 

 

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