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今になってようやく、賢は自分が置かれている立場を理解できた。
これは、ゲームなんかでは決してないのだ。
セーブデータなんか存在しないし、失敗しても残機などない。
死ねば終わりの世界なのだ。戦争なのだ、これは。
いつかテレビで見た、銃を持ったまだ幼い子ども達を思い出す。
治や賢と同年代の子達が、明日のため、国のため、家族のために銃を持って佇む姿に、何も思わなかったわけではない。
むしろ争いが嫌いな者として、とても胸が痛んだ。
賢がお母さんに新しいお洋服やおもちゃを買ってもらったり、ご飯を作ってもらったり、勉強を見てもらっている間、その子ども達は生きることすらままならないところで、間近に迫る死に怯えながら暮らしているのだ。
生きるため、食べるために10にも満たない歳の子どもが、金にもならない仕事を大人に強いられて、虐げられて懸命に生きているその姿は、直視することすら憚られた。
生きるために働かなければならないから、学校に行くことが出来ない。
学校に行けないと言うことは、文字や計算のやり方を教えてもらえない。
ということは、働き先で大人が給料を誤魔化しても、それを指摘することすらできない。
そして親も、自分達が生きていくために働かなければならなかった子ども時代を過ごしていたから、当然読み書きなんかできないし、計算も知らない。
子どもに教えることが出来ないから、働かせるしかない。
無知は罪である、とはよく言ったものだが、果たしてこの場合は当てはまるのだろうか。
そこから脱したくとも、大人が教えてくれなければ子どもは一生そこで這いつくばって生きていくしかないのだ。
そうして大人になった子達は、また次の子ども達にも同じことを教えるしかないのである。
自分達もそうだったから、または方法を知らないから。
ただの悪循環であると分かっているのに、知らないから変えることが出来ない。
その度に賢は思うのだ。
他の、裕福な国が教えてあげればいいのに。
それじゃダメなんだよって、勉強するから仕事の幅が広がって、もっと色んなことが出来るんだよって。
秀才で天才な兄を持つ男の子は、お兄ちゃんと同じで勉強が大好きだ。
知らないことを知っていく過程はとても楽しいし、自分の世界がどんどん広がっていくのだ。
出来ないことを出来るようにするために、そしてもっと先に行くために勉強をするのである。
やりたいことをやるために、勉強をするのである。
今はまだ、賢のやりたいことが何なのかは分からないけれど、でも今の内に沢山勉強しておけば、やりたいことを見つけた時に困らないはずだと、賢は思っていた。
信じていた。
しかしこの世界はどうだろうか。
自分が今まで信じてきたものは一切通じない、不思議な世界だった。
算数も社会も理科も、学校で勉強してきたものが何の役にも立たない。
頼りになるのは、先を歩く上級生達だけだった。
最初の頃は、それでよかった。上級生達が引っ張ってくれて、怖いデジモンと戦ってくれていたから、賢は何もしなくてよかった。
ただ守られていればよかった。上級生達の背後に隠れていれば、よかったのだ。
自分は何も出来ない、戦う力がない、そう言い訳して兄達が戦っているのを、ただ見ているだけだった。
兄達が戦っている後ろ姿は、まさにコントローラーで動かしているゲームの主人公そのものだった。
そう、ゲームみたいだと思っていた。
兄達の後ろで守られる立場に甘んじていたから、何処か他人事のように感じていた。
賢が大嫌いな争いが目の前で繰り広げられていたのに、何とも思わなかった。
……今ならどうかしてる、と言えるのに。
自分達の常識が音を立てて崩れていくのを、見て見ぬふりをしてきたツケなのだろうか。
パタモンを抱きしめる腕を強めながら、賢は思う。
パソコンのディスプレイに映し出されたアンドロモンによれば、デビモンは元々ムゲンマウンテンの頂上を根城にしているだけで、特に他のデジモン達に対して害をなすデジモンではなかったらしい。
それがいつの頃からか、そして何処で手に入れたのか、暗黒の力が凝縮された歯車を使って、他のデジモンの心を邪悪に染め、操り出したそうだ。
始まりは、海の向こうで突如現れた“暗黒”だった。
それは目に見えないほどの、小さな小さな“悪意”だった。
誰も、気にも留めることがないほどに、小さなものだった。
この世界の平和を守る者達も、気づかなかった。
それぐらいならば、世界の何処にでも散らばっていたからだ。
いちいち気に留める必要がないほどに、ちっぽけな“悪意”だったのだ。
しかしそんなちっぽけな“悪意”も、幾つも寄り集まれば強大な力となる。
気づいた時には、手に負えないほどに大きくなっていた“ソレ”は、もうこの世界の守護者ですらどうすることもできなかった。
そして、守る者がいるということは、壊す者も当然存在する。
この世の自然を、理を壊そうとする者が、大きく膨らみすぎた“悪意”に目をつけるのに、時間はかからなかった。
我が内に取り込み、己の養分とした。
邪悪に染めた心に、更に強大な悪意を取り込めばどうなるかは想像に容易い。
『……膨らみすぎた悪意は、幾ら取り込まれてもなくならなかった。養分も取り込みすぎれば己を蝕む毒となる。デビモンは取り込まれずに放置された悪意のおこぼれを頂戴したに過ぎないのだ』
アンドロモンは言う。
デビモンは元々天使だったデジモンが、何らかの理由で堕天してしまった姿なのだという。
闇に心を蝕まれ、奪われ、魅入られた天使の末路なのだと言う。
天使とは常に善の存在、光の体現者でなければならない。
闇の力に魅入られた天使は、その羽を黒く染めて邪悪に身を落とす。
例外は誰一人としていない。
『子ども達よ、デビモンを止め、ファイル島を救ってほしい。健闘を祈る。ゲンナイ様からの伝言だ』
「……好き勝手言ってくれるよなぁ。デビモン倒したら覚えとけって、伝えといてくれよ」
何の事前連絡も予備知識もなしに連れてこられた太一達の不満は、いかほどか。
アンドロモンは苦笑しながら頷いた。通話を切る。プツン、と光子郎のパソコンのディスプレイは真っ黒に染まった。
この場にいる選ばれし子どもは太一、治、光子郎、ミミ、そして賢の5人である。
半数ほどが見当たらないが、こちらに向かっている途中と信じて、揃っている一行だけでムゲンマウンテンに向かう。
ムゲンマウンテンに登るのは2度目だったが、前回同様にムゲンマウンテンに住んでいる気性の荒いデジモンは出てこない。
みんな、ムゲンマウンテンの頂上から山肌を沿うように漏れている、濃厚な暗黒の気配に怯えて隠れているのだ。
パートナーデジモン達も、何処かしらピリピリしているのが分かる。
そんなパートナーデジモン達を見て、子ども達も何処か落ち着きがなかった。
天敵がいないが故に、危機的状況に置いて察知をするなどの本能がほぼ失われてしまっているはずなのに、これ以上先に進むのが怖いと足が竦んでいるのが分かる。
それでも、子ども達は進む。進まなければならない。
引き返すことも、止めたいと叫ぶことも出来ないところまで、子ども達は来てしまったのだ。
怖くとも、誰もが腹をくくったような表情を浮かべている。
だって戦わなければ、この世界の闇を晴らさなければ、帰ることが出来ないのだ。
それ以外の選択肢など、最初から子ども達に用意されていないのだ。
太一を始めとした上級生達は心の準備が出来ているが……賢の表情は冴えない。
パタモンを抱きしめる賢の腕は、以前強かった。
足取りも重いのは、他のみんなよりも小さいからだったり、坂道に疲れただけではないだろう。
戦いたくない、という気持ちがパタモンには痛いほど伝わってくる。
『……ケン』
「……どうして」
気づかわし気に賢を見上げながら彼の名を呼べば、賢は小さく小さく、ぽつりと落とすように呟いた。
「どうして、戦わなきゃいけないの……?」
『ケン……?』
「おかしいよ、こんなの……デビモンが悪いことをしているからって、何で戦わなくっちゃいけないの?どうしてお話しないの?どうして誰もデビモンとお話しようとしないの?元々はムゲンマウンテンで静かに暮らしていたのなら、話し合えば分かるはずなのに、何で……?」
疑問は尽きない。先を歩く上級生達は帰りたい一心でデビモンを倒すことだけを考えている。
デビモンが集めている“悪意”のために世界が危機に陥り、それをどうにかしてもらいたくて、別の世界から賢達を呼び寄せたと、ゲンナイさんは言っていた。
上級生達はそれが正しいことなのだと信じて疑っていない。
だが、賢は違う。争いごとが大嫌いな、心優しい男の子は違った。
デビモンが悪いことをしたからやっつけるなんて、例え自分達を襲ってきたデジモンなのだとしても、賢にはどうしてもできなかった。
だってお父さんとお母さんが喧嘩をしたから、2人は離婚という道を選んでしまったのだ。
もっとちゃんと話し合いをしていれば、お母さんがお父さんの言葉に耳を傾けていれば、お父さんがお母さんの目を見れば、もっと違う道があったかもしれないのに。
学校の先生だって、お友達と喧嘩をしちゃったら、何が悪かったのかを話し合いましょうって言っていたのに。
賢には分からない。分からないから、答えが見つからない。答えが見つからないから、また同じ疑問が頭の中に浮かんでくる。
ぐるぐると無限ループの輪にはまった賢は、ますます口が堅くなる。
まだ幼い賢は、知らなかった。何も知らなかった。
兄によって目と耳を塞がれていた賢は知らないのだ。
悪意は賢の気持ちを置いてけぼりにして、暴力を振るってくる。
戦いたくないという賢の優しい心を踏みにじって、嘲笑ってくる。
仲よくしようと伸ばした賢の手を、平気で振り払う。
デビモンは最初から子ども達の命を狙っていた。自分の目的のために、野望のために。
子ども達が邪魔だったから、デビモンはその身に宿した悪意を尖らせて、刃の鋩を子ども達に向けた。
上級生達が盾や壁になっていたせいで、賢は向けられた鋩に気づけなかったのである。
話し合えば分かり合えるはずという、優しい世界しかないと信じている賢は、上級生達がやろうとしていることが理解できなかった。
そして上級生達も、同じ方向を見ている中で、1人だけ全く違う方向を向いていること子どもがいることに、気づかない。
きっと誰も気づけない。
ぞ、
山頂に近づいていくにつれ、濃厚になっていく闇の気配に怯えながら、上級生達の後をついていく賢の背筋が、氷の鋩でなぞられたように凍った。
ひ、と引きつったような悲鳴を上げて、パタモンを抱きしめる腕の力を強めて、立ち止まる。
顔を上げる。暗い空は、夜になったからというだけではない。
空気を擦る音があちこちから聞こえてきて、そこでようやく子ども達は異変に気付いた。
暗い空でもはっきりと分かる、黒い点が色々な方角からムゲンマウンテンの頂上を目指して集まっていくのが見えた。
何だろう、なんて聞かなくても分かる。
パートナーデジモン達が、こちらが引くほどに警戒をしていた。
暗黒の力を纏った、黒い歯車だ。
本能を失った人間である子ども達に、黒い歯車から漏れ出ている暗黒の力を感じ取る芸当など、到底出来ない。
それでも、デビモンが棲んでいるムゲンマウンテンの頂上に、暗黒の力を纏った黒い歯車が、次から次へと色々な方角から飛んでくるということがどういうことなのか、子どもでも分かることだ。
古代ギリシャや古代ローマを思わせる神殿が鎮座している頂上から、轟音が聞こえてくる。
ぎょっとなった子ども達とデジモン達の視界に映ったのは、空を覆っている黒い雲とは別の色合いの黒い影だった。
ミミの悲鳴が、崩れる瓦礫に混じって響き渡る。
ばさり、山に翼が生える。
否、あの翼は太一も治も見覚えがあった。
ゆるりと黒い影が蠢く。立ち上がる。広げた翼が羽ばたけば、上から押さえつけるような強い風が、子ども達に襲い掛かった。
溜まらず、子ども達もデジモン達も地面に伏せる。というより、上からの風で立つことが出来なくなっていた。
ばさり、再びデビモンのボロボロになった翼が羽ばたく。
緩慢な動きでデビモンの身体が宙に浮いた。
空の黒に負けない黒が、空を突き破るように飛び上がっていく。
ようやっと風がやみ、子ども達は起き上がる。同時に、どしんという重たいものが高いところから落ちたような音と、腹に響く振動。
起き上がった太一とアグモンは、視界の端で黒いものが蠢くのを見た。
《グルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!》
天を破くような咆哮に、子ども達は咄嗟に耳を塞いだ。
デジモン達は、その咆哮に混じって漏れ出ている暗黒を感じ取り、戦闘態勢に入る。
子ども達を守りたい、元の世界に帰りたいという彼らの願いを叶えてやりたい。
デビモンを倒すとか、世界を救うとか、そんなものデジモン達には関係なかった。
否、自分達の住んでいる世界なのだから、そりゃ愛着はある。
それでも、デジモン達にとっては自分達が住んでいる世界よりも、自分達の命よりも、子ども達の方がずっと大事だ。
デビモンを倒した先に何が待ち構えているのか知らないが、今は目の前の敵に全力を尽くすだけである。
デジモン達の心は1つだった。
しかし。
《ア゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛あ゛ア゛あ゛っ!!》
洞窟の中で反響する怨嗟の悲鳴のような咆哮に、子ども達は再び目を瞑って耳を塞ぐ。
ゆるり
大きくなったデビモンの右手が、徐に持ち上げられる。
右手の指を開き、手のひらを子ども達に向けると、手のひらから暗黒のオーラが噴き出して、子ども達に襲い掛かった。
吹き飛ばされるように後ろに圧され、ムゲンマウンテンの山肌に押し付けられる。
《あ゛あ゛あ゛ア゛あ゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛あ゛ア゛あ゛ア゛あ゛っ!!》
怨嗟の咆哮が響き渡る。山肌に押し付けられ、身動きも取れない子ども達は、怨嗟の咆哮から逃れる術はなかった。
ゆるり、もう一方の手も持ち上がり、暗黒のオーラが放出される。
先ほどよりも強い圧迫感に、子ども達は息苦しくなった。
首を、胸を強く押さえつけられているようで、子ども達の心の隅に恐怖心がちらつき始めた時だった。
『ハープーンバルカン!!』
聞き覚えのある声の直後に、夜空に打ち上げられたものがデビモンに全て命中した。
よろめく巨体、両手から放出された暗黒のオーラが消える。
息苦しさがなくなって、子ども達はその場に倒れ込んだ。
『メテオウィング!!』
暗黒に包まれた空に、場違いなほどに輝くオレンジの炎が揺らめいている。
キラリ、オレンジの流星がデビモンに降り注がれる。爆発音が鳴り響いた。
同時に、登り道の向こう側から空が駆けてくるのが見えた。
先ほどのミサイルとオレンジの流星は、イッカクモンとバードラモンのものだったようだ。
2体がデビモンを相手にしているうちに進化を、と空に促された子ども達は、デジヴァイスを手に取りデジモン達に向ける。
この世界を救って、自分達の世界に帰るために。
世界なんて規模を救わなければならないのだから、こんなところで躓いていられない。
デジヴァイスから進化の光が伸びて、デジモン達を包み込む。
光が大きくなって、デジモン達の姿が変わる。
それぞれのパートナーにエールを送りながら、子ども達はデジヴァイスを固く握りしめた。
ただ帰りたい、その一心で。
グレイモンが大きく口を開けて、炎の塊をデビモンに吐き出す。
ガルルモンの口から、青い炎の一閃が伸びていく。
2つの色違いの炎が交じり合って、デビモンに直撃した。
大きく跳躍したガルルモンは、その巨体に怯むことなく飛び掛かり、齧り付く。
みしり、と鋭い牙がデビモンの腕に食い込む。
皮膚と肉に食い込んだ牙は、しかし大きくなったことによって分厚くなった肉の奥に隠れている骨まで到達できず、振りほどかれるように投げつけられた。
その延長線上にいたグレイモンは避けることが出来ずに、ガルルモンともども倒れこむ。
《グルアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!》
天を裂く咆哮。子ども達の身を竦ませるには十分である。
しかしデジモン達は諦めない。
『メガブラスター!』
『ちくちくバンバーン!!』
カブテリモンとトゲモンがそれぞれ電撃の塊と針の雨をデビモンに向ける。
しかしデビモンは何でもないように腕を振り回し、2体を吹っ飛ばしてしまった。
トゲモンは崖下へ、カブテリモンは空中へ。
ミミと光子郎の悲鳴が響き渡る。
残っているのは、バードラモンとイッカクモンだ。
バードラモンは何とかデビモンを翻弄しようと空を縦横無尽に飛び回るが、デビモンの長い手があっさりとバードラモンを捉えてしまった。
ぎり、とその手に力が籠り、翼が折れそうなほど軋む。
美しい囀りが、苦痛に変わる。
「バードラモン!」
空が叫ぶ。
無残にも投げ飛ばされたバードラモンは、起き上がろうとしていたグレイモンとガルルモンの上に叩きつけられる。
その衝撃で崖が崩れ、グレイモンとバードラモンは山肌を滑りながら落下していった。
デビモンは、進撃を止めない。
海の中では負けなしのイッカクモンも、その重たい身体は陸の上では不利だ。
だからデビモンが伸ばした手から逃げ出すことが出来ず、あっさりと捕まって、戻ってきたカブテリモンに叩きつけられて投げ出された。
一方的な蹂躙に、子ども達は最早成す術がない。
絶望の2文字が、子ども達の心の奥から泡のように浮かんでくる。
思った通りだった、と治は悔しさのあまり拳を握った。
昨夜、デビモンと初めて対峙したあの時感じたものは、間違いではなかったのだ。
普通の状態のデビモンにさえ敵わなかったのに、島1つをたった1匹で八つ裂きにしてしまったデジモンがあんなに大きく、しかもファイル島中から集められた暗黒の歯車を使ってパワーアップした姿に、勝てるはずがないじゃないか。
痛みから回復できず、呻いているガブモンに寄り添いながら、治は唇を噛みしめる。
みんな、思っている。
敵わない、あいつに。敵うはずない。
自分達はただの子どもだ。デジモンがいなければ何もできない、無力な子どもだ。
好きで選ばれたんじゃない。行きたいと願ったわけじゃない。
ヒーロー願望なんて誰も持っていなかったのに。
頼れるものがお互いしかいないという状況で、限界だった子ども達の心が折れ始めている。
しかし。
「諦めるか……!諦めて、たまるか!」
沈んでいきそうな治の心を揺さぶったのは、聞き慣れた声。
「こんなところで、敵わないからって、諦めてたまるか!俺達は帰るんだ!俺達の世界に!俺達の場所に!」
太一だ。崖下に転がっていったパートナーに、悔しそうに歯を食いしばりながらも、太一は叫ぶ。
太一が握りしめているデジヴァイスから、眩い光が漏れた。
「救ってやるよ!世界なんか幾らでも!俺達は帰る!!帰りたいんだ!!お前なんかに負けねぇ!!」
戦況は最悪、状態は絶望的。それでも少年は諦めない。
帰りたい、ただその一心で。
そう、帰りたいのだ。お父さんやお母さんが待っているお家に。
お友達がいる世界に、自分達がいるべき場所に。
ここで負けたら、帰れなくなってしまう。
それは、それだけは嫌だ。
パートナー達が生まれた場所を守りたい。
でもそれ以上に、
「帰りたい……」
ぽつり、落とすようにミミが囁く。
「アタシも、帰りたい……ママとパパに抱きしめてもらいたい……!ここで終わるのはいやあ!!」
ミミのデジヴァイスが強い光を放つ。
「まだ……まだやりたいことが、やり残したことが沢山ある……!何も出来なくなるのは、嫌です……!」
「そうだ……やるって決めたんだ……ここまで来て諦めるなんて、示しがつかないよ!」
光子郎と丈の心にも、闘志が灯る。
「……私、だって……!」
震える身体を叱咤しながら、空が立ち上がる。
──そうだ、みんな帰りたいんだ。
治は手に持っているデジヴァイスを見下ろす。
諦めかけたせいなのか、光が弱弱しかった。
ゲンナイも言っていたではないか、自分達にはデジモン達が進化するために必要なものを持っていると。
ここで自分が諦めてしまったら、ガルルモンは戦えなくなってしまう。
「……ガルルモン」
『っ、オ、サム……』
何とか立ち上がろうと震えているガルルモンの毛並みを整えるように、治はそっとガルルモンの頬を撫でた。
「……もう少し、頑張れるかい?」
僕も頑張るから、そう目で訴えながら見つめてくる治に、ガルルモンは一瞬目を瞬かせる。
『……ああ!』
そして、力強く頷いた。
まだ頑張れる。治を守りたいから。
ガルルモンの返事を聞いた治は、ありがとうと礼を言って、デジヴァイスを握りしめながら大きなデビモンを見上げた。
相変わらず酷い呻き声をあげており、緩慢な動きでデジモン達を叩き潰そうとしている。
──大丈夫、まだやれる。
ガルルモンは地面を蹴って、頑張っている仲間達の下へと駆けていった。
……そんな仲間達を見ても、まだ動きだせない者がいる。
『ケン……!ねえ、ケンってば!』
パタモンが一生懸命語り掛けているのに、賢は微動だにしない。
震える両腕でパタモンを抱きしめ、必死に戦いから目を背けている。
怖い、恐い、こわい。形にならない悲鳴が、賢を圧し潰そうとしている。
どうして?どうして?賢には分からない。
可哀そうなぐらい争いごとが嫌いな、優しい男の子には理解らない。
ただ帰りたいだけなのに、どうして邪魔をしてくるのか。
どうして意地悪するのか。世界が欲しいなんて、ゲームの悪役みたいなことを言うのか。
ゲームの悪役は、世界を自分だけのものにしたくて、悪いことをたくさんしていた。
主人公とその仲間達が、世界はみんなのものだと言って、悪役の企みを阻止するために旅をするのだ。
ここは、賢が大好きなアドベンチャーゲームにそっくりだった。
ゲームの主人公が太一で、自分達はその仲間。
世界を救うために異世界に呼ばれるなんて、初めはわくわくしたものだ。
大変なこともいっぱいあったけれど、でも仲間がいたから乗り越えられた。
だから賢はますますのめり込む。
ハマっていく。
悪いデジモンは勇者の太一と、1番仲のいい魔法使いの治がやっつけてくれる。
弟として庇護の対象であることにすっかり慣れてしまっていた賢は、しかし自分もその一部なのだと、唐突に突きつけられてしまった。
一緒に旅をしているのだから、自分だって悪者をやっつける勇者一行の一員なのだ。
自分だけ何もしないなんて、この世界では許されないのだ。
この世界に呼ばれた以上、小さくとも賢は選ばれし子どもの一員として、役割を果たさなければならないのである。
それを理解した時、賢は急に腕の中にいる友達の存在が怖くなってしまった。
あの時、パタモンがエレキモンと喧嘩をしてしまった際に泣いてしまったのは、そのためだった。
幾ら可愛い姿をしていたって、賢と一緒に守られることに甘んじていたって、パタモンはパタモンで、賢は賢なのだ。
守る者と守られる者なのだ。
その僅かな違和感を悟ってしまった賢に、最早逃げ道はない。
しかしそれでもなお、賢は運命から足掻こうとする。
『ケン……!』
「嫌だ……!」
目を閉じ、耳を塞ぐ。
背後から聞こえる破壊音が、賢の心に嫌でも現実として伸し掛かってくるのに、賢は見ようとしない。
「嫌だ……いやだ、いやだ、やだ、何で、どうして、こんなの、望んでない、のに、僕は、みんなと、お兄ちゃん、と、帰りたいだけ、なのに……!」
どんなに賢くとも、賢はまだ小学2年生だ。
世界を救うということがどういうことなのか、きっと分かっていなかった。
賢は賢いから大丈夫だって、お兄ちゃんですら気づかなかった。
両親の離婚というトラウマによって形成された賢の優しさに、誰も気づけなかった。
『うわぁあああっ!!』
イッカクモンの悲鳴が聞こえる。
賢越しに見えたパタモンの世界は、いつもの半分ほどだったけれど、賢に危険を知らせるには十分だった。
『ケンッ!!後ろっ!!』
「っ!?」
鬱陶しいデジモン達を全て払いのけたデビモンに視界に映った賢とパタモンに狙いを定め、その大きな手が伸びてくる。
ひゅ、と息を吸い込んだ賢は、大きな手に圧倒され、その場で硬直してしまった。
「賢っ!!」
気づいた治が、喉が張り裂けそうなほどに叫んで、こちらに向かってくる。
しかし手はすぐそこまで伸びてきていた。
治が間に合う距離ではない。
攻撃をしたくともパタモンの攻撃は大きく息を吸い込んで吐き出す空気砲、威力もないに等しく、賢に強く抱きしめられているせいで腕から逃れられない。
「ぁ……」
目を見開いて、ただ茫然と伸びてくる手を見つめる賢。
『ケンッ!!ねえ、動いて!!ケン!!』
このままでは捕まるか、山肌に押し付けられて潰されてしまう。
なのに賢は動かない。
『ケンッ!!』
「賢っ!!」
パタモンと治の声が重なる。
『エクスレイザー!!』
その時だった。
空から伸びてきた光線が、デビモンの腕に直撃する。
一瞬動きが止まったタイミングで、空から白いものが降ってきた。
賢とパタモンのところに着地した白いものは、賢を担ぐように抱えて、その場から離れる。
走ってきた治の下へ、賢とパタモンを降ろしてやった。
『無事?』
「……君は」
「テイルモーン!」
その白いのは、猫の姿をしていた。
長い長い尻尾と、白い身体の二足歩行の猫に見覚えはなく、何故助けてくれたのか分からずポカンと見下ろしていたら、道の向こうから駆けよってきた2人の小さな陰に気づいた。
「ヒカリ!大輔!!」
太一が喜びの声を上げた。なかなか合流できなかった妹と後輩が、やっと来たのである。
「お兄ちゃんっ!」
「太一さーん!」
走ってきたヒカリと大輔は、ぼすんと太一に抱き着いた。
「よかった、お前ら無事だったんだな……!」
「ごめんね、お兄ちゃん」
「遅くなりました!」
『ヒカリッ!』
白い猫がヒカリの名を呼びながら駆け寄る。
誰だこいつ、って眼差しで白い猫を見つめる太一に、ヒカリは言った。
「お兄ちゃん、この子はテイルモン。プロットモンが進化したんだよ」
「えっ!?このちっこいのが!?」
驚く太一に、無理もないだろう、とヒカリは苦笑する。
だって大きさがアグモンよりも小さいのだ。
進化するイコール大きくなる、という方程式が出来ていた太一達は、完全に固定概念が覆された気分だった。
ふん、とテイルモンは鼻を鳴らす。
『見た目だけで判断していると、痛い目見るわよ』
『テイルモン!恰好つけてないで、加勢してくれ!』
上から声が降ってきた。
一斉に見上げた子ども達の視界に、青くスタイリッシュな竜が映る。
あのデジモンには、面影があった。
だから子ども達は同時に大輔を見やる。
えへへ、って照れ臭そうに笑う大輔に、やはりそうなのか、ともう一度見上げた。
「……ってぇ!そんなことしてる場合じゃないでしょう!」
仲間が2人駆けつけてくれたところで、状況は一行に変わっていないのだ。
子ども達は再びデジヴァイスを握りしめる。
テイルモンは、降りてきた青いデジモン……エクスブイモンに乗って、空へと戻っていった。
「………………」
治に支えられて佇んでいる賢は、信じられないものを見るような目で友達2人を見つめる。
大輔もヒカリも、賢と同じ小学2年生だ。
賢と同じように、上級生達の後ろにいて守られていたはずなのに、何もないよって上級生達によって目を隠され、耳を塞がれていたはずなのに。
なのに、2人の傍には、パートナー達はいない。
上級生達と同じように進化を果たして、デビモンと戦っている。
鬱陶しく纏わりつくものが増えて、でたらめに腕を振り回しているデビモンを、倒そうとしている。
いつの間にか、兄は賢から離れていた。
……………………ああ、
──僕らは、友達じゃなかったんだ。
友達だった。友達だと思っていた。
一緒に守られることに、甘んじていたはずだったのに、2人は賢を置いて先に行ってしまった。
横並び、一列に並んで、手を繋いでいたのに、賢の手を離してしまった。
戦いたくなかったのは、自分だけだった。
「……賢?」
上級生達に混ざってパートナーを応援していた大輔は、ふと違和感に気づいて辺りを見回す。
こっちの世界に来てから友達になった子が、何処にもいなかった。
治と一緒にいたはずなのに、太一の横に並んだ治の足元に賢はいない。
何処に行ったのかと辺りをきょろきょろ伺うと、1人離れたところでぽつんと佇んでいる賢を見つけた。
駆け寄る大輔。ヒカリも気づいて、大輔の後に続く。
「賢!」
「っ」
びくり、と賢の肩が震えた。
「どうしたんだ?」
「何かあったの?」
声をかけるが、賢は俯いたまま答えない。
不思議に思った大輔とヒカリは顔を見合わせ、腕に抱かれているパタモンを見下ろした。
「なあ、パタモン。賢の奴どうしたんだ?」
『………………』
どうしよう。パタモンは困惑する。
何も言わずにただ黙ってパタモンを抱きしめている賢を不思議に持っているのは、パタモンも同じなのだ。
賢の様子がおかしくなったのは、ムゲンマウンテンに登る前。
エレキモンと喧嘩をしてしまってからだ。
その後ウッドモンに襲われた2人だったが、賢は頑なにウッドモンと戦おうとしなかった。
ただ逃げて、ウッドモンが諦めてくれるのを待っていただけだった。
デビモンを倒して、この島の闇を祓ってほしいと頼まれた時だって、賢はだんまりだった。
上級生達が歩いている後を、ついていくだけ。
『……分かんない』
「え?」
もう、何が何だか分からない。
パタモンの想いが、とうとう爆発した。
『分かんない、分かんない、分かんない!ケンが何考えてるのか、ぜんっぜん分かんない!!』
「パ、パタモン……?」
『戦いたくないのなんて、みんな同じに決まってるじゃないかあ!!ボクらだって好きで戦ってるわけじゃないよう!!でもそうしないと生きていけないから、戦わないとやられちゃうから戦ってるだけなのに!!なのに何だよう!!ケンったら戦いたくないって、そればっかり!!理由も言ってくれないのに戦いたくないなんて、そんなの分かるわけないじゃん!!』
ケンの莫迦ぁああああって、パタモンは泣きながら叫んだ。
状況がさっぱり掴めない大輔とヒカリは目をぱちくりさせる。
賢は、知らないのだ。
争い合ってばかりいた両親の喧嘩しか見たことがない賢に、“守るために戦う”という手段があることなんか、知るはずがないのだ。
争いが生み出すのは悲劇だけであるという結果しか知らない賢が、知る由もないのだ。
デジモン達だって、子ども達を守りたいから戦っている。
デビモンと戦いたいから戦っているのではない。
争わずに済むのなら、平穏でいたいと願うのは、デジモンだって一緒なのだ。
「……パタモン」
賢にしがみつきながら泣きじゃくるパタモンに、賢はどうしたらいいのか分からず途方に暮れている。
パタモンだって、賢を守りたい。
守るための力が欲しい。進化はその過程に過ぎないのである。
賢を守るために出会ったのに、その賢が戦いたくないと願うのは、本末転倒だ。
それは即ち、パタモンにとって死を意味するものと同じである。
要らないというのと同義である。
守るために生まれてきたのだと信じてきたのに、その概念を覆されたのである。
庇護に甘んじながら、庇護を拒否したのである。
パタモンが泣きじゃくるのも、無理はなかった。
「……賢」
何となく察しがついた大輔が、険しい表情で賢を見つめた。
「賢は、帰りたくないのか?」
「っ、そんな、わけ……!」
「だよな?俺だって帰りたいよ。そのために俺達、ここにいるんだろ?」
戦いたくないのは、誰だって同じだ。
避けて通れるのなら、話し合いで済むのならそれが一番だ。
でも運命はそれを許さない。
ここで戦わなければ、きっとこれから先賢は一生逃げ続けることになるだろう。
逃げることが悪いこととは言わないが、それが許されない時がある。
今までなら、きっとそれでよかった。
だけど、事態はもう後戻りできないところまで来てしまっている。
それでも、
「…………っ」
賢の決心はつかない。戦えば、パタモンが傷ついてしまう。
それに……。賢はちらりとデビモンを見上げる。
耳を塞ぎたくなるような咆哮を上げながら、両腕をでたらめに振り回して他の子ども達やデジモン達を叩き潰そうとしていた。
みんな、戦っている。みんな、傷ついている。
帰るために、みんなで家に帰るために。
「それでも……僕は……!」
パタモンを抱きしめる賢の腕に、力が籠った。
『うわああああああああっ!!』
『ああああああああっ!!』
は、と大輔達は声がした方に顔を向ける。
直後、デビモンの周りを飛び回っていたエクスブイモンと、エクスブイモンに乗っていたテイルモンが、デビモンが振るった腕に吹っ飛ばされ、山肌に叩きつけられたのを見た。
「エクスブイモン!」
「テイルモン!!」
慌てて駆け寄る大輔とヒカリ。少し遅れて、賢も後についていった。
「エクスブイモン、大丈夫か?」
『な、何とか……!』
「テイルモン、しっかり……!」
『危ないから、下がってて……!』
身体中に細かい傷がついているエクスブイモンもテイルモンも、だいぶ息が上がっているようだ。
だが2体とも、傷だらけになりながら尚も立ち上がろうと、震える身体を叱咤させている。
大輔とヒカリを守ろうとしている。
──……ボクは……
がらり、と子ども達の頭上の山肌が崩れる音がした。
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