ナイン・レコード   作:オルタンシア

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灰色の記憶

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今の賢を形成した決定的な出来事は何かと聞かれれば、間違いなく両親の離婚だと賢は答えるだろう。

 

元々争いごとは苦手だった。兄と殴り合いの喧嘩どころか口論になったことすらなかったし、どちらかと言えば2人とも譲り合いの精神が強くて、1つしかないものはいつも半分こしていた。

2つ以上の異なるものをどちらが取るかで決める際のジャンケンすら、したことがなかった。

治はいつもお兄ちゃんだからって欲しいものを我慢して、賢に譲っていた。

そして賢は、そんな治の弟だ。本当は欲しいのに、お兄ちゃんだからって我慢していることなんかとっくにお見通しの賢は、時々こっちがいいって欲しいものとは違うものを選んで、兄に譲ることもある。

本当にいいのかい?って念を押されても、こっちがいい!と末っ子っぷりを発揮するから、治も苦笑する。

 

 

しかし、そんなやりとりも、今はもう夢の向こうである。

 

 

両親は離婚した。それは、変えられない事実だ。

お父さんとお母さんの喧嘩に、幼い兄弟は巻き込まれたのだ。

幸か不幸か、兄弟は賢かった。両親は兄弟に喧嘩をしている姿を見せないように取り繕っていたけれど、賢い兄弟の前では、そんなものは無意味だった。

毎晩のように聞こえてくる怒号と破壊音。母親がヒステリーを起こして花瓶を割ったことは明白であった。

その音にびっくりして、泣き出してしまった賢を、一晩中慰めてくれたのは治である。

最初こそ取り繕っていた両親だったけれど、それが別のストレスになっていたのだろうか、そのうち綻びを生み始めた。

父親への怒りが収まらず、その苛立ちを子どもにぶつけることが多くなってしまったのである。

虐待にまでは至らなかったものの、言葉が刺刺しくなったり、邪険に扱われたりと、両親との思い出を辿ると最初に出てくるのは、そんなものばかりだ。

家族で楽しく過ごした日々も確かにあったはずなのに、いかに賢いと言えどまだ4歳だった賢では、その思い出を引っ張り出すことは難しい。

 

 

しかし両親が離婚した日のことは、はっきりと覚えている。

あれは確か、春から夏にかけての少し日差しが強い日だった。

部屋で本を読んでいた治、それからブロックのおもちゃで遊んでいた賢は、突然入ってきた母親によって連れ出され、親戚の家に1ヵ月ほど預けられた。

母親の祖父母の家で、突然やってきた孫達を邪険にすることなく、歓迎してくれた。

その間、学校は休んだ。何で、って賢が聞いたけれど、母親は何も答えてくれなかった。

ただ曖昧に微笑んで、ごめんねとしか言ってくれなかった。

それから1ヵ月父も母も来てくれなかった。

毎日祖母が起こしてくれて、朝食は祖母が用意してくれた和食を食べて、お兄ちゃんと一緒にお勉強したりお絵かきしたり、遊んだりした。

昼食を食べたらお祖父ちゃんと一緒にお出かけして、野草や野鳥、虫の名前を教えてもらったりして過ごした。

それは楽しかったのだけれど、様子を見に来てくれないどころか、電話の1つもかけてきてくれない両親が何をしているのか、賢は気になって仕方がなかった。

治も気にしていない素振りをしていたが、時々重い溜息を吐いていたことは、賢も気づいていた。

しかし賢い子は、聡い子だ。賢に悟られないようにしているのを、わざわざ指摘するような子ではなかった。

それに祖父母も、突然やってきた孫達を歓迎して世話を焼いてくれたが、何処かよそよそしいと言うか、腫物に触るような態度と言うか、可哀そうなものを見る目で賢達を見つめていたのだ。

賢い子ども達が異変に気付くのに、時間はかからなかった。

 

 

そして運命の日が訪れる。

 

 

唐突に祖父母の家に連れてこられた治と賢だったが、連れ戻されたのも突然だった。

お兄ちゃんと一緒にお絵かきをしていたら、突然母がやってきて、祖父母が止めるのも聞かずに治と賢を連れ出してしまった。

やっとお家に帰れると安堵したのもつかの間、連れていかれたのは賢達の住み慣れたお家ではなかった。

お母さんのお仕事がない時、時々連れて行ってくれるカフェだった。

お父さんとお母さんは、とっても険しい表情をしていたのを、今でも鮮明に思い出せる。

カフェに来るといつも注文しているオレンジジュースとチョコレートのケーキ。

治はリンゴジュースとチーズケーキを頬張っていた。

その顔は、暗かった。当たり前だ、同席している両親の顔が険しいのだから。

 

 

母は、言った。

お母さんとお父さんは離婚することになったと。

淡々とした口調と表情でそう言ったから、賢は最初意味が分からなかった。

リコン?リコンって何?お父さんとお母さんがリコンするって、どういうこと?

賢の頭上に沢山の「?」が浮かぶ。

治はと言うと、目を見開いて父と母を交互に見ている。

何で、どうして、賢は兄が狼狽えているのを初めて見た。

それを見た時、リコンと言うのは嫌なものだと、怖いものだと言うことだけは理解できた。

狼狽する子ども達を尻目に、母はまた淡々と言った。

近いうちに出ていくから、荷物を纏めておくように。

子ども達の意見なんか、皆無に等しかった。

賢は、無力だった。どれだけ泣き喚いても駄々をこねても、離婚の決定が覆ることはなかった。

 

そしてそんな賢に、更なる悲劇が襲い掛かる。

 

母の話では、子ども達は2人とも母に引き取られるはずだったのだが、治がそれを拒否したのだ。

自分は、父についていく。そう宣言したのだ。

父も母も度肝を抜かれたのだが、治の決心は固かった。

理由を聞いても、治は絶対に口を割らなかった。

ただお兄ちゃんと一緒に暮らせないと知った賢は、自分も兄と一緒に父と暮らすと泣きついた時、治はこう言った。

 

お父さんもお母さんも離婚して他人に戻ってしまうけれど、それでも自分達にとっては1人ずつしかいない両親であることに変わりはない。

自分達の存在が、4人が家族だったという確かな証拠なのだ。

それを途切れさせないためにも、自分は父の下へ、賢は母の下へ行った方がいいと。

 

治の真意を賢が知るのは、もう少し後のことだ。

とにかく、賢は自分達家族をバラバラにしてしまった“喧嘩”が嫌いだった。

賢にとって“喧嘩”は、みんなで築き上げた尊い絆を壊す悪いものだった。

 

 

だから賢は、目の前で起こっている喧嘩に対して、全身が硬直してしまった。

かつて両親を引き裂き、家族をバラバラにした“喧嘩”が、目の前で引き起こされている。

ひゅ、と息を飲んで、手足が小刻みに震え、目を見開かせて成り行きを見守っていることしかできなかった。

 

『いってぇ!お前、よくも噛みついたな!』

『そっちが先に手を出したんじゃないか!!』

 

赤いのと大きな耳のハムスターが、取っ組み合って喧嘩をしている。

傍目から見ると可愛らしい光景だが、賢にとってはトラウマとも呼ぶべきものだった。

在りし日の両親が、賢の脳内に鮮明に再生される。

 

 

 

 

きっかけは何だっただろう。

あのいかにも怪しい屋敷から放り出されたのが、始まりだった気がする。

大輔もヒカリも、あの屋敷の異質さに気づいていた。

けれど兄達にそれを言うことはできなかった。

目に見えなかった悪意を証明する手立てがなかったからだ。

治は非科学的なものがあまり好きではない。目に見えないもの、というよりも存在が証明されていないものを信じていない。

科学的根拠に基づかないもの、実際に自分の目で確かめたものではないものを信じないのである。

怖いとかではなく、はっきりしないのが何だか気持ち悪いのだ、と言っていた。

治のは信じていない・否定と言うよりも、お化けの存在を証明する手段がないから“いるかいないかは分からない”派と言った方が正しいだろう。

現に、治はデジモン達のことは子ども達の中の誰よりも先に認めている。

実際に自分の目で見て、触れて、確かめたからだ。

自分達の世界ではありえない現象もあったけれど、全て子ども達の目の前で起こったことだったから、治は何も言わなかった。

 

 

けれど、賢が感じたものに関しては、どうだろうか。

基本的に賢の意見を尊重してくれる治だけれど、目に見えないものに怯える賢に対して、真剣に取り合ってくれていたか。

それはないだろうな、と賢は自嘲気味に笑った。

まだ家族が一緒だった頃、窓の外に蠢く陰を見た気がして怖くて泣きついたら、お化けなんているはずないだろ、って笑われたのだ。

まああまりにも泣くから、最終的に布団の中に入れてくれたけれど。

 

 

ここは、何処だろうか。

パジャマから洋服に着替え、枕の横に置いていたリュックに無理やり詰め込む。

賢の手のひらぐらいの大きさの懐中時計を、最後にしっかりと首にかけ、賢は周りを見渡した。

目の前にあるのは、それなりに大きな滝。

昨夜の出来事を思い出す。

賢とパタモンが乗っていたベッドは空を飛んだ後、川に突っ込むように落ちた。

急な流れの川に激しく揺られながら、身を任せることしかできない賢とパタモンは、目の前に滝が迫っていても何もできなかった。

悲鳴を上げながら落下していくベッドにしがみついていた賢は、そのままベッドとともに滝つぼの水に全身を叩きつけながら沈むはずだった。

しかしそうなることは、なかった。

ぐい、とパジャマを引っ張られて浮遊感を覚えた賢は、枕の横に置いておいた服とリュックを咄嗟に掴んだ。

ばしゃあん、という水飛沫があがる。

滝つぼに落ちたのはベッドだけ、浮遊感を覚えた賢は目をぱちぱちさせながらゆっくりと地面に降り立った。

ぜえぜえと息を切らしながら賢の隣に降りたパタモンを見て、賢は全てを悟った。

飛ぶのが上手ではないのに、賢よりも身体が小さいのに一生懸命耳の羽を羽ばたかせて、賢を救出したのである。

息を切らして目を回しているパタモンに礼を言いながら、とりあえず朝日が昇るのを待とうと、賢はてっぺんに登っている月をぼんやりと見上げながら時間を過ごした。

 

 

朝焼けに染まった空は相変わらず不思議な色をしていた。

水に叩きつけられたベッドは残骸となって水に浮かんでいるために、パタモンと引っ付き合って木の根元でうとうとしていた賢は、地平線の向こうから顔を覗かせた太陽に容赦なく声をかけられ、覚醒する。

周りを観察し終わった賢は、溜息を吐いた。

目の前には大きな滝、開けた場所の周りには木々が生い茂っている。

傍にいるのはパタモンだけ、はっきり言おう、状況は最悪だ。

だって誰もいないのである、頼りになるお兄ちゃんも、いつも引っ張ってくれる太一さんも、何かと気にかけてくれる空も、丈やミミ、光子郎も、同い年の大輔もヒカリも、誰もいないのである。

最年少が故に、上級生にくっ付いていくことしかできない賢は、途方に暮れるしかない。

いるのは、まだ進化を果たしていないパタモンだけ。

パタモンが頼りないと言っているわけではないのだ、断じて。

ただちょっと心許ないだけだ。パタモンが頼りにならなくて、心細いとか、断じてない。

 

「……どうしようか、パタモン」

 

ちょっとだけ泣きそうになったけれど、ここで泣いたってしょうがないことは分かり切っているので、ぐっと堪えてパタモンに問いかける。

うーん、ってパタモンも悩んでいた。

賢達と出会う前は、幼年期だったこともあって、あまり遠くに出歩いたことはない。

この辺りのエリアにも、足を踏み入れたことがなかったから、土地勘は全くないに等しかった。

どうすればいいのか分からないのは、パタモンも同じである。

ブイモンやプロットモンがいてくれたら、3体であーでもないこーでもないってアイディアを出し合えたのに。

……進化が出来れば、空を飛ぶデジモンに進化出来れば、上から辺りを見渡せるのに。

出来もしないことを考えてしまって、パタモンは重たい溜息を吐く。

どうしたの、って賢がしゃがんで問いかけてきたので、進化できればいいのにって考えてた、と正直に答えた。

 

『今のボクじゃあ、周りを見渡せるぐらい空を飛ぶなんて、無理だもん。バードラモンやカブテリモンみたいに飛べたらよかったのに。そしたらケンを連れてみんなと合流できるのに……』

「そっかぁ……でもくよくよ悩んでても、しょうがないんじゃない?できないものはできないもん」

 

きっぱりと、そしてあっさりと言い放つ賢に、多少ムッとしたものの、賢の言う通りでもあるので反論できなかった。

進化が出来ないのは、事実なのだ。そのことで賢に八つ当たりをしてもしょうがない。

 

『じゃあどうするのさ?』

「歩こう?きっと太一さんやお兄ちゃんも、そうすると思うんだ。まずは森から抜けようよ。もっと見晴らしのよさそうなところ、探そう?」

 

そして1人と1体は歩き出す。

何の当ても目的もなく、これまで上級生達がやってきたように、とりあえず歩いてみるというコマンドを、賢は選択する。

幸い賢達が落っこちた森は広くなかったようで、数十分ほど歩くと森から抜けることが出来た。

ただっぴろい草原に、昨日目の当たりにした闇の悪意と敵意が嘘みたいな晴れ模様、春に吹く少し強い風が賢の髪と戯れ、パタモンの耳を擽る。

新緑の匂い、聞き慣れた警報の音は、お母さんと手を繋がないと未だに怖くて渡れない踏切が、草原にぽつんと建設されていた。

電車が通る様子もないのに設置されている踏切は、やがて警報が鳴り止み、行く手を遮る遮断機が上がる。

広い草原には目印もなく、賢は再び迷う。

 

「……どっちに行けばいいと思う?」

『どっちでも。僕はケンについていくだけ』

 

しかし返ってきた答えは、何とも頼りないもの。

ママに今日の夕飯何がいい、って聞かれて何でもいい、って答えるパパみたいだ。

今ならママの気持ちがよく分かる、と賢はこっそり溜息を吐く。

この世界のことを知っているのはパタモンの方なのだから、パタモンに決めてほしいのに。

あっちに行けばあれがあるとか、こっちに行けばこれがあるとか。

しかし賢が同じ立場になったとして、果たして賢にはそれが出来るかと問われれば微妙なところだろう。

賢いとはいえまだ小学2年生の賢が知っている世界は、狭すぎる。

賢が住んでいる東京の全てを知っているのかと聞かれても、きっと答えられない。

それと同じなのだが、今の賢には考えつきもしないものだった。

 

 

踏切を渡る。

夏の空気にも似た蜃気楼をかき分けていくと、向こうに何かが見えてきた。

オルゴールの音。優しい音色は何処か懐かしい。

緑の中に突如として現れた鮮やかな色は、おもちゃの町で見かけたものとはまた少し毛色が違っていた。

あれは、何だろう。お兄ちゃん達と合流しなければならないという目的をひょいっと忘れた賢は、視界に映った色とりどりの何かに目を奪われ、自然と早足になる。

待って、ってパタモンも短い四つ足で一生懸命ついていった。

近づいていくにつれ見えてきたのは、ウサギやトリなどの動物や、家とか乗り物とかとにかく色々なものが描かれ、子どもが積み上げたように歪な正方形のブロックだった。

賢の何倍もある大きさのブロックが適当に積み上げられ、門のように聳え立っている間を抜けると、まるでおもちゃ箱のような光景が目の前に広がった。

わあ、って賢とパタモンは感嘆の声を上げ、走り出す。

強烈な悪意と敵意を向けられ、すっかり怯え切っていた幼い心は、何処かへ飛んで行ってしまったようだ。

地面が弾む。芝生だと思っていたのはクッションで、思いっきり足を踏み込むと、踝まで沈み、びょーんと跳ねた。

トランポリンみたいに跳ねていく身体に、賢とパタモンはすっかり夢中になってしまい、ここが何処なのかとかお兄ちゃん達は何処へ行ったのかとか、そんなことは忘却の彼方である。

遠目から木の実がなっていると思ったものは、赤ちゃんが好きそうな柔らかめのおもちゃだった。

おもちゃが木の実みたいになってる!って賢はケラケラ笑う。

今よりももっと小さい頃に持っていたのと似たようなおもちゃを見つけて、懐かしいなぁって思った。

オルゴールが聞こえる。星が煌めく音がする。

 

『……あれ?ケン、あっちにも何かあるよ?』

「?」

 

パタモンが目を向けた方向に行ってみる。今度は何があるのかな。

考えただけでわくわくする。そう、まだ治と賢が一緒に住んでいた頃、パパに“おたから”を隠してもらって、“たからのちず”を作ってもらって、海賊ごっこをして遊んでいた時のような。

 

 

「……ゆりかご?」

 

簡素なゆりかごだった。土の色に似た装飾も何もないゆりかごが、沢山あった。

中を覗き込む。賢の両手の平ほどの大きさの、黒い塊があった。

ボタモンという、デジモンの赤ちゃんだと、パタモンは教えてくれた。

触り心地は水ようかんのようにぷよぷよしており、あまりの可愛さに賢の表情が緩む。

他にもゆりかごがあるから、順番に覗いてみた。

赤くて柔らかそうな角があるプニモン、全身が毛で覆われたユラモン、頭から双葉が生えたニョキモン、クリオネによく似たピチモン。

沢山の赤ちゃんデジモンがいる。これらは幼年期Ⅰと呼ばれており、トコモンやニャロモン、チビモンよりも小さいのだと言う。

 

「……ねえ、あれは?」

 

ユラモンが可愛らしいくしゃみをするのを見守っていた賢は、ふと顔を上げた。

ゆりかごが沢山置かれている場所のすぐ傍に、これまた沢山の何かがあった。

近付いてみる。そこにあったのは、卵だった。

普通の卵ではない、賢が両手で支えなければならないほどの、大きな卵。

デジたまだ、とパタモンが嬉しそうに言った。

賢が抱えている黄色と白の縞模様の卵、それから周りに鎮座している大量の卵、全てデジモンが生まれてくる卵らしい。

お兄ちゃんが勉強しているのを横で見ていた賢は、デジモンは鳥類や爬虫類とか両生類みたいな卵生なのかなと呟いた。

卵生が何なのか分からなかったパタモンは、多分とだけ返す。

じゃあ、

 

「……デビモンも、デジたまから生まれたの?」

 

全てのデジモンは、みんな等しくデジたまから生まれる。

生まれたばかりの赤ん坊は、無垢な存在である。

育つ環境によって性格や人格が形作られていくものだ。

そう、物心ついた頃には既に仲が悪く、喧嘩ばかりしていた両親を見ていた賢が、争いごとを嫌う優しい子に育つように。

あのデビモンだって、最初はここにいる赤ちゃんのデジモン達と同じだったはずだ。

何も知らない、それこそ光も闇も善も悪もなく、ただ目の前に在るものがそのままの形で存在していたはずなのだ。

一体何が、デビモンをあんな風にしてしまったのだろう。

デビモンが発していた気配、今なら分かる。

ムゲンマウンテンの頂上と、あの立派なお屋敷で感じた悪意の視線は、デビモンのものだ。

どうしてデビモンが自分達に悪意を向けたのか、ボロボロになった屋敷の上空でベッドに必死にしがみつきながらも、太一と治が啖呵を切っていたのは聞こえていた。

何故自分達を襲うのだと声を張り上げていた太一に放ったデビモンの言葉。

 

《お前達が、選ばれし子ども達だからだ》

 

それだけの理由で、デビモンは自分達に襲い掛かり、仲間をバラバラにしてしまった。

今思い出しても背筋が凍るほどの明確な悪意と敵意と……殺意。

 

『…………うん』

 

何と答えたものか、パタモンは俯いてしまう。

パタモンにとって、いや、きっとファイル島に住む全てのデジモンにとって、デビモンは未知の存在だ。

光を嫌い、憎み、闇を愛すデジモン、というぐらいの知識しかなく、ムゲンマウンテンからも滅多に降りてこないから、どういうデジモンなのか今の今までちゃんと考えてこなかったかもしれない、今思うと。

否、考える隙すらなかったかもしれない。

異世界からパートナーの子ども達を待っていることしか、パタモン達の頭の中にはなかったのだ。

それがいつなのかとか、何故そんなことを知っていたのかとか、そんな疑問すら浮かんでこないぐらい、パートナーの子ども達が来るのを楽しみにしていた。

それだけだった、それしか考えていなかった。

何のために子ども達を待っているのかも、子ども達と共に何をするべきなのかも、パタモン達は何1つ知らなかった。

まさか賢の何気ない一言によって、自分の存在意義に疑問を抱くことになるとは、思いもしなかった。

 

『……あれ、これなんだろう?』

 

思考の海に沈みかけたパタモンだったが、俯いた目線の先にあるものを見つけて我に返った。

薄いピンクの封筒に、顔を覗かせている白い紙。

拾い上げる。中を取り出す。わたしをなでなでして、と色とりどりのクレヨンで書かれた紙だった。

なでなで?って賢は首を傾げる。なでなで、つまり撫でろと言うことだ。

誰を?賢とパタモンは顔を見合わせる。

2人ではいことは確かだ。手紙はここにあったのだから。

目線をデジたまに向ける。りんごろ、りんごろ。赤ちゃんのおもちゃと同じ音がして、デジたまが揺れる。

周りにあるデジたまが、そうだそうだと言っているように一斉に揺れる。

撫でてみた。ぴき、ぴき、ぴき、と卵に罅が入る。もう一度撫でる。

ぽん、と軽い音を立てて上の殻を突き破って出てきたのは、ゼリーのような赤ちゃん。

ポヨモン、という名前らしい。

わあ、って喜んだのもつかの間、ポヨモンのゆりかごがないことに気づく。

殻の中にいるのは可哀そうだ、生まれたばかりのデジたまを置いて、空いているゆりかごを探そうとしたら、これまたぽんという音がした。

煙に一瞬包まれたポヨモンは、いつの間にかゆりかごの中にいた。

こうなってたんだ、と呟いたパタモンに、知らなかったの?って賢は苦笑する。

何だよーってパタモンは頬を膨らませて抗議した。

 

『赤ちゃんの頃のことなんて覚えてないもん!ケンは覚えてる?』

「………………」

 

笑顔が、消える。あれ、とパタモンが気づいた時には、遅かった。

俯く賢。パタモンに言われて思い出したのは……枕を被るみたいに耳を塞いで、布団に潜り込んでいる光景と、仕切りに声をかけてくる兄、扉越しに聞こえてくる両親の怒号。

 

『……ケン?』

「……分かんない、覚えてないや」

 

ぱ、と上げた賢の表情は、笑っているはずなのに、何処か痛々し気で。

 

──楽しい思い出だって、あったはずなのになぁ。

 

例えば、家族みんなで出かけた温泉。例えば、パパのお祖父ちゃんお祖母ちゃん家でやった花火。例えば、何でもない日にみんなで言ったショッピングモール。

ほら、思い出してみれば楽しい記憶はいっぱいある。

……それなのにどうして、家族との記憶を思い出そうとして真っ先に出てくるのが、こんなものなんだろうか。

それは今の賢を形成している潜在意識が、優しくあるためにはどうしたらいいのか、相手と喧嘩をしなければいいからだと、無意識に引っ張り出しているからに他ならない。

尊い絆を壊す悪いものだから、それを避けるために、そして賢を守るために潜在意識が優しくあれと刷り込んでいるのである。

喧嘩によって両親は離ればなれになってしまった。

巻き添えを食らった兄弟は、まだ子どもだったせいで力及ばず、強制的に引き離されてしまった。

今回もそうだ。デビモンの激しい憎悪によって、子ども達はバラバラになった。

自分達ではどうすることもできないほどの、不条理な力の差を見せつけられた賢は、そのことと両親が喧嘩した時のことを無意識に結びつけてしまったらしい。

いつもはそんなことないのに、今日に限ってやたらと両親が喧嘩した時のことを思い出すのは、それが原因だったのだが、そのことに賢が気づくのは凡そ3年後のことだ。

 

「……ねえ、あっちのデジたまもなでなでしちゃおう!」

『ふえ?あ、ま、待ってよー!』

 

そして賢は、嫌な方向に行きかかっている考えを振り払うかのように、努めて明るく振る舞いながら走り出した。

難しいことは分からない振り、知らない振り。目を逸らした先にあるものが恐ろしく高い壁だったとしても、大人の振りかざした暴力に対する抵抗する術など持たない子どもだ。

駄々をこねただけではどうすることもできないこともあると悟ってしまった幼子は、現実から目を逸らすように、目の前のデジたまに手を伸ばした。

 

 

ただそれだけだった。

初めて見た生命の誕生の瞬間に興奮して、ちょっと調子に乗っちゃっただけだった。

たっくさんあるデジたまを次々なでなでしていたら、デジたまはあっという間に孵ってしまった。

全部である、全てである。きっと本当は生まれてくるタイミングというものがあっただろうに、なでなでしただけで生まれてくるのが楽しくて、いっぱいなでなでしていたら、デジたましかなかった場所はあっという間にゆりかごで埋め尽くされてしまった。

 

だが賢とパタモンは知らなかった。

 

赤ちゃんというのはただ可愛いだけではないのだ。

生まれたての赤ん坊と言うのは非力で、大きい者が世話をしてやらなければ何もできないのである。

ご飯も排便も、寝かしつけるのだってぜーんぶ大人にしてもらわないとできないのだ。

上手に眠れなくてぐずる赤ん坊もいる。

大人からすれば、眠いのなら寝ればいいのに、という感じだが、赤ちゃんはそれすらできないのだ。

ねむいようねむいようなんでねむいの、どうすればいいのうわああああん。

これが赤ちゃんの心情である。

赤ちゃんは大人が世話してくれるからいいなーなんて子持ちのお母さんの前で言えば、鉄拳が飛んでくること間違いなしだろう。

賢もパタモンも、赤ちゃんを見たことはあってもお世話なんかしたことがない。

だから2人は、ゆりかごの中で大人しくしていたはずの赤ちゃん達が今にも泣きそうな理由が、全く分からなかった。

 

「わ、わ、ちょ、ちょっと待って!」

『あわわ、泣かないでー!ほら、いないいないばー!』

 

泣き声の大合唱である。一斉に泣きだしてしまった赤ちゃんに耳を塞ぎながらも、傍を離れるなんて冷徹なことが出来ない賢とパタモンは、あわあわとあちこち駆け回っていた。

調子に乗ってデジたまを全部なでなでしなきゃよかった、と大合唱の原因に思い至った賢は、ユラモンを抱っこしながらげんなりとする。

ゆりかごの中には、何処かで見たことのあるピンク色の、とぐろが巻かれたもの。

仕方ないことだと分かってはいるのだが、いかんせんいい思い出がない。

人間の赤ちゃんならおむつを履いていて、それを捨てて新しいのに変えるだけでいいのに、デジモンにはおむつの概念がないから排泄物をどうやって処理すればいいのかなんて、賢は知らない。

どうしよう、と途方に暮れていた時のことである。

 

『テメェらっ!!』

 

怒鳴り声がして、反射的にそちらを振り向く。

赤いウサギみたいなデジモンが、険しい表情でこちらに走ってくるのが見えた。

誰、という前に、赤いウサギのようなデジモンが、大きく飛び上がって電撃を放った。

 

『何するんだ!!危ないじゃないか』

 

真っすぐ伸びてきた電撃は、賢に向かっている。

何が起こったのか理解できずに硬直していた賢を庇ったのは、パタモンだった。

押し倒すように飛びつき、怪我をしていないか確認すれば、目を白黒させて放心しながらもうんと呟いた。

そのことにほっとしたパタモンは、次に攻撃してきた赤いウサギを睨みつける。

ふん、と赤いウサギは鼻で笑う。

 

『そりゃそうさ、狙ってやったんだから!』

『何でそんなことするの!?ケンは人間なんだ!僕達みたいに技を受けてもへっちゃらじゃないんだぞ!』

『知るか、そんなこと!それよりも、お前らよくもベビー達を可愛がってくれたな!』

 

はあ?ってパタモンは間の抜けた声を上げる。

が、賢い賢はあの赤いウサギの言いたいことを正確に理解した。

 

「僕達、虐めてなんかないよ!誤解だよ!」

 

賢は慌てて弁明した。あの赤いウサギ、見るからに怒っている。

このままではまずい、そう思って自分達がここにいる理由を話そうとしたのだが……。

 

『問答無用!スパークリングサンダー!』

「うわっ!」

『ケンッ!!』

 

また電撃を放たれる。咄嗟に頭を庇って、その場に伏せた。すぐ傍にある樹に直撃する。

赤ちゃん達が、ひっ、って小さく悲鳴を上げた。

そのことに気づいた賢が、大丈夫だよって声をかけて手を伸ばしたのだが。

 

『ベビー達に触るんじゃねぇ!』

 

赤いウサギが突進してくる。

 

『やめろっ!!』

 

身体が膨れるぐらい息を吸い込み、パタモンは一気に吐き出した。空気の塊が赤いウサギに直撃する。

殺傷能力は皆無だが、赤いウサギは驚いて吹っ飛んでくれたために、賢を傷つけずに済んだ。

 

『何しやがる!』

『それはこっちのセリフ!先にやったのはそっちでしょ!!』

『ベビー達を傷つけようとするのが悪い!』

『何処に目つけてんの!?ケンは傷つけようとなんかしてない!君が攻撃したせいで、赤ちゃん達が怖がっちゃったじゃないか!そんなことにも気づけないくせに威張らないで!!』

『っ、んだと、このチビ!』

『うるさい、ガキッ!!』

 

そして冒頭に至る。あの赤いウサギはベビー達を守るために、そしてパタモンは賢を守るために、互いを敵視して、取っ組み合いを始めてしまった。

賢は、その光景を呆然と見ていることしかできなかった。

 

「…………………て………」

 

ぽつり、と言葉が落とされる。

パタモンも赤いウサギも気づかない。

相手を離すまいと爪を立ててしがみつき、噛みついたりひっぱたいたりして、取っ組み合っている。

 

争い合っている。

 

「………め……………て……」

 

ぽつり、言葉が落ちる。

パタモンは気づかない。傍らでパタモンと赤いウサギが取っ組み合っているのを、怯えながら見守っていた赤ちゃん達が、それを拾って賢を見上げた。

 

『こんのぉ!』

『おらぁっ!!』

 

取っ組み合ってもみ合っているうちにボールみたいに丸くなって転がっていく。

積み上げられた積み木が崩れる。赤ちゃん達は溜まらず、泣いてしまった。

パタモンも赤いウサギも、やっぱり気づかない。

 

「やだ…………!」

 

賢の視界が滲む。手が、足が、全身が震える。

視界に映る争い合っているパタモンと赤いウサギに、両親が重なる。

 

《何で分かってくれないのよ!!》

 

ヒステリックに騒ぐ母。

 

《あの子達の気持ちも考えろっ!!》

 

響くのは父の怒声。

 

《……もう、うんざりだ……!》

 

耳を塞ぐ兄の姿。

 

僕は、僕は、

 

 

 

 

僕は……!

 

 

 

 

 

 

「やめてぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

辺り一帯に響いた、賢の悲痛な叫び。

赤いウサギと取っ組み合いになっていたパタモンは、守るべきパートナーの悲鳴に驚き、顔を上げる。

 

『……ケン?』

『な……ん、だ……?』

 

赤いウサギも、賢の悲鳴に驚いて硬直していた。

2体の先にいるのは、俯いて佇んでいる人間の男の子。

遠目からでも全身を震わせているのが分かった。

赤ちゃん達が心配そうに集まって、見上げている。

 

賢の気持ちが、空気と電波になって、パタモンの心に届いた。

 

『っ、ケンッ!』

 

赤いウサギを放り出して、パタモンは賢の下へと急いだ。

おい、と赤いウサギが声をかけてきたけど、気にしている暇はない。

そんなの、どうだっていい。

パタモンがしなければならないのは、赤いウサギに対する報復でも、抗議でもないのだ。

 

『ケンッ!!』

 

高速で耳を羽ばたかせて、賢の下へたどり着いた。

 

「………………」

『ケン……?』

 

俯いて、両手でズボンをぎゅっと握りしめている。

賢の心が伝わってくる。

 

 

ぽたり……

 

 

賢の顔を覗き込もうとしたパタモンの足元に、雫が落ちた。

クッションに染み込んで、濃い緑色が浮かび上がる。

 

ぽたり、ぽたり……

 

更に雫が落ちる。賢の名を呼ぶよりも、賢の方が早かった。

 

「………………っ」

『ケ、ケン……!?』

 

泣いていた。

 

弾けるように上げられた賢の両目から、大量の涙が零れていたのだ。

歯を食いしばって、ぼろぼろと涙を零して、泣いているのである。

 

『ケ……』

「う………っ、う、わぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ!!!」

 

 

そして賢は。

 

 

 

パタモンの前で初めて声を張り上げて、泣き喚いた。

 

 

 

 

 

 

.


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