ナイン・レコード   作:オルタンシア

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地下水道にて

 

 

 

 

浮上する意識の向こう側で、誰かの話し声がする。

真っ暗に閉ざされていた視界は、いつしかチカチカとした光がまとわりつき、ヒカリは薄らと目を開けた。

程よいクッションが利いたベッドが気持ちよくて、身体はまだ起きたくないと訴えているが、引っ張り出された意識が再び沈むことはなく、寝転がったまま腕と足を引っ張るように伸ばした。

ゆっくりと上半身を起こす。とろとろとした目が何処を見ているわけでもなく、脳が覚醒するまで視線を落としていた。

 

「おはよう、ヒカリちゃん」

 

プロットモンはまだ寝ている。

横から声をかけられたので、そちらを振り向くと、すでに支度を終えて着替えている空がいた。

おはようございます、と寝起きの籠った声で返せば、空はクスクスと笑った。

 

「……もしかして、寝坊しちゃいました?」

「そんなことないわ。太陽が昇り始めた頃だもの。男子達なんかまだ寝てるわよ」

「でも支度とかしないといけないから、ヒカリちゃんも早く着替えた方がいいわよー。女の子は準備に時間がかかるんだから」

 

ミミもすでに起きていたようで、着替えてドレッサーの前に座っていた。

昨日ゲンナイと名乗る、人間でもデジモンでもない不思議な男性がくれたテントで、ヒカリ達は一夜を過ごした。

これから先ずっと星空の下で野宿生活を覚悟していた子ども達は、思わぬ贈り物に両手を挙げて喜んだ。

人間が生きていく上で必要な衣食住の衣と住を提供してもらったのだ、これからの旅も少しはマシになるはずである。

惜しむらくは、食の提供がなかったことだろうか。

まあ、これに関してはデジモン達に頼れば、食いっぱぐれることはないだろうけど。

テントには簡単だが調理器具もあるし、治は家の事情で台所を任されているから、材料さえあれば何とかなる、と豪語してくれたので、そちらも一旦隅へ置いておくことにして。

 

 

ようやっと覚醒した脳みそに、ヒカリはもう1度伸びをしてベッドから降りた。

プロットモンはまだ寝こけている。

パジャマを脱ぎ、ゲンナイさんが用意してくれた、ヒカリがこの世界に来た際に着ていたものと全く同じ、真新しい服に袖を通す。

はい、って空から渡されたタオルを持って、男の子と女の子それぞれに宛がわれたテントの他にある、シャワー用のテントに向かった。

シャワー用のテントにはシャワーだけでなく、洗面台とトイレもついている。

不思議だ、と治と光子郎は首を捻っていた。

何処か水源があるわけでもなく、水道から水を引いているわけでもないのに、どうして水が出てくるのか。

昨日光子郎が自力で発見した理論に基づけば、恐らくシャワーという情報やデータが形として実体化しているのだろう。

シャワーは水を流すもの。だから水源がいらないのだ、きっと、たぶん。

珍しく自信なさげな治だったが、太一のへーやっぱお前すごいなーって言葉で苦笑しながらも立ち直ったので、良しとしよう。

 

 

本当なら洗顔用ソープもあればよかったのに、というのはミミの愚痴である。

小学4年生ながらに、お洒落に余念がないミミは、お肌のお手入れだって気を使っていた。

可愛いもの、綺麗なものが大好きな母の影響だろう。

母は昔からフリルやリボンがいっぱいついたお洋服を着るのが好きだったし、娘のミミに着せるのも好きだった。

元から可愛いミミだが、母はいつも「可愛いも綺麗も努力して手に入れるものよ」と口酸っぱくしてミミに言い聞かせていた。

今が可愛いからってそこに胡坐をかいていると、いつか努力で可愛いを手に入れた人に追い抜かされる。

手入れを怠れば、あっという間に劣化する。

だからちゃんとお手入れはしなきゃだめよ、ってお母さんはミミの髪を梳かしてやりながら、口癖のように言っていた。

 

「あー!ヒカリちゃん、待って待って!」

「ほえ?」

 

顔を洗ってテントに戻ってきたヒカリは、ミミが使っていたドレッサーの前に立つと、空よりも短い焦げ茶色の髪の毛を手櫛で軽く整える。

後ろの方は見えないけれど、まあいいかぁって妥協してドレッサーから離れようとしたら、ミミが悲鳴にも似た叫び声をあげながらヒカリの腕を掴み、ドレッサーの前に座らせた。

 

「もう!ダメじゃない、ヒカリちゃん!手櫛だけで済ませちゃうなんて!女の子でしょ!ほら、お姉さんがやったげるから、座ってて!」

「ええっ、い、いいですよ、私の髪、短いし……」

「短いからって整えなくていい言い訳にはならないの!」

 

いいから座る!と有無を言わさないミミの剣幕に、ヒカリは従うしかなかった。

短く切られた髪は、少しだけ濡れている。

恐らく顔を洗った際に水を少し撫でつけたのだろう。

何てこと、とヒカリの頭に触れたミミの手がわなわなと震えた。

と言うか、

 

「あー!ヒカリちゃん、昨日ちゃんと髪の毛乾かさないで寝たでしょう!」

「う……は、はい……」

「髪の毛ごわごわになっちゃってるじゃない!ダメよ、ちゃんと乾かさないと!」

 

残念ながらゲンナイさんが用意してくれたテントに、整髪剤のようなものはない。

必要最低限の装備しかなかった。

シャンプーやリンス、コンディショナー、ボディーソープやハンドソープ、バスタオル、ハンドタオルは子ども達とデジモンの分だけあったのに、シャワー後のヘアケアやスキンケアの類はなかった。

もしゲンナイに逢う機会があったら、それらも全部用意してもらわなきゃ、ってミミはぷりぷりしている。

しょうがない、ブラシとドライヤーで今は我慢しよう。

口をとがらせながらミミはヒカリの髪をブローする。

ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて丁寧に。

ロールブラシを上手く動かしながら、ドライヤーの温かい風を当てて、ヒカリの短い髪をお手入れした。

 

 

しばらくして。

 

 

「……よし、できた!」

 

会心のでき!とミミはドライヤーとブラシをドレッサーに置いて、ふうと満足げにため息を吐きながら額を拭った。

傍から見ると全く変わっているように見えなかったが、触ってみれば分かる。

動き回るのに邪魔で、煩わしいからという理由で短く切られて、ちょっとボサついていたはずのヒカリの髪は、お母さん行きつけの美容室に行った後みたいにサラサラだった。

ドレッサーに身を乗り出すように、鏡に映っている自分自身を見つめる。

否、正確には生まれ変わった己の髪を。

髪を撫でる手が止まらない。サラサラの髪なんて、プロの人にしかできないと思っていたのに。

ヒカリの目がキラキラと輝いていた。

 

「す、すごーい!ヒカリの髪、サラサラになっちゃった!」

「ふっふーん!でしょ、でしょ?ちゃーんとお手入れすれば、短くったってサラサラにできるんだから!ヒカリちゃん、今日からお風呂に入った後はちゃんとドライヤーで髪を乾かすのよ?短いからすぐ乾く、って面倒くさがっちゃダメ!太一さんの髪みたいに爆発しちゃうわよ!」

「ええっ!そ、それはヤダッ!ちゃんと乾かします!」

「ん、よろしい!さぁて、次は空さんよ!」

 

思わぬ遊撃を食らって、空はぎょっと目を見開いた。

 

「ちょ、ちょっと待って!アタシは別にいいわよ!」

「だぁめ!空さんの髪も外にぴょんぴょん跳ねまくってるじゃない!大丈夫ですよー、ちゃーんと整えてあげますからー」

「待って!その手つき何か危ない!こらっ、ミミちゃん!」

 

うふふふふふふふ、と目が全く笑っていない笑顔を浮かべながら、両手をわきわきさせるミミはかなり怪しい。

何やら危機感を覚えた空は、逃走態勢をとっている。

じりじり、とミミがにじり寄ればその分だけ空は後ずさった。

 

『……何してるの?』

「……おはよう、プロットモン」

 

らしくなく、ぎゃあぎゃあと騒ぐ女子2人の喧騒に起こされたパートナー達は、ギリギリギリと両手を組み合って拮抗している空とミミを見て、首を傾げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デジヴァイスという白い機械は、デジタルとデバイスを掛け合わせた造語らしい。

デバイスとは英語で「装置」という意味で、ITにおけるデバイスとはコンピュータに接続して使うあらゆるハードウェアのことだ。

分かりやすく例えるならキーボードもマウスもデバイスの一種で、パソコンに内蔵されている、または接続して使用される装置は総称してデバイスと呼ばれる。

特定の機能を持つ電子部品・機器・周辺機器のことを指して使われる単語なのだが、デジヴァイスの主な機能として子ども達が把握しているのは、子ども達が何らかの危機に陥った際に爆発的なエネルギーをデジモン達に送り込んで、次の世代へと進化させるということだった。

今のところ、その他の機能は判明していないし、別世界とは言え生き物の姿形だけでなく能力までも急激に引き上げてしまうような、オーパーツにも近い機械を分解してしまうほど、治も光子郎も莫迦ではなかった。

何処を見渡しても接合部やネジ等で止められた部分がない。

感触も、子ども達がよく知っているプラスティックや合成樹脂の類ではない。

もちろん、石とか宝石系のものでもない。

とにかく今まで見たことも触ったこともないような、恐らくこの世界の素材で作られたものだ。

下手にいじくりまわして故障なんてことになったらシャレにならない。

アンドロモンでも、デジヴァイスの直し方は分からないそうだ。

物をぞんざいに扱ってぶっ壊す天才の筆頭である太一と大輔は、治と丈に口酸っぱく言い含められた。

分かりました、っていい子の返事をする大輔とは対極的に、太一は分かってるよ、と若干拗ねている。

 

 

それでも調べられることはあるはずだ、と好奇心を抑えきれなかった光子郎が、アンドロモンからもらったケーブルで自分のパソコンと接続して慎重に調べまくったところ、幾つかプロテクトされたプログラムを見つけた。

進化に関わるプログラムかもしれないので、それには手を出さずに他に何かないかと躍起になっていたところ、とあるデジ文字が光子郎のパソコンのディスプレイに浮かび上がった。

テントモンに読んでもらうと、ユーザー名という文字と光子郎の名前が書かれているそうだった。

 

「恐らく、皆さんのデジヴァイスもそれぞれの名前がユーザー名として登録されていると思います。多分ですけど、ユーザー名と登録されている以上、それぞれのデジヴァイスはみなさんにしか使えないのでしょう。だから賢くん、申し訳ないけど、たぶんテントモンを進化させた時のようには出来ないと思うんだ」

 

ごめんね、と申し訳なさそうに言えば、そっかーって賢は残念そうだったが、大丈夫って首を振った。

テントモンが進化をした時の話を聞いていた賢は、パタモンもテントモンと同じように光子郎のパソコンで進化させてあげられないのか、尋ねたのだ。

そのことに関する返答が、上記のものである。

 

「僕達は僕達で頑張るから!ね、パタモン!」

『うん!僕だってやればできるもんね!』

 

えっへん、てパタモンは胸を張るけれど、賢の頭の上でくつろぎながら言われても、説得力が感じられない。

優しい光子郎は苦笑するだけで、それを指摘することはなかった。

 

 

 

さて、子ども達は今地下水道を歩いている真っ最中である。

濁った水の通り道を中心に、子ども達とデジモン達が左右に分かれながら、薄暗い地下水道を進んでいた。

アンドロモンが守護していた工場から繋がっていたもので、広大な砂漠を横切るのは幾ら何でも危険だから、下水道を通って行った方がいいとアドバイスされたのである。

下水道って暗くてジメジメしてて臭いが酷そう、と困惑していた女子3人だったが、砂漠で遭難するよりはいいだろ、という多数決にもならない男子6人の主張により、降りることになった。

躊躇なく飛び込む太一とその後に続けと大輔、大輔くんが行くのならと賢が後を追い、弟が飛びこんだことによって慌てる治、砂漠を歩くよりはマシと光子郎と丈、そしてデジモン達が入って、安全を確かめる。

確かにちょっとジメッとしているし薄暗いのだが、意外なことに臭いはそれほど気にならなかった。

下水道特有の、鼻にツンとつく生ごみの臭いが、殆どしないのだ。

これなら大丈夫だろう、ということで女子3人とそのパートナーも遅れて地下水道に潜り込んだのだった。

カンカンカン、と手摺を降りて、子ども1人ほどの大きな丸い排水溝から、広い地下水道へと出る。

ファイル島で起こっている異変を全て解決したら、再び工場に来てくれ、とゲンナイに言われているので、アンドロモンとはしばしの別れだ。

 

 

 

「コーラが飲みたい」

 

どれぐらいの時間が経っただろうか。

誰かがぽつりと言った。

その声と言葉を聞いて、みな一斉に立ち止まる。

等間隔で見つかる排水溝からちょろちょろとした水が流れていくのを横目に、子ども達は地下水道を真っすぐ突き進む。

行けども行けども何の変化もない地下水道で、誰が提案したかしりとりをすることになった。

しりとりってなぁに、っていうデジモン達の疑問から、まずしりとりのルールを教えてやるところから始まり、子ども達チームとデジモンチームで分かれてしりとりをしながら暇を潰すこと、約40分。

そんな時だった。

 

「……ミミちゃん、何も今それ言わなくても」

「だって飲みたいんだもん!」

 

空が困ったような表情を浮かべてミミを宥めるが、ミミは頬を膨らませて自分は悪くないと言いたげである。

アンドロモンによりゲンナイから衣食住の衣と住を提供されたお陰で、これからの冒険はだいぶ楽なものになるだろう。

固い地面に寝っ転がって碌に睡眠をとれず、翌朝寝不足気味の頭と足取りでフラフラにならずに済んだのである。

その日の汚れを落としてくれるシャワーや排出物を流してくれるトイレ、自分達のお家で使っているのと変わらないパジャマ、ふっかふかのベッド、そして自分たちが着ているものと同じ替えの洋服と下着。

最初こそ訝しんでいた子ども達だったが、このことによってゲンナイに対する信頼も株も急上昇中である。

そりゃいきなり連れてこられて世界を救ってくれなんて、一方的にお願いはされたけども、サポートはしてくれるとのことなので、貰えるものは貰っとけ精神でこれからも行こう、と子ども達の心は1つであった。

 

 

しかし飲食に関するサポートは間に合わなかったか、それともそこまでの余裕が作れなかったのか、受け取ることはできなかった。

初日は運よく湖で魚を釣って果物と一緒に口にすることができたが、次もそうできるとは限らない。

魚や果物はともかく、肉は既に加工されたものを調理したことしかないから、食べるとしたらまずは生き物を仕留めるところから始めなければならない。

そのことを想像して、治は自滅しかけたのだが彼はすっかり忘れているようだ。

この世界にはデジモンしかいないのである。

例え治に解体スキルがあろうとも、デジモンの肉が食べられるのかも分からないから迂闊に手が出せない。

そもそもの大前提が子ども達の世界とこの世界で違うのだが、今はそんなこと知る由もなかった。

閑話休題。

 

「こんなところにコーラなんかあるわけないじゃないですか」

「分かってるわよ、そんなこと!」

 

光子郎が窘めると、キッと光子郎を睨みつけながら食って掛かるから、光子郎は肩を竦める。

後ろの方を歩いていた最年少は、きょとんとしながら上級生達のやり取りを眺めていた。

 

「……でも口にしないと、爆発しそうだったんだもん」

「……気持ちは分かるよ、ミミちゃん」

 

しかしすぐさまシュン、となって項垂れる。

治が苦笑しながらミミの肩にそっと手を添えた。

ミミは思ったことは全て口にしないと気が済まない性格だ。

がーっと言うだけ言ってすっきりして、知らん顔をするのである。

相手がどう思っているとか関係ない。

ただ心の中で思い浮かんだ言葉を全部口にして、溜め込まないようにしているだけなのである。

心の中で溜め込みがちにして、限界まで心の風船を膨らませてしまうと、ちょっとした刺激で簡単に破裂してしまうのだ。

そうならないように定期的にガス抜きをするのだが、ミミの心の風船はほんの一息膨らませただけでプシュッと空気が抜けてしまうらしい。

膨らませすぎは危ないが、膨らむ前に空気が抜けていくのもどうなのか、と光子郎は頭を抱えた。

 

 

だがミミは特段、我儘を言っているのではない。

思ったことを口にしているだけで、具体的にああしてこうしてあれいらないこれいらないと言っているわけではないのだ。

現にミミはコーラを飲みたい、とは言ったけれどコーラを持ってこいとは一言も言っていない。

誰かを顎で使って、ないものを持ってこいなんて無茶を言うほど、ミミも鬼ではない。

 

「……だったら僕は焼き肉が食べたいなぁ」

 

思わぬところから声が上がり、みなの視線がそちらに向けられる。

そう言ったのは、治だった。

あまりそういったことを口にしない治が、珍しく自分の気持ちを吐き出したのである。

太一も空も、目を真ん丸にして治を見やれば、苦笑していた。

思ったことを口にするだけなら罰は当たらない、そう言いたげだった。

それを皮切りに、他の子ども達もやりたいことを各々口にする。

湯船にゆっくり浸かりたいとか、メル友とメールのやり取りがしたいとか、勉強がしたいとか、いつもなら何気ない日常を、非日常に放り込まれた子ども達は懐かしく思った。

 

「だったら僕はゲームしたい!まだクリアしてないゲームがあるから、帰ったらお兄ちゃんと一緒にやりたいなぁ。ヒカリちゃんは?」

「私?私は……そうだなぁ、本が読みたい。夏休み中にいっぱい本を読むって目標立てたから……」

「そっかー。僕も本好きだよ。冒険ものとか。ヒカリちゃんは?」

「ファンタジーが多いかな。私も魔法使ってみたいし、妖精さんにも会ってみたい!」

「ふふふ、ヒカリちゃんらしいね。大輔くんは?帰ったら何したい?」

 

それは、当たり前のフリであった。

ヒカリちゃんにも聞いたのだから、大輔くんにも話を振るのは当然だった。

2人が知っている大輔なら、張り切って教えてくれるだろうと思っていた。

きっとたっくさんやりたいことがあるだろうなって、あれがしたいこれがしたいって欲張って、それで賢とヒカリが笑うのだ。

やりたいことありすぎだよって笑い合うのだ。

そう信じて、疑っていなかった。

 

 

しかし、

 

 

「………………」

 

大輔は、口を噤んだままだった。

目線を下に落として、きゅっと唇を結んで、何かを考えこんでいるかのようだった。

あれ?って賢とヒカリは首を傾げる。

てっきりすぐにマシンガントークをかましてくれると思っていたのに、大輔は一言も発さないのである。

 

「……大輔くん?」

「……俺、は」

 

上級生達は、自分達のやりたいことで盛り上がっていて、最年少達の様子に気が付かない。

気が付いてくれたのは、最年少のパートナー達だけだった。

 

「……お姉ちゃんに会いたい」

 

この時、賢は強烈な違和感を覚えた。

ぽつりと落とされたように放たれた大輔の言葉は、傍から聞けば特に変わりのない言葉かもしれない。

大輔にはお姉ちゃんがいるというのは、昨日教えてもらったから、もしかしたらその話からお姉ちゃんが恋しくなってきたのかもしれない。

それで、お姉ちゃんに会いたいなんて言葉がつい口に出たのかもしれない。

でも……。

 

 

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賢は聡い子で、敏い子である。

賢い子どもである。

両親が離婚し、家族がバラバラで暮らしているという、それなりに特殊な家庭事情を抱えているせいなのか、人の顔色を異様に伺う子であった。

お友達とは滅多に喧嘩をしない、しても賢が先に折れて喧嘩に発展しないようにするのである。

お話をしている最中、何気ない会話の中でも、少しでもお友達が嫌な顔を見せると、賢はそれを察して話題をさりげなく変えてしまう。

人はそれぞれ色々と複雑な事情を抱えているものだから、賢だってどうしてお父さんがいないのってお友達に聞かれるのは嫌だろう?ってお兄ちゃんにも言われているから、もしもお友達の様子がおかしいと気づいても、賢は深く踏み込んでいかないようにしている。

 

「…………そ、っか」

 

だから、賢はすさまじい違和感を覚えながらも、それ以上大輔に踏み込むことができなかった。

 

 

 

 

 

薄暗い地下水道は、暗闇に塗りつぶされており、数十メートル先が見えない。

しんみりとした空気に包まれていた子ども達の耳に、水が弾けるような音が聞こえてきた。

その音と同時に、お腹を押すと可愛い音が鳴る赤ちゃんのおもちゃのような音が、地下水道で反響している。

最初に気づいたのは、テントモンであった。

音を聞いた瞬間にギクリとその身体を震わせて、ぎ、ぎ、ぎ、と錆びたロボットみたいにぎこちなく、音がする方向に顔を向ける。

他のデジモン達も、似たような反応であった。

まだ姿は見えない。

 

『ヌメモンだ!』

「ヌメモン?」

 

ガブモンが、音の正体を言い当てた。

治が、ガブモンの言い放った言葉を復唱すると、ゴマモンがとても嫌な表情を浮かべて、子ども達に説明してくれる。

ヌメモンとは、暗くてジメジメしたところに好んで住みつき、知性も教養も戦う力もなく、デジモン界の嫌われ者と呼ばれているらしい。

そして特出すべきは、“汚い”ことだという。

汚いというのはどういうことなのだろうか、と子ども達は首を傾げた。

暗くてジメジメした、こういうところに住んでいるからという直接的な意味でなのか、それとも知性も教養も戦う力もないから、汚い手を使って相手を追い詰める、という意味なのだろうか。

……考える間もなく、子ども達は数秒後にその答えを知ることとなる。

 

 

 

ヌメモンが水の上を走っているらしい音と鳴き声が、どんどん近づいてくる。

ヌメモンというデジモンがどんな姿をしているのか気になった子ども達は、その場でじっとしていて動かない。

デジモン達はというと、何故か及び腰で、顔を真っ青にさせてじりじりと後ずさっていた。

やがて、ヌメモンがその姿を現す。

子ども達の印象は、緑色のナメクジ、であった。

ぬめぬめと粘り気のある、スライムのような身体。

ぎょろりと大きな目は身体から離れるように飛び出しており、大輔はカタツムリの歌を思い出した。

カタツムリのアレは、目ではなくて角なのか槍なのか、お姉ちゃんと談義をしたことがあったけれど、それは今は関係ない。

というよりも、そんなことを考えている場合ではない。

やっぱりヌメモンだ!とアグモンが引きつったような悲鳴を上げて、子ども達とデジモン達に逃げろと言い、駆け出した。

言われなくとも、とデジモン達は言われた通りにしたけれど、子ども達は訳が分からない。

反射的に走りだしたけれど、さっきデジモン達は、ヌメモンは弱いデジモンだと言っていたはずだし、子ども達から見てもヌメモンの外見はとても強そうには見えなかった。

アグモンがアグモンのままで戦っても余裕で勝てそうな相手なのに、どうしてデジモン達は顔を真っ青にしてあわあわ言いながら来た道を戻っているのだろうか。

その答えは、すぐに出た。

 

べちょっ!

 

子ども達の背後から、何かが投げられてすぐ横の壁にぶちまけられるように当たる。

べっとりと壁に張り付いた“ソレ”はピンク色で、粘着質な固形物だった。

それが次々と子ども達とデジモン達に向かって投げられては、壁にべっちょりと張り付く。

つん、とした刺激臭は、何故か覚えがあった。

ピンク色の正体を理解してしまったミミが、いやああああああって悲鳴を上げる。

次々と沢山のウン……ゲフンゲフン排泄物が投げられ、飛び交う中、子ども達は当たらないように必死で逃げた。

ゲンナイさんがくれたシャワー付きテントがあると言えど、排泄物まみれになるのはごめんである。

 

 

どれぐらい走ったか。無我夢中で走り続けていた賢は、気づけなかった。

最後尾を歩いていた関係で、先頭を走る羽目になっていた賢は、飛び交う排泄物を見たくなくて目を瞑りながら走っていた。

そのすぐ後ろを走っていた大輔は、後ろから飛んでくる排泄物から逃げるのに必死で、賢の背中を通り越した前しか見ていなかった。

更にその後ろにいるヒカリは、頭を守るように抱えながら、賢と同じように目を閉じていた。

だから気づかなかった。

ぽっかりと開いた排水溝を通り過ぎて、最年少3人とそのパートナー達はとにかく迫りくる危機から逃れようと必死だった。

 

「っ、みんな!こっち!」

 

最年少3人の後ろを走っていたミミが、排水溝に気づいて飛び込んでいく。

後に続いた他の子ども達とデジモン達もミミの後を追っていったが、誰1人として排水溝を通り過ぎてしまった最年少達に気が付かなかった。

 

 

 

 

 

 

『……あ、れ?』

 

どのぐらい走っていただろうか。

先頭を走っていた賢だったが、スポーツは体育の授業でぐらいしかやったことがないせいで、走るスピードがどんどん落ちていく。

すぐ後ろにいる大輔が、早く走れって急かしながら賢の背中をぐいぐい押すけれども、無理なものは無理だ。

体力も限界、足も縺れ始めてうまく走れない。

もうダメだ、って賢はとうとう膝をついてしまった。

追いついた大輔とヒカリが賢に立ってと促すけれど、息が切れて苦しい賢は両手を地面について大きく呼吸をする。

川を挟んで向こうの道を走っていたパートナー達が、川をぴょんと飛び越えて大輔達の下へと駆け付け、彼らを守るように立ちはだかり、代表してパタモンが声を上げた。

それは、戦闘開始の合図ではなく、疑問符を含んだ言葉だった。

そこでようやく、3人と3匹は気づいた。

後ろを走っていたはずの上級生とそのパートナー達どころか、追っかけてきていたヌメモンの、姿形が何処にもないことに。

 

「……お兄ちゃん?丈さん?」

「太一さん……?光子郎さん……?」

「空さん、ミミさん……何で……?」

 

呆然としながら上級生達の名を口にするが、虚しく反響するだけで誰からの返事もない。

 

『えっ、えっ?ガブモォーン!ゴマモォーン!』

『アグモン!テントモン!返事してぇ!』

『ピ、ピヨモン!パルモォン!何処ぉ!?』

 

パタモン達も混乱しながらも、上級生のパートナー達を呼んだが、シーンとした静寂が辺りを支配していた。

さあ、とヒカリの顔が真っ青に染まる。

 

「どっ、どうしよう!お兄ちゃん達とはぐれちゃった!」

『ヒ、ヒカリ!落ち着いて!大丈夫よ、アタシ達がついてるから!』

「そっ、そうだよ、ヒカリちゃん!はぐれちゃったなら、探そうぜ!なっ、ブイモン!?」

『お、おう!』

 

パニックに陥りかけるヒカリを、プロットモンと大輔とブイモンが3人がかりで宥める。

無理もない、ヒカリはお兄ちゃんである太一が大好きで、いつもべったりだ。

こっちの世界に来てからは、最年少の小学2年生ということで一纏めに括られて、後ろの方に遠ざけられちゃっているし、大輔くんと賢くんとそのパートナー達とお喋りが楽しくて、そっちの方に集中してしまっているけれど、基本的にはお兄ちゃん子だ。

お兄ちゃんが視界に映っているから、安心して大輔と賢と一緒に後ろの方に甘んじていたのだ。

それなのに、太一が何処にも見当たらない。

今にも泣きそうなヒカリと、それに焦って宥めようとしている大輔とブイモンとプロットモンを尻目に、体力と息切れからようやく回復した賢が、大輔達を見つめた後、ぐるりと辺りを見渡し、何かを考えこむような体勢をとる。

 

数秒ほどして。

 

「大輔くん、ヒカリちゃん」

 

大輔達に宥めてもらったお陰で少し落ち着いたヒカリは、それでも顔色が良くない。

だからヒカリを安心させるために、賢は先ほど数秒で考えた自分の意見を口にした。

 

「えっとね、ちょっと周りを見てほしいんだけど……僕達がヌメモンに追いかけられてた時、えっと……ピンク色のウンチ、投げられたよね?」

 

排泄物を口にするとき賢が若干口ごもったが、それは置いておこう。

うん、と2人と3体は頷く。

 

「周りの壁とか川とかにいっぱいついたり、落ちたりしたよね?でも僕達の周りの壁にはウンチがついてない。だからきっとヌメモンは、僕達じゃなくて、お兄ちゃん達の方を追いかけたんだ」

「……つまり?」

「僕達があそこまで歩いていた時まで、何個か大きな穴があったでしょ?多分お兄ちゃん達はその大きな穴に逃げてったんだ。でも僕達はそれに気づかずに通り過ぎちゃって、だからお兄ちゃん達とはぐれちゃったんだと思う」

 

賢が言いたいのはこうだ。

自分達の周りにヌメモンが投げた排泄物がないのは、途中にあった排水溝へ逃げ込んだ太一達上級生の姿しか見えておらず、賢達を追いかけなかったからだ。

上級生達を追ったヌメモンは、薄暗い地下水道の暗闇の中へ溶けてしまった大輔達に気づくことなく、太一達を追っていった。

つまり、ヌメモンが投げつけてべっちゃりと天井やら壁やらに張り付いた排泄物が、途切れている辺りまで戻ればいいのだ。

 

『そっかー!ケン、頭いいね!』

 

パタモンが目をキラキラさせながら、賢を見やる。

えへへ、って賢は照れ臭そうに笑った。

賢の言葉によって、だんだんと落ち着いて、冷静さを取り戻した大輔とヒカリは、そっかぁって思った。

はぐれちゃったのだから、はぐれた場所まで戻ればいいのだ。

そう思ったら、いてもたってもいられない。

大輔達は急いで来た道を戻った。

またヌメモン達に追いかけられてはたまらない。

追い払うのは簡単だろうが、飛び交う排泄物の中を突っ込む勇気までは持ち合わせていないし、パタモンとプロットモンは遠距離の技を持っているからまだしも、ブイモンは格闘技中心の接近戦タイプだ。

おまけに誰かに触られるのがダメという弱点付き。

そうでなくともヌメモンに近づいてパンチを食らわせるのは断固拒否するだろうけども。

 

 

 

ほどなくして、見るのも憚られるような光景が目に飛び込んでくる。

天井から壁から床から至るところに張り付いている、ピンク色の排泄物。

特有の臭いが辺りに充満しており、3人と3体の顔は真っ青で、歪んでいた。

こんな悍ましい臭いが充満していては、太一達の匂いを追って探すことなどできやしない。

幸い太一達が逃げ込んだであろう横穴がすぐそばにあったので、みんなで鼻を摘まんで、ピンクの排泄物を避けながら排水溝へ入り込んだ。

そこも天井や地面がピンク色の排泄物塗れになっており、天井に張り付いている排泄物が今にも落ちそうになっているから、急いで通り過ぎる。

直後に背後からべちょりと言う音がしたけれども、聞こえないふり。

やがて整備されていた排水溝はいつの間にか岩肌のトンネルに様変わりしており、曲がりくねった薄暗い道の向こうから光の筋が手を差し伸べてきた。

排泄物はまだあちこちに張り付いている。

 

「……ぷはぁ!」

 

数秒しないうちに見えてきた出口に、大輔達の足が早まる。

ぴょん、と飛び出してさわやかな風を感じたと同時に、大輔は鼻と口を押えていた手を放して、抑えていた息を全て吐き出した。

新鮮な空気を、深呼吸して肺に送り込む。

が……。

 

『……外もウンチ塗れだね』

『……タイチ達も見当たらないし、外まで追いかけられたのかしら』

『……この天気だもんねぇ』

 

洞窟の外は、岩肌の山だった。

少し小高い位置にあるようで、2メートルほど下に枯れかけた草原が見える。

そして洞窟の外にも、たくさんのピンク色が落ちていた。

それを見て、それから空を見上げたブイモン達のつぶやきに、賢がはてなと首を傾げる。

 

「どういうこと?」

『見て、ケン。空、太陽が隠れちゃってるでしょ?』

『ヌメモン達は太陽の光が苦手なんだけどね、たぶんタイチ達が外に出た時も曇ってたんでしょうねぇ』

『太陽の光で撃退できなくて、タイチ達逃げるしかなかったのかなぁ。ウンチがあっちに続いてるし、しょうがないから後追おう?』

 

ブイモンが指さした先に、点々とピンク色の排泄物が落ちている。

ブイモン達によれば、ヌメモンは暗くてジメジメしたところを好むが故に、明るくて乾燥したところが苦手らしい。

だが見上げた空には厚くてほの暗い雲が、太陽を隠してしまっていた。

もしも雲がなかったら、太陽の光がギラギラと照り付けて、ヌメモン達を退けてくれて、はぐれてしまった最年少達を待っていてくれるなり、探しに来てくれていたであろうに。

 

 

 

大量のヌメモン達がピンク色の排泄物を次から次へと投げつけるせいで、デジモン達は技を放つ隙すら与えられなかったのだろう。

そうでなければ次の世代に進化可能なパートナー達がいるのに、ヌメモンを追い払うことができなかったはずがない。

1番弱い技を放つパタモンよりも弱いという話だから、排泄物さえなければ楽勝のはずなのだ。

汚い、というのは当初の予想通り、二重の意味が含まれていたらしい。

仕方ない、と大輔達は点々とぶちまけられているピンクの排泄物を目印に、太一達を探すために歩き出した。

よりによって排泄物が目印だなんて、せめてヘンゼルとグレーテルのように石ころやパン屑だったらよかったのに、とヒカリは頬を膨らませながらメルヘンチックなことを考える。

2メートル弱の小高い崖になっていた足場は、やがて緩やかな坂道になり、枯れ草の草原と合流する。

排泄物はまだ続いており、セピア色の背景には異物でしかないのだが、目印としては大変助かった。

しかし。

 

「……嘘だろ」

『そんなぁ』

 

先頭を歩いていた大輔とブイモンが突然立ち止まり、唖然と呟いた。

どうしたの、と大輔達の後に続いていた賢とパタモン、ヒカリとプロットモンが大輔につられて足を止め、声をかける。

振り返った大輔とブイモンの表情は、絶望にも似た色に染まっていた。

何があったのだろう、と不安に駆られた2人と2体が大輔の隣に移動すると、その意味を理解した。

ピンク色の排泄物が、途切れていたのである。

ここに来るまでにほぼ真っすぐ投げつけられていたピンク色が、ぱったりと途切れている。

さあ、と賢とヒカリの顔が青くなった。

手がかりが、なくなってしまった。

目を逸らしたくなるような光景ではあったものの、太一達の下へたどり着く唯一の手掛かりだったのに。

このままでは会えなくなってしまう、と再びパニックに陥りかけたヒカリに気づいて、大輔とブイモンとプロットモンが再度彼女を宥めにかかった。

 

『ど、どうしよう、ケン~!』

「とっ、とにかく、何か周りにないか探そう!」

『う、うん!』

 

ヒカリは大輔達に任せて、賢とパタモンは何かないかと辺りを見渡す。

しかし見渡す限り青空と白い雲、それからセピア色の草原以外何も見当たらない。

大輔達から少し離れて、何か見えるものはないだろうかと、足元がお留守になっていた賢は、踏み出した足に地面がなくてすっ転びそうになった。

うわ、と悲鳴を上げて、一瞬滑り落ちた賢だったが、何とか踏ん張った。

賢の悲鳴を聞きつけて、賢とは別の方向を見ていたパタモンが慌てて飛んでくる。

 

『ケン!?大丈夫!?』

「だっ、大丈夫……!」

 

目を見開いて驚きの表情を浮かべてはいたが、咄嗟に踏ん張ったお陰で転がり落ちずに済んだ。

背中で這うように坂道を上がって、ふうと一息。

 

「……何だろう、あれ?」

『ほえ?』

 

賢の視界に映ったのは、乱雑に置かれたたくさんの自販機。

色んな色や種類の自販機があった。

兄譲りの好奇心が疼いた賢は、大輔達を呼ぶのも忘れて坂道を下る。

賢が住んでいる集合住宅のすぐ近くにあるのと同じ自販機だったり、見たことのない文字や飲み物、ジュースを売っているものもあった。

 

『ケン、これなぁに?』

「自販機だよ。お金を入れてボタンを押すと、ここにあるのと同じものが出てくるんだ」

『オカネって?』

「え?パタモン、お金知らないの?」

 

どうやらこの世界には金銭の概念はないらしい。

賢もまだよく分かっていないので、お金とは何か欲しいものを買うときに必要なものなのだと、お兄ちゃんが昔教えてくれたことをそのまんまパタモンに教えてあげた。

お金がないと、欲しいものが手に入らない。

しかしパタモンはそれでもよく分かっていないようだった。

食べ物が欲しいのなら、そこら辺に生っている木の実や果物をとればいいじゃない、というのがパタモンの反論である。

服や靴もデジモン達には必要がないから、それを買うためのお金だと言ってもピンとこない。

結局賢達の世界では必要不可欠なもので、文化の違いのようなものなのだと無理やり納得させるしかなかった。

 

『オカネがひつよーだなんて、人間って不便だね』

「あはは……」

「おぉーい、けーん!」

『パタモーン!何してるんだよー!』

 

ここでようやく、ヒカリが落ち着いてくれたのか、姿が見えなくなった賢を探しに来てくれた大輔とブイモンが、坂道の下で自販機の前に立っている賢に気づいてくれた。

 

「え、これって自販機?」

「ラッキー!何か買おうぜ!喉乾いちまった!」

 

坂道を下って賢の下に駆け付けたヒカリと大輔は、セピアの草原に不自然に立ち並んでいる自販機にびっくりしていたが、喉の渇きが優先されてしまい、不条理な光景に対する突っ込みは脳内の隅に追いやられてしまった。

ヌメモン達の排泄物から逃れるために行方不明になってしまった上級生達を探すために、身体の小さい最年少達は上級生達の倍ぐらいの労力を使って歩き回っていたのだ。

喉がカラカラに乾いてくるのも無理はない。

が、賢がストップをかけた。

 

「うーん、大輔くん。その自販機使えないと思うよ?」

「えっ、何で?」

「自販機も、電気があるから動くんだよ。僕、前に自販機がどうやって動くのか気になって、お兄ちゃんに教えてもらったんだ。僕の腕ぐらいの太いケーブルがあってね、そこから電気をもらって動くんだって。でもこの自販機、ケーブルないよ?」

 

ほら、って賢は大輔とヒカリを自販機の後ろに連れて行って指をさす。

お家でも見たことがあるコンセントがあって、そこにケーブルはなかった。

だからお金を入れてボタンを押しても、自販機は飲み物を出してくれないし、出してくれたとしてもこの暑さである。

気温が高いところに食べ物や飲み物を長い時間放っておくと、腐ってしまってお腹を壊すんだよ、ってお兄ちゃんに教えてもらったのをちゃんと覚えている賢い子は、友達にもそれを教えてあげる。

 

「それに海にあった公衆電話、あれ僕が住んでるマンションの近くにもあるけど、結局誰もお家に繋がらなかったでしょ?だからもし僕達の世界にあるものと同じものを見かけても、それがちゃんと使えるかどうか分からないから、まずは調べてからだってお兄ちゃんが」

「あーそっかぁ。治さんが言うんならしょうがないよなぁ」

『オサムってホント物知りだなぁ』

『ね。すごいよねぇ』

「飲み物飲みたかったねぇ、プロットモン」

『うん。アタシももう喉乾いちゃったぁ』

 

この自販機は使えない、という結論に達した最年少達は、とりあえず上級生達の捜索を再開するために歩き出そうとした、時だった。

 

 

バァン!!

 

 

大輔達が観察していた自販機が、突然大きな音を立てて蓋が開くように立方体の側面が開いたのだ。

大きな音にびっくりした最年少とパートナー達は、ビックーンと全身を震わせてその場に硬直した。

ぎ、ぎ、ぎ、と錆びたロボットが無理やり動くようなぎこちなさで、3人と3匹は後ろを振り返る。

 

『あっ!』

『ヌッ、ヌメモン!?』

 

ばったりと倒れた側面、自販機の中から出てきたのは、自分達を追いかけまわして上級生とはぐれる原因になったヌメモンである。

ずざざ、と3人は後ずさり、パートナー達は前に出て戦闘態勢を取った。

その表情は微妙に引きつっていたが、ブイモン達の背後にいる大輔達はそんなこと知る由もない。

それでも、またあの排泄物を投げられて追いかけられては溜まらないので、ブイモン達は先手必勝を取ろうとしたのだが……。

 

『ああ?あんだよ、ガキンチョども。俺様の昼寝の邪魔しやがって、ぎゃあぎゃあ煩くて敵わねぇぜ。騒ぐんならどっか行け』

 

予想に反して、ヌメモンは襲ってこないどころか、眠そうにあくびをしながら喋ったのである。

知性も教養もないとゴマモンが言っていたから、喋ることもできないのだろうなって思っていたのに。

 

『ったく、せーっかくいい気持ちで寝てたってのに、何だってんだ。さっきもわあぎゃあ騒がしい連中がやってきて機嫌が悪いってのに……ああ、そういや隙間から覗いたら見たことねぇデジモンがたくさんいたなぁ?お前らみたいな姿してたけど、仲間か何かか?』

 

唖然とする大輔達を尻目に、ぶつくさと文句を垂れていたヌメモンだったが、やがて何かを思い出したらしいヌメモンが衝撃的なことを口にする。

ヌメモンの文句が続くようなら、こっそりとその場から離れるつもりだった大輔達は、ヌメモンの言葉に目を見開いて、相手が相手だということも忘れて詰め寄った。

 

「たっ、太一さん達を見たの!?」

『何処!?何処行ったか分かる!?』

『ああっ!?なっ、何だ何だ!?やっぱりさっきの連中の仲間だったのか!?』

「そうなの!私達、お兄ちゃん達とはぐれちゃったの!」

『どっちの方角に行ったのかだけでいいから教えて!』

「このままじゃお兄ちゃん達とずっとはぐれたままになっちゃう!!」

『お願い、ヌメモン!!』

 

3人と3体に一気に詰め寄られたヌメモンは、とりあえず落ち着けと言い含める。

そして、訳を聞かせてもらう。

地下水道でヌメモンに追いかけられたせいで、兄達とはぐれてしまったということを話したら、ヌメモンはやれやれと言いたげにため息を吐いた。

 

『全く、地下の連中と来たら。年がら年中暗くてジメジメしたとこにいっから、碌でもないことばっかしやがるんだ。悪いね、ガキンチョども。同族として謝らせてくれ』

「い、いや……君が悪いんじゃないし」

 

しどろもどろになって賢が首を振る。

知性も教養もないはずのデジモンが、ペラペラとしゃべるだけでなく同族の非を詫びている。

それに、厚い雲が晴れ始めて、太陽の光が顔を出し始めたのに、ヌメモンは嫌がるどころかケロリとしていた。

大輔達は知らなかったが、これはいわゆる個体差というもので、種全体が全く同じとは限らない。

それはまさしく人間と同じ、1人1人の性格や個性と同じなのである。

このヌメモンは太陽に耐性があり、比較的社交的らしい。

昼寝の邪魔をされたと文句を言いながらも、詰め寄ってきた大輔達を邪見にすることなく、大輔達の質問に答えた。

 

『お前らの仲間なら、あっちの森に逃げて行ったのが見えたぜ。何なら一緒に探してやろうか?』

 

しかも面倒見もいいと来たものだ。

大輔達小学2年生は3人、そのパートナーが3体なのに対し、上級生6人とそのパートナーも6体。

手分けして探すのに、大輔達では少なすぎた。

 

「ありがとう、ヌメモン。お願いしていい?」

『おう。ほかにも協力してくれるか、声かけてみるからな』

「うん!ありがとう!」

『じゃあ、何処に集まる?バラバラで探しちゃったら、集まれないよ?』

『だったら、すぐ近くにおもちゃの町ってところがあるから、そこ目指しな。お前らなら分かるだろ』

『おもちゃの町!そっか、この近くだったんだ』

 

ブイモン達の目がキラキラと輝く。

おもちゃの町って何だ、って大輔が聞いたら、もんざえモンっていうデジモンが町長をやっている、おもちゃや遊ぶところがいっぱいあるところらしい。

遊ぶところ、と聞いて大輔達もぱっと顔が綻んだ。

 

「じゃあ、太一さん達見つけたら、そこで遊んじゃおうぜ!」

「遊ぼう、遊ぼう!メリーゴーランドとかあるかな?」

「私、観覧車乗りたい!」

 

すっかり目的が切り替わってしまっている大輔達に、協力を申し出たヌメモンは苦笑しながら早く行けと促した。

はーい、っていい子のお返事をして背中を向け、大輔達はヌメモンが指した方向へと走り出す。

それを見送ったヌメモンは、すぐ近くにある自販機擬きをコツコツと叩いて、昼寝をしていた仲間達を叩き起こす作業から始めることにした。

 

 

 

 

 

 


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